データ分析の専門家である藤巻遼平氏は、33歳でNECの研究最高位である主席研究員に史上最年少で就任。18年2月、NECからの「カーブアウト」としてシリコンバレーで起業した。世界から注目される天才技術者は、なぜ就職先にNECを選び、いまも関係を続けているのか。田原総一朗が迫る――。
宇宙をやっていたのに、どうしてNECに?
【田原】お生まれはどちらですか。

【藤巻】新潟の柏崎市です。両親とも新潟の出身で、父は東京電力に勤めていて、原子力系の仕事をしていました。ただ、2〜3歳から東京に引っ越したので、育ちは東京です。

【田原】大学は東京大学の工学部。航空宇宙工学を専攻されたそうですね。航空宇宙というとロケットですか?

【藤巻】航空宇宙は大きく4つの分野があります。まずはロケットエンジンで、次は材料・材質。そして超音速流体。最後は制御。そのうち私は制御を選びました。人工衛星「おりひめ」と「ひこぼし」が世界で初めて、宇宙でのランデブードッキングに成功。それを手掛けた先生が東大にいて、制御がおもしろそうだなと。

【田原】4年で卒業したのですか。

【藤巻】大学4年のあと、修士を2年やりました。修士も宇宙ロボットの研究室。そのときに、いまの事業のベースになっている機械学習の研究を始めました。修士に進んだのは2004年で、当時は機械学習が徐々に認知されていた時期。まだいい教科書もないなかで、機械学習や人工知能(AI)を人工衛星にどう適応させるかという研究を始めました。

【田原】就職はNEC。宇宙をやっていたのに、どうしてNECに?

【藤巻】機械学習の研究を続けたかったからです。当時はすでに第二次AIブームが終わり、日本で機械学習を研究していた機関の多くがやめていました。まともに残っていたのはNECとNTT、日本IBMの3社で、そのなかで最初に内定をくれたのがNEC。それも何かの縁だと思って、そのままNECに、という流れです。

【田原】僕は1980年代の前半、パソコンが普及し始めたときにアメリカにも取材に行きました。日本からも強いメーカーがたくさん出てきましたが、なかでもNECがダントツに強かった。でも、藤巻さんが入社したころは、もうかすみ始めていた。どうして調子が悪くなったんだろう?

【藤巻】原因はいろいろと考えられますが、ビジネスのシフトがうまくできなかったことが大きかったのではないでしょうか。NECはハードウエアとSI(システムインテグレーション)に強みがありましたが、ソフトウエアとクラウドに時代がシフトしていき、その波に乗り切れなかった。ビジネスモデルの転換が遅れたのです。

【田原】ほかの日本企業もそうですよね。グーグル、アップル、アマゾン。ソフトウエアにシフトしたら、アメリカ企業ばかりになった。

【藤巻】日本はソフトウエア工学が米国より大きく遅れています。ソフトウエアは単にプログラムを書けばできるというものではなく、作り方に方法論がある。日本は、そこが弱い。

【田原】何で遅れているの?

優秀な若い人たちが集まって研究も進む
【藤巻】お金ですね。海外のソフトウエアエンジニアたちに、なぜそちらは進んでいるのかと聞くと、「給料が高いから」と言っていました。つまり、ソフトウエア産業がたくさんお金を払うから、優秀な若い人たちが集まって研究も進むわけです。

【田原】話を戻しましょう。NECではどんな研究をしていたのですか?

【藤巻】当時はデータマイニングと呼ばれていた機械学習の研究グループにいました。最初は、自動車や機械システムにつけたセンサーのデータを機械学習で分析する研究でした。

【田原】よくわからない。具体的にどういうこと?

【藤巻】たとえば自動車にいろいろなセンサーをつけてデータを収集すると、その数値から「エンジン系に故障がある」と早い段階で故障を発見したり、「そろそろ空力系に故障が発生しそうだ」と予測してメンテナンスができます。そうした分析を、機械に自動でやらせる研究です。

【田原】人間ではわからないの?

【藤巻】人間にもわかりますよ。ただ、ディーラーに行く前に先にデータを送って自動診断しておけば、行ってすぐ修理ができる。一方、人間が調べると時間がかかるし、見落としもあります。たとえば熟練の修理工なら音を聞いてエンジンの状態を把握できるかもしれませんが、みんなが優れた技術を持っているわけではありません。それを機械にやらせれば、見落としが減って技術の底上げができます。
以下ソース
https://president.jp/articles/-/29160