【急騰】今買えばいい株
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建てろよ
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」 「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。 「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。 私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人 に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」 「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。 「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの 説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理 解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。 「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやり たかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もでき ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうし
てしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでも
なく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が 書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたい
と祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父
おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければなら なかった。
父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああ
して長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙 ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった
事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。 「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかっ
た。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かい で朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろ
う」 「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれ
から仕事をしようという気が充みち満みちていた。 「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取ら
なくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後あとについて、こんな風に語り合った。
十六 父は時々囈語うわことをいうようになった。
「乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐお後あとから 」
こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めてお
きたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へや の中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼が
それを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛し
かけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があっ た。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと
優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと
丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。 「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かさ
れた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった
。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。 「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あし
だと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いか も知れず」
話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知ら
ない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍はたにい るものも助かります」といった。
父は時々眼を開けて、誰だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこに坐すわ
っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇やみ を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと
取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌が段々縺もつれて来た。何かいい出しても尻しりが不明瞭ふめいりょうに了おわるために、 要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い
声を出した。我々は固もとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならな
かった。 「頭を冷やすと好いい心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取り更かえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのう を頭の上へ載のせた。がさがさに割られて尖とがり切った氷の破片が、嚢ふくろの中で落ちつく間、私は
父の禿はげ上った額の外はずれでそれを柔らかに抑おさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはい
って来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空あいた方の左手を出して、その郵便を受け取った 私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並なみの状袋じょうぶくろにも入れてな
かった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいに糊のり で貼はり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を
返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行か
ないので、ちょっとそれを懐ふところに差し込んだ。 その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私わたくしが厠かわやへ行こうとして席を立った時、
廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍そばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、
そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたび
に首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。 「どうも色々お世話になります」
父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましば
らく病人の様子を見詰めていた。やがてその中うちの一人が立って次の間まへ出た。するとまた一人立っ た。私も三人目にとうとう席を外はずして、自分の室へやへ来た。私には先刻さっき懐ふところへ入れた
郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違い
なかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行 かなかった。私は特別の時間を偸ぬすんでそれに充あてた。
私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂さき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いた罫け
いの中へ行儀よく書いた原稿様ようのものであった。そうして封じる便宜のために、四よつ折おりに畳た たまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の
事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なく とも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるに極きまっているという予覚よ
かくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最
初の一頁ページを読んだ。その頁は下しものように綴つづられていた。 「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それ
を明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われ
てしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私 の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸いっするようになります。そうする
と、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘うそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところ
を、筆で申し上げる事にしました」 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事がで
きた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じ
ていた。しかし筆を執とることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気にな ったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづ いて後あとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立
ち上った。廊下を馳かけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が
来たのだと覚悟した。 病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを
試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起たっ
てまごまごしていた。私わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をお貸かし」といったまま、自分は席に着 いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父の尻しりの下に宛あてがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとに坐すわっていた医者は、浣腸かんちょう
の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際ぎわに、もしもの事があったらいつでも呼 んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも変へんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこし
も寛ゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るや否いなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでな らなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手を顫ふるわした。私は先生
の手紙をただ無意味に頁ページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんに枠わくの中に篏
はめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつ かなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳たたんで机の上に置こ
うとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょ う」
私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私
はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さかさに読んで行った。私は咄嗟 とっさの間あいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺
し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先
生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒さかさ まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳ん
だ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべは存外ぞんがい静かであった。頼 りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。
母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少
しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の 精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私
は突然立って帯を締め直して、袂たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。 私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二に、三日さんち保もつだろうか、そこのと
ころを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あい
にく留守であった。私には凝じっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落おち付つきもな かった。私はすぐ俥くるまを停車場ステーションへ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片かみぎれを宛あてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙は
ごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅うちへ届ける ように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切った勢いきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私
はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂たもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼
を通した。 こころ
夏目漱石
私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた 。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自 由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に 知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を 飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本 の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら 、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの 頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて 、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着 ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと 見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています