>本音を話せないという同心にどんな発展があるというのかが想像もつきますね。

Christianityでも同じです。カトリックでも改革派でも福音派でも皆、本音を話せません。
一つだけ例を出しましょう。
4福音書の中でも寓話趣向が少ない「ルカによる福音書」を例に挙げます。(revelation of Luke)
ナザレのイエス(キリスト)は洗礼者ヨハネに会う前に故郷のナザレに戻ってきます
ナザレのイエスはユダヤ教会にてイザヤ書の朗読をさせられます。
朗読後にナザレのイエスは民衆に「今、全ては成就されました」と発言し
イエスはユダヤ教徒から袋叩きに会い故郷を去ります。

何故、イエスはこんな発言をしたのか?という行動原理について質問するのは
全ての基督者にとってタブーなんです。

信仰には必然的にタブーを付帯する状態で存在するものなのでしょうか?