【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ >>697 >>705 >>712
畿内説宗徒の悪あがき
畿内説は魏志倭人伝が邪魔でないほうがいいみたいだねククク
(魏志倭人伝なけりゃ邪馬台国も卑弥呼もいない夢物語だよ〜ん) >>778
> 短里があると言い出すところから、既に半分捏造なんだよ
それはアナタは長里と言ってるのと同じでバカげたブーメラン 畿内政権自体が存在したのかどうかも怪しいな。
古墳時代以降の石棺の石材は軒並み阿蘇石なんだな。
ずっと九州政権一つだったんじゃないのか? 魏史倭人伝だとそのまま解釈したらどうやっても国内にならないから、
どの立場でも「この部分はそのまま、この部分はこう解釈する」となっちゃうんだよな
だから発掘調査が重要になる 畿内信者も薄々分かっているんだとは思う
ただ、認めたくないから馬鹿のフリをしてひたすら現実逃避してるんじゃないか?
流石になんかおかしいと思うだろう? >>822
>それはアナタは長里と言ってるのと同じでバカげたブーメラン
ブーメランはそっちだよww
長里という言葉を使うのは、短里が必要な九州説の人「だけ」
その他の、「短里は捏造」と分かっている人は普通「魏晋里」あるいは
「漢魏尺の度量衡の里」などと表現する
短里を使う理由のある人は、3世紀にはどこにもいない 畿内説の柱は土器編年だけかよ。
しかも土器を流行らせた範囲は勢力圏だという脳内政権に固執してるよな。
邪馬台国とは全く関係なく、同年代における畿内の流行文化を語ってるだけだ。
話にならんね。 >>827
じゃ「魏晋里」あるいは「漢魏尺の度量衡の里」とやらでは
一里はメートル法に換算するとどうなるの? >>820
>畿内が話し合いで弥生後期になって九州半島まで従わせたという事かね?
纏向遺跡よりも前に、滋賀県守山に伊勢遺跡といういかにも
各地の首長が集まってきていたと想定しうる計画的な建物配置を持つ遺跡がある
その伊勢遺跡が廃れるのとほぼ同時に纏向遺跡の建設が始まる
もともとは邪馬台国の勢力は、伊勢遺跡の会合の参加者の一員だったのが、
北部九州(代表は奴国)まで含めた談合の結果、倭王という御輿として担がれた
くらいが実情に近いんじゃないかと思う
そして、よく九州説の人は「支配」「征服」という言葉を使うけれど、卑弥呼の共立は
首長代替わりの墳墓祭祀を、前方後円墳で共通に行うという祭祀面の統一であって、
地域主権はそのまま各地の首長が持っていたと考えればよい
その地域首長が、そのまま後の豪族、国造や県主になっていく
>畿内説では弥生中期までは対馬や那などは大和王権と関係ない地域だったという事でいいか?
というか、対馬や壱岐は、倭人の国ではあるけれど、特に倭国の政治に参画してるというものでも
ないんじゃないか?
どこに倭王がいようとも、海上の水先案内で生計を立てるだけで >>817
>>唐子・鍵遺跡に随伴すると見られる衛星集落
>畿内説はこれで7万戸でいいのか?
何度も書いているけれど、七万戸の邪馬台国は
「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式土器の範囲の国だよ >>818
>残り4万五千が筑紫平野
筑紫平野にそんな遺跡はないし、弥生末期にはまだかなりの面積が海の中
第四紀研究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360 1994
「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」下山 正一
それに、弥生時代の土木力では、水深1メートルを越える川は、
灌漑に利用できないから筑後川下流部の開拓は遅れる
実際筑後川流域の遺跡分布は、筑後川から離れた支流の扇状地あたりにある
今の地図の平野面積だけで、机上の空論を書いても、遺跡という物証で否定されるんだよ >>827
魏晋里(ワロス)まだ〜?
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧
ヽ___\(\・∀・)
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| 桃の種纒向 |/ 畿内は
弥生中期まで小さな領域の王で
弥生後期に急に談合で那国をはじめ倭諸国に担がれたという事か?
代々、一大卒を伊都国に常駐させてたんじゃなかったのか? >>829
>じゃ「魏晋里」あるいは「漢魏尺の度量衡の里」とやらでは
>一里はメートル法に換算するとどうなるの?
それくらい、自分でググればすぐに出てくるだろ?
6尺=1歩(複歩)、300歩=1里と定められていて
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
と推定されているから、
漢尺基準だと 1里=414メートル
魏晋里だと 1里=435メートルだよ >>825
>纒向箸墓説だと伊都国はどこなの?
伊都国は定説どおりに、糸島市(怡土郡)三雲遺跡群で問題ないけど?
それがどうかしたかい? >>837
>弥生中期まで小さな領域の王で
小さな領域というのをどの程度に見るか、だが、卑弥呼の共立までは
出雲王や、丹波王と同等の、大和地域の王でよいだろう
古墳時代後期(土器片年で弥生V期)に入るところで、
「大和+河内〜環大阪湾」のそれなりに広い地域で、土器形式の統一が見られる
地場の土器が何もなくて統一される理由がないから、これは「首長層の意思統一
=政治勢力としての一体化」が背景にあると考えられており、この勢力が
事実上弥生後期の列島最大勢力だったとは思う
伊勢遺跡に集まっていたのは、大型銅鐸が出土するいわゆる銅鐸文化圏の範囲だと思う >>837
>代々、一大卒を伊都国に常駐させてたんじゃなかったのか?
「代々」は伊都国の「王あり」にかかる修飾句で、しかも魏志倭人伝ではなく魏略だ
伊都国に常駐していた一大率は、卑弥呼の共立を契機として設置、
でいいんじゃないかと思う
卑弥呼が遣使するようになった頃の状況だろう >>838
それで計算すると末盧国から東南陸行五百里はどこになるの? >卑弥呼の共立までは出雲王や、丹波王と同等の、大和地域の王でよいだろう
那国王は? >>834
古田史学の短里は、同じ九州説の安本美典氏にも否定されてた代物だぞ
今どき、古田史学の会のページを短里の説明として出してくるっていうのは
ある意味すごいな 倭100のうち30の共立なんだけどな
出雲が投馬なら邪馬台国連合30に入ってない事だし
伊都国那国から畿内王が共立されたとして
倭人伝に吉備が無いのは吉備は30か国に入ってないのか? >>839
まいったね 随分離れてるようだが 新幹線でも使うのかい >>847
畿内説は現実的かどうかは全く考えないからね。
伊都国で何かトラブルが発生したらどう対処するんだろうね。
やはり畿内説は無理だよ。
邪馬台国に夢中になるがあまり独自文化の歴史を葬ってしまうという考古学者の浅はかさしか感じない。 >>845
>倭100のうち30の共立なんだけどな
それ、時代が進んで地域首長の集約、統合が進んだと考えるのが一般的なんだが
例えば、よく最古の王墓というキャッチフレーズのつく吉武高木遺跡は、
室見川流域の早良平野の中心遺跡で、旧100余国と言われたときには、
一国と数えられていたと考えられる
要するに、自立した中心集落を一つの国として数える訳だ
しかし、魏志倭人伝では、伊都国と奴国の間に早良国(仮称)は入っていない
早良平野の中心集落が、吉武高木から野方遺跡の移っており、ここが伊都国から奴国への
経路上にあると考えられているにもかかわらず、だ
つまり、早良国は奴国に統合されたと考えられる
30余国とされた時代の国は、平野単位のやや広域の国で利水治水のための権力の
統合が進んだと考えられる
30/100だから、倭国の一部しか含まないという考え方は、ないとは言わないけれど
少数派の見方だよ
さらに、投馬国5万戸は四隅突出墓を作る範囲(丹波以西)、
邪馬台国七万戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲と、もう一段広域の政治統合が
進んでいたように見えるけれど >>847
>まいったね 随分離れてるようだが 新幹線でも使うのかい
離れているからこそ、直接やり取りができないから、代官である一大率を置くのだろ?
一大率を置く必要がある時点で、直接統治ができないことを意味しており、九州説は
この1点だけでも否定されるという意見の人も少なからずいるよ イトコクからの倭人伝の距離は無視かい ご都合がいいね >>848
>畿内説は現実的かどうかは全く考えないからね。
>伊都国で何かトラブルが発生したらどう対処するんだろうね。
一大率が対処するんだよ?
そのための一大率だし、刺史のごとき存在で、諸国が畏れるほどの権威があったんだから
九州説で、卑弥呼が伊都国にいるという説だと、一大率は何をやるんだい?
伊都国のトラブルは、女王の卑弥呼に丸投げするのかい?ww
伊都国説は、現実的ではないなw >>851
>イトコクからの倭人伝の距離は無視かい ご都合がいいね
ID:Wx+zoP2Bは、
南至投馬國「水行二十日」
南至邪馬壹國、女王之所都、「水行十日、陸行一月」
をどう読んでいるんだい?
片道2ヶ月かかるって書いてあるんだぞ?
だから直接統治はできなくて、代官として一大率を置く
無視しないから、こういう論理になるしかないだろ? >>846
>それ谷本茂説じゃね?
ああ、谷本茂氏のやつかww
それも、もっと詳しく見て否定している論説がいくらでも出ているのに、
九州説の人は、ヒナの刷り込みよろしく、昔に見た情報をアップデートせずに
後生大事に信じ続けている人が多いね
「『周髀算経』影の測定」 江頭 務
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.html
「魏志倭人伝の里程単位「一寸千(短)里」説批判」 篠原俊次
計量史研究7−1 P.7-22. 1985
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10631791 畿内説は、
九州上陸して、いきなり、魏志倭人伝は、
南を東と間違えたというなら、
韓国、対馬、壱岐、と綺麗に南北は、
合っていると?
孫権の呉は、沖縄いってるが、
夜中も航行するんやから、
北極星を観測する什器あるでしょ。
陸に上がり、奈良までの太陽が昇る方へ
東なんだけど。魏志倭人伝は、
方角わからない、一団だから、
毎日日に向かいいきながら、
南と報告したんだ。
こうなるよね。 ID:yuH/zlOz 計算まだ〜?
末盧国から東南陸行五百里はどこ?
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧
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| 桃の種桜井 |/ 畿内説の説明をまとめると
邪馬台国30か国 7万
・東海の民
・伊勢
・畿内
・吉備
・伊都
・那
投馬国
・出雲 5万
吉備は倭人伝に書かれなかったが30に入る可笑しな国
卑弥呼の時代から急に一大卒を九州に派遣
畿内王は弥生後期まで力が無いので細々と生存
魏との交易はするが
対馬やクナ韓国と那国との交易では高価品はもらえないのに
いきなり魏から親魏倭王の金印をいただく
南の菊池彦は関東方面の誰か
伊都国から東海まで共立された畿内連合は関東に滅ぼされそうなので魏に応援の使いを送る >>851
一大率は刺史のごときと書かれてるだろ?
刺史とは地方の役人のことだよ
つまり一大率が置かれた伊都国は邪馬台国から遠いということ
もし伊都国が邪馬台国から近かったら、一大率は司隷校尉のごときと書かれていないとおかしい
魏使は遠いという認識をもっていたから一大率を刺史に例えたわけだ
水行二十日、水行十日陸行一月の記述とも整合性がある
伊都国は邪馬台国の近くにあると勝手に思い込んでたようだが
実際は伊都国や一大率の記述は九州説にとってものすごく都合が悪い >>854
で
江頭説と篠原説とやらでは肝心の一里はメートル法換算でいくらになるの? >>858 私の意見です
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており
漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時
九州北部に鉄を持った天孫降臨族は発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村の戦いでの敗戦などがあり700年まで続いた
100年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
北陸へ半島より渡来した継体は神武五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 本来であれば神武の正統は大勢存在したが内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 水行二十日、水行十日陸行一月かけて畿内から派遣された一大卒
鏡40枚に鉄の宝剣に数多のメノウやら勾玉で着飾った伊都国の女王を見て何を思ったんだろうw
畿内の一大卒は鏡勾玉を買うために汚い土器を売りに来た商人ではないかな
考古学的には土器を売りに来た一大卒は伊都国で相手にされなかったようだけどw >>567
紀記に名前の無い神様が御神体の神社の神様は
みな大国様にさせられたらしい
九州の女王に統治される前は
近辺のクニは大国主が統治でもしてたのかな
>>714
宮崎に大日霊女の古墳 >>865
遺跡、出土品、楽浪土器、全国各地の土器、地名
通説に逆らう理由はまったくないし 本来アマテラスは男王で大和の大王
それを紀記で日女尊にスライドした >>868
「紀記」って漢字変換ででないんだけど、どうやって出したの? >>867
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國(於國中有如刺史)」
を解釈してみて >>868
>本来アマテラスは男王で大和の大王
半可通はこれだからw
天照大神以前の、天照神として男神を想定する説は割りに人気のある説だけれど、
天照で「アマテル」と読むんだよ >>870
女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。
諸国はこれを畏れ憚っている。つねに伊都国に治めている。 畿内宗教の夢解釈はいいから
桃の種以外裏付けないの?
汚い土器だけ? >>872
だと女王国の以北が伊都国なんだから伊都国の南が邪馬台国になるってこと? >>874
はあ?
方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
先入観でどっちが正しいかと決めつけない
あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの >>875
>方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
習ったことないんだが
アナタの行った小学校はどこ?
>あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
じゃつきあわせてのプロセスを説明して邪馬台国の所在を決定してみて >>874
言いたいことは分かるが、伊都国は女王国に属す、だぞ
以北は朝鮮半島の可能性がある。あまり誰も言ってないが
陳寿は女王国と邪馬台国を使い分けてるよね >あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
畿内説の物証出せよ
まったく無いだろ >>877
ID:S3609ez+氏は>>861で伊都国は糸島三雲と言ってんだから >>876
覚えてないなら小学校からやり直せばいいだろ?
根拠は前方後円墳体制
伊都国や奴国が前方後円墳体制に組み込まれる動きが3世紀前半から始まってる
畿内系土器の分布でとくに奴国は畿内勢と真っ先に手を結んでいる
その年代を土器編年だけでなく、科学的に裏付けたのが今回の研究発表 >>879
俺の言い方がまずかったかな
陳寿が女王国と言ってるのは邪馬台国じゃなく
邪馬台国連合全体(仮)を言っているんじゃないかなってこと
推測だからスルーしてください >>881
>方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと
どこの小学校に行けば教えてくれるの?
具体的に学校名教えて
>あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
全くつきわせがなされていないのだが 比定のための条件があるじゃまいか
・対馬や壱岐や福岡は邪馬台国の北にある。
・南に狗奴国という宿敵がいる
・漢の時代から中国と交易がある
・温暖な土地であり阿蘇山がある
・墓は棺有り槨(石室など)は無しで土を盛ってつくられる
・戦争が頻発していた
・鉄剣や鉄の矢じりを使っていた
・鵜飼の文化がある
・馬は居ない
・卑弥呼のいる宮殿の警備は厳重である
・女王国から見て東に倭人の住む島がある
・女王国から見て南に小人が住む島がある
・遺跡から鉄器や青珠、絹が出土する
・年代は3世紀である >>883
小学校を教えろとか本気で言ってるのか?
まず自分が書けよ
その小学校で教えてないか電話して聞いてやるから
>全くつきわせがなされていないのだが
理解できないのかな?
今までこのスレで佐々木論文は何度もリンクが貼られているけど読んだ?
読まずに文句付けてるだけならまず読んで理解してからにしてくれ 畿内説の本質
・前方後円墳体制ができるまで畿内が日本
・漢倭那国王は天皇と無縁で、むしろ漢に関りがある国
・弥生後期に天皇が九州に侵略するまでは九州沖縄は中国領土で対馬は韓国領土
さすが憲法9条の会の畿内説と言える >>885
@紫野小学校
Aつきあわせできてないアナタが応えるべき
佐々木に責任を押し付けるなよ ネット上のことなのでどこまで信憑性あるかわからんがこんなのもある
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/小学校社会_6学年_上巻 >>888
>何年卒の誰?
そこはできない
問うからにはまずあなたが何年卒の誰と答える義務がある
でオマエが習ったとかいう小学校はどこなんだ?
習ったという先生名を教えて連絡先付きで >>890
それじゃ問い合わせできんから聞いてるんだよ
で、どうやら小学校で教えているのは確実のようだ>>889
ただの落ちこぼれだっただけじゃないか? >>866
>宮崎に大日霊女の古墳
宮崎のどの古墳? 具体的に教えてよ! >>874
>だと女王国の以北が伊都国なんだから伊都国の南が邪馬台国になるってこと?
陳寿の認識、陳寿の記述ではそうなるというだけで、実際の地理の方角とは一致していない
それだけのこと >>882
>陳寿が女王国と言ってるのは邪馬台国じゃなく
>邪馬台国連合全体(仮)を言っているんじゃないかなってこと
それで正しいよ
ただ、二箇所だけ、女王国を邪馬台国の意味で使っている
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國
この二箇所以外は、女王国=卑弥呼の共立に参加した国全体(≒前方後円墳体制) >>884は何度も貼ってくれてるけど、それできが悪いんだわ
侏儒國、裸國、黒齒國は、山海経、淮南子の伝説をそのまま書いているだけだから、
実在しないし、そんなのを探すだけムダ
太平洋の向こうのエクアドルだとか言い出すのがオチ
既にこちらも何度も貼っているけれど、これが正解
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 >>891
ちゃんと習ったとおりに書くか教科書通り書かないで
>>875 >方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明
と書くからおかしくなるんだよ
そんなふうに教えてるかどうかその先生に問い合わせてみたいな ・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある 九州説だと
・邪馬台国の発音に近い地名
一応、山門あたりが候補になるが、次の戸数7万戸とみなせる遺跡はない
・戸数7万戸
奴国二万戸を超える国が、北部九州にはない
九州中南部にもない
・30近くの国々の盟主
奴国にはいろんな地域の土器が来ているが、港町・大陸との玄関口として
人が集まった結果であり、盟主的ではない
また、奴国は邪馬台国ではない
・宮室、楼観、城柵
吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国の想定に寄せて復元しているだけ
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国とは時代が合わない
・卑弥呼の墓径百歩
候補すらない
九州説お気に入りの平原1号墓は漢魏尺の度量衡だと10歩に満たない
無理に百歩だと言い張ると、複歩で12センチ、単歩(現代の一歩)で6センチになる
・徇葬百人
これは、日本中探してもない >>896
小学校で習った証拠を突き付けられて、一字一句同じでないとイチャモンつけてるだけだな
おまえが小学校で習ったはずのことも知らなかったのが判明した 日本國者、倭國之別種也。
日本国=畿内政権
倭国=九州邪馬台国政権
畿内と邪馬台国は並立していたことがちゃんと記録に残ってる。 畿内をヤマトという地名は無かった。
邪馬台国の名を踏襲してるだけ。
畿内の誰かが朝貢してるが礼儀がなっておらず叱られたw
この件は恥ずかしい事なので日本書紀には書かれていない。 ・邪馬台国の発音に近い地名
一部地域山門に残るが、大陸半島福岡平野から那の内陸側を読んだ呼称ヤマト
・戸数7万戸
那国北九州北岸諸国で25000、那国以南の筑紫筑後で27国で45000
・30近くの国々の盟主
畿内説は東海とか伊勢とか出雲とかめちゃくちゃ、某国に出てくる鬼国も志摩国も北部九州に名称が残っている
・宮室、楼観、城柵
九州では吉野ケ里があるが畿内では一つもない
・卑弥呼の墓径百歩
大きさも出土物も平原1号古墳が最有力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
・徇葬百人
前方後円墳に徇葬の例はない にっぽん!歴史鑑定で邪馬台国の再放送(たぶん)やってたね
やっぱりかなり纏向有利っぽいけど、確定ではないと慎重な意見
平原遺跡1号墓埋葬された人が女性シャーマンだったのは確実
ただちっちゃいんだよね 倭人伝の記述なら卑弥呼の墓おおきい >>899
責任回避か
一字一句同じでないといけないとか全然
自分の説明の拙さを棚に上げて ちなみに>>902の時点で日本は統一政権が出来ているようだが、すでに7世紀のこと。
卑弥呼の時代から300年も経ってるわけで、当然トヨも居ない。
朝貢の礼儀を知らないのもうなずける。
この辺りが畿内大和政権のスタート地点だよ。 >>905
小学生レベルの知識もないと証明されたやつが吠えてるだけだな
南は正しいとずーっと言い張ってろ
もう雑魚は相手にしない >平原遺跡1号墓埋葬された人が女性シャーマンだったのは確実
周りの柱の穴から当初は大きな構造物の中に塚があったようだ
構造物の建物の周囲で図ったのかもね ID:yuH/zlOz >>856 >>860 の回答まだ〜?
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧
ヽ___\(\・∀・)
\_/ ⊂ ⊂_)
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| 桃の種桜井 |/ つまり畿内でも統一政権を構築すべく活動を展開していたかもしれないが、九州邪馬台国とは全く別系統の話。
九州説しかなかったのになぜ畿内説が出て来たのか?
慰安婦の件と似たような話だ。 >>907
ID:S3609ez+を担当した小学校の先生がカワウソ過ぎる >>893
>それだけのこと
それだけのこと(捏造畿内説では)
と正確に書いとけ 卑弥呼の時代は九州政権の他にも各地域の政権が並立していた。
九州政権は漢や時代から朝貢を行うなどして中国との関係を深めていった。
他の政権の記録は無いが、出土品などから国内中心の交易が盛んだったと思われる。
卑弥呼の死去後、台与が後を継いだが狗奴国との争いは続き両国とも滅びる。
国内政権はようやく統一政権確立の目途が立ち、九州を含め各国に合併を促す。
〜空白の150年が経過〜
無事列島各国が合併し統一国家「日本」となった。
中国との関係が深く大国をよく知る邪馬台国の名を借りて、これを伝えに大陸へ朝貢する。
態度がデカい上にわけ分からん事を言い出すので帰される。
日本国統治はなかなか難しく上手くいかないので、再び大国統治のノウハウの伝授をお願いに朝貢する。
中国から来たコンサルの指導のもと、無事に日本国誕生。
このとき時代は既に7世紀。 >>835
水深1メートルを越える川は灌漑に利用できないから筑後川下流部の開拓は遅れる
これって「現在の筑後川」のことを基準に言ってないですか?
1700年以上前はもっと浅かったのでは?
あるいは海岸がもっと内陸なのでは? >>819
>畿内第V様式甕(弥生時代後期)が奴国中枢で見られるため、
その頃には、北部九州の中心の奴国と邪馬台国(畿内第V様式の範囲の勢力)は
協調関係にあったと見てよい
すると庄内甕時代以降の急激な浸透は何でしょうね。 >>914
どこかに「平地は少なく潟が多い」と書いてあった。
有明海周辺のことと思われる。 >>828
>畿内説の柱は土器編年だけかよ
土器編年すら解釈だけの話で
「畿内第V様式甕」は「弥生時代後期」であり
畿内や各地首長関係者が巻向に集結した「弥生終末期」の土器は「庄内土器」。
それをわざと1段階ずらして「畿内第V様式甕」を畿内連合時代の土器としている。
しかし,楽浪土器や馬韓土器の変遷とリンクさせると
それでは説明できない。
というか九州説では普通に説明できるが畿内説では説明できない。 >>893
> 陳寿の認識、陳寿の記述ではそうなるというだけで、実際の地理の方角とは一致していない
ではその「実際の地理の方角」とやらは
三国志の記述なしでどうすればわかるの?
(どうすれば決めることができるの?) >畿内や各地首長関係者が巻向に集結した
見てきたような言い方だな
やっぱり水滸伝の影響かw .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。