>>827
>悟りってのは、そもそも登らなくてはならない山なんか無かったってことに気づくことじゃね?

それを、敢えて語れる人が存在する事自体は評価しなければならない。仏教徒なら。
人間の中での言質文言という記号性は、言語コミュニケーションの機能性を完全に
構成する事は不可能。話者と受け取りての知性と知見と視座の相違があるし
また相違の存在から感情の充填を始めるという認知の歪みを持つ人がたいそう多いからね。

僕はシーシュポスを山の麓にのこそう!
日々、自分の重荷を見出し、しかし、シーシュポスは神々を否定し、岩を持ち上げるより
高次の忠実さを人に教える。
彼もまた、「全てよし!」と判断しているのだ。
頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心を満たすに十分たりるのだ。

いまやシーシュポスは、幸福なのだと思わねばならない。

(アルベール・カミュ シーシュポスの神話)より抜粋