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【急騰】今買えばいい株
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0001山師さん (ワッチョイ 537c-BEZ7)
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2018/01/04(木) 13:21:18.10ID:oC1JbuKX0
建てろよ
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured
0006山師さん (ワッチョイ eb01-hL1C)
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2018/01/04(木) 14:44:25.90ID:MJPyTv1e0
SBIだろうな
ストップ高間近だが明日も間違いなく上げる
0007山師さん (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/04(木) 23:19:42.07ID:FJ8KGtbn0
伊藤園
0009山師さん (スププ Sdbf-R0o+)
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2018/01/05(金) 13:32:08.82ID:ATx3d+Fpd
6620スゲー
0010山師さん (アークセー Sxcf-WeP8)
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2018/01/05(金) 13:33:30.46ID:fY/FHUucx
私失敗しないので
0011豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/06(土) 01:40:17.88ID:QvqoAfwV0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0012山師さん (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/06(土) 21:51:31.12ID:QvqoAfwV0
レンゴー
0013豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/07(日) 22:11:57.05ID:kbz054T30
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0014山師さん (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/09(火) 01:13:59.50ID:snqdPelH0
ケンコーマヨネーズ
0015山師さん (ワッチョイ 9f87-BEZ7)
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2018/01/09(火) 03:55:04.04ID:ZA1fy8un0
5852
0017豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/10(水) 01:03:24.31ID:NsvNNri80
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0018山師さん (ワッチョイ dfe0-8avC)
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2018/01/10(水) 16:55:49.68ID:KvBQrScH0
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0019豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ ef35-WYy/)
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2018/01/10(水) 22:50:12.97ID:NsvNNri80
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0020山師さん (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/12(金) 00:13:49.74ID:1Xw/rbKR0
トクヤマ
0021山師さん (ワッチョイ 899e-adEK)
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2018/01/12(金) 13:31:40.02ID:zA6fzv+Z0
ほれ
0023豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/13(土) 00:29:45.41ID:IVZP8Cru0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0024山師さん (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/13(土) 22:52:48.79ID:IVZP8Cru0
関東電化工業
0025豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/15(月) 01:25:15.42ID:ISHCFOpZ0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0026山師さん (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/15(月) 22:12:26.01ID:ISHCFOpZ0
イオンディライト
9787 *東京 1部
0030豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 5e35-T56j)
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2018/01/17(水) 01:05:34.01ID:mMfIsHDY0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0031山師さん (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/18(木) 00:00:39.25ID:McDJg6590
鳥貴族
0033豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/19(金) 01:58:30.35ID:shvIMwae0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0035山師さん (スッップ Sd43-GXmB)
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2018/01/19(金) 07:30:46.42ID:6DY5TVr9d
悪路
0036豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/20(土) 04:27:12.39ID:wir7KWXE0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0037山師さん (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/21(日) 00:11:24.49ID:dZtQHTs80
旭化成
0039豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/22(月) 00:57:46.22ID:+pOzCDmH0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0040山師さん (アウアウウー Sad9-slth)
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2018/01/22(月) 14:45:17.75ID:z3mcXo8wa
ソニーの3分足キメ-な
0041山師さん (ワッチョイ 03e0-3Ttg)
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2018/01/22(月) 17:46:21.39ID:OdxXaIgM0
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0042豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ db35-UumK)
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2018/01/22(月) 23:11:02.48ID:+pOzCDmH0
豊和工業(6203)買ーいー(^o^)/
0044山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:07:50.04ID:CS/nVfsv0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0045山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:08:05.99ID:CS/nVfsv0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0046山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:08:21.92ID:CS/nVfsv0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0047山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:08:37.97ID:CS/nVfsv0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0048山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:08:53.81ID:CS/nVfsv0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0049山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:09:09.97ID:CS/nVfsv0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0050山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:09:25.75ID:CS/nVfsv0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0051山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:09:42.00ID:CS/nVfsv0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0052山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:09:57.95ID:CS/nVfsv0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0053山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:10:14.05ID:CS/nVfsv0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0054山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:10:30.00ID:CS/nVfsv0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0055山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:10:45.96ID:CS/nVfsv0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0057山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:11:17.82ID:CS/nVfsv0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0058山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:11:34.00ID:CS/nVfsv0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0059山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:11:49.96ID:CS/nVfsv0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0060山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:12:05.86ID:CS/nVfsv0
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
0061山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:12:21.83ID:CS/nVfsv0
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
0062山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:12:37.88ID:CS/nVfsv0
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
0063山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:12:54.02ID:CS/nVfsv0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
0064山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:13:10.10ID:CS/nVfsv0
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
0065山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:13:25.98ID:CS/nVfsv0
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
0066山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:13:41.90ID:CS/nVfsv0
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて
0067山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:13:57.85ID:CS/nVfsv0
、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ
0068山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:14:14.04ID:CS/nVfsv0
た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
0070山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:14:46.06ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
0071山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:15:02.07ID:CS/nVfsv0
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
0072山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:15:18.10ID:CS/nVfsv0
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
0073山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:15:33.91ID:CS/nVfsv0
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
0074山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:15:50.04ID:CS/nVfsv0
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
るものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山と
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
0075山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:16:06.06ID:CS/nVfsv0
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
0076山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:16:21.90ID:CS/nVfsv0
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
0077山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:16:38.13ID:CS/nVfsv0
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
0078山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:16:54.12ID:CS/nVfsv0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
0079山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:17:09.97ID:CS/nVfsv0
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
0080山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:17:26.12ID:CS/nVfsv0
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
0081山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:17:42.09ID:CS/nVfsv0
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。
0083山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:18:14.12ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
0084山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:18:30.18ID:CS/nVfsv0
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
0085山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:18:45.97ID:CS/nVfsv0
気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く
気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった
。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私
0086山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:19:02.18ID:CS/nVfsv0
は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先
生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって
、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
0087山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:19:18.24ID:CS/nVfsv0
素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったので
ある。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせと
いう警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず
0088山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:19:34.16ID:CS/nVfsv0
自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数
ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉
0089山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:19:50.16ID:CS/nVfsv0
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
0090山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:20:06.13ID:CS/nVfsv0
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
0091山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:20:22.01ID:CS/nVfsv0
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
0092山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:20:38.15ID:CS/nVfsv0
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
0093山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:20:54.16ID:CS/nVfsv0
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
やの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分
0094山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:21:10.21ID:CS/nVfsv0
になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ
出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
0096山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:21:42.18ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い
道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出
て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生
0097山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:21:58.00ID:CS/nVfsv0
」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもっ
0098山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:22:14.21ID:CS/nVfsv0
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
0099山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:22:30.18ID:CS/nVfsv0
きりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
0100山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:22:46.23ID:CS/nVfsv0
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
0101山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:23:02.18ID:CS/nVfsv0
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
0102山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:23:18.23ID:CS/nVfsv0
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
0103山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:23:34.23ID:CS/nVfsv0
いって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニー
も認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにか
0104山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:23:50.14ID:CS/nVfsv0
れこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面
目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高
0105山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:24:06.19ID:CS/nVfsv0
い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、こ
こいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ず
この木の下を通るのであった。
0106山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:24:22.26ID:CS/nVfsv0
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見て
いた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより
0107山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:24:38.23ID:CS/nVfsv0
口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行っ
た。
「すぐお宅たくへお帰りですか」
0108山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:24:54.23ID:CS/nVfsv0
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
0110山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:25:26.27ID:CS/nVfsv0
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど
歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
0111山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:25:42.96ID:CS/nVfsv0
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。
0113山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:26:14.23ID:CS/nVfsv0
 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どす
うが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり
0114山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:26:30.32ID:CS/nVfsv0
変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は
最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければ
いられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの
0115山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:26:46.32ID:CS/nVfsv0
人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証
拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自
分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人
0116山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:27:02.34ID:CS/nVfsv0
、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――
これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る
0117山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:27:18.32ID:CS/nVfsv0
事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその
曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であっ
た。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一
0118山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:27:34.29ID:CS/nVfsv0
時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎ
り暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽
きるに間まのない或ある晩の事であった。
0119山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:27:50.13ID:CS/nVfsv0
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に
想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょう
ど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かって
0120山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:28:06.16ID:CS/nVfsv0
こういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
0121山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:28:22.35ID:CS/nVfsv0
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった

「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあ
0122山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:28:38.27ID:CS/nVfsv0
すこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
0123山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:28:54.30ID:CS/nVfsv0
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
0124山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:29:10.32ID:CS/nVfsv0
「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな
0125山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:29:26.34ID:CS/nVfsv0
い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす
0127山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:29:58.36ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
0128山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:30:14.35ID:CS/nVfsv0
尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し
0129山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:30:30.36ID:CS/nVfsv0
ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。
0130山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:30:46.37ID:CS/nVfsv0
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
0131山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:31:02.37ID:CS/nVfsv0
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事
0132山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:31:18.44ID:CS/nVfsv0
を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
0133山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:31:34.39ID:CS/nVfsv0
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
0134山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:31:50.23ID:CS/nVfsv0
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押
0135山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:32:06.37ID:CS/nVfsv0
さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
0136山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:32:22.45ID:CS/nVfsv0
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
0137山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:32:38.48ID:CS/nVfsv0
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ
0138山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:32:54.42ID:CS/nVfsv0
かりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので
0139山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:33:11.45ID:CS/nVfsv0
すか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために
0140山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:33:26.44ID:CS/nVfsv0
その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。
0142山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:33:58.39ID:CS/nVfsv0
 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない
0143山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:34:14.27ID:CS/nVfsv0
ようになった。
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問
0144山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:34:30.44ID:CS/nVfsv0
だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
0145山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:34:46.30ID:CS/nVfsv0
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ
0146山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:35:02.49ID:CS/nVfsv0
、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
いという外ほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。
0147山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:35:18.54ID:CS/nVfsv0
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと
0148山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:35:34.37ID:CS/nVfsv0
先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
0149山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:35:50.29ID:CS/nVfsv0
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
0150山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:36:06.51ID:CS/nVfsv0
「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
0151山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:36:22.45ID:CS/nVfsv0
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
 先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑
0152山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:36:38.51ID:CS/nVfsv0
い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し
0153山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:36:54.40ID:CS/nVfsv0
かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
0154山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:37:10.35ID:CS/nVfsv0
「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った
0156山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:37:42.48ID:CS/nVfsv0
 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして
0157山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:37:58.48ID:CS/nVfsv0
いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな
0158山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:38:14.53ID:CS/nVfsv0
って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
ようであった。
 先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を
0159山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:38:30.50ID:CS/nVfsv0
した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が
0160山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:38:46.54ID:CS/nVfsv0
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
0161山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:39:02.33ID:CS/nVfsv0
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿
0162山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:39:18.52ID:CS/nVfsv0
へ帰った。
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下
0163山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:39:34.52ID:CS/nVfsv0
から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで
0164山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:39:50.59ID:CS/nVfsv0
飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
0165山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:40:06.58ID:CS/nVfsv0
 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
0166山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:40:22.56ID:CS/nVfsv0
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
ますか」
 私は何の答えもし得なかった。
0167山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:40:38.58ID:CS/nVfsv0
「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
0168山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:40:54.40ID:CS/nVfsv0
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです
0169山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:41:10.61ID:CS/nVfsv0
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
0171山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:41:42.37ID:CS/nVfsv0
 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。
0172山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:41:58.40ID:CS/nVfsv0
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移
0173山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:42:14.54ID:CS/nVfsv0
って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
0174山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:42:30.57ID:CS/nVfsv0
「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
た口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で
0175山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:42:46.43ID:CS/nVfsv0
分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
0176山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:43:02.41ID:CS/nVfsv0
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。
0177山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:43:18.63ID:CS/nVfsv0
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
0178山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:43:34.62ID:CS/nVfsv0
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
0179山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:43:50.49ID:CS/nVfsv0
 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人
0180山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:44:06.61ID:CS/nVfsv0
間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、
0181山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:44:22.65ID:CS/nVfsv0
それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
0182山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:44:38.46ID:CS/nVfsv0
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
0183山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:44:54.46ID:CS/nVfsv0
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
0185山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:45:26.70ID:CS/nVfsv0
 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
0186山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:45:42.62ID:CS/nVfsv0
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
0187山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:45:58.64ID:CS/nVfsv0
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
0188山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:46:14.45ID:CS/nVfsv0
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
0189山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:46:30.66ID:CS/nVfsv0
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
0190山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:46:46.72ID:CS/nVfsv0
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
0191山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:47:02.67ID:CS/nVfsv0
が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
0192山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:47:18.51ID:CS/nVfsv0
ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
0193山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:47:34.72ID:CS/nVfsv0
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
0194山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:47:50.70ID:CS/nVfsv0
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
0195山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:48:06.72ID:CS/nVfsv0
らないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
0196山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:48:22.68ID:CS/nVfsv0
にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」
0197山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:48:38.69ID:CS/nVfsv0
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
0199山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:49:10.71ID:CS/nVfsv0
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
0200山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:49:26.53ID:CS/nVfsv0
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
0201山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:49:43.43ID:CS/nVfsv0
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
0202山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:49:58.69ID:CS/nVfsv0
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな
0203山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:50:14.74ID:CS/nVfsv0
ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ
0204山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:50:30.70ID:CS/nVfsv0
た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して
0205山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:50:46.87ID:CS/nVfsv0
しまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎
0206山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:51:02.81ID:CS/nVfsv0
みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添
0207山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:51:18.71ID:CS/nVfsv0
って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
0208山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:51:34.89ID:CS/nVfsv0
「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
こう聞いた。
0211山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:52:22.67ID:CS/nVfsv0
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
0212山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:52:38.73ID:CS/nVfsv0
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
0214山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:53:10.88ID:CS/nVfsv0
 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
0215山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:53:26.73ID:CS/nVfsv0
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに
0216山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:53:42.85ID:CS/nVfsv0
恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
にもなかった。
0217山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:53:58.84ID:CS/nVfsv0
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
0218山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:54:14.70ID:CS/nVfsv0
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
0219山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:54:30.87ID:CS/nVfsv0
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
0220山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:54:46.88ID:CS/nVfsv0
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
…」
0221山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:55:02.89ID:CS/nVfsv0
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
りません」
0222山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:55:18.90ID:CS/nVfsv0
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
0223山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:55:34.74ID:CS/nVfsv0
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
0224山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:55:50.91ID:CS/nVfsv0
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
ていたのだ。私は悪い事をした」
0225山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:56:06.94ID:CS/nVfsv0
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
0226山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:56:22.93ID:CS/nVfsv0
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
0227山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:56:38.98ID:CS/nVfsv0
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
0228山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:56:54.91ID:CS/nVfsv0
 私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。

十四
0229山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:57:10.83ID:CS/nVfsv0
 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
0230山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:57:26.93ID:CS/nVfsv0
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
0231山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:57:43.00ID:CS/nVfsv0
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
0232山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:57:58.77ID:CS/nVfsv0
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
0233山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:58:14.88ID:CS/nVfsv0
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
0234山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:58:30.94ID:CS/nVfsv0
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
0235山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:58:46.99ID:CS/nVfsv0
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
0236山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:59:02.99ID:CS/nVfsv0
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
0237山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:59:19.03ID:CS/nVfsv0
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
0238山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:59:35.01ID:CS/nVfsv0
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
0239山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 00:59:50.85ID:CS/nVfsv0
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
0240山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:00:07.03ID:CS/nVfsv0
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
0241山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:00:22.86ID:CS/nVfsv0
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
0243山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:00:54.82ID:CS/nVfsv0
十五

 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
0244山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:01:10.87ID:CS/nVfsv0
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
0245山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:01:26.86ID:CS/nVfsv0
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
0246山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:01:43.07ID:CS/nVfsv0
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
0247山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:01:59.05ID:CS/nVfsv0
もその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離さ
れた他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほど
の事実が、畳み込まれているらしかった。
0248山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:02:15.05ID:CS/nVfsv0
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯
みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそ
れが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふる
0249山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:02:30.94ID:CS/nVfsv0
わせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に
起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもな
0250山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:02:46.91ID:CS/nVfsv0
った。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近
い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の
頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられ
0251山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:03:03.02ID:CS/nVfsv0
るべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが
先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のでき
0252山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:03:19.04ID:CS/nVfsv0
ない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども
私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならな
かった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
0253山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:03:35.07ID:CS/nVfsv0
 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃こ
ろは日の詰つまって行くせわしない秋に、誰も注意を惹ひかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附
近ふきんで盗難に罹かかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを
0254山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:03:50.93ID:CS/nVfsv0
持って行かれた家うちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味
をわるくした。そこへ先生がある晩家を空あけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で
地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外ほかの二、三名と共に、ある所でその友人に飯
0255山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:04:07.07ID:CS/nVfsv0
めしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私
はすぐ引き受けた。
0256山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:04:23.06ID:CS/nVfsv0
十六

 私わたくしの行ったのはまだ灯ひの点つくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生は
0257山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:04:39.12ID:CS/nVfsv0
もう宅うちにいなかった。「時間に後おくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さん
は、私を先生の書斎へ案内した。
 書斎には洋机テーブルと椅子いすの外ほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラス
0258山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:04:55.09ID:CS/nVfsv0
ごしに電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私を坐すわ
らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰
りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏かしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥
0259山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:05:11.16ID:CS/nVfsv0
さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った
角かどにあるので、棟むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領りょうしていた
。ひとしきりで奥さんの話し声が已やむと、後あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
0260山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:05:27.18ID:CS/nVfsv0
凝じっとしながら気をどこかに配った。
 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私
に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
0262山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:05:58.95ID:CS/nVfsv0
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
 奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好よくありませんね」と私がいった。
0263山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:06:15.12ID:CS/nVfsv0
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて
持って来たんですが、茶の間で宜よろしければあちらで上げますから」
 私は奥さんの後あとに尾ついて書斎を出た。茶の間には綺麗きれいな長火鉢ながひばちに鉄瓶てつびん
0264山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:06:31.17ID:CS/nVfsv0
が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんは寝ねられないといけないといって
、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
0265山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:06:47.18ID:CS/nVfsv0
「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのが嫌きらいになるようで
す」
 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風ふうも見えなかったので、私はつい大胆になっ
0267山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:07:19.12ID:CS/nVfsv0
「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
0268山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:07:35.19ID:CS/nVfsv0
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事
が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同お
んなじ理屈で」
0269山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:07:51.16ID:CS/nVfsv0
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きず
に献酬けんしゅうができると思いますわ」
0270山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:08:07.13ID:CS/nVfsv0
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なも
のではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さ
んは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
0272山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:08:39.15ID:CS/nVfsv0
 私わたくしはまだその後あとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒いたずらに議論を仕掛
ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底を
覗のぞいて黙っている私を外そらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を
0273山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:08:55.20ID:CS/nVfsv0
奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数かずを聞いた。
0274山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:09:11.28ID:CS/nVfsv0
奥さんの態度は私に媚こびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉を力つとめて打ち
消そうとする愛嬌あいきょうに充みちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
0275山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:09:27.28ID:CS/nVfsv0
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
0276山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:09:43.06ID:CS/nVfsv0
 二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした

「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるか
0277山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:09:59.23ID:CS/nVfsv0
も知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
0278山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:10:15.21ID:CS/nVfsv0
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。
私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
0279山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:10:31.24ID:CS/nVfsv0
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺
っていい質問ですから、あなたに伺います」
0280山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:10:47.24ID:CS/nVfsv0
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
0281山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:11:03.23ID:CS/nVfsv0
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを
向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃ
ない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
0282山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:11:19.04ID:CS/nVfsv0
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれ
ば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになる
ようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっ
0283山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:11:35.20ID:CS/nVfsv0
ても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いてい
られるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
0284山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:11:51.22ID:CS/nVfsv0
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう
0285山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:12:07.22ID:CS/nVfsv0
。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにん
として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。
0287山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:12:39.30ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意
に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほ
とんど使わなかった。
0288山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:12:55.36ID:CS/nVfsv0
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、
異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の
雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出
0289山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:13:11.27ID:CS/nVfsv0
ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、
その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出
なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さ
0290山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:13:27.35ID:CS/nVfsv0
んの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に
、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
0291山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:13:43.08ID:CS/nVfsv0
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
0292山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:13:59.30ID:CS/nVfsv0
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
0293山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:14:15.23ID:CS/nVfsv0
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えよ
0294山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:14:31.28ID:CS/nVfsv0
うがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分り
ゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
0295山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:14:47.26ID:CS/nVfsv0
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、
取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさ
0296山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:15:03.31ID:CS/nVfsv0
せなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
0297山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:15:19.13ID:CS/nVfsv0
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいっ
た。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
0298山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:15:35.14ID:CS/nVfsv0
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は
忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいっ
0299山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:15:51.26ID:CS/nVfsv0
て下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は
おれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなお
の事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
0301山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:16:23.29ID:CS/nVfsv0
 始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうち
に、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始め
0302山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:16:39.16ID:CS/nVfsv0
た。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに
眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった
0303山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:16:55.17ID:CS/nVfsv0
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われている
のだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、か
えってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測
0304山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:17:11.28ID:CS/nVfsv0
していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度
はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょう
あいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
0305山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:17:27.61ID:CS/nVfsv0
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかん
とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答え
0306山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:17:43.35ID:CS/nVfsv0
が何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるもの
があると信じていた。
「私には解わかりません」
0307山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:17:59.31ID:CS/nVfsv0
 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を
継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通り
0308山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:18:15.38ID:CS/nVfsv0
を奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
0309山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:18:31.33ID:CS/nVfsv0
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれる
んですが、……」
0310山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:18:47.33ID:CS/nVfsv0
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
0311山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:19:03.37ID:CS/nVfsv0
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
0312山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:19:19.33ID:CS/nVfsv0
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する
少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうし
0313山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:19:35.37ID:CS/nVfsv0
て」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って
来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれ
0314山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:19:51.34ID:CS/nVfsv0
どもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化
0315山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:20:07.39ID:CS/nVfsv0
できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断し
て頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
0317山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:20:39.34ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私に
よって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと
事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出
0318山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:20:55.37ID:CS/nVfsv0
て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆
すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、
ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋
0319山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:21:11.44ID:CS/nVfsv0
すがり付こうとした。
 十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、
前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出
0320山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:21:27.45ID:CS/nVfsv0
合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだ
けは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のう
0321山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:21:43.36ID:CS/nVfsv0
ちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変
化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手
0322山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:21:59.37ID:CS/nVfsv0
に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそ
れほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
0323山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:22:15.41ID:CS/nVfsv0
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないん
で張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気
0324山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:22:31.43ID:CS/nVfsv0
の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥
さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
0325山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:22:47.46ID:CS/nVfsv0
 私はその晩の事を記憶のうちから抽ひき抜いてここへ詳くわしく書いた。これは書くだけの必要がある
から書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰もらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を
重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の
0326山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:23:03.26ID:CS/nVfsv0
上に載のせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラ
を出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女な
んにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
0327山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:23:19.40ID:CS/nVfsv0
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅うちへ出ではいりをするついでに、衣服の
洗あらい張はりや仕立したて方かたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事の
ない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のな
0328山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:23:35.45ID:CS/nVfsv0
い奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの
薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんな地じの好いい着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪にくいのよ
0329山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:23:51.33ID:CS/nVfsv0
そりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭かげで針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。
0330山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:24:07.46ID:CS/nVfsv0
二十一

 冬が来た時、私わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中
0331山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:24:23.45ID:CS/nVfsv0
に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できる
なら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病やまいは慢
0332山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:24:39.48ID:CS/nVfsv0
性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現
に父は養生のお蔭かげ一つで、今日こんにちまでどうかこうか凌しのいで来たように客が来ると吹聴ふい
ちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機はずみに突然眩暈めまいがして
0333山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:24:55.49ID:CS/nVfsv0
引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。後
あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎
臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
0334山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:25:11.52ID:CS/nVfsv0
 冬休みが来るにはまだ少し間まがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと
思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配し
ている顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗なめた私は、とうとう帰る決心をした
0335山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:25:27.52ID:CS/nVfsv0
。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、
要いるだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎
0336山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:25:43.51ID:CS/nVfsv0
の硝子戸ガラスどから冬に入いって稀まれに見るような懐かしい和やわらかな日光が机掛つくえかけの上
に射さしていた。先生はこの日あたりの好いい室へやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸け
た金盥かなだらいから立ち上あがる湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
0337山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:25:59.50ID:CS/nVfsv0
「大病は好いいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえって厭いやなものですね」といった先生は、苦笑し
ながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
0338山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:26:15.45ID:CS/nVfsv0
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。
試みにやってご覧になるとよく解わかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹かかりたいと思ってる」
0339山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:26:31.29ID:CS/nVfsv0
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何か
0340山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:26:47.35ID:CS/nVfsv0
の抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね
」といった。
「何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
0341山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:27:03.33ID:CS/nVfsv0
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
0342山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:27:19.49ID:CS/nVfsv0
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
0343山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:27:35.50ID:CS/nVfsv0
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。
0344山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:27:51.42ID:CS/nVfsv0
二十二

 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床とこの上に胡坐あぐらをかいて、「み
0345山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:28:07.53ID:CS/nVfsv0
んなが心配するから、まあ我慢してこう凝じっとしている。なにもう起きても好いいのさ」といった。し
かしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性
ふしょうぶしょうに太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気
0346山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:28:23.54ID:CS/nVfsv0
が強くおなりなんだよ」といった。私わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなか
った。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちはは
0347山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:28:39.58ID:CS/nVfsv0
の顔を見る自由の利きかない男であった。妹は他国へ嫁とついだ。これも急場の間に合うように、おいそ
れと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしてい
る私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという
0348山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:28:55.40ID:CS/nVfsv0
事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだか
らいけない」
0349山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:29:11.38ID:CS/nVfsv0
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものよ
うな元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
0350山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:29:27.53ID:CS/nVfsv0
 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった
0351山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:29:43.58ID:CS/nVfsv0
。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格
別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待って
0352山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:29:59.62ID:CS/nVfsv0
くれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈
も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を
附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
0353山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:30:15.57ID:CS/nVfsv0
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさ
などをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
0354山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:30:31.38ID:CS/nVfsv0
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
0355山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:30:47.57ID:CS/nVfsv0
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、
驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一
本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なか
0356山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:31:03.56ID:CS/nVfsv0
ったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない
事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は
0357山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:31:19.62ID:CS/nVfsv0
今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは
出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、
0358山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:31:35.63ID:CS/nVfsv0
私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑っ
て応じなかった。
0359山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:31:51.56ID:CS/nVfsv0
二十三

 私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなの
0360山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:32:07.41ID:CS/nVfsv0
で、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛
蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方
とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという
0361山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:32:23.61ID:CS/nVfsv0
滑稽こっけいもあった。
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好
いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
0362山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:32:39.61ID:CS/nVfsv0
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要す
るに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、こ
の隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力
0363山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:32:55.61ID:CS/nVfsv0
はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の
上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを
0364山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:33:11.64ID:CS/nVfsv0
聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分
0365山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:33:27.60ID:CS/nVfsv0
らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった
。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊
興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に
0366山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:33:43.50ID:CS/nVfsv0
影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなか
に先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私に
は少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの
0367山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:33:59.60ID:CS/nVfsv0
他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのご
とくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。
0368山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:34:15.63ID:CS/nVfsv0
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも
置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろ
そろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがち
0369山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:34:31.61ID:CS/nVfsv0
になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わか
らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭にお
いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。
0370山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:34:47.62ID:CS/nVfsv0
けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。
私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠く
0371山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:35:03.64ID:CS/nVfsv0
から相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められ
なかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も
母も反対した。
0372山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:35:19.64ID:CS/nVfsv0
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。
0374山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:35:51.48ID:CS/nVfsv0
 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを
見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った
0375山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:36:07.66ID:CS/nVfsv0
。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置
いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、そ
の折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意にな
0376山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:36:23.65ID:CS/nVfsv0
ると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった
0377山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:36:39.63ID:CS/nVfsv0
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気を
つけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
0378山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:36:55.65ID:CS/nVfsv0
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに
寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいとい
0379山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:37:11.72ID:CS/nVfsv0
って、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思っ
てたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
0380山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:37:27.53ID:CS/nVfsv0
「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
0381山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:37:43.66ID:CS/nVfsv0
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかも
それがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
0382山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:37:59.69ID:CS/nVfsv0
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死に
ようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
0383山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:38:15.89ID:CS/nVfsv0
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょ
0384山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:38:31.68ID:CS/nVfsv0
う。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
0385山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:38:47.69ID:CS/nVfsv0
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬ
0386山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:39:03.76ID:CS/nVfsv0
とか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだ
わりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文
を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
0388山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:39:35.72ID:CS/nVfsv0
 その年の六月に卒業するはずの私わたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに
書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し
自分の度胸を疑うたぐった。他ほかのものはよほど前から材料を蒐あつめたり、ノートを溜ためたりして
0389山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:39:51.62ID:CS/nVfsv0
、余所目よそめにも忙いそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年
が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽たちまち動
けなくなった。今まで大きな問題を空くうに描えがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考え
0390山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:40:07.63ID:CS/nVfsv0
ていた私は、頭を抑おさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思
想を系統的に纏まとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょ
っと付け加える事にした。
0391山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:40:23.76ID:CS/nVfsv0
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を
尋ねた時、先生は好いいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛
けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与え
0392山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:40:39.74ID:CS/nVfsv0
てくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫ごうも私を指導
する任に当ろうとしなかった。
「近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好い
0393山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:40:55.61ID:CS/nVfsv0
でしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、その後ごどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなった
ようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、
0394山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:41:11.78ID:CS/nVfsv0
そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでし
0395山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:41:27.61ID:CS/nVfsv0
ょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥
0396山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:41:43.80ID:CS/nVfsv0
のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出した
ものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い
込んだのです」
0397山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:41:59.67ID:CS/nVfsv0
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私に
はそれほどの手応てごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに
帰った。
0398山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:42:15.80ID:CS/nVfsv0
 それからの私はほとんど論文に祟たたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前ぜん
に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人いちにんは締切しめきりの日に
車で事務所へ馳かけつけて漸ようやく間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後おくらして
0399山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:42:31.80ID:CS/nVfsv0
持って行ったため、危あやうく跳はね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理しても
らったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据すえた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でな
ければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。私の眼は好事家こうずかが
0400山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:42:47.78ID:CS/nVfsv0
骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々向むきを南へ更かえて行った。それが一仕切ひとしきり経たつと、桜の
噂うわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭むち
0401山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:43:03.77ID:CS/nVfsv0
うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨また
がなかった。
0402山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:43:19.83ID:CS/nVfsv0
二十六

 私わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉が霞かすむように伸び
0403山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:43:35.88ID:CS/nVfsv0
始める初夏の季節であった。私は籠かごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡し
ながら、自由に羽搏はばたきをした。私はすぐ先生の家うちへ行った。枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の
上に、萌もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔ら
0404山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:43:51.63ID:CS/nVfsv0
かそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るよ
うな珍しさを覚えた。
 先生は嬉うれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「
0405山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:44:07.83ID:CS/nVfsv0
お蔭かげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
 実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って
遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足
0406山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:44:23.81ID:CS/nVfsv0
をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。先生はいつもの調子で、「
なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足
りないというよりも、聊いささか拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、因循いんじゅん
0407山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:44:39.71ID:CS/nVfsv0
らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。私は青く蘇生よみがえろうとする
大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好いい心持です」
0408山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:44:55.65ID:CS/nVfsv0
「どこへ」
 私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴つれて郊外へ出たかった。
 一時間の後のち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛あても
0409山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:45:11.84ID:CS/nVfsv0
なく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎ
取って芝笛しばぶえを鳴らした。ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ
自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづける
0410山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:45:27.82ID:CS/nVfsv0
と、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
 やがて若葉に鎖とざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細い路みちが開ひらけ
た。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだ
0411山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:45:59.87ID:CS/nVfsv0
の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が
動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
0412山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:46:15.87ID:CS/nVfsv0
「構わないでしょう」
 二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅つつじが燃えるように咲き乱れ
ていた。先生はそのうちで樺色かばいろの丈たけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」と
0413山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:46:31.85ID:CS/nVfsv0
いった。
 芍薬しゃくやくも十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けてい
るのは一本もなかった。この芍薬畠ばたけの傍そばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字な
0414山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:46:47.86ID:CS/nVfsv0
りに寝た。私はその余った端はじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。先生は蒼あおい透すき徹と
おるような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺ながめ
ると、一々違っていた。同じ楓かえでの樹きでも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉
0416山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:47:19.89ID:CS/nVfsv0
 私わたくしはすぐその帽子を取り上げた。所々ところどころに着いている赤土を爪つめで弾はじきなが
ら先生を呼んだ。
0417山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:47:35.71ID:CS/nVfsv0
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
 身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、
0418山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:47:51.87ID:CS/nVfsv0
変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家うちには財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
0419山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:48:07.81ID:CS/nVfsv0
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
 先生が私の家いえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ
0420山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:48:23.91ID:CS/nVfsv0
先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして
遊んでいられるかを疑うたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲
0421山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:48:39.78ID:CS/nVfsv0
れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
0422山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:48:55.90ID:CS/nVfsv0
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かないは小人数こにんずであった。した
がって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私
の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰
0423山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:49:11.91ID:CS/nVfsv0
めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家う
0424山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:49:27.95ID:CS/nVfsv0
ちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえの先で
地面の上へ円のようなものを描かき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっす
0425山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:49:43.98ID:CS/nVfsv0
ぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分独ひとり言ごとのようであった。それですぐ後あとに尾ついて行き損なった私は、つ
0426山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:49:59.95ID:CS/nVfsv0
い黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも
何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他よそへ移し
0427山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:50:16.00ID:CS/nVfsv0
た。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡
0428山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:50:31.78ID:CS/nVfsv0
単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。
その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫ふるえが少しも筆の運はこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いいんでしょう」
0429山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:50:47.97ID:CS/nVfsv0
「好よければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
0430山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:51:03.95ID:CS/nVfsv0
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かん
だままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付
ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
0432山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:51:35.98ID:CS/nVfsv0
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余
計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰もらうものはちゃんと貰っておくようにしたら
どうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
0433山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:51:52.04ID:CS/nVfsv0
「ええ」
 私わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に
限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまり
0434山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:52:08.04ID:CS/nVfsv0
に実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気
に触さわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬ
0435山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:52:24.12ID:CS/nVfsv0
か分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
0436山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:52:40.03ID:CS/nVfsv0
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじや叔母おばの様子
を問いなどした。そうして最後にこういった。
0437山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:52:56.08ID:CS/nVfsv0
「みんな善いい人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
0438山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:53:12.05ID:CS/nVfsv0
 私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞ
の中うちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間
0439山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:53:28.06ID:CS/nVfsv0
が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずが
ありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという
間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
0440山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:53:43.93ID:CS/nVfsv0
 先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後うしろの
方で犬が急に吠ほえ出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
 縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍そばに、熊笹くまざさが三坪みつぼほど地を隠すよ
0441山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:54:00.13ID:CS/nVfsv0
うに茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十とおぐらい
の小供こどもが馳かけて来て犬を叱しかり付けた。小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子を被かぶったま
ま先生の前へ廻まわって礼をした。
0442山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:54:16.07ID:CS/nVfsv0
「叔父さん、はいって来る時、家うちに誰だれもいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
0443山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:54:31.94ID:CS/nVfsv0
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来ると好よかったのに」
 先生は苦笑した。懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた
0444山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:54:48.10ID:CS/nVfsv0

「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧りこうそうな眼に笑わらいを漲みなぎらして、首肯うなずいて見せた。
0445山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:55:04.11ID:CS/nVfsv0
「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の
後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方
0447山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:55:36.11ID:CS/nVfsv0
 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要
領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々うんぬんの掛念けねんはその時の私わたくしには全くな
0448山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:55:52.14ID:CS/nVfsv0
かった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地
がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないた
めでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
0449山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:56:08.10ID:CS/nVfsv0
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるとい
う言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解わからない事はなかった。しかし私は
この句についてもっと知りたかった。
0450山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:56:24.13ID:CS/nVfsv0
 犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再び故もとの静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖
とざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前
にある樹きは大概楓かえでであったが、その枝に滴したたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなっ
0451山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:56:40.11ID:CS/nVfsv0
て行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植
木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそ
うから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。
0452山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:56:56.14ID:CS/nVfsv0
「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうち
には、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝た痕あとがいっぱい着いていた。私は両手でそれ
0453山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:57:12.14ID:CS/nVfsv0
を払い落した。
「ありがとう。脂やにがこびり着いてやしませんか」
「綺麗きれいに落ちました」
0454山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:57:27.96ID:CS/nVfsv0
「この羽織はつい此間こないだ拵こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻さいに叱
しかられるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂ざかの中途にある家うちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えな
0455山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:57:43.98ID:CS/nVfsv0
かった縁えんに、お上かみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金
魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえお構かまい
申しも致しませんで」と礼を返した後あと、先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
0456山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 01:58:00.01ID:CS/nVfsv0
 門口かどぐちを出て二、三町ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰だれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれ
はどういう意味ですか」
0460山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:40:27.57ID:CS/nVfsv0
 宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来る
から」
0461山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:40:43.73ID:CS/nVfsv0
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括
くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った
0462山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:40:59.74ID:CS/nVfsv0
 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んで
くれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
0463山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:41:15.73ID:CS/nVfsv0
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってく
れながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも
0464山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:41:31.60ID:CS/nVfsv0
、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した

「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
0465山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:41:47.61ID:CS/nVfsv0
 私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう
少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
0466山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:42:03.59ID:CS/nVfsv0
 私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会
った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどうい
0467山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:42:19.73ID:CS/nVfsv0
う仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業し
てくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業
してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大
0468山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:42:35.78ID:CS/nVfsv0
きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは
余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に
取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
0469山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:42:52.10ID:CS/nVfsv0
 私は一言いちごんもなかった。詫あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分
の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その
卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚おろかものであった。私は鞄かばんの中から
0470山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:43:07.81ID:CS/nVfsv0
卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧おし潰つぶされて、元の形を
失っていた。父はそれを鄭寧ていねいに伸のした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
0471山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:43:23.77ID:CS/nVfsv0
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
 父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいる
ような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へ
0472山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:43:39.90ID:CS/nVfsv0
いぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに
任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった
。適当な位置に置かれるや否いなや、すぐ己おのれに自然な勢いきおいを得て倒れようとした。
0474山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:44:11.81ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは母を蔭かげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
0475山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:44:27.88ID:CS/nVfsv0
 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう
事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんな
に心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
0476山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:44:43.86ID:CS/nVfsv0
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいった
ものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさな
0477山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:44:59.88ID:CS/nVfsv0
いようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ
。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね
0478山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:45:15.89ID:CS/nVfsv0
 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。
「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考
えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっ
0479山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:45:31.89ID:CS/nVfsv0
ちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質につい
て、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料
に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お
0480山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:45:48.05ID:CS/nVfsv0
気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目ま
じめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょ
0481山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:46:03.87ID:CS/nVfsv0
う己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだから
ね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大
0482山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:46:20.06ID:CS/nVfsv0
変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに
免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いで
0483山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:46:35.83ID:CS/nVfsv0
のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだ
0484山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:46:51.87ID:CS/nVfsv0
がね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うち
にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この
0485山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:47:07.84ID:CS/nVfsv0
家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何
というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母
を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと
0486山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:47:23.67ID:CS/nVfsv0
いう注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
0487山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:47:39.88ID:CS/nVfsv0
が剣呑けんのんさ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと
聞いていた。
0489山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:48:11.90ID:CS/nVfsv0
 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
た。
0490山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:48:28.31ID:CS/nVfsv0
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
0491山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:48:43.96ID:CS/nVfsv0
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
0492山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:48:59.78ID:CS/nVfsv0
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
0493山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:49:15.77ID:CS/nVfsv0
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
0494山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:49:31.78ID:CS/nVfsv0
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
 父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
0495山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:49:47.76ID:CS/nVfsv0
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
0497山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:50:19.92ID:CS/nVfsv0
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
0498山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:50:35.94ID:CS/nVfsv0
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
0499山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:50:51.95ID:CS/nVfsv0
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
0500山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:51:07.84ID:CS/nVfsv0
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
0501山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:51:23.82ID:CS/nVfsv0
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
0502山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:51:39.83ID:CS/nVfsv0
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。
0504山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:52:12.06ID:CS/nVfsv0
 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
0505山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:52:28.03ID:CS/nVfsv0
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
0506山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:52:44.03ID:CS/nVfsv0
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
0507山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:53:00.80ID:CS/nVfsv0
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
0508山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:53:15.91ID:CS/nVfsv0
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
0509山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:53:32.16ID:CS/nVfsv0
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
0510山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:53:47.96ID:CS/nVfsv0
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
0511山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:54:04.13ID:CS/nVfsv0
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
0512山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:54:20.17ID:CS/nVfsv0
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
0513山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:54:36.09ID:CS/nVfsv0
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
0514山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:54:52.10ID:CS/nVfsv0
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
0515山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:55:07.92ID:CS/nVfsv0
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
0516山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:55:23.95ID:CS/nVfsv0
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
0518山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:55:56.06ID:CS/nVfsv0
 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
0519山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:56:12.14ID:CS/nVfsv0
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
0520山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:56:28.12ID:CS/nVfsv0
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
0521山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:56:44.14ID:CS/nVfsv0
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
0522山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:56:59.99ID:CS/nVfsv0
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
0523山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:57:15.98ID:CS/nVfsv0
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
0524山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:57:32.16ID:CS/nVfsv0
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
0525山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:57:47.98ID:CS/nVfsv0
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
0526山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:58:04.09ID:CS/nVfsv0
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
0527山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:58:20.16ID:CS/nVfsv0
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
0528山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:58:36.36ID:CS/nVfsv0
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
0529山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:58:52.01ID:CS/nVfsv0
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
0530山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:59:08.19ID:CS/nVfsv0
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
0531山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:59:24.17ID:CS/nVfsv0
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
あった。
0532山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:59:40.06ID:CS/nVfsv0


 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
0533山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 20:59:56.22ID:CS/nVfsv0
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
0534山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:00:12.07ID:CS/nVfsv0
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
0535山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:00:28.19ID:CS/nVfsv0
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
0536山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:00:44.25ID:CS/nVfsv0
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
0537山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:01:00.48ID:CS/nVfsv0
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
0538山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:01:16.19ID:CS/nVfsv0
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
0539山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:01:32.43ID:CS/nVfsv0
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
0540山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:01:48.27ID:CS/nVfsv0
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
0541山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:02:04.40ID:CS/nVfsv0
なかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
0542山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:02:20.25ID:CS/nVfsv0
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
0543山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:02:36.21ID:CS/nVfsv0
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
0544山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:02:52.47ID:CS/nVfsv0
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
0545山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:03:08.18ID:CS/nVfsv0
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
「ええ」
0547山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:03:40.09ID:CS/nVfsv0
 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
0548山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:03:56.52ID:CS/nVfsv0
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
0549山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:04:12.25ID:CS/nVfsv0
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
0550山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:04:28.27ID:CS/nVfsv0
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
0551山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:04:44.28ID:CS/nVfsv0
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
0552山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:05:00.29ID:CS/nVfsv0
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
0553山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:05:16.25ID:CS/nVfsv0
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
0554山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:05:32.33ID:CS/nVfsv0
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
0555山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:05:48.30ID:CS/nVfsv0
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
0556山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:06:04.33ID:CS/nVfsv0
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
0557山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:06:20.89ID:CS/nVfsv0
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
0558山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:06:36.32ID:CS/nVfsv0
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
度を弁護しなければ不安になった。
0559山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:06:52.40ID:CS/nVfsv0
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
0561山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:07:24.12ID:CS/nVfsv0
 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
0562山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:07:40.35ID:CS/nVfsv0
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
0563山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:07:56.34ID:CS/nVfsv0
たあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
0564山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:08:12.38ID:CS/nVfsv0
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
ようだね」
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
0565山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:08:28.35ID:CS/nVfsv0
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
早いだけが好よかった。
0566山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:08:44.60ID:CS/nVfsv0
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
0567山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:09:00.24ID:CS/nVfsv0
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
0568山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:09:16.41ID:CS/nVfsv0
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
0569山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:09:32.38ID:CS/nVfsv0
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
0570山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:09:48.18ID:CS/nVfsv0
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
0571山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:10:04.21ID:CS/nVfsv0
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
0572山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:10:20.39ID:CS/nVfsv0
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
0574山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:10:52.28ID:CS/nVfsv0
 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
0575山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:11:08.41ID:CS/nVfsv0
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
0576山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:11:24.54ID:CS/nVfsv0
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
した。
0577山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:11:40.42ID:CS/nVfsv0
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
0578山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:11:56.30ID:CS/nVfsv0
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
0579山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:12:12.39ID:CS/nVfsv0
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
0580山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:12:28.44ID:CS/nVfsv0
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
0581山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:12:44.46ID:CS/nVfsv0
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
0582山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:13:00.56ID:CS/nVfsv0
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
た。
0583山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:13:16.45ID:CS/nVfsv0
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
0584山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:13:32.26ID:CS/nVfsv0
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
0585山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:13:48.27ID:CS/nVfsv0
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
0586山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:14:04.27ID:CS/nVfsv0
んだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
0587山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:14:20.51ID:CS/nVfsv0
言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれ
というのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも
0589山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:14:52.48ID:CS/nVfsv0
 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あ
てで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる
0590山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:15:08.69ID:CS/nVfsv0
最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという
意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる
0591山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:15:24.54ID:CS/nVfsv0
自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛
つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは
0592山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:15:40.32ID:CS/nVfsv0
承知していて下さい」
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で
、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女
0593山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:15:56.49ID:CS/nVfsv0
を見て変な顔をした。
 父は死病に罹かかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのもの
には気が付かなかった。
0594山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:16:12.35ID:CS/nVfsv0
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何
でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
0595山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:16:28.50ID:CS/nVfsv0
 時とするとまた非常に淋さみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向
0596山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:16:44.52ID:CS/nVfsv0
かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた
先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが
死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する
0597山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:17:00.53ID:CS/nVfsv0
奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃあ
りませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで
0598山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:17:16.80ID:CS/nVfsv0
。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もな
いといっていいくらいです」
0599山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:17:32.50ID:CS/nVfsv0
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代
る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、こ
0600山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:17:48.57ID:CS/nVfsv0
の様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰る
ものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし
始めた。
0601山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:18:04.52ID:CS/nVfsv0
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじ
と相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも
立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならな
0602山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:18:20.64ID:CS/nVfsv0
いように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れな
かった。
0603山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:18:36.42ID:CS/nVfsv0
十一

 こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物
0604山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:18:52.55ID:CS/nVfsv0
を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こう
りは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は
東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一い
0605山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:19:08.45ID:CS/nVfsv0
ちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通
り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑
おさえ付けられた。
0606山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:19:24.57ID:CS/nVfsv0
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そ
うしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全
然異なった二人の面影を眺ながめた。
0607山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:19:40.40ID:CS/nVfsv0
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出し
た。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
0608山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:19:56.42ID:CS/nVfsv0
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡た
んかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
0609山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:20:12.58ID:CS/nVfsv0
「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
0610山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:20:28.64ID:CS/nVfsv0
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし
父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺
あざむいたと同じ結果に陥った。
0611山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:20:44.79ID:CS/nVfsv0
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった
。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損
0612山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:21:00.63ID:CS/nVfsv0
じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰
もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分
0613山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:21:16.63ID:CS/nVfsv0
で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです
0614山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:21:32.62ID:CS/nVfsv0

「そりゃ解わかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ほうちらかしておいて、誰が勝手に
東京へなんか行けるものかね」
0615山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:21:48.46ID:CS/nVfsv0
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした
際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあ
るごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑
0616山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:22:04.89ID:CS/nVfsv0
うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだが
ね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥た
0617山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:22:20.62ID:CS/nVfsv0
しかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
0618山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:22:36.58ID:CS/nVfsv0
十二

 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何を措おいても新聞だけに
0619山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:22:52.69ID:CS/nVfsv0
は眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も
私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
0620山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:23:08.61ID:CS/nVfsv0
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえ
た。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
0621山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:23:24.74ID:CS/nVfsv0
「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気
のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
0622山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:23:40.84ID:CS/nVfsv0
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、
調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の
0623山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:23:56.64ID:CS/nVfsv0
事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い
。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治った
ら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
0624山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:24:12.65ID:CS/nVfsv0
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
0625山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:24:28.47ID:CS/nVfsv0
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも
実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃ころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父
0626山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:24:44.64ID:CS/nVfsv0
の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へやへ持って来て、
残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なり
をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
0627山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:25:00.72ID:CS/nVfsv0
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹きや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は
一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠ほえるような所では、一通の電報すら大
事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ
0628山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:25:16.66ID:CS/nVfsv0
呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍そばに立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
0629山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:25:32.74ID:CS/nVfsv0
「きっとお頼たのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹い
もとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相
0630山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:25:48.74ID:CS/nVfsv0
談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつ
つある旨むねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をそ
の日のうちに認したためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間まの悪い
0632山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:26:20.95ID:CS/nVfsv0
 私わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろ
うと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛あてで届いた。それには来ないでもよろし
0633山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:26:36.86ID:CS/nVfsv0
いという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私
0634山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:26:52.71ID:CS/nVfsv0
もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推おしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探
してくれる」。これはあり得うべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないで
0635山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:27:08.55ID:CS/nVfsv0
すね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と
答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何
0636山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:27:24.70ID:CS/nVfsv0
の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件
について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って
0637山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:27:40.66ID:CS/nVfsv0
行った。
 父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たまま他ひとの手で始末してもらっていた。潔
癖な父は、最初の間こそ甚はなはだしくそれを忌いみ嫌ったが、身体からだが利きかないので、やむを得
0638山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:27:56.72ID:CS/nVfsv0
ずいやいや床とこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経ふる
に従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、傍はた
のものが眉まゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、
0639山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:28:12.74ID:CS/nVfsv0
極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲し
がるだけで、咽喉のどから下へはごく僅わずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなっ
た。枕まくらの傍そばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒い鞘さやに納められたままであった
0640山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:28:28.90ID:CS/nVfsv0
。子供の時分から仲の好かった作さくさんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に
来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨うらやましいね。己おれはもう駄目だめだ」
0641山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:28:44.78ID:CS/nVfsv0
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し
分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの
事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
0642山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:29:00.63ID:CS/nVfsv0
 浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭かげで大変楽
になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風ふうに機嫌が直った。傍そばに
いる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私
0643山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:29:16.96ID:CS/nVfsv0
の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の
言葉を遮さえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉うれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹いもとの夫もいった。
0644山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:29:32.86ID:CS/nVfsv0
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざ
と席を立った。
0646山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:30:04.85ID:CS/nVfsv0
 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみ
えた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
 父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむし
0647山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:30:20.56ID:CS/nVfsv0
ろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に
各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うな
るような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念の
0648山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:30:36.70ID:CS/nVfsv0
ため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかし
その母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人
のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
0649山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:30:52.97ID:CS/nVfsv0
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
0650山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:31:08.76ID:CS/nVfsv0
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
0651山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:31:24.74ID:CS/nVfsv0
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ
0652山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:31:40.81ID:CS/nVfsv0
ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
0653山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:31:56.82ID:CS/nVfsv0
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
0654山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:32:12.77ID:CS/nVfsv0
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
0655山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:32:28.76ID:CS/nVfsv0
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。
0656山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:32:45.02ID:CS/nVfsv0
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人
0657山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:33:01.00ID:CS/nVfsv0
に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
0658山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:33:16.82ID:CS/nVfsv0
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
0660山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:33:48.82ID:CS/nVfsv0
「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの
0661山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:34:04.79ID:CS/nVfsv0
説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理
0662山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:34:20.87ID:CS/nVfsv0
解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも
0663山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:34:36.85ID:CS/nVfsv0
っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
0664山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:34:52.70ID:CS/nVfsv0
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやり
0665山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:35:08.85ID:CS/nVfsv0
たかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もでき
0666山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:35:24.88ID:CS/nVfsv0
ず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうし
てしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでも
なく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が
0667山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:35:40.71ID:CS/nVfsv0
書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたい
と祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父
おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければなら
0668山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:35:56.89ID:CS/nVfsv0
なかった。
 父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああ
して長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙
0669山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:36:12.75ID:CS/nVfsv0
ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった
事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
0670山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:36:29.10ID:CS/nVfsv0
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかっ
た。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かい
0671山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:36:45.11ID:CS/nVfsv0
で朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろ
う」
0672山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:37:00.85ID:CS/nVfsv0
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれ
から仕事をしようという気が充みち満みちていた。
0673山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:37:16.92ID:CS/nVfsv0
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取ら
なくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
0675山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:37:48.95ID:CS/nVfsv0
 父は時々囈語うわことをいうようになった。
「乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐお後あとから
0676山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:38:04.82ID:CS/nVfsv0

 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めてお
きたがった。気のたしかな時は頻しきりに淋さびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室へや
0677山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:38:20.78ID:CS/nVfsv0
の中うちを見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「お光みつは」と聞いた。聞かないでも、眼が
それを物語っていた。私わたくしはよく起たって母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛し
かけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があっ
0678山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:38:36.99ID:CS/nVfsv0
た。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前まえにも色々世話になったね」などと
優やさしい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと
丈夫であった昔の父をその対照として想おもい出すらしかった。
0679山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:38:52.92ID:CS/nVfsv0
「あんな憐あわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷ひどかったんだよ」
 母は父のために箒ほうきで背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍なんべんもそれを聞かさ
れた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。
0680山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:39:08.76ID:CS/nVfsv0
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった

「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
0681山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:39:24.81ID:CS/nVfsv0
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好よし悪あし
だと考えていた。二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いか
0682山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:39:40.95ID:CS/nVfsv0
も知れず」
 話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。そのうちに昏睡こんすいが来た。例の通り何も知ら
ない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍はたにい
0683山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:39:56.96ID:CS/nVfsv0
るものも助かります」といった。
 父は時々眼を開けて、誰だれはどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻さっきまでそこに坐すわ
っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇やみ
0684山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:40:12.81ID:CS/nVfsv0
を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと
取り違えたのも無理はなかった。
 そのうち舌が段々縺もつれて来た。何かいい出しても尻しりが不明瞭ふめいりょうに了おわるために、
0685山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:40:29.20ID:CS/nVfsv0
要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い
声を出した。我々は固もとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならな
かった。
0686山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:40:44.96ID:CS/nVfsv0
「頭を冷やすと好いい心持ですか」
「うん」
 私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取り更かえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのう
0687山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:41:01.00ID:CS/nVfsv0
を頭の上へ載のせた。がさがさに割られて尖とがり切った氷の破片が、嚢ふくろの中で落ちつく間、私は
父の禿はげ上った額の外はずれでそれを柔らかに抑おさえていた。その時兄が廊下伝ろうかづたいにはい
って来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空あいた方の左手を出して、その郵便を受け取った
0688山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:41:17.64ID:CS/nVfsv0
私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並なみの状袋じょうぶくろにも入れてな
かった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいに糊のり
0689山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:41:32.94ID:CS/nVfsv0
で貼はり付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を
返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行か
ないので、ちょっとそれを懐ふところに差し込んだ。
0691山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:42:04.98ID:CS/nVfsv0
 その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私わたくしが厠かわやへ行こうとして席を立った時、
廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何すいかした。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍そばにいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
0692山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:42:20.98ID:CS/nVfsv0
 私もそう思っていた。懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、
そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたび
に首肯うなずいた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
0693山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:42:37.03ID:CS/nVfsv0
「どうも色々お世話になります」
 父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましば
らく病人の様子を見詰めていた。やがてその中うちの一人が立って次の間まへ出た。するとまた一人立っ
0694山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:42:53.57ID:CS/nVfsv0
た。私も三人目にとうとう席を外はずして、自分の室へやへ来た。私には先刻さっき懐ふところへ入れた
郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違い
なかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行
0695山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:43:09.08ID:CS/nVfsv0
かなかった。私は特別の時間を偸ぬすんでそれに充あてた。
 私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂さき破った。中から出たものは、縦横たてよこに引いた罫け
いの中へ行儀よく書いた原稿様ようのものであった。そうして封じる便宜のために、四よつ折おりに畳た
0696山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:43:25.25ID:CS/nVfsv0
たまれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
 私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の
事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なく
0697山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:43:41.20ID:CS/nVfsv0
とも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるに極きまっているという予覚よ
かくがあった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最
初の一頁ページを読んだ。その頁は下しものように綴つづられていた。
0698山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:43:56.92ID:CS/nVfsv0
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それ
を明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われ
てしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私
0699山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:44:12.86ID:CS/nVfsv0
の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸いっするようになります。そうする
と、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘うそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところ
を、筆で申し上げる事にしました」
0700山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:44:29.03ID:CS/nVfsv0
 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事がで
きた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じ
ていた。しかし筆を執とることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気にな
0701山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:44:45.07ID:CS/nVfsv0
ったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづ
0702山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:45:00.89ID:CS/nVfsv0
いて後あとを読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立
ち上った。廊下を馳かけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が
来たのだと覚悟した。
0704山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:45:33.05ID:CS/nVfsv0
 病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを
試みるところであった。看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起たっ
てまごまごしていた。私わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をお貸かし」といったまま、自分は席に着
0705山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:45:49.07ID:CS/nVfsv0
いた。私は兄に代って、油紙あぶらがみを父の尻しりの下に宛あてがったりした。
 父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元まくらもとに坐すわっていた医者は、浣腸かんちょう
の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際ぎわに、もしもの事があったらいつでも呼
0706山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:46:05.06ID:CS/nVfsv0
んでくれるようにわざわざ断っていた。
 私は今にも変へんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこし
も寛ゆっくりした気分になれなかった。机の前に坐るや否いなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでな
0707山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:46:20.93ID:CS/nVfsv0
らなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手を顫ふるわした。私は先生
の手紙をただ無意味に頁ページだけ剥繰はぐって行った。私の眼は几帳面きちょうめんに枠わくの中に篏
はめられた字画じかくを見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束おぼつ
0708山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:46:37.09ID:CS/nVfsv0
かなかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳たたんで机の上に置こ
うとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょ
0709山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:46:52.93ID:CS/nVfsv0
う」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。私
はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さかさに読んで行った。私は咄嗟
0710山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:47:09.06ID:CS/nVfsv0
とっさの間あいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺
し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先
生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒さかさ
0711山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:47:25.07ID:CS/nVfsv0
まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳ん
だ。
 私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺まくらべは存外ぞんがい静かであった。頼
0712山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:47:40.91ID:CS/nVfsv0
りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」と聞いた。
母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少
しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯うなずいた。父ははっきり「有難う」といった。父の
0713山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:47:57.11ID:CS/nVfsv0
精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。
 私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私
は突然立って帯を締め直して、袂たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。
0714山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:48:13.18ID:CS/nVfsv0
私は夢中で医者の家へ馳かけ込んだ。私は医者から父がもう二に、三日さんち保もつだろうか、そこのと
ころを判然はっきり聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は生憎あい
にく留守であった。私には凝じっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の落おち付つきもな
0715山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:48:29.13ID:CS/nVfsv0
かった。私はすぐ俥くるまを停車場ステーションへ急がせた。
 私は停車場の壁へ紙片かみぎれを宛あてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙は
ごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅うちへ届ける
0716山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 21:48:45.10ID:CS/nVfsv0
ように車夫しゃふに頼んだ。そうして思い切った勢いきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私
はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂たもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼
を通した。
0720山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:37:13.01ID:CS/nVfsv0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0721山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:37:28.91ID:CS/nVfsv0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0722山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:37:45.00ID:CS/nVfsv0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0723山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:38:01.06ID:CS/nVfsv0
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0724山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:38:16.91ID:CS/nVfsv0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0725山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:38:33.11ID:CS/nVfsv0
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
0726山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:38:48.94ID:CS/nVfsv0
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
0727山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:39:04.97ID:CS/nVfsv0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
0728山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:39:21.05ID:CS/nVfsv0
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
0729山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:39:36.98ID:CS/nVfsv0
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
0730山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:39:52.96ID:CS/nVfsv0
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0731山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:40:09.08ID:CS/nVfsv0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0733山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:40:40.98ID:CS/nVfsv0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0734山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:40:57.06ID:CS/nVfsv0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0735山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:41:13.13ID:CS/nVfsv0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0736山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:41:29.10ID:CS/nVfsv0
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
0737山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:41:45.10ID:CS/nVfsv0
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
0738山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:42:00.98ID:CS/nVfsv0
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
0739山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:42:17.07ID:CS/nVfsv0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
0740山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:42:33.13ID:CS/nVfsv0
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
0741山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:42:49.02ID:CS/nVfsv0
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
0742山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:43:05.03ID:CS/nVfsv0
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて
0743山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:43:21.03ID:CS/nVfsv0
、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ
0744山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:43:36.99ID:CS/nVfsv0
た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
0746山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:44:09.04ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
0747山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:44:25.08ID:CS/nVfsv0
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
0748山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:44:41.17ID:CS/nVfsv0
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
0749山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:44:57.08ID:CS/nVfsv0
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
0750山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:45:13.08ID:CS/nVfsv0
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
るものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山と
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
0751山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:45:29.07ID:CS/nVfsv0
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
0752山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:45:45.22ID:CS/nVfsv0
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
0753山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:46:01.05ID:CS/nVfsv0
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
0754山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:46:17.19ID:CS/nVfsv0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
0755山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:46:33.20ID:CS/nVfsv0
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
0756山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:46:49.19ID:CS/nVfsv0
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
0757山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:47:05.12ID:CS/nVfsv0
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。
0759山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:47:37.61ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
0760山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:47:53.14ID:CS/nVfsv0
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
0761山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:48:09.21ID:CS/nVfsv0
気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く
気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった
。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私
0762山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:51:05.39ID:CS/nVfsv0
は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先
生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって
、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
0763山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:51:21.54ID:CS/nVfsv0
素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったので
ある。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせと
いう警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず
0764山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:51:37.55ID:CS/nVfsv0
自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数
ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉
0765山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:51:53.54ID:CS/nVfsv0
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
0766山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:52:09.52ID:CS/nVfsv0
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
0767山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:52:25.71ID:CS/nVfsv0
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
0768山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:52:41.56ID:CS/nVfsv0
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
0769山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:52:57.60ID:CS/nVfsv0
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
やの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分
0770山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:53:13.54ID:CS/nVfsv0
になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ
出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
0772山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:53:45.60ID:CS/nVfsv0
 私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い
道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出
て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生
0773山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:54:01.52ID:CS/nVfsv0
」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもっ
0774山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:54:17.60ID:CS/nVfsv0
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
0775山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:54:33.52ID:CS/nVfsv0
きりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
0776山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:54:49.57ID:CS/nVfsv0
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
0777山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:55:05.51ID:CS/nVfsv0
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
0778山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:55:21.73ID:CS/nVfsv0
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
0779山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:55:37.64ID:CS/nVfsv0
いって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニー
も認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにか
0780山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:55:53.81ID:CS/nVfsv0
れこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面
目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高
0781山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:56:09.67ID:CS/nVfsv0
い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、こ
こいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ず
この木の下を通るのであった。
0782山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:56:25.63ID:CS/nVfsv0
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見て
いた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより
0783山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:56:41.55ID:CS/nVfsv0
口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行っ
た。
「すぐお宅たくへお帰りですか」
0784山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:56:57.67ID:CS/nVfsv0
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
0786山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:57:29.79ID:CS/nVfsv0
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど
歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
0787山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:57:45.59ID:CS/nVfsv0
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。
0789山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:58:17.62ID:CS/nVfsv0
 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どす
うが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり
0790山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:58:33.71ID:CS/nVfsv0
変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は
最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければ
いられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの
0791山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:58:49.70ID:CS/nVfsv0
人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証
拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自
分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人
0792山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:59:05.64ID:CS/nVfsv0
、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――
これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る
0793山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:59:21.62ID:CS/nVfsv0
事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその
曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であっ
た。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一
0794山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:59:37.63ID:CS/nVfsv0
時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎ
り暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽
きるに間まのない或ある晩の事であった。
0795山師さん (ワッチョイ 7594-weOF)
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2018/01/24(水) 23:59:53.61ID:CS/nVfsv0
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に
想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょう
ど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かって
0796山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:00:09.62ID:a5WqPfyW0
こういった。
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
0797山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:00:25.61ID:a5WqPfyW0
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった

「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあ
0798山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:00:41.72ID:a5WqPfyW0
すこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
0799山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:00:57.80ID:a5WqPfyW0
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
0800山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:01:13.86ID:a5WqPfyW0
「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな
0801山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:01:29.67ID:a5WqPfyW0
い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす
0803山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:02:01.73ID:a5WqPfyW0
 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
0804山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:02:18.07ID:a5WqPfyW0
尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し
0805山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:02:33.82ID:a5WqPfyW0
ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。
0806山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:02:49.73ID:a5WqPfyW0
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
0807山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:03:05.73ID:a5WqPfyW0
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事
0808山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:03:21.84ID:a5WqPfyW0
を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
0809山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:03:37.88ID:a5WqPfyW0
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
0810山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:03:53.74ID:a5WqPfyW0
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押
0811山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:04:09.77ID:a5WqPfyW0
さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
0812山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:04:25.79ID:a5WqPfyW0
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
0813山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:04:41.72ID:a5WqPfyW0
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ
0814山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:04:57.70ID:a5WqPfyW0
かりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので
0815山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:05:13.83ID:a5WqPfyW0
すか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために
0816山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:05:29.70ID:a5WqPfyW0
その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。
0818山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:06:01.72ID:a5WqPfyW0
 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない
0819山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:06:17.73ID:a5WqPfyW0
ようになった。
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問
0820山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:06:33.76ID:a5WqPfyW0
だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
0821山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:06:49.78ID:a5WqPfyW0
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ
0822山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:07:05.76ID:a5WqPfyW0
、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
いという外ほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。
0823山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:07:21.85ID:a5WqPfyW0
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと
0824山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:07:37.82ID:a5WqPfyW0
先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
0825山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:07:53.77ID:a5WqPfyW0
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
0826山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:08:09.94ID:a5WqPfyW0
「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
0827山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:08:25.95ID:a5WqPfyW0
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
 先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑
0828山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:08:41.84ID:a5WqPfyW0
い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し
0829山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:08:57.82ID:a5WqPfyW0
かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
0830山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:09:13.97ID:a5WqPfyW0
「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った
0832山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:09:45.81ID:a5WqPfyW0
 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして
0833山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:10:01.87ID:a5WqPfyW0
いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな
0834山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:10:17.80ID:a5WqPfyW0
って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
ようであった。
 先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を
0835山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:10:34.01ID:a5WqPfyW0
した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が
0836山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:10:49.89ID:a5WqPfyW0
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
0837山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:11:05.84ID:a5WqPfyW0
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿
0838山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:11:21.82ID:a5WqPfyW0
へ帰った。
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下
0839山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:11:38.24ID:a5WqPfyW0
から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで
0840山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:11:53.87ID:a5WqPfyW0
飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
0841山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:12:10.03ID:a5WqPfyW0
 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
0842山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:12:25.86ID:a5WqPfyW0
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
ますか」
 私は何の答えもし得なかった。
0843山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:12:41.87ID:a5WqPfyW0
「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
0844山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:12:57.96ID:a5WqPfyW0
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです
0845山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:13:13.90ID:a5WqPfyW0
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
0847山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:13:45.85ID:a5WqPfyW0
 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。
0848山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:14:01.96ID:a5WqPfyW0
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移
0849山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:14:17.94ID:a5WqPfyW0
って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
0850山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:14:34.02ID:a5WqPfyW0
「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
た口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で
0851山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:14:49.94ID:a5WqPfyW0
分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
0852山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:15:05.90ID:a5WqPfyW0
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。
0853山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:15:21.93ID:a5WqPfyW0
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
0854山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:15:38.07ID:a5WqPfyW0
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
0855山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:15:53.91ID:a5WqPfyW0
 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人
0856山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:16:09.91ID:a5WqPfyW0
間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、
0857山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:16:25.96ID:a5WqPfyW0
それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
0858山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:16:41.95ID:a5WqPfyW0
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
0859山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:16:57.96ID:a5WqPfyW0
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
0861山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:17:30.07ID:a5WqPfyW0
 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
0862山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:17:46.13ID:a5WqPfyW0
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
0863山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:18:02.07ID:a5WqPfyW0
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
0864山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:18:17.94ID:a5WqPfyW0
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
0865山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:18:34.70ID:a5WqPfyW0
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
0866山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:18:49.94ID:a5WqPfyW0
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
0867山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:19:05.96ID:a5WqPfyW0
が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
0868山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:19:22.06ID:a5WqPfyW0
ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
0869山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:19:38.08ID:a5WqPfyW0
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
0870山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:19:54.06ID:a5WqPfyW0
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
0871山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:20:10.01ID:a5WqPfyW0
らないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
0872山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:20:26.03ID:a5WqPfyW0
にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」
0873山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:20:42.18ID:a5WqPfyW0
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
0875山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:21:14.11ID:a5WqPfyW0
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
0876山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:21:30.03ID:a5WqPfyW0
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
0877山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:21:46.06ID:a5WqPfyW0
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
0878山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:22:02.24ID:a5WqPfyW0
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな
0879山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:22:18.07ID:a5WqPfyW0
ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ
0880山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:22:34.09ID:a5WqPfyW0
た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して
0881山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:22:50.02ID:a5WqPfyW0
しまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎
0882山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:23:06.08ID:a5WqPfyW0
みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添
0883山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:23:22.16ID:a5WqPfyW0
って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
0884山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:23:38.04ID:a5WqPfyW0
「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
こう聞いた。
0887山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:24:26.06ID:a5WqPfyW0
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」
0888山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:24:42.19ID:a5WqPfyW0
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
 私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
0890山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:25:14.18ID:a5WqPfyW0
 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
0891山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:25:30.13ID:a5WqPfyW0
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに
0892山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:25:46.10ID:a5WqPfyW0
恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
にもなかった。
0893山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:26:02.09ID:a5WqPfyW0
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
0894山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:26:18.12ID:a5WqPfyW0
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
0895山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:26:34.12ID:a5WqPfyW0
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
0896山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:26:50.15ID:a5WqPfyW0
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
…」
0897山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:27:06.23ID:a5WqPfyW0
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
りません」
0898山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:27:22.17ID:a5WqPfyW0
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
0899山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:27:38.18ID:a5WqPfyW0
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
0900山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:27:54.11ID:a5WqPfyW0
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
ていたのだ。私は悪い事をした」
0901山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:28:10.23ID:a5WqPfyW0
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
0902山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:28:26.28ID:a5WqPfyW0
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
0903山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:28:42.24ID:a5WqPfyW0
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
0904山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:28:58.17ID:a5WqPfyW0
 私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。

十四
0905山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:29:14.25ID:a5WqPfyW0
 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
0906山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:29:30.15ID:a5WqPfyW0
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
0907山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:29:46.19ID:a5WqPfyW0
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
0908山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:30:02.16ID:a5WqPfyW0
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
0909山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:30:18.20ID:a5WqPfyW0
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
0910山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:30:34.20ID:a5WqPfyW0
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
0911山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:30:50.18ID:a5WqPfyW0
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
0912山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:31:06.32ID:a5WqPfyW0
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
0913山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:31:22.30ID:a5WqPfyW0
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
0914山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:31:38.35ID:a5WqPfyW0
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
0915山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:31:54.25ID:a5WqPfyW0
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
0916山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:32:10.27ID:a5WqPfyW0
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
0917山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:32:26.26ID:a5WqPfyW0
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
0919山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:32:58.33ID:a5WqPfyW0
十五

 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
0920山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:33:14.39ID:a5WqPfyW0
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
0921山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:33:30.37ID:a5WqPfyW0
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
0922山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:33:46.26ID:a5WqPfyW0
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
0923山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:34:02.25ID:a5WqPfyW0
もその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離さ
れた他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほど
の事実が、畳み込まれているらしかった。
0924山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:34:18.41ID:a5WqPfyW0
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯
みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそ
れが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふる
0925山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:34:34.24ID:a5WqPfyW0
わせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に
起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもな
0926山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:34:50.41ID:a5WqPfyW0
った。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近
い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の
頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられ
0927山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:35:06.41ID:a5WqPfyW0
るべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが
先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のでき
0928山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:35:22.32ID:a5WqPfyW0
ない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども
私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならな
かった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
0929山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:35:38.63ID:a5WqPfyW0
 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃こ
ろは日の詰つまって行くせわしない秋に、誰も注意を惹ひかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附
近ふきんで盗難に罹かかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを
0930山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:35:54.39ID:a5WqPfyW0
持って行かれた家うちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味
をわるくした。そこへ先生がある晩家を空あけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で
地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外ほかの二、三名と共に、ある所でその友人に飯
0931山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:36:10.29ID:a5WqPfyW0
めしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私
はすぐ引き受けた。
0932山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:36:26.31ID:a5WqPfyW0
十六

 私わたくしの行ったのはまだ灯ひの点つくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生は
0933山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:36:42.38ID:a5WqPfyW0
もう宅うちにいなかった。「時間に後おくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さん
は、私を先生の書斎へ案内した。
 書斎には洋机テーブルと椅子いすの外ほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラス
0934山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:36:58.44ID:a5WqPfyW0
ごしに電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私を坐すわ
らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰
りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏かしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥
0935山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:37:14.32ID:a5WqPfyW0
さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った
角かどにあるので、棟むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領りょうしていた
。ひとしきりで奥さんの話し声が已やむと、後あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
0936山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:37:30.36ID:a5WqPfyW0
凝じっとしながら気をどこかに配った。
 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私
に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
0938山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:38:02.37ID:a5WqPfyW0
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
 奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好よくありませんね」と私がいった。
0939山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:38:18.35ID:a5WqPfyW0
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて
持って来たんですが、茶の間で宜よろしければあちらで上げますから」
 私は奥さんの後あとに尾ついて書斎を出た。茶の間には綺麗きれいな長火鉢ながひばちに鉄瓶てつびん
0940山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:38:34.41ID:a5WqPfyW0
が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんは寝ねられないといけないといって
、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
0941山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:38:50.43ID:a5WqPfyW0
「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのが嫌きらいになるようで
す」
 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風ふうも見えなかったので、私はつい大胆になっ
0943山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:39:22.37ID:a5WqPfyW0
「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
0944山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:39:38.37ID:a5WqPfyW0
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事
が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同お
んなじ理屈で」
0945山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:39:54.39ID:a5WqPfyW0
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きず
に献酬けんしゅうができると思いますわ」
0946山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:40:10.40ID:a5WqPfyW0
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なも
のではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さ
んは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
0948山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:40:42.40ID:a5WqPfyW0
 私わたくしはまだその後あとにいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒いたずらに議論を仕掛
ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底を
覗のぞいて黙っている私を外そらさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を
0949山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:40:58.44ID:a5WqPfyW0
奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数かずを聞いた。
0950山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:41:14.48ID:a5WqPfyW0
奥さんの態度は私に媚こびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉を力つとめて打ち
消そうとする愛嬌あいきょうに充みちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
0951山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:41:30.40ID:a5WqPfyW0
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
0952山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:41:46.40ID:a5WqPfyW0
 二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした

「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるか
0953山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:42:02.50ID:a5WqPfyW0
も知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
0954山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:42:18.44ID:a5WqPfyW0
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。
私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
0955山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:42:34.55ID:a5WqPfyW0
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺
っていい質問ですから、あなたに伺います」
0956山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:42:50.59ID:a5WqPfyW0
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
0957山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:43:06.43ID:a5WqPfyW0
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを
向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃ
ない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
0958山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:43:22.57ID:a5WqPfyW0
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれ
ば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになる
ようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっ
0959山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:43:38.46ID:a5WqPfyW0
ても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いてい
られるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
0960山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:43:54.42ID:a5WqPfyW0
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう
0961山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:44:10.59ID:a5WqPfyW0
。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにん
として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。
0963山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:44:42.50ID:a5WqPfyW0
 私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意
に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほ
とんど使わなかった。
0964山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:44:58.56ID:a5WqPfyW0
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、
異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の
雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出
0965山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:45:14.50ID:a5WqPfyW0
ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、
その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出
なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さ
0966山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:45:30.61ID:a5WqPfyW0
んの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に
、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
0967山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:45:46.61ID:a5WqPfyW0
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
0968山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:46:02.48ID:a5WqPfyW0
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
0969山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:46:18.56ID:a5WqPfyW0
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えよ
0970山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:46:34.46ID:a5WqPfyW0
うがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分り
ゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
0971山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:46:50.54ID:a5WqPfyW0
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、
取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさ
0972山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:47:06.56ID:a5WqPfyW0
せなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
0973山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:47:22.48ID:a5WqPfyW0
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいっ
た。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
0974山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:47:38.50ID:a5WqPfyW0
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は
忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいっ
0975山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:47:54.66ID:a5WqPfyW0
て下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は
おれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなお
の事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
0977山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:48:26.65ID:a5WqPfyW0
 始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうち
に、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始め
0978山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:48:42.63ID:a5WqPfyW0
た。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに
眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった
0979山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:48:58.54ID:a5WqPfyW0
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われている
のだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、か
えってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測
0980山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:49:14.58ID:a5WqPfyW0
していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度
はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょう
あいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
0981山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:49:30.58ID:a5WqPfyW0
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかん
とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答え
0982山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:49:46.60ID:a5WqPfyW0
が何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるもの
があると信じていた。
「私には解わかりません」
0983山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:50:02.57ID:a5WqPfyW0
 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を
継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通り
0984山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:50:18.56ID:a5WqPfyW0
を奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
0985山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:50:34.63ID:a5WqPfyW0
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれる
んですが、……」
0986山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:50:50.58ID:a5WqPfyW0
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
0987山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:51:06.71ID:a5WqPfyW0
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
0988山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:51:22.59ID:a5WqPfyW0
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する
少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうし
0989山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:51:38.66ID:a5WqPfyW0
て」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って
来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれ
0990山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:51:54.63ID:a5WqPfyW0
どもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化
0991山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:52:10.67ID:a5WqPfyW0
できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断し
て頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
0993山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:52:42.80ID:a5WqPfyW0
 私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私に
よって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと
事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出
0994山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:52:58.83ID:a5WqPfyW0
て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆
すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、
ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋
0995山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:53:14.80ID:a5WqPfyW0
すがり付こうとした。
 十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、
前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出
0996山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:53:30.72ID:a5WqPfyW0
合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだ
けは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のう
0997山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:53:46.80ID:a5WqPfyW0
ちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変
化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手
0998山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:54:02.75ID:a5WqPfyW0
に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそ
れほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
0999山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:54:18.73ID:a5WqPfyW0
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないん
で張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気
1000山師さん (ワッチョイ e394-W10G)
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2018/01/25(木) 00:54:34.75ID:a5WqPfyW0
の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥
さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
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