【急騰】今買えばいい株8230【】 [無断転載禁止]©2ch.net
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VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured すこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。 「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす こへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さいさえまだ伴れて行った事がないのです」
七 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ 尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」 「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
「邪魔だとはいいません」
なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事 を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。 「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
といった。
この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押 さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。 「ええ来ました」といって自分も笑った。
私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。 「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ かりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので すか」
ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこういって淋しい笑い方をした。 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない ようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問 だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ 、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
いという外ほかに何の感じも残っていない。
ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。 先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと 先生の間に下しものような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」 「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」 「今夜はいかがです」
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」 いや!やめて。先生は私が言うのもはばからず私の下着の仲に手を伸ばしたぎりなにか物思いにふけっていた。 「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑 い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。 「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
ようであった。
先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ 分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿 へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下 から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで 飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。 「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
ますか」
私は何の答えもし得なかった。 「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです
」 「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」 先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
十 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。 「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移 って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」 「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
た口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で 分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人 間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、 それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九 時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで 忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った
。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密 切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも 聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ 調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気 が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」 「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか らないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」 「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善 意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して しまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎 みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添 って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。 「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
こう聞いた。 「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」 私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」 「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
「そんな風ふうに聞こえましたか」 「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。 「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに 恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
にもなかった。 「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」 「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特 別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
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