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https://ja.wikipedia.org/wiki/異端審問

異端審問の歴史の中で特筆されるスペイン異端審問は中世の異端審問とはまた異なる性格を持つものである。
15世紀の終わりになって、アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイサベル1世の結婚に伴ってスペ
インに連合王国が成立した。当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ
教徒(マラノ)たちが多くいたため、国内の統一と安定において、このような人々が不安材料になると考え
た王は、教皇に対してスペイン国内での独自の異端審問機関の設置の許可を願った。これは教皇のコントロ
ールを離れた独自の異端審問であり、異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知した教皇は許可をた
めらったが、フェルナンド王は政治的恫喝によってこの許可をとりつけることに成功した。結果としてスペイ
ン異端審問は多くの処刑者を生んだことで、異端審問の負のイメージを決定付け、キリスト教の歴史に暗い影
を落とすことになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/スペイン異端審問

スペイン異端審問の変遷
1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペイン
における異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。そもそも異端審問のシステムにおい
ては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。拷問は自白を引き出すた
めに用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着
せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。異端審問を受けた被告の処罰は
しばしば都市の広場で行われた。異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を
人々に知らしめるものであった。

異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あ
るいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。裕福なフダイサンテ(スペイン語版)(隠
れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。

宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。彼らの宗
教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的
役割を負った。またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者とい
うことで釈放されることが多かった。