【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ >>83 >>111
オメデタイワ
ホタテは古代史のことはオレたち未満
山口二郎と同じで捏造と法螺デマカセが得意な左巻きの共産主義者
それでもホタテを信じるのかな? 保立道久氏の雑誌での発言は自分の邪馬台国についての意見を述べたものではなく
歴史学者の間では結論が出そうな雰囲気になっているという状況を説明したもの >>128
淮南子は、蓋天説をばっさり
切ってるやん。
それでも、ギリシャのエラトステネスと
同じ測り方して、
でてきているわけ。
ギリシャでの測り方を否定していることに
なるよ。
淮南子読んだらわかるとおもうけど。
淮南子も夏至に測っているからね。
中国の大学の研究者考察でも、でてきている
数字は、今後注意を払うべきと
言っているよ。
短里どうこうやなく、その計算から
でる数字をないとは、言えないよ。 >>137
>それでも、ギリシャのエラトステネスと
>同じ測り方して、
>でてきているわけ。
推測(憶測)がいつの間にか現実ということになってしまうのは、
とある国のファンタジー歴史と同じだぞw
>中国の大学の研究者考察でも、でてきている
これのことか?
第33卷第2期
泰山学院学报
JOURNAL OF TA ISHAN UNIVERSITY
Vo.l 33 NO. 2
由“千里一寸”解读《周髀算经》
李?鲁
これ、対応する地点を現代科学で推定して距離を換算すると
短里になりますっていう谷本茂氏と同じことを周回遅れで書いてるだけのものだよ >>114
>最後の陸路でかなり時間かかってるのはほぼ九州を縦断したからだろ
なら、水行する必要がなくなるなw
全部歩いて行けるんだからww >>138
ありがと。
そのなかの文章で、何故
千里一寸が、使い物にならないとして、
後世に残っていったかを、説明している。
そこは、ポイントとして、よんでるが、
分かりづらい。 >>117
>径百歩?俺が歩いたらなぜかちょうど100歩だった、文句があるなら歩いて来い
平原1号墓は墳丘サイズが12×8メートル
12メートルで百歩とすると1歩12センチだな
そして大陸表記の「歩」は複歩だから、片足を進める長さとしてはその半分の6センチ
>>117はドワーフかホビットだなww
平原1号墓は径百歩だけで候補から外れる 卑弥呼はシャーマンタイプで、畿内の古墳作るような集団は官僚タイプで政治の仕方が全然別物だと思うのだが。
卑弥呼なんて一代限りで食料も安定調達出来ない時代にはいつの間にか消える集団だと思います。 両者どちらも譲らず決着つかないと思ってたが、俺が生きている間に決まりそうね
これで九州はガラクタで主張してのがチョッとウケるw 記紀の記述から、天皇家や大和朝廷は、九州出身であることは事実であろう(神武東征)。
よって、分の悪い邪馬台国九州説は置いといて、初代天皇、神武天皇あたりを前面に出して町おこしをしたらどうか。
「吉野ケ里遺跡は、神武天皇がいたところ」とか。 魏志倭人伝にも書いてあるとおり、朝鮮半島の南端は、日本の領土であった(狗邪韓国)。
日本式の前方後円墳も多数ある。
本来、竹島とともに奪還すべきだ。 邪馬台国は九州の宮崎県。
東征して奈良に都を作った→大和国。
しかし、邪馬台国も大和国も見つからない。 >>64
>>36> 土器(桃の種込で)は移動できるし幅が100年もある測定法
> その一般論が今回の研究結果にどう影響していると言うんだ?
> 桃の種が見つかった場所である纒向の大型建物の年代は3世紀後半以降にはならない
|桃の種と土器は大型建物といった遺跡と一体ではないのでゴッドハンドで工作できる
> 当初の記事には名古屋大学中村教授からのアプローチだったと書かれていたけどね
|なんで書かなくなったんだ
|名大の中村オッサンが発表した調査報告書にはどう書いてあるかというと
> http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/researchinfo/upload_images/20180615_isee_1.pdf
> 名古屋大学宇宙地球環境研究所年代測定研究部の中村俊夫招へい教員
> (本学名誉教授)らのタンデトロン加速器質量分析年代測定研究グループは、
> 奈良県桜井市纏向(まきむく)学研究センターとの共同研究…(表題)
|共同研究とあるな(共犯関係なので責任は両方だな)
>自然科学の分野での報告書なので、邪馬台国との関連については詳しくは書かれていない
|ところが短い報告文でありながら邪馬台国には言及だらけ↓
>奈良県纒向遺跡出土のモモの種の高精度14C年代測定と邪馬台国の所在地論争(表題)
|表題からして邪馬台国の所在がテーマになってるぞ
> 今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました(冒頭)
> 纒向遺跡が邪馬台国に対応する可能性が高いと思われます。(本文)
> 残念ながら約100年の範囲を持ちますが、(本文)
|ここは↑正直でよろしい
> モモの実が実った暦年代を西暦135年から230年に絞ることができました。(本文)
|てことは西暦135年に捨てられた桃の種or土器とも言える
> この結果は、纒向遺跡が3世紀の中頃までには成立していた可能性が高いことを示し、
> 邪馬台国の所在地論争の重要な資料になるものと考えられます。(本文)
|纒向学研究センターに忖度しつつも逃げも打ってる卑怯な表現だな
|邪馬台国との関連付理由が「西暦135年から230年」だけの強引で恣意的なこじつけ
> 自然科学の分野での報告書なので、
|ここ↑ワロタとこ
|予算獲得=税金ドロのために研究論文を装ったヨイショ作文
|ますます怪しく信用がおけなくなったぜ名大のこのオッサン
|都合の悪い箇所は切り捨てごまかしオナラ説ゴリ押しレス主は端からだが >>102
「那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。
…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
古墳時代=前方後円墳の出現した時代のことです。
久住氏も箸墓編年との整合性に苦慮して「新しく見積もってもIIA期」としてますが,
IB期も視野に入っている(というか普通に見積もればこちら)という結果です。 >>103
「山門(やまと)という名前を当てはめただけ」なら目くそ鼻くそです。
当時の「華北領域の青銅鏡の素材が出土された」ことが重要です。
これにより名前が似てるだけの地域ではなく「大陸(華北領域)とのつながっていた確かな物証が出た」ことになります。
(「魏に朝貢していた証拠の鏡」だから処分されたのかは分かりませんが) >>104
>証拠を出してくれと何度も言ったが、都合の悪いことはとことん無視か
書かれてあったでしょう?
>弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる
P276
・外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。
・『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
・土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。
←「古墳出現前後より以前」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
P278【比恵・那珂遺跡群】
・遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
・IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
・IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
・IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
・IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。
←「IA期」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V
IIC期が布留1式
におおむね併行するとする」
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
古墳時代=前方後円墳の出現した時代のことです。
久住氏の判断では古墳が発見される前の1A期にはとてもベッタリとは言えないですね。 >>123
誰がそんなことを云ってるんだ
倭人伝には
其八年 太守王頎到官
・・・
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
女王卑弥呼は狗奴國の男王卑彌弓呼と素(もと)より(=普段から)仲が悪かった。
遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。
使者を帯方郡に派遣して卑彌弓呼の攻撃の様子を訴えた。
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之
郡は塞曹掾史の張政らを遣わして「詔書」と魏が邪馬台国聯合と卑弥呼の
後盾であることを示す「黃幢」を難升米を通じて与え檄を作って
告喻した。
と書いてある。
当時の将軍クラスの倭人は漢字、漢文を理解した教養人と考えるのが妥当。 三国志には鬼道という言葉を使ってる箇所がある。漢中の張魯の記述。
倭国大乱は崇仏論争に先駆ける宗教紛争だったんじゃないだろうか。
結果鬼道側が勝利して卑弥呼の共立となった。これがファーストインパクト。
続いて親魏倭王により、倭国全体という意識が芽生えて、中原に鹿を追うことになり、
最終的に畿内の「ヤマト」が勝利した。これがセカンドインパクト。
ヤマトは山門で、それぞれの首長のいるところ的な普通名詞じゃなかったか。
現在なら県庁所在地。畿内の勝利で倭国のヤマトは倭の首都的な意味になったが、
天武の日本国号とともに、ミヤコに改められた、と素人推理してみたりw >>126
>標準編年を「信じない」の一言で否定して、根拠のない捏造編年を 基礎にしてデタラメを書き散らすだけの人
あくまで「この報告書によると」ということです
それに久住氏も私も標準編年を無視していませんが
地域や報告者によってばらつきがあるのは仕方ありません。
そして,この報告書では「那珂八幡古墳の出現」時期について
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」と書かれてあるのは事実です。
見立てではIB期だけど(それでは箸墓古墳より早くなってしまうので)IIA期ということでしょうが
那珂八幡古墳の出現をIIA期初頭としても畿内勢の流入と土器作成はIB期であり,
「畿内勢の流入前といえるのはIA期まで」ということになります。 結局のところ纒向遺跡は邪馬台国とは無関係の集落。
目の前に広がる大和湖の埋め立てを試みたんだろう。
現状を見ると失敗に終わってるな。
東征前の邪馬台国は高千穂あたり。
東征後の邪馬台国は奈良北部じゃねえかな。 素直に、邪馬台国(ヤマト)の卑弥呼(日巫女)が鬼道(祈祷)する。
っていう意味だと思うよ。 >>145
>魏志倭人伝にも書いてあるとおり、朝鮮半島の南端は、日本の領土であった(狗邪韓国)。
それだったら、狗邪韓国じゃなくて、狗邪「倭」国にならんかね?
狗邪韓国は、東夷伝韓条の弁辰狗邪國のことだと思う じゃあ次は隋書より
・倭の男がチマチョゴリを着ている謎
・秦王国はどこだ? >>144
>「吉野ケ里遺跡は、神武天皇がいたところ」とか。
記紀をきちんと読んだ人なら常識ですが、
神武ゆかりの地は、南九州が中心であり、
北九州に神武ゆかりの地はありません。
はい、東遷説死亡。 ちなみに、みなさんの大好きな神武東征ですが、
神武の家族は、東征でみんな死んでいます。
神武の次の天皇は、ヤマトで娶った妃の子になります。
仮に、当時、女系の権力者が中心だったとするならば、
神武はただの婿養子にすぎません。 神武が九州で娶った妃の子は、2代目天皇にはなれず、
神武がヤマトで娶った妃の子が、2代目天皇になりました。
このとき、ヤマトの血を引く弟が、九州の血を引く兄を殺しています。
そして、皆はヤマトの血を引く皇子を2代目天皇として承認しています。
これで、九州勢力が奈良を開拓したと思う人はただのバカでしょう。 >>105
>淮南子 地形訓
>禹乃使太章步
>自东极,至于西极,
>二亿三万三千五百里七十五步;
>使竖亥步自北极,至于南极,
>二亿三万三千五百里七十五步。
これを中華の世界観が広い例証としてあげているけれど、その前後を読んでるかい?
淮南子《墬形訓》
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,
水道八千里,通穀其名川六百,陸徑三千里。
禹乃使太章步自東極,至於西極,二億三萬三千五百里七十五步。
使豎亥步自北極,至於南極,二億三萬三千五百里七十五步。
凡鴻水淵藪,自三百仞以上,二億三萬三千五百五十里,有九淵。
禹乃以息土填洪水以為名山,掘昆侖虛以下地,中有搶驪繽d,
其高萬一千里百一十四步二尺六寸。
中華世界の、現実の世界(土地)は、出だしの
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里の部分
四海の内の大きさ(闔=とびら)東西二萬八千里,南北二萬六千里
これは、山海経の世界観そのもので、これを整理したのが時則訓の五位(>>73参照)
で、その下の億の単位の里の部分は呂氏春秋有始覧情報の
「凡四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,水道八千里・・
凡四極之內,東西五億有九萬七千里,南北亦五億有九萬七千里。」の
後半部分を引き写したもので、淮南子では、時則訓で四極を四海の範囲の内に
入れてしまっているので、四極之内という語が抜けている
また、この部分の先は、西の崑崙山や東の扶桑国の話が続き、
四極距離は禹が測らせた云々も合わせて、山海経の伝説を引いているだけで、
現実世界の話ではない
ここで出てくる、北極、南極の語は、現在の北極、南極の語源ではあるけれど、
同時に東極、西極も出てきて、地球のノースポール、サウスポールとは
別の概念であることも分かる
大陸中華の古代人が、北極と南極を知ってたわけじゃないよ >>157
秦王国は、宇佐のことです。
宇佐説というのがありますが、卑弥呼が朝鮮人だと言ってるようなもので、噴飯ですね。 >>157
西暦57年に九州北部の王が
漢から金印「漢委奴国王」をもらって
西暦57年に新羅の王が倭人になってるから
西暦57年の時点で朝鮮半島南部まで倭人が支配してたのは確実 >>127
>硯が見つかってるので邪馬台国の時代に文字の読み書きができる
>倭人がいたのは明らか。
言うほど明らかではない
硯といっても小さなものだし、文字の読み書きのできる大陸の人が持ち込んだ、と
いうことで簡単に説明できてしまう
倭人に読み書きのできるものがいて、倭国で継続的に文字使用が行われていたなら、
もっと多くの硯が継続的に出るものだろう
ただ、先に書いたように、硯といっても「小さな薄く平たい石」でしかないので、
これまでにも出土していたけれど、見逃されていた可能性もある
まあ、その辺は今後の研究待ちだな >>156
前方後円墳って「物的証拠」なので倭国が朝鮮半島南部を支配していたのは間違いない。
「韓国」っていうのはもともと朝鮮半島南部の地名で
20世紀になってから韓国(朝鮮半島南部)の政治家が頑張って
韓国を国名にしちゃったんだよ >>164
>西暦57年に新羅の王が倭人になってるから
それ三国史記の
「新羅本紀 第四代 脱解 脱解尼師今、立。(一云吐解)時年六十二。
姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那国所生也。其國在倭国東北一千里。」
だろ?
三国史記は12世紀半ばに書かれたものだから、1000年も前のことが
正確に書かれているとは思えないんだが? >>167
三国史記には
「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。」とも書いてあるから
わりと正確だと思うよ。 邪馬台国(大友)
南の反邪馬台国(竜造寺)
投馬(島津)
1000年を超え再び相まみえる九州三国志 >>148
>IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
>IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
絶対年代が”3世紀前期後半”だの”3世紀中期”とはどこにも書かれてないでしょ
イタコ芸なんかやっても無意味だし、ただの妄想を書いてるに過ぎない
とにかく捏造はやめなさい!!! >>150
"土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。"
"ところが古墳時代開始期になると畿内や本州の土器が一気に北部九州に流入する"
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/711
↑
この意味は、
弥生後期(交流あり) → 弥生終末期(交流なし) → 古墳出現期(交流あり)
だろが
ところが、論文は弥生終末期から時代が下るに連れて畿内系土器が増えてくる、つまり交流が活発になるとしか読めない
交流あり→なし→ありと変遷した証拠を出せないなら
嘘をついたことを認めなさい、捏造したことを認めなさい!!! >>150
>←「IA期」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
↑
余談だが、比恵・那珂遺跡についてのこのレスも捏造な
IA期には「伝統的V様式甕が那珂16次調査SD37溝[czr−25,吉留による第6章]で2点出土している」
と書かれている
この人、毎回のように捏造してくるな
IB期を3世紀中期(中頃の意味だと解釈)と編年を捏造しても、IA期の段階で畿内系土器があるのはまずいからこういう卑怯なことをやったんだろう
nn氏は捏造することになんの躊躇いもない、モラルの欠片もない人間というのをあらためて証明したようなもの >>165
正始八年に難升米が帯方郡から詔書をもらってるし
檄ももらってるから下っ端は読み書きできなくても
邪馬臺国聯合軍の幕僚、聯隊長、大隊長、中隊長クラス以上は
読み書きできた。 >>166
>前方後円墳って「物的証拠」なので倭国が朝鮮半島南部を支配していたのは間違いない。
ただ、その朝鮮半島の前方後円墳、半島南部の西の方(百済と任那の境界あたり)が多く、
狗邪韓国の比定地とされる東側の金海市・釜山市にはない
そして、古墳時代初期、前期のものがなく、中期のものとされている
となると、卑弥呼の頃には半島に倭人の拠点がなく、その後倭人が進出して
定着したようにも見える
崇神天皇から、4世代後の神功皇后による半島進出からそのあとに前方後円墳が
作られるようになったとすると、年代的には整合的になる
まあ、古代のことだから推測交じりのことしか言えないけれど >>160
>>163
やはり西寄りですか。
滋賀県にも秦や百済のつく地名があるのが不思議でして。
>>164
倭人の身なりがガラリと変わってるのが気になってね。
チマチョゴリの起源が倭人だとは思えないし。 >>168
>三国史記には
>「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。」とも書いてあるから
>わりと正確だと思うよ。
8世紀には日本も記紀を書いているし、その直前の頃の史実は日本や中国の
史書を参照しながら書いているから、日本や中国の史書が信用できる程度には
正しいと言えるだろうけれど、脱解王の紀元1世紀まで同様に信用できるとは
とても思えない >>173
>檄ももらってるから下っ端は読み書きできなくても
>邪馬臺国聯合軍の幕僚、聯隊長、大隊長、中隊長クラス以上は
>読み書きできた。
そう単純な話じゃなくて「通訳がいた」で済んでしまう話なんだよ >>171
・IA期に畿内土器が搬入されていない。(あったらそう明記される)
・畿内系といえるのはさらに古い時代の伝統的V様式甕のみ。
これも交流あり→なし→ありと変遷した証拠ですよね。 >>177
>単純な話じゃなくて「通訳がいた」
「通訳」の方が単純だと思うがwww >>170
纒向編年(wiki)によると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E7%B7%A8%E5%B9%B4
180年-210年:纒向1類:弥生V様式末
210年-250年:纒向2類:庄内I式(庄内古式)
です。
(正直言うとIA期・IB期がどのへんになるのかの自分自身への覚書を消し忘れて投稿してしまったんですが,
嘘ねつ造ではないですよね) >>178
書き直すと
1)伝統的V様式甕期:畿内と交流あり
2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
3)IB〜IIA期以降,畿内土器がドッと流入:畿内と交流あり(というか寡占状態)
ということですけど。 >>181
(北部)九州説ならこのように考古学資料でもかなり精密な裏付けが取れますが
畿内説のこの方はヒステリックに相手を人格否定するのみで
なんら具体的な物証を挙げようともしません。
あなたは「出雲は投馬とも読める」なんて素人の思いつきのようなことを
言わない人だったですかね?
魏志倭人伝に基づいて考古学資料で論拠を示してくれるんですよね。 >>179
>檄ももらってるから
↓
>読み書きできた。
の方が、単純だと思うけど?ww 【オウムとは、無関係】 ホーリーネームは匿名 <世界教師マ@トレーヤ> 完全マルチ・リンガル
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1536715603/l50
数ヵ国語ではなく、すべての言語を流暢に話せる、長身の外人男性が現れる! >>181
>2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
>>172は無視するのかい?
「余談だが、比恵・那珂遺跡についてのこのレスも捏造な
IA期には「伝統的V様式甕が那珂16次調査SD37溝[czr−25,吉留による第6章]で2点出土している」
と書かれている
この人、毎回のように捏造してくるな
IB期を3世紀中期(中頃の意味だと解釈)と編年を捏造しても、IA期の段階で畿内系土器があるのはまずいからこういう卑怯なことをやったんだろう
nn氏は捏造することになんの躊躇いもない、モラルの欠片もない人間というのをあらためて証明したようなもの」 出雲 chu-yun
投馬 tou-ma
現代発音ながら、似てるなw >>185
>>172は無視するのかい?
しっかりはっきり答えてますけど?
伝統的V様式甕ですよね?
巻向編年で言うところの弥生V様式末:纒向1類:180年-210年
「IA期以前の甕」であり,私の説を精密に裏付けていますよね。 >>187
相手にして貰えないからってスネるなw
纒向は大和湖の干拓事業の為に作られた臨時施設。
箸墓古墳は4世紀以降の墓である。
さあ、邪馬台国は何処なのでしょう?
あと、出雲をイズモと読むのは訓読みが出来た平安時代以降だから無視ね。 >>188
>巻向編年で言うところの弥生V様式末:纒向1類:180年-210年
この時代には巻向にも「後の畿内勢とは異なる先住弥生人」たちが暮らしていたんでしょうね。
そして北部九州との人々とも交流があったということですね。 出雲の人
もう諦めれ
出雲は尼子経久で満足しなさい >>189
>あと、出雲をイズモと読むのは訓読みが出来た平安時代以降だから無視ね。
おーい、また捏造かよ
これ、何と読む気だ?
夜久毛多都 「伊豆毛」夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 >>176
あ、そう。
じゃあ、お前だけ三国史記の記述を参考にしないでいいよ >>180
・北部九州と大和の土器の併行関係は久住氏の見解による
・大和の土器の絶対年代は石野氏の年代観を使う(石野氏が北部九州と大和の併行関係をどう考えているかは不明)
・関係ない2つを合わせて、北部九州の絶対年代を出す
一般にこれを捏造という >>180
百歩譲って2つを無理やり合わせてみるとこうなる(そもそも北部九州の年代を大和の土器編年をベースにするのは順序が逆だが)
久住氏の見解だと、
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
と併行する
石野氏の年代観だと、纒向編年の絶対年代は以下のようになる
纒向1類 180年-210年
纒向2類 210年-250年
纒向3類 250年-270年
よって
IA期 ≒ 纒向1類 ≒ 180年-210年
IB期 ≒ 纒向2・3類 ≒ 210年-260年(IIA期も纒向3類に併行するので、IB期は纒向3類の途中までと仮定する)
魏との外交期間である239〜248年はIA期ではなくIB期になる >>180
久住氏の見解
「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討 −弥生時代を中心に−」 討論に向けてのメモおよび参考資料
http://www.academia.edu/7183311/_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%87%BA%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E7%B3%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E5%86%8D%E6%A4%9C%E8%A8%8E_
-%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB-_%E8%A8%8E%E8%AB%96%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E5%8F%82%E8%80%83%E8%B3%87%E6%96%99
_Kusumi_Takeo2010_revision_and_corrected_in_2012_%E7%AC%AC59%E5%9B%9E%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%9B%86%E4%BC%9A%E8%B3%87%E6%96%99%E9%9B%86_
「楽浪土器の時期別出土傾向から、TA期前後が「公孫氏」の時代を含み、
楽浪土器が一定量出土する最終時期であるTB期が 239〜248 年の魏との外交期間を含むか。
楽浪土器が激減するUA期=布留0式は、248年以降の中国との外交記事が中断する時期ではないか」
IB期は239〜248年の魏との外交期間を含むということだよ
そしてIIA期が248年以降なので、IB期は3世紀前半まで
以上、nn氏の年代捏造の証明オワリ >>181
>1)伝統的V様式甕期:畿内と交流あり
>2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
>3)IB〜IIA期以降,畿内土器がドッと流入:畿内と交流あり(というか寡占状態)
・北部九州に伝統的V様式甕期(近畿の土器ベースという意図で書かれている)なんていう時代区分はない
・IA期に伝統的V様式が出土と論文に書かれている
・IB期以降は畿内系土器がドッと流入
弥生終末期とはIA期およびIB期のことなので、この時期に北部九州と畿内との交流がなくなったというのは大嘘
以上、nn氏の捏造の証明オワリ >>198
そして久住氏の見解だと
「那珂八幡古墳」という古墳の出現時期が
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」ということですよね。
「古墳開始期」と私が言ってるのはこれのことなんですが。 >久住氏の見解だと、IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
いえ,IA期から弥生V様式末の甕が見つかっただけでしょ?
古墳から漢代の鏡が見つかったらその鏡は古墳時代の鏡なんですか?
弥生V様式末の甕はIA期以前の区分ですね。 まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
わりと未開地だったのな。
九州邪馬台国の東征完了後に文明開化した感じ。
東征開始〜統一政権樹立まで150年かかった。
この間は朝貢に行けずじまい。
で、狗奴国ってどこいった? >>201
>まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
ばか発見。 >>199
那珂八幡古墳は定型化された前方後円墳ではない
定型化される前の纒向型前方後円墳はもちろん纒向にもあるし全国各地にある
古墳時代の始まりは箸墓古墳からだよ
久住氏自身がIB期は3世紀前半までという見解を示してるんだから
ド素人が珍説唱えてIB期をずらそうとしても無駄 >>200
弥生V様甕がIA期に出土したと論文に書いてあるのに、勝手にIA期以前と捏造するなよ >>196
この資料に関して
「畿内との交流あり→なし→あり」
が資料から読み取れるという点について,
嘘でもねつ造でもなく問題はないですね。
那珂古墳の出現がIB(IIA)期とあり
IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
ということから,この「古墳の出現期に畿内の浸透(庄内甕が入ってきた)」という解釈も
嘘でもねつ造でもなく問題はないですね。 外的要因が無ければ奈良はいつまでも弥生時代だったよ くどいなぁw
煽るつもり無いけどくどくど自説検証するならブログとか他でやれよ
それは置いといて大和湖は気になるなぁ
史跡と標高の関係をリアルで知りたい
現地調査行ってみようかな >>202
全国的に見るとその時代の奈良がさみしい部類なのは事実だよ。 >>207
縄文の方が面白いと思うよ。
遺跡が大和湖を囲むように点在してる。 >>205
明らかな捏造だろが
>那珂古墳の出現がIB(IIA)期とあり
勝手にIB期と改ざんするな
そもそも那珂八幡古墳は古墳時代の定義と関係ない
>IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
庄内式土器は出土しないが、伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
>IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
この時期(仮に210年-260年とする)に北部九州と畿内で交流が急増したことの証
>この「古墳の出現期に畿内の浸透(庄内甕が入ってきた)」という解釈
ド素人の珍解釈はどうでもいい
古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
弥生終末期に北部九州と畿内で交流がなくなったというのは嘘八百
あんたは証拠を捏造して嘘をついたんだよ
いくらしらばかっくれても無駄 >>201
>まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
これが、どうしようもなくバカか、ウソか、認識不足のいずれか
これまで何度も話題に出てるんだけど、また貼っとくよ
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
ついでにこれも
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
専門家のきちんとした情報も見ずに、思い込みの印象で論じても無意味 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族は発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は 金印(カンノイトコクオウ)同じくシンギワオウ(ヒミカ)倭の五王 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村の戦いでの敗戦などがあり700年まで続いた
200年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏のナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
北陸へ半島より渡来した継体は神武五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 本来であれば神武の正統は大勢存在したが内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書を集め日本書紀に内容を剽窃した 「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討」
これも欲しかった面白い資料ですね。
P12 「図12 北部九州と畿内・東海の併行関係(久住2006)」
この土器の移動が最も重要なのですが,なぜか肝心のIIA期以前がありません。
P14 「各地土器編年併行関係表(案)」によると,
確かに北部九州のIA期(久住)として大和の庄内0式,1式(寺沢)や纏向1式(新)2式(古)(関川)が対応していますね。
ただ「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」の比恵・那珂遺跡群は
(久住1999b〜2002)ですから「表3 北部九州と伽耶、列島各地の併行関係(久住2006)」に対応し
北部九州(井上)としては「IA期→後期後葉2式」「IB期→後期後葉3式」「IIA期→古墳前期1式」に対応していたのが分かります。
P9「UB期以降に半島系土器が多数集中する西新町には楽浪土器が認められていない」
これは私の説(北部九州説)で説明すれば「UB期以降は邪馬台国(北部九州)を畿内側が吸収してしまい帯方郡(魏・晋)との通交が遮断されたため」ということです。
邪馬台国=畿内説ではどう説明するのでしょうか
・「楽浪土器と通交ルートが重なる馬韓土器は、TA期に列島に出現し、UA期に増加し、さらにUB期以降に急増する。
楽浪土器の減少・消滅と交替的である(久住2007)楽浪土器の時期別出土傾向から、TA期前後が「公孫氏」の時代を含み、
楽浪土器が一定量出土する最終時期であるTB期が239〜248年の魏との外交期間を含むか。」
問題はここですね。
馬韓は後の百済のあったところです。UA期に増加となると「馬韓は畿内連合との通交を強めた」ことになります。
肝心の「IB期」が書かれていませんが「減少した」か「全くなかった」ということでしょうか。
馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,UA期以降は増加ということを踏まえると
P9「山陰および畿内では「UA期」までの半島系土器は非常に少ないという事実が判明する」
当時の「倭国」は「北部九州及び半島南岸部」と考えられますから,UA期は「北部九州が畿内勢に吸収された」直後であり「畿内に吸収されるのを良しとしない倭人の集団」が「半島南岸へ移動して抵抗した」時期と考えられます。
・さらに興味深いのが最後の地図
図27 原の辻=三雲貿易段階(後期前半〜終末期古相)
図28 原の辻=三雲貿易から「博多湾貿易への移行」(TB期〜UA期)
ですね。
北部九州の福岡から畿内にせよ出雲・丹後にせよ「海路で行き来している」ことが想定されています。
(これらの全期間を通じて「畿内まで陸路で1月」は想定されていないようです) >>215
>その後纏向遺跡との比較(2008)の後に,「表5 北部九州編年の併行(対応)関係(久住2009)」に変更され
「IA期→Z期 終末期(古相)」「IB期→[期 終末期(新相)」「IIA期→古墳初頭」に対応したということですね。
1)IA期→終末期(古相)
2)IB期→[期 終末期(新相)
3)IIA期→古墳初頭
ですから,
古墳時代は「古墳を数年がかりで計画・施工した後」の時代です。
その前にあったIB期は「畿内勢による北部九州浸透期」であり
佐々木資料から,その流入はダイレクトで急激に現地の生産を圧倒
(一方,絹や鉄器職人も急激に流出)したのが見て取れます。 >>210
>勝手にIB期と改ざんするな
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
なのでIB(IIA)期です。
>そもそも那珂八幡古墳は古墳時代の定義と関係ない
久住氏もIB期,新しく見積もってもIIA期と,「古墳時代の定義と矛盾しない」ように忖度してますが
本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。
>伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
その通りです。
>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
それは証明されていませんね。
>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。
その以前に北部九州(例えば那珂遺跡)への
庄内土器を伝える「畿内勢の流入期」が存在しています。 >>215
>馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,
UA期以降は増加ということを踏まえると
IIB期はIB期の間違いです。
これをふまえると,馬韓は魏とは通交していなかったことが考えられます。
つまり「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
の「韓國を歷て南ながら東ながら」の韓國は馬韓にあたりますが
やはり「馬韓の沖あいを航海した」ということだとみられます。
馬韓は公孫氏とは通交し,(魏・邪馬台国(北部九州))とは通交せず
邪馬台国(北部九州)を吸収した「畿内勢とは通交を強めた」とみられます。 土器編年史という別のジャンルで風俗文化史でも作ればいいのに。
100年ぐらい簡単にずらしてしまうような連中なんだから。
箸墓古墳から出土した土器は4世紀の布留1式だが墓は3世紀のものだとか言ってる時点で信憑性ないよな。
畿内派は強引な年代ずらしが目につくな。
ある意味、日本の考古学の足を引っ張ってるようなもんだ。 >>189
>訓読みが出来た平安時代以降だから
それは真っ赤なウソ、朝鮮人は息を吐くように・・・
訓読みは記紀万葉の時代からあった
例えば神亀三年(西暦726年)秋九月十五日(西暦726年)
秋九月十五日、播磨國(はりまのくに)印南野(いなみの)に幸(いでま)す時に
笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の作る歌一首、并(なら)びに短か歌
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 苅管 暮菜寸二(後畧)
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほの うらに 朝凪に 玉藻刈りつつ
「名寸隅」ナキスミの
「名ミョウ、メイ」を「な」と読むのは訓読み=翻訳読み
「寸スン」を「き」と読むのも訓読みで「き」は曲尺の1寸に相当する。
古事記にも用例が有る。 「御歯の長さ一寸(ひとき) 」。
【隅】は《廣韻》遇俱切《集韻》《韻會》元俱切,音虞(グ)
支那語客家方言でngiと発音し広東方言で[jyu]=ジュではなくユ(陽平声)又は[jyu]=ユ(陽去声)
支那の漢字発音は玄宗皇帝が楊貴妃とセックス三昧してた時代に四声が
頭子音が清音なら高い音程(陰調陽)から始まり、
頭子音が濁音なら低い音程(陽調)から始まる四声八調に分化した。
元朝(モンゴル統治)時代にルーツを持つ北京官話=Mandarin=普通話(プートンホワ)では頭子音ngが消滅し
広東語とほぼ同じü(陽平声) でüは英文タイプライターで印字できないので
通常yuと打つのが現代支那人民共和国政府の定めたラテン文字綴り「ピンイン」である。
国際音声符号IPAでは[y]である。
音読みがグの漢字【隅】を「すみ」と読むのは日本語訳が固定化した翻訳読みで「訓読み」と言い慣らわしている。
つまり「名寸隅なきすみ」という古代の地名を漢字3文字の音読みではなく
すべて訓読みでつなぎ合わせた「訓仮名」という手法で表現している。 >>208
>全国的に見るとその時代の奈良がさみしい部類なのは事実だよ。
唐古・鍵遺跡
奈良盆地中央部に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
奈良には、弥生時代から全国トップクラスの集落がありました。 >>217
捏造常習犯のド素人が学者気取りで古墳時代の定義まで変えようってかwww
ここまで身の程知らずのやつはほんと珍しいわ
ここ数日であんたがやった捏造をまとめておくよ
・久住編年でIA期を3世紀前期後半(原文ママ)、IB期を3世紀中期(原文ママ)と捏造
・北部九州と畿内の交流を弥生後期(交流あり)→弥生終末期(交流なし)→古墳出現期(交流あり)と捏造
・比恵那珂遺跡でIA期に畿内の土器は出土なしと捏造 >>217
>本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。
那珂八幡古墳は定型化される前の前方後円墳だから、仮にIB期だとしても古墳時代の始まりは変わらないんだよ
庄内期にも纒向方前方後円墳が造られているが、それらと同様の位置付けになるだけ
>>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
>それは証明されていませんね。
証拠を突き付けられても認めないと駄々をこねてるだけ
>>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
>繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。
那珂八幡古墳がIB期だとしても、IB期の絶対年代は3世紀前半で変わらないんだよ
さらに言うと土器編年と古墳時代の定義は関係ない
無意味なイチャモンつけてるだけ
3世紀前半のうちに比恵那珂地域に畿内土器がドッと流入
これが現実 >>223
これらは「〜と想定してみる」ということですから
数10年〜数百年ずれることが普通にある古代の考古学データで
更なる実地データの中で絞り込んでいくべきものであって
i出雲を投馬國と決めつけることに比べれば
嘘ともねつ造とも言えませんね。 >>222
勢力?
それなら宝飾品の出土状況を見るべきだね。
俺は調べたことないけど。
>>225
確かに投馬国=出雲国は無理あるね。
どの地域にもありそうだけど東(あずま)国じゃないかな。
九州なら大分の国東とか。
俺は各史書を素直に読んでみて邪馬台国は高千穂だと感じるね。
冬でも草木が青いという描写に合うかどうかは疑問だけど。 >>226
素直に読んでみて「水行20日」はどこになりますか? >>226
冬でも草木が青いは、
冬に落葉しないいみだよね。
いわゆる照葉樹林だね。
冬季の寒さが厳しい地域では、樹木は冬を落葉によってしのぐが、寒さがそれほど厳しくない(最寒月平均気温が5℃以上)地域では葉を落とさず、そのまま次の年も使う事になるので、常緑広葉樹林が成立する。
宮崎の西都原や都城市、高千穂から
尾根伝いにいけば、
日本最大級の綾町 広葉樹林帯がある。
年中青々している。 >>227
あんまり気にしてなかった。
何らかの事情があって20日かかったんだろうと読んだ。
関空から数時間で行ける場所に1週間かかってる人もいるんだから。 >>228
それってドンピシャリじゃない?
宮崎には旅行で行ったことあるけど年中青々してるのは知らなかった。
頭に浮かんだイメージにピッタリだよ。 まだやってら。多数決で決まるとでも思っているのか? >>230
だね。一つ一つ合う状況をみていくのも
重要かもね! >>228
ところが「大和は国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるはし
」
と讃えているのは
宮崎の西都原や都城市、高千穂を禿げ山にし
環境破壊して移住をせざるを得なかった
神武とその取り巻き連中だwwwwwww 宮崎は投馬国だよ
問題は九州の北の邪馬台国と南の投馬国のどちらが畿内を植民地化して倭の超大国に成り上がったかだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています