【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ >>62
>短里は、ないとも言えないのでは、
>ないかな。
ないよ
短里を使う理由のある人が、どこにもいない
公孫氏ももともとは漢人で、後漢の官職についてる
建忠校尉の梯儁さんも
塞曹掾史の張政さんも
魏の役人だから、これらの人が漢魏尺以外の度量衡を使う理由がない
実際に、ほぼ確実とされる比定地間の距離を測ると
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
とばらばらな数値となり、倭国上陸後は4倍も異なる値となる
短里という決まった長さがあって、それによって測定した値が書かれているとはみなせない
結局、晋の高祖、司馬懿の功績を顕彰する目的で、司馬懿の公孫氏征伐の結果、
「遠くの東夷の国」が朝貢に来たというのを大仰にするために、数字を盛ってるんだよ
倭国(女王国)までの距離は、淮南子などに見られる地の果て(東方之極)までの距離の
萬二千里とし、倭国に上陸するまでの距離を「万里の修交」にするために、1万里にしてる
盛った距離を、現実と照らし合わせると、その分過小な距離が出て、それを短里だと
言い張ってる人がいるだけ
数字は結論ありきで適当に振ってるだけだから、決まった長さの単位・短里などは出てこない >>68
そうすると淮南子に書いている
地形訓は、より現実に
あった書き方をしているとおもう。
下記の文章は、何を意味しているの?
至于西极,
二亿三万三千五百里七十 五步。
使竖亥步自北极,至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。 率直なことを言えば、
淮南子の天文訓の一里を
用いて、地形訓の北から南までを
計算すると、現代の北極、南極を
結んだ直接距離に近い。
海島算経も同じように、島の島峰を
測る方法。計算結果は、
里で、高さを示してある。
その里も天文訓で、でてきた里や
周髀算術などの里を用いた方が、
現実に、合うということは?
計算した結果の数値をどう判断する?
淮南子の一里約61メートル。 古代の人が、使用したテキストを、
短里あるなし、でなくて、
一里何メートルという数字が出てきたのを
どう捉えたらいいんだろうということ。
畿内説の畿も、
王畿は、方千里だし。
強いては、孫子の兵法にある
(山東省で、洛陽出身やないが、
時代は、近い
)
千里馈粮,士有饥色
千里先から、運ばれる(遠い先)、
食料や水は、結局、飢え、渇きは癒さない。
兵站は近くにあるべきの意味。
この千里も、450キロ離れた場所からと
捉えるより、
60ー70キロぐらいが、現実的やないの? だから、白髪三千丈の国の、千単位とかの切りのいい数字を
現実の数字と対応させちゃダメだってだけw
こっちが勝つ確率は一億パーセントだ!とか言ってるやつの
実際に勝つ確率が客観的に73パーセントだった時に、
「一億÷73」とかを計算しても意味ないでしょ?
現実とは無関係な数字なんだよ >>70
>現代の北極、南極を
>結んだ直接距離に近い。
当時の中国の人が、北極と南極を知っていたと思うのかい?
天円地方の世界観で、地は方形なんだけど?
淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,『萬二千里』。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,
以息壤堙洪水之州,東至碣石,黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。 >>65
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』より
「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V
IIC期が布留1式
におおむね併行する
箸墓の出現を久住はIIA期と捉える。」
これを踏まえて比恵・那珂のある筑前の土器編年
【筑前】
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
P276
「外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。」
瀬戸内と山陰は分かりますが,東海からというのが意外でした。
強調しておきますが『畿内の土器は搬入(出土)されていない』ことが分かります。
「『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
朝鮮半島からは前述の楽浪系,馬韓系土器のほか.加耶(・新羅)系の瓦質・陶質,軟質土器も搬入されている。」
「土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。」
これも強調しておきますが「弥生終末期に北部九州が畿内連合に吸収された」→「古墳時代」であり,「古墳の計画から建設にかかる年月」を考えても
北部九州が畿内連合に吸収されたのは「古墳が出現する少なくとも数年以上前」ということです。
P278【比恵・那珂遺跡群】
「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
「IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
…報告された甕7点の内,2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣
IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。
…搬入品の庄内大和型甕1点,布留系甕口縁部破片1点が報告されている。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。」
比恵・那珂遺跡群でも畿内連合の流入はIB期以降であり,しかも北部九州の土を使って生産したのは畿内から来た職人と考えられます。
どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか? 陳寿が何歳だったのか知らないが、老人性認知症を引き起こしていたとしたら、
その記述はあてにはならない。 >>73
紀元前4世紀には、渾天説があり、
渾儀もあったみたいだし。
古代において、“浑”の意味は円球をいみしている。古代の人は、
天とは丸く、ちょうど卵の外殻として
捉えている。そこに星が打ち付けられている。
地球とはその卵の中の黄身だと。
私達は、その黄身の上で、天体観測しているんだと。
AD104には、「黄道铜儀」もつくられてるから、しっかり把握していると思うよ。 >>74
>久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
もちろん1年の狂いもなくビシッと決まるものではなく数年〜数十年(百年)前後するのは仕方ありません。
私は弥生・ 古墳時代の境目をIA後期と考えています。 >>74
>どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか?
資料を偏見なく読み解けばよいだけですし
仮説が正しければ,実地に得られたデータが勝手にそれを裏付ける方に動いてくれます。
「出雲」を「投馬とも読めるぞ」等と試行錯誤するのは悪いとは言いませんが
よそ様の遺跡や墓を根拠もなく勝手に「邪馬台国の関連遺跡」や「卑弥呼の墓」にして
「それ以外に考えられない」と断定して扱うのはいかがなものかと思います。
「これはもしかするとよそ様と間違えてるかもしれない」と慎重に扱うべきだと思います。 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰いよしがとしました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました >>73
この時則訓は、
厳密にいえば、時則ですから、
季節、月を、ベースに解説しています。
現に、東の中に書いている
「句芒」は、五佐のひとつであり、
それぞれの方角は、
季節に応じた農業の神ではないですか。
この神話のなかの里よりも、
地形訓の里は、より実情に
そったものでは、ないですかと
思うわけです。 投馬をヅマと読むというのは誰が言い出したのだろう?
トウマとしか読まないと中国人が言ってるのに。 現地の倭人の発音に近い字です
ですからイチを台とは書きません 東大名誉教授の保立道久氏は「神話の本質論と一緒に解くほかない」
「そろそろ結論が出そうな雰囲気です」
もちろん邪馬台国は大和の国の結論です。乞う、ご期待 保立道久。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めている
9条の会
コテコテの左翼なんだが
そういう人を取り上げるお前も売国左翼みたいだね
まあこれで俺の説
畿内説=売国左翼と証明できた(人''▽`)ありがとう☆ >>84
スゴイ極端な決めつけだね。これで畿内説=売国左翼と証明できるってか。
九州説は感情論優先なのか?
なんで近畿説が売国になるのか説明してくれ。 >>85コピペですまんな
更に畿内説を売国奴視点から言うと
朝鮮日本から見て第三者の立場の中国から東アジアを統治していると証明する漢の倭の国王印
日本はこの印の場所スタート地点じゃないと九州が古来日本の領土ではなかったことになる
畿内説=卑弥呼の時代日本は畿内だけ史観
九州説=歴史が始まる以前から九州と南朝鮮と沖縄列島は日本史観
だから畿内説は売国奴B地区の奈良とか言われる
要は何でもかんでも畿内に持ってくるのはマスコミの洗脳でもあるわけよ
東アジアの覇者奴国の植民地としての纏向は許されるが奴国を占有していない纏向は許されない
倭王武の雄略天皇も5世紀にのんびり畿内が奴国を含む西66ヶ国を制圧したとあっては
それまで奴国は天皇の統治外だった事になり
百済新羅が成立した時代には奴国も対馬も天皇が領有していなかった事になる
記紀にもしっかり福岡の香椎宮で神功皇后が三韓征伐したとあるのに
日本の誉を全部畿内に閉じ込めてしまいたい朝鮮人の策謀に気がつくべき
金印も倭人伝も朝鮮人にとって都合が悪い
だから金印捏造説や倭人伝は書き間違え等言い出す、その勢力が売国奴畿内説
チョンに乗っ取られたマスゴミが盛んに畿内説を報道するのに
嘘まみれ金の亡者のゴッドハンド学者と町興しの桜井市が乗った形
国宝漢委奴国王印を捏造等言えるのは日本人ではない証拠だよ 倭国では半島支配で半島の王が倭人であったことはあります
奈良は半島の王族をありがたがり迎えています
大きな違いですね >>83
外部の権威をありがたがる気の毒な人もいます 自分の頭は床屋のために存在するのでしょう >>74
(他の文献も踏まえて)ここからわかることは
IA期すなわち(3世紀前期後半頃とみられる)弥生終末期には,「北部九州と畿内は(ほとんど)通交していない」ということです。
魏志倭人伝により少なくとも「北部九州」は「邪馬台国(倭国)側勢力」といえる地域であり,北部九州とほとんど通交していない「畿内」が邪馬台国とは考えられません。
また邪馬台国はこの時期,(日本国内の国でありながら)「魏と結んだ(というより朝貢した)国」です。
そればかりか魏の使者が(女王卑弥呼に会うためと倭国をつぶさに調べるため)本当に日本列島まで乗り込んできたのです。
これが「非邪馬台国側の周辺国に与えたインパクトは激しいものがあった」と考えられます。
そのとき「共通の問題に直面した各国」がどのように行動するかは自然と分かると思うのですが。
少なくとも「外国の橋頭保となりうる国」をそのまま放置するはずはありません。 >>82
>現地の倭人の発音に近い字です
>ですからイチを台とは書きません
だから、ヤマイチ国なんてなかったんだよ
上代倭国語には、母音の連続する語はなかったとされている >>81
>投馬をヅマと読むというのは誰が言い出したのだろう?
>トウマとしか読まないと中国人が言ってるのに。
その中国人はどこの人?ww
投馬の上古音はdug-mag
藤堂明保編、漢和大辞典、学習研究社あたりでも確認できるから調べてごらん >>80
>地形訓の里は、より実情に
>そったものでは、ないですか
「億の単位の里」が実情に沿っているとはとても思えないけれど?
時則訓の里はさらに山海経にその元ネタが遡れるし、これが大陸中華古代の
世界観の基本だろう
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
時則訓では、これと五行の考え方を合わせて、東西南北+中央之極を
すべて萬二千里として、方形の地(地方)を想定している
翻って、漢土の端(3世紀の当方であれば帯方郡)から
世界の果てまでが萬二千里という概念なのだろう >>74
>【比恵・那珂遺跡群】「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
これから分かるのは,この時期「箸墓」の畿内勢力は(段階的に浸透したのではなく)「(ほとんど)ダイレクトに到達した」ということです。
おそらく畿内側の北部九州内の駐屯地とも言える中心地が 比恵・那珂だったのでしょう。
そしてこの時期より,「北部九州の鉄器生産や絹生産の技術者」が畿内や本州各地に連れ去られるわけです。
もはや国としての機密性は崩壊しており,やりたい放題で「全面降伏」状態といってもおかしくありません。
ただ,北部九州は抹殺されたわけではなく連合政権「ヤマト王権(大和朝廷)」の一員として迎え入れられることになります。
(台与が生きていたとしたら,畿内まで連れていかれたかもしれません) >>83
寄りによってそいつかよw
畿内説糸冬のお知らせw >>76
>紀元前4世紀には、渾天説があり、
>渾儀もあったみたいだし。
それはいいんだけれど、それを主張するなら、その時代に既に間違いだと
指摘されている「蓋天説」前提のテキストである周髀算経を、
短里があった証拠とか言い出すのはいかがなものか? 九州説がいくらごちゃごちゃ言ったって、投馬国をまともに比定できる説が
一つもないんだからしょうがない
矛盾覚悟で南に置くか、非常識の極みの半島南部に置くかのどちらかで、
どちらもおかしい 集団ストーカー
仲間健二という人物に対して行われている
ターゲットになった人物は行く先々で悪評をまかれ仕事を点々としている状況
加えて仲間健二の自宅は24時間盗聴盗撮生配信されている
それをパブリックで笑いものにしている
ターゲットが郵便局で働いていたときは
実際にあった100万円横領の濡れ衣を着せられる
無実だったが
人間関係が壊れる
結果
退職
仲間が盗聴盗撮を止めろと言うと
仲間はゆすりたかりで脅しをかけているとなる
集団ストーカーのターゲットは
防御姿勢すら取れない
現代
平成の魔女裁判 >>97
それで嘘,ねつ造はありましたか?
「出雲を根拠もなく投馬国扱いする」方が「嘘,ねつ造」ですよね? >>93
億の単位の里」が実情に沿っているとはとても思えないけれど?
↑
古代は、億は、十万を意味すると思います。
辞書で調べたらでてきますよ。
実情に、そっていますよ。 >>96
そうですね。そのため、
淮南子は、天文訓で、ばっさり切りましたからね。蓋天説。
淮南子は、渾天説をベースに
したから、北極、南極や東西の赤道直線
距離をわかっていたかもしれませんね。 >>74
>IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
>IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
そんなこと書いてないでしょ
捏造はやめなさい >>78
投馬国を出雲に比定した書き込みはおれではないから本人とやりとりすればいい
そもそも根拠が足りないとあんたが判断しても、出雲比定を捏造呼ばわりするのはただの言いがかりだ
あんたが根拠にならんことを根拠だと言い張って山門説を唱えても、誰も捏造呼ばわりなどしていない >>74
"土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。"
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/711
↑
証拠を出してくれと何度も言ったが、都合の悪いことはとことん無視か
出せないなら、嘘をついたことを認めなさい
捏造したことを認めなさい >>96
北極と南極の2点を通る距離は、
40,009km
地球のお腹まわりともいえる赤道の距離は、40,075km
極半径は、6356.775キロメートル
北極南極直線距離約12,713キロ
淮南子 地形訓
禹乃使太章步
自东极,至于西极,
二亿三万三千五百里七十五步;
使竖亥步自北极,至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。
古代の億は、十万を意味する。
233,500里(75歩は、簡易計算のため省く)
淮南子天文訓で、夏至を用いて計算
された一里約61メートルを使うと
233500×0.061キロ=約14,243キロ 淮南子は、各国から
学者がきていたから、下記の情報
入手していた思う。
地球一周の距離を
世界で一番最初に計算した人は、
「エラトステネス」という古代ギリシャ人。
計算した地球一周の距離は、BC230のとき、
46,000km。
この時に地球が球体であることを知っていたようだ。
エラトステネスは「地球は丸い」と考え、「夏至」の日に、
エジプトのシエネという町で、
太陽が真上にいることを基準にし、
同日同時刻に、
シエネという町から925km離れた
アレキサンドリアの町では、
太陽は7.2度傾いていることを
確認。
これより、
925km×360÷7.2の計算で、約46,000kmが、でてきた。
つまりは、千里一寸だね。 卑弥呼が九州にいたとして、その宮殿はどこなのか。
径百歩といわれるその墓はどこなのか。
九州説の人は、少なくとも、纏向遺跡、箸墓古墳に匹敵するものを提示してから、
論を展開すべきではないですか。
短里がどうとか、屋上の上に屋上を重ねる議論は後回し。 三国志のころか
倭国にとって中国は結構先進国だったのね >>69
二亿三万=2億3万=現代語に翻訳すれば23万
幕末から明治初めに書かれた天理教の経典「泥海古記」に
>かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなった。
>そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。
>そして、月様は、いざなぎのみことの体内に日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、
>人間創造の守護を教え、三日三夜の間に
>九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。
>それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかって、
>子数のすべてを産みおろされた。
ttps://www.tenrikyo.fr/ja/lecture/?p=1711
「九億九万」は現代の99万に相当する >>79
>ジンムが開いた奈良ですが
神武より前に物部の祖先となる饒速日/邇藝速日を棟梁(リーダー)とする物部氏の祖先集団が住んでいた。 >>95
感情的な、お前より遥かにマシなのは九州説を唱える人でも認めると思うぜ。 最初から語る気なんてなくて単に攻撃して優越感に浸りたいだけでしょ 最後の陸路でかなり時間かかってるのはほぼ九州を縦断したからだろ >>112
信じられないかもしれないが>>1で結論出てるんだぜ 簡潔に俺の九州説
纏向遺跡は植民都市
東海地方の土器は人狩りで連れてこられた住民の強制移住
畿内の住民再配置を含む大変革の支配者=九州のどこかの王
箸墓古墳は開拓残土を墓に利用、大きさ=酷使開拓と権威を示す必要性
卑弥呼の墓=平原1号古墳
三十国共立された女王の宮殿=三十か国どこでもあり得る、の近くに墓を作る必要ない
北部九州で選定すれば伊都国、情報・富・武力・権威・権力全て揃った状態
死後も国外に親魏倭王の権威を示すには奥まった地より伊都国が相応しい
当時平原1号古墳の被葬者ほど豪勢で権威を持った女性は見当たらない
径百歩?俺が歩いたらなぜかちょうど100歩だった、文句があるなら歩いて来い
卑弥呼の宮殿=北部九州のどこか
投馬国=鹿児島宮崎
畿内説も俺の説に改宗してもいいんだぜw 支那の古典漢文では「王国民」を「億兆」と記述することがある。
大日本帝国でも明治天皇陛下の教育勅語のなかに
「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ
【億兆】心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
」
とある。
>三是下法,为(=爲)十进(=進)系统(=統),皆以十递进: 万 亿(=億) 兆 京 垓 秭┅┅
>到了近代,直至解放前我国还流行十进(=進)的系统(=統),
>即个 十 百 千 万 亿(=億) 兆 京 垓 秭 穰 沟(土旁) 涧 正 载 报,
>皆以十进,10万为亿,10亿为兆,10兆为京......;
>10^4=万, 10^5=亿,10^6=兆,10^7=京
《風俗通》千生萬,萬生億,億生兆,兆生京,京生秭,秭生垓,
垓生壤,壤生溝,溝生(1),(1)生正,正生載
千の10倍が万、万の10倍が億、億の10倍が兆、兆の10倍が京、京の10倍が秭。秭の10倍が垓
垓の10倍が壤、壤の10倍が溝、溝の10倍が(1)=シ(さんずい)+門+月、(1)=シ(さんずい)+門+月の10倍が正、正の10倍が載 >>112
考古学者の間では畿内説で決着してる
さらに記事にあるように物理学者の年代測定で考古学者の説を裏付けた
それにもかかわらず何人かのド素人がいまだに九州だと言い張ってるだけ
そういう人が九州だと思ってしまう理由は1つ
知識がないから >>117
>投馬国=鹿児島宮崎
投馬国=出雲=いずも/いどぅも(関西弁では「ず>ドゥ=du」にアクセント(=ストレスstress=言語学では強勢)ががあるから
「い」を弱く発音するので昔の支那人には「い」が聞き取れなくて
「ドゥモ」だと思って「投馬」と当て字した可能性大 >>63
根本的に「わ」っていうのは中国の外っていう意味なんだよ。
つまり「わこく」は外国、「わじん」は外国人っていう意味。
「倭国」という漢字は中国が当て字したのは明らか。
ヤマトからしたらヤマトは「わ」ではなくヤマトなので
「倭」をヤマトと読んだ。 投馬国=出雲
「えとも」が訛って「いずも」になったっていうのは出雲市の公式見解だぞ。
「えとも」とは「とも」の「え(港)」という意味
出雲ももともと「とも」という地名だったことがわかる。
投馬国=出雲、で違和感がない >>121
邪馬台国時代に日本は文字はなかったとされてるんだよ
つまりヤマトに倭の文字を当てたのは大和王朝なんだよ
だから読めもしない倭に当てたんだろうね >>だから読めもしない倭に当てたんだろうね
だから読めもしない倭になぜ当てたんだろうね
に訂正 >>121
スレ違いではありますが、昨夜の「家族に乾杯」で鶴瓶さんが青森で出会った元漁師は
自分の事をわぁ(われ)と言ってましたね。
沖縄の方言でも自分の事をわぁと言っていたんで面白いなと思いました。 >>103
>あんたが根拠にならんことを根拠だと言い張って山門説を唱えても、誰も捏造呼ばわりなどしていない
捏造呼ばわりはしないけれど、大バカ呼ばわりはするよw
nn氏の相手をしても実りがないからほっとくことにしてる
標準編年を「信じない」の一言で否定して、根拠のない捏造編年を
基礎にしてデタラメを書き散らすだけの人 >>123
硯が見つかってるので邪馬台国の時代に文字の読み書きができる
倭人がいたのは明らか。 >>106
>つまりは、千里一寸だね。
一寸千里は紀元前の中華世界でも間違いだとされていた蓋天説の
天地はともに平行な平面で、その平面間の距離が八万里という
間違った前提から必然的に出てくる定数
天地の距離が八万里で、影を計るための棒が八尺
「八万里 対 八尺」の比を80で割ると「千里 対 一寸」になる
九州説が短里の根拠としているのは、間違った前提から必然的に
導かれる、地上の距離とも緯度とも無縁の定数なんだよ >>116
> >>112
> 信じられないかもしれないが>>1で結論出てるんだぜ
結局ヨクワカンナーイじゃないのか >>83 >>111
オメデタイワ
ホタテは古代史のことはオレたち未満
山口二郎と同じで捏造と法螺デマカセが得意な左巻きの共産主義者
それでもホタテを信じるのかな? 保立道久氏の雑誌での発言は自分の邪馬台国についての意見を述べたものではなく
歴史学者の間では結論が出そうな雰囲気になっているという状況を説明したもの >>128
淮南子は、蓋天説をばっさり
切ってるやん。
それでも、ギリシャのエラトステネスと
同じ測り方して、
でてきているわけ。
ギリシャでの測り方を否定していることに
なるよ。
淮南子読んだらわかるとおもうけど。
淮南子も夏至に測っているからね。
中国の大学の研究者考察でも、でてきている
数字は、今後注意を払うべきと
言っているよ。
短里どうこうやなく、その計算から
でる数字をないとは、言えないよ。 >>137
>それでも、ギリシャのエラトステネスと
>同じ測り方して、
>でてきているわけ。
推測(憶測)がいつの間にか現実ということになってしまうのは、
とある国のファンタジー歴史と同じだぞw
>中国の大学の研究者考察でも、でてきている
これのことか?
第33卷第2期
泰山学院学报
JOURNAL OF TA ISHAN UNIVERSITY
Vo.l 33 NO. 2
由“千里一寸”解读《周髀算经》
李?鲁
これ、対応する地点を現代科学で推定して距離を換算すると
短里になりますっていう谷本茂氏と同じことを周回遅れで書いてるだけのものだよ >>114
>最後の陸路でかなり時間かかってるのはほぼ九州を縦断したからだろ
なら、水行する必要がなくなるなw
全部歩いて行けるんだからww >>138
ありがと。
そのなかの文章で、何故
千里一寸が、使い物にならないとして、
後世に残っていったかを、説明している。
そこは、ポイントとして、よんでるが、
分かりづらい。 >>117
>径百歩?俺が歩いたらなぜかちょうど100歩だった、文句があるなら歩いて来い
平原1号墓は墳丘サイズが12×8メートル
12メートルで百歩とすると1歩12センチだな
そして大陸表記の「歩」は複歩だから、片足を進める長さとしてはその半分の6センチ
>>117はドワーフかホビットだなww
平原1号墓は径百歩だけで候補から外れる 卑弥呼はシャーマンタイプで、畿内の古墳作るような集団は官僚タイプで政治の仕方が全然別物だと思うのだが。
卑弥呼なんて一代限りで食料も安定調達出来ない時代にはいつの間にか消える集団だと思います。 両者どちらも譲らず決着つかないと思ってたが、俺が生きている間に決まりそうね
これで九州はガラクタで主張してのがチョッとウケるw 記紀の記述から、天皇家や大和朝廷は、九州出身であることは事実であろう(神武東征)。
よって、分の悪い邪馬台国九州説は置いといて、初代天皇、神武天皇あたりを前面に出して町おこしをしたらどうか。
「吉野ケ里遺跡は、神武天皇がいたところ」とか。 魏志倭人伝にも書いてあるとおり、朝鮮半島の南端は、日本の領土であった(狗邪韓国)。
日本式の前方後円墳も多数ある。
本来、竹島とともに奪還すべきだ。 邪馬台国は九州の宮崎県。
東征して奈良に都を作った→大和国。
しかし、邪馬台国も大和国も見つからない。 >>64
>>36> 土器(桃の種込で)は移動できるし幅が100年もある測定法
> その一般論が今回の研究結果にどう影響していると言うんだ?
> 桃の種が見つかった場所である纒向の大型建物の年代は3世紀後半以降にはならない
|桃の種と土器は大型建物といった遺跡と一体ではないのでゴッドハンドで工作できる
> 当初の記事には名古屋大学中村教授からのアプローチだったと書かれていたけどね
|なんで書かなくなったんだ
|名大の中村オッサンが発表した調査報告書にはどう書いてあるかというと
> http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/researchinfo/upload_images/20180615_isee_1.pdf
> 名古屋大学宇宙地球環境研究所年代測定研究部の中村俊夫招へい教員
> (本学名誉教授)らのタンデトロン加速器質量分析年代測定研究グループは、
> 奈良県桜井市纏向(まきむく)学研究センターとの共同研究…(表題)
|共同研究とあるな(共犯関係なので責任は両方だな)
>自然科学の分野での報告書なので、邪馬台国との関連については詳しくは書かれていない
|ところが短い報告文でありながら邪馬台国には言及だらけ↓
>奈良県纒向遺跡出土のモモの種の高精度14C年代測定と邪馬台国の所在地論争(表題)
|表題からして邪馬台国の所在がテーマになってるぞ
> 今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました(冒頭)
> 纒向遺跡が邪馬台国に対応する可能性が高いと思われます。(本文)
> 残念ながら約100年の範囲を持ちますが、(本文)
|ここは↑正直でよろしい
> モモの実が実った暦年代を西暦135年から230年に絞ることができました。(本文)
|てことは西暦135年に捨てられた桃の種or土器とも言える
> この結果は、纒向遺跡が3世紀の中頃までには成立していた可能性が高いことを示し、
> 邪馬台国の所在地論争の重要な資料になるものと考えられます。(本文)
|纒向学研究センターに忖度しつつも逃げも打ってる卑怯な表現だな
|邪馬台国との関連付理由が「西暦135年から230年」だけの強引で恣意的なこじつけ
> 自然科学の分野での報告書なので、
|ここ↑ワロタとこ
|予算獲得=税金ドロのために研究論文を装ったヨイショ作文
|ますます怪しく信用がおけなくなったぜ名大のこのオッサン
|都合の悪い箇所は切り捨てごまかしオナラ説ゴリ押しレス主は端からだが >>102
「那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。
…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
古墳時代=前方後円墳の出現した時代のことです。
久住氏も箸墓編年との整合性に苦慮して「新しく見積もってもIIA期」としてますが,
IB期も視野に入っている(というか普通に見積もればこちら)という結果です。 >>103
「山門(やまと)という名前を当てはめただけ」なら目くそ鼻くそです。
当時の「華北領域の青銅鏡の素材が出土された」ことが重要です。
これにより名前が似てるだけの地域ではなく「大陸(華北領域)とのつながっていた確かな物証が出た」ことになります。
(「魏に朝貢していた証拠の鏡」だから処分されたのかは分かりませんが) >>104
>証拠を出してくれと何度も言ったが、都合の悪いことはとことん無視か
書かれてあったでしょう?
>弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる
P276
・外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。
・『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
・土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。
←「古墳出現前後より以前」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
P278【比恵・那珂遺跡群】
・遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
・IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
・IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
・IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
・IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。
←「IA期」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V
IIC期が布留1式
におおむね併行するとする」
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
古墳時代=前方後円墳の出現した時代のことです。
久住氏の判断では古墳が発見される前の1A期にはとてもベッタリとは言えないですね。 >>123
誰がそんなことを云ってるんだ
倭人伝には
其八年 太守王頎到官
・・・
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
女王卑弥呼は狗奴國の男王卑彌弓呼と素(もと)より(=普段から)仲が悪かった。
遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
使者を帯方郡に派遣して卑彌弓呼の攻撃の様子を訴えた。
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
郡は塞曹掾史の張政らを遣わして「詔書」と魏が邪馬台国聯合と卑弥呼の
後盾であることを示す「黃幢」を難升米を通じて与え檄を作って
告喻した。
と書いてある。
当時の将軍クラスの倭人は漢字、漢文を理解した教養人と考えるのが妥当。 三国志には鬼道という言葉を使ってる箇所がある。漢中の張魯の記述。
倭国大乱は崇仏論争に先駆ける宗教紛争だったんじゃないだろうか。
結果鬼道側が勝利して卑弥呼の共立となった。これがファーストインパクト。
続いて親魏倭王により、倭国全体という意識が芽生えて、中原に鹿を追うことになり、
最終的に畿内の「ヤマト」が勝利した。これがセカンドインパクト。
ヤマトは山門で、それぞれの首長のいるところ的な普通名詞じゃなかったか。
現在なら県庁所在地。畿内の勝利で倭国のヤマトは倭の首都的な意味になったが、
天武の日本国号とともに、ミヤコに改められた、と素人推理してみたりw >>126
>標準編年を「信じない」の一言で否定して、根拠のない捏造編年を 基礎にしてデタラメを書き散らすだけの人
あくまで「この報告書によると」ということです
それに久住氏も私も標準編年を無視していませんが
地域や報告者によってばらつきがあるのは仕方ありません。
そして,この報告書では「那珂八幡古墳の出現」時期について
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」と書かれてあるのは事実です。
見立てではIB期だけど(それでは箸墓古墳より早くなってしまうので)IIA期ということでしょうが
那珂八幡古墳の出現をIIA期初頭としても畿内勢の流入と土器作成はIB期であり,
「畿内勢の流入前といえるのはIA期まで」ということになります。 結局のところ纒向遺跡は邪馬台国とは無関係の集落。
目の前に広がる大和湖の埋め立てを試みたんだろう。
現状を見ると失敗に終わってるな。
東征前の邪馬台国は高千穂あたり。
東征後の邪馬台国は奈良北部じゃねえかな。 素直に、邪馬台国(ヤマト)の卑弥呼(日巫女)が鬼道(祈祷)する。
っていう意味だと思うよ。 >>145
>魏志倭人伝にも書いてあるとおり、朝鮮半島の南端は、日本の領土であった(狗邪韓国)。
それだったら、狗邪韓国じゃなくて、狗邪「倭」国にならんかね?
狗邪韓国は、東夷伝韓条の弁辰狗邪國のことだと思う じゃあ次は隋書より
・倭の男がチマチョゴリを着ている謎
・秦王国はどこだ? >>144
>「吉野ケ里遺跡は、神武天皇がいたところ」とか。
記紀をきちんと読んだ人なら常識ですが、
神武ゆかりの地は、南九州が中心であり、
北九州に神武ゆかりの地はありません。
はい、東遷説死亡。 ちなみに、みなさんの大好きな神武東征ですが、
神武の家族は、東征でみんな死んでいます。
神武の次の天皇は、ヤマトで娶った妃の子になります。
仮に、当時、女系の権力者が中心だったとするならば、
神武はただの婿養子にすぎません。 神武が九州で娶った妃の子は、2代目天皇にはなれず、
神武がヤマトで娶った妃の子が、2代目天皇になりました。
このとき、ヤマトの血を引く弟が、九州の血を引く兄を殺しています。
そして、皆はヤマトの血を引く皇子を2代目天皇として承認しています。
これで、九州勢力が奈良を開拓したと思う人はただのバカでしょう。 >>105
>淮南子 地形訓
>禹乃使太章步
>自东极,至于西极,
>二亿三万三千五百里七十五步;
>使竖亥步自北极,至于南极,
>二亿三万三千五百里七十五步。
これを中華の世界観が広い例証としてあげているけれど、その前後を読んでるかい?
淮南子《墬形訓》
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,
水道八千里,通穀其名川六百,陸徑三千里。
禹乃使太章步自東極,至於西極,二億三萬三千五百里七十五步。
使豎亥步自北極,至於南極,二億三萬三千五百里七十五步。
凡鴻水淵藪,自三百仞以上,二億三萬三千五百五十里,有九淵。
禹乃以息土填洪水以為名山,掘昆侖虛以下地,中有搶驪繽d,
其高萬一千里百一十四步二尺六寸。
中華世界の、現実の世界(土地)は、出だしの
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里の部分
四海の内の大きさ(闔=とびら)東西二萬八千里,南北二萬六千里
これは、山海経の世界観そのもので、これを整理したのが時則訓の五位(>>73参照)
で、その下の億の単位の里の部分は呂氏春秋有始覧情報の
「凡四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,水道八千里・・
凡四極之內,東西五億有九萬七千里,南北亦五億有九萬七千里。」の
後半部分を引き写したもので、淮南子では、時則訓で四極を四海の範囲の内に
入れてしまっているので、四極之内という語が抜けている
また、この部分の先は、西の崑崙山や東の扶桑国の話が続き、
四極距離は禹が測らせた云々も合わせて、山海経の伝説を引いているだけで、
現実世界の話ではない
ここで出てくる、北極、南極の語は、現在の北極、南極の語源ではあるけれど、
同時に東極、西極も出てきて、地球のノースポール、サウスポールとは
別の概念であることも分かる
大陸中華の古代人が、北極と南極を知ってたわけじゃないよ >>157
秦王国は、宇佐のことです。
宇佐説というのがありますが、卑弥呼が朝鮮人だと言ってるようなもので、噴飯ですね。 >>157
西暦57年に九州北部の王が
漢から金印「漢委奴国王」をもらって
西暦57年に新羅の王が倭人になってるから
西暦57年の時点で朝鮮半島南部まで倭人が支配してたのは確実 >>127
>硯が見つかってるので邪馬台国の時代に文字の読み書きができる
>倭人がいたのは明らか。
言うほど明らかではない
硯といっても小さなものだし、文字の読み書きのできる大陸の人が持ち込んだ、と
いうことで簡単に説明できてしまう
倭人に読み書きのできるものがいて、倭国で継続的に文字使用が行われていたなら、
もっと多くの硯が継続的に出るものだろう
ただ、先に書いたように、硯といっても「小さな薄く平たい石」でしかないので、
これまでにも出土していたけれど、見逃されていた可能性もある
まあ、その辺は今後の研究待ちだな >>156
前方後円墳って「物的証拠」なので倭国が朝鮮半島南部を支配していたのは間違いない。
「韓国」っていうのはもともと朝鮮半島南部の地名で
20世紀になってから韓国(朝鮮半島南部)の政治家が頑張って
韓国を国名にしちゃったんだよ >>164
>西暦57年に新羅の王が倭人になってるから
それ三国史記の
「新羅本紀 第四代 脱解 脱解尼師今、立。(一云吐解)時年六十二。
姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那国所生也。其國在倭国東北一千里。」
だろ?
三国史記は12世紀半ばに書かれたものだから、1000年も前のことが
正確に書かれているとは思えないんだが? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています