【急騰】今買えばいい株7308【トランプ就任】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001山師さん 転載ダメ©2ch.net (ワッチョイ 83a8-Wk1G)
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2017/01/20(金) 12:30:30.81ID:EWYQ8Qs10
[!extend:on:vvvvv:1000:512]
実況はコチラへ
市況1板
http://hayabusa3.2ch.net/livemarket1/

・証券コード、銘柄名を併記してください。
・判断材料をできるだけ明確にお願いします。
・注目銘柄の事実に基づいた情報共有が目的なので、単なる買い煽りや自慰行為は控えてください。

*コテハンを付ける方は投資一般板やみんかぶ、ブログやツイッターを強く推奨しています。
*ブログの宣伝行為、スレの私物化は控えてください。
*コテハンなどの話は別のスレでお願いします。


●風説、店板、インサイダーなどの通報はこちら
証券取引等監視委員会 情報提供窓口 
https://www.fsa.go.jp/sesc/watch/index.html

〇2ちゃんねる初心者の方は必ず使用上のお約束をお読みください。
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0

避難所
http://jbbs.shitaraba.net/business/5380/

●次スレは原則>>700が立てること。
※スレ番が正しいか確認してから立てること
※700がスレ立てできないことが分かった時点、或いは800以降次スレがなければ有志が立てること
 (乱立防止のためスレ立て宣言推奨)
※スレタイに特定の銘柄名をつけるのはやめましょう。トラブルの原因です。
※スレタイの先頭には【急騰】を、途中には通し番号をつけるのをお忘れなく。

ワッチョイの仕様
本文の1行目に下記をコピペしたら ワッチョイになります。
!extend:on:vvvvv:1000:512
!extend:on:vvvvvの「v」の数が
5個の時はワッチョイのみ
4個の時はIP表示のみ
6個の時はワッチョイとIPが表示
メール欄に
ageteoff→スレタイの[転載禁止]を非表示
sageteoff→sage+スレタイの[転載禁止]を非表示
VIPQ2_EXTDAT: default:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured
0002山師さん (ワッチョイ f3e6-3qL8)
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2017/01/20(金) 12:31:55.61ID:EjUZ3vGk0
>>1
スレ立ておつ
0003オリコ(8585) 買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 6fd1-AVdH)
垢版 |
2017/01/22(日) 03:35:28.54ID:inJrlPHP0
オリコ(8585) 買ーいー(^o^)/
0004山師さん (ワッチョイ 6fe6-AZYz)
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2017/01/30(月) 11:18:21.93ID:G9TLdrsI0
※注意!ここはワッチョイ進行ではない自作自演ハメコミスレです。

スマホの機内モードON、OFF切り替えによる自作自演
ツールにより串やVPN噛ませた書き込みで自作自演
複数回線での自作自演

そういう事が平然と行われている修羅のスレッドです。
覚悟がない方はワッチョイスレに移行してください。
0005JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ 6fd1-SU7p)
垢版 |
2017/02/04(土) 23:38:27.19ID:uGrmc7nU0
JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/
0006山師さん (ワッチョイ cfa6-lwa1)
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2017/02/05(日) 17:14:09.61ID:GgHdzrDJ0
         ____
       /   u \
      /  \    /\    体が、、、か。。ら・・だが求める・・・・・・・・・・・・・・・
    /  し (>)  (<)\
    | ∪    (__人__)  J |
     \  u   `⌒´   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l



         ____
       /      \
      /  rデミ    \   ナンピンという麻薬を
    /     `ー′ /でン \
    |     、   .ゝ    |
     \     ヾニァ'   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l
0013山師さん (ワッチョイ 5399-V7oB)
垢版 |
2017/03/01(水) 10:23:33.00ID:ORaThOgX0
もうすぐ11時からトランプ議会演説だね
0014山師さん (ワッチョイ 0b06-YqT3)
垢版 |
2017/03/01(水) 10:23:46.61ID:2EtNpG7O0
レノバOVER 458,800
0015山師さん (ワッチョイ 0b06-YqT3)
垢版 |
2017/03/01(水) 10:24:12.88ID:2EtNpG7O0
レノバOVER 457,500
0016山師さん (ワッチョイ 5399-V7oB)
垢版 |
2017/03/01(水) 10:25:12.33ID:ORaThOgX0
トランプ議会演説、お昼またぐから下がっても決済しにくい
0019GNIマン (バッミングク MM7f-9MQs)
垢版 |
2017/03/01(水) 16:44:26.13ID:WbXDQNAaM
ワッチョイやんけ!
0020山師さん (ササクッテロラ Sp23-LqKA)
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2017/03/01(水) 16:49:47.56ID:S/GG3H+dp
JHDまたIR出たの?
0023山師さん (ワッチョイ be82-3sHt)
垢版 |
2017/04/09(日) 10:10:53.27ID:nmuwwnMr0
 潜水艦、東京五輪、リニア新幹線
0024山師さん (ワッチョイ 526b-w1AM)
垢版 |
2017/04/09(日) 14:06:35.75ID:GfPIf05Y0
金融危機と言えばオオシゲスグル
資産24億円
1552と1357で米選挙の時に3億円以上稼いだ
ツイッターで、金融危機はフランス選挙の時に発生すると警告
雑誌やテレビなどの取材を無料で受けている
0025山師さん (ワッチョイ 976a-MD3W)
垢版 |
2017/04/09(日) 14:11:15.58ID:nusvjngX0
6852テクノセブン
政府の国策の働き方改革で、時間管理のタイムレコーダーが
子会社を通じて恩恵があるので注目です。
0027山師さん (ワントンキン MM62-cFHb)
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2017/05/08(月) 16:54:20.57ID:dMdJBP8zM
27
0028山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
垢版 |
2017/05/16(火) 22:11:08.10ID:1nPZrUgf0
「綺麗きれいに落ちました」
「この羽織はつい此間こないだ拵こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻さいに叱
しかられるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂ざかの中途にある家うちの前へ来た。はいる時には誰もいる気色けしきの見えな
かった縁えんに、お上かみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金
魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」と挨拶あいさつした。お上さんは「いいえお構かまい
申しも致しませんで」と礼を返した後あと、先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。
 門口かどぐちを出て二、三町ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰だれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれ
はどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体ど
んな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風ふうに

「金かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰つまらなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜
けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後おくれがちになった。先生
はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いて立たち留どまった私の顔を見て、先生はこういった。

三十

 その時の私わたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい
事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態
度に拘泥こだわる様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行
くので、私は少し業腹ごうはらになった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮し
たのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。また的まとが外はず
れたようにも感じた。仕方がないから後あとはいわない事にした。すると先生がいきなり道の端はじへ寄
って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、裾すそをまくって小便をした。私は
先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段
々賑にぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畠はたけの斜面や平地ひらちが、全く眼に入いらな
いように左右の家並いえなみが揃そろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんど
うの蔓つるを竹にからませたり、金網かなあみで鶏にわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静に眺ながめ
られた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなく擦すれ違って行った。こんなものに始終気を奪とられがちな
私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどり
をした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです
。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、
十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
0029山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/16(火) 22:11:53.09ID:1nPZrUgf0
 奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。

三十五

 私わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。私は
ただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極きまった年数をもらって来るんだから仕方
がないわ。先生のお父とうさんやお母さんなんか、ほとんど同おんなじよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
 この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
 奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮さえぎった。
「そんな話はお止よしよ。つまらないから」
 先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静しず、おれが死んだらこの家うちをお前にやろう」
 奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他ひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆みんなお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰もらっても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
 先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった
。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわい
のない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもう好い
い加減にして、おれが死んだらは止よして頂戴ちょうだい。縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何
でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭いやがる事をいわなくなった。私もあまり長
くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事だいじに」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀もく
せいの一株ひとかぶが、私の行手ゆくてを塞ふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。私は二
、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被おおわれているその梢こずえを見て、来たるべき秋の花と香を想
おもい浮べた。私は先生の宅うちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように
、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹きの前に立って、再びこの宅の玄関を跨またぐべき次の秋に
思いを馳はせた時、今まで格子の間から射さしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥
へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃
袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑にぎやかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であ
った。用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに
会った。彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気※(
「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎ
であった。

三十六
0030山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/16(火) 22:13:41.11ID:1nPZrUgf0
ため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかし
その母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人
のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れ
た座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんより
も兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないと
いう考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っ
ているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうし
てお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うとい
って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自
分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強
しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない
私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学
にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、
兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさし
い心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人
に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高た
かの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。

十五

「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの
説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理
解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少な
くとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をも
っているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから
遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つ
まらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は
自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやり
0031山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
垢版 |
2017/05/16(火) 22:14:17.24ID:1nPZrUgf0


「私わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思う
ように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義
務を放擲ほうてきするところでした。しかしいくら止よそうと思って筆を擱おいても、何にもなりません
でした。私は一時間経たたないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行す
いこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否いなみません。私はあなたの
知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右
前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切
り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭
敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になっ
たのです。だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変厭いやな心持です。私はあな
たに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だか
ら、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも
いわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらい
なら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共に葬ほうむった方が好いいと思います。実際ここにあな
たという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはなら
ないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいの
です。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったか
ら。
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗い
ものを凝じっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫つかみなさい。私の暗いというのは
、固もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫
理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私
自身のものです。間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。だからこれから発達しようとい
うあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対す
る態度もよく解わかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決し
て尊敬を払い得うる程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の
過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私
に見せた。その極きょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれと逼
せまった。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中か
ら、或ある生きたものを捕つらまえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流
れる血潮を啜すすろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭いやであった。それで他
日たじつを約して、あなたの要求を斥しりぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血を
あなたの顔に浴あびせかけようとしているのです。私の鼓動こどうが停とまった時、あなたの胸に新しい
命が宿る事ができるなら満足です。



「私が両親を亡なくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。いつか妻さいがあなたに話し
ていたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた
通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸
ちょう窒扶斯チフスでした。それが傍そばにいて看護をした母に伝染したのです。
 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅うちには相当の財産があったので、むしろ鷹揚お
うように育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも
0032山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
垢版 |
2017/05/16(火) 22:15:35.42ID:1nPZrUgf0
の理屈はその人の前に全く用を為なさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に
近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変
に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでない
という事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしま
した。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし
愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高い端はじには神聖な感じが働いて、低い端に
は性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕つらまえたものです。私はも
とより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さ
んを考える私の心は、全く肉の臭においを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感を抱いだくと共に、子に対して恋愛の度を増まして行ったのですから、三人の関係
は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて
来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろ
うかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え
直して来たのです。その上、それが互たがい違ちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両
方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さ
んを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警
戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させた
がっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌いむのだ
と解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌きざさなかった私は、その時入いらぬ
心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。

十五

「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここの家うちで充分信用されている事を確かめま
した。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他ひとを疑うたぐり始
めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚
に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺だまされるのもここにあるのではなか
ろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていた
のだから、今考えるとおかしいのです。私は他ひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じ
ていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかった
のです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だ
けを聞こうと力つとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を
知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何
にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました
。お嬢さんは泣きました。私は話して好いい事をしたと思いました。私は嬉うれしかったのです。
 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。
それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ち
ませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って
来ました。
 私が奥さんを疑うたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行
くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意
味で、お嬢さんを私に接近させようと力つとめるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に
見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇を噛
かみました。
 奥さんは最初から、無人ぶにんで淋さむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私
0033山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:15:28.82ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
0034山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:15:46.73ID:7/Y09tcf0
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
0035山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:16:49.69ID:7/Y09tcf0
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
0036山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:20:28.83ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0037山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:20:37.69ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0038山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:21:22.50ID:7/Y09tcf0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
0039山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:37:58.94ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0040山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:38:17.18ID:7/Y09tcf0
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
0041山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:38:25.97ID:7/Y09tcf0
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。



 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
0042山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)
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2017/05/17(水) 00:39:02.06ID:7/Y09tcf0
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
0043山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:23:19.30ID:7/Y09tcf0
口いとくちにまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした

「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空からな理屈と聞こえるか
0044山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:23:35.32ID:7/Y09tcf0
も知れませんが、私はそんな上うわの空そらでいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
0045山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:23:51.35ID:7/Y09tcf0
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外ほかに仕方がないじゃありませんか。
私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
0046山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:24:07.35ID:7/Y09tcf0
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺
っていい質問ですから、あなたに伺います」
0047山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:24:23.34ID:7/Y09tcf0
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いいじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
0048山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:24:39.36ID:7/Y09tcf0
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを
向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃ
ない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
0049山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:24:55.33ID:7/Y09tcf0
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれ
ば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになる
ようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっ
0050山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:25:11.35ID:7/Y09tcf0
ても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いてい
られるんです」
「その信念が先生の心に好よく映るはずだと私は思いますが」
0051山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:25:27.37ID:7/Y09tcf0
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう
0052山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:25:43.38ID:7/Y09tcf0
。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにん
として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑のみ込めた。
0054山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:26:15.37ID:7/Y09tcf0
 私わたくしは奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意
に一種の刺戟しげきを与えた。それで奥さんはその頃ころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほ
とんど使わなかった。
0055山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:26:31.42ID:7/Y09tcf0
 私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。男としての私は、
異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の
雲を眺ながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出
0056山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:26:47.54ID:7/Y09tcf0
ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、
その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出
なかった。普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さ
0057山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:27:03.37ID:7/Y09tcf0
んの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に
、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
0058山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:27:19.52ID:7/Y09tcf0
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
0059山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:27:35.50ID:7/Y09tcf0
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間あいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
0060山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:27:51.40ID:7/Y09tcf0
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんと解わかるべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛つらいんですが、私にはどう考えても、考えよ
0061山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:28:07.44ID:7/Y09tcf0
うがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分り
ゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
0062山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:28:23.41ID:7/Y09tcf0
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、
取り合ってくれないんです」
 私は黙っていた。奥さんも言葉を途切とぎらした。下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさ
0063山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:28:39.43ID:7/Y09tcf0
せなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
0064山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:28:55.45ID:7/Y09tcf0
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいっ
た。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
0065山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:29:11.54ID:7/Y09tcf0
 奥さんは火鉢の灰を掻かき馴ならした。それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんに注さした。鉄瓶は
忽たちまち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいっ
0066山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:29:27.43ID:7/Y09tcf0
て下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は
おれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなお
の事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
0068山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:29:59.47ID:7/Y09tcf0
 始め私わたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。私がその気で話しているうち
に、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始め
0069山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:30:15.45ID:7/Y09tcf0
た。自分と夫の間には何の蟠わだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに
眼を開あけて見極みきわめようとすると、やはり何なんにもない。奥さんの苦にする要点はここにあった
0070山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:30:31.48ID:7/Y09tcf0
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われている
のだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、か
えってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭いやになったのだろうと推測
0071山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:30:47.46ID:7/Y09tcf0
していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度
はどこまでも良人おっとらしかった。親切で優しかった。疑いの塊かたまりをその日その日の情合じょう
あいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
0072山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:31:03.46ID:7/Y09tcf0
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかん
とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい」
 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答え
0073山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:31:19.48ID:7/Y09tcf0
が何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるもの
があると信じていた。
「私には解わかりません」
0074山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:31:35.48ID:7/Y09tcf0
 奥さんは予期の外はずれた時に見る憐あわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。私はすぐ私の言葉を
継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通り
0075山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:31:51.59ID:7/Y09tcf0
を奥さんに伝えるだけです。先生は嘘うそを吐つかない方かたでしょう」
 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
0076山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:32:07.48ID:7/Y09tcf0
「先生がああいう風ふうになった源因げんいんについてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれる
んですが、……」
0077山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:32:23.51ID:7/Y09tcf0
「どんな事ですか」
 奥さんはいい渋って膝ひざの上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
0078山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:32:39.49ID:7/Y09tcf0
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱しかられるから。叱られないところだけよ」
 私は緊張して唾液つばきを呑のみ込んだ。
0079山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:32:55.52ID:7/Y09tcf0
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いいお友達が一人あったのよ。その方かたがちょうど卒業する
少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうし
0080山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:33:11.51ID:7/Y09tcf0
て」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後のちなんです。先生の性質が段々変って
来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれ
0081山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:33:27.52ID:7/Y09tcf0
どもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化
0082山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:33:43.53ID:7/Y09tcf0
できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪たまらないんです。だからそこを一つあなたに判断し
て頂きたいと思うの」
 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
0084山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
垢版 |
2017/05/17(水) 22:34:15.53ID:7/Y09tcf0
 私わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私に
よって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと
事の大根おおねを攫つかんでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂ただよう薄い雲に似た疑惑から出
0085山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:34:31.53ID:7/Y09tcf0
て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆
すっかりは私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、
ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断に縋
0086山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:34:47.53ID:7/Y09tcf0
すがり付こうとした。
 十時頃ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、
前に坐すわっている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出
0087山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:35:03.56ID:7/Y09tcf0
合であい頭がしらに迎えた。私は取り残されながら、後あとから奥さんに尾ついて行った。下女げじょだ
けは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のう
0088山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:35:19.54ID:7/Y09tcf0
ちに溜たまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変
化を異常なものとして注意深く眺ながめた。もしそれが詐いつわりでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手
0089山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:35:35.56ID:7/Y09tcf0
に拵こしらえた、徒いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそ
れほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
0090山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:35:51.58ID:7/Y09tcf0
 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないん
で張合はりあいが抜けやしませんか」といった。
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰つぶさせて気
0091山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:36:07.57ID:7/Y09tcf0
の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥
さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂たもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむの小路こうじを曲折して賑にぎやかな町の方へ急いだ。
0092山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:36:23.57ID:7/Y09tcf0
 私はその晩の事を記憶のうちから抽ひき抜いてここへ詳くわしく書いた。これは書くだけの必要がある
から書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰もらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を
重く見ていなかった。私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の
0093山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:36:39.57ID:7/Y09tcf0
上に載のせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラ
を出して頬張ほおばった。そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女な
んにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
0094山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:36:55.71ID:7/Y09tcf0
 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅うちへ出ではいりをするついでに、衣服の
洗あらい張はりや仕立したて方かたなどを奥さんに頼んだ。それまで繻絆じゅばんというものを着た事の
ない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のな
0095山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:37:11.58ID:7/Y09tcf0
い奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの
薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ手織ておりね。こんな地じの好いい着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪にくいのよ
0096山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:37:27.58ID:7/Y09tcf0
そりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭かげで針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。
0097山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:37:43.61ID:7/Y09tcf0
二十一

 冬が来た時、私わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中
0098山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:37:59.61ID:7/Y09tcf0
に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できる
なら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病やまいは慢
0099山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:38:15.72ID:7/Y09tcf0
性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現
に父は養生のお蔭かげ一つで、今日こんにちまでどうかこうか凌しのいで来たように客が来ると吹聴ふい
ちょうしていた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機はずみに突然眩暈めまいがして
0100山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:38:31.61ID:7/Y09tcf0
引ッ繰り返った。家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。後
あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎
臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
0101山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:38:47.62ID:7/Y09tcf0
 冬休みが来るにはまだ少し間まがあった。私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと
思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配し
ている顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗なめた私は、とうとう帰る決心をした
0102山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:39:03.65ID:7/Y09tcf0
。国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、
要いるだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。書斎
0103山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:39:19.74ID:7/Y09tcf0
の硝子戸ガラスどから冬に入いって稀まれに見るような懐かしい和やわらかな日光が机掛つくえかけの上
に射さしていた。先生はこの日あたりの好いい室へやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸け
た金盥かなだらいから立ち上あがる湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。
0104山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:39:35.63ID:7/Y09tcf0
「大病は好いいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえって厭いやなものですね」といった先生は、苦笑し
ながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
0105山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:39:51.64ID:7/Y09tcf0
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。
試みにやってご覧になるとよく解わかります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹かかりたいと思ってる」
0106山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:40:07.65ID:7/Y09tcf0
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何か
0107山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:40:23.68ID:7/Y09tcf0
の抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね
」といった。
「何遍なんべんも卒倒したんですか」と先生が聞いた。
0108山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:40:39.76ID:7/Y09tcf0
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
0109山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:40:55.65ID:7/Y09tcf0
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いいが。――嘔気はきけはあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」
0110山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:41:11.66ID:7/Y09tcf0
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。
0111山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:41:27.64ID:7/Y09tcf0
二十二

 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床とこの上に胡坐あぐらをかいて、「み
0112山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:41:43.63ID:7/Y09tcf0
んなが心配するから、まあ我慢してこう凝じっとしている。なにもう起きても好いいのさ」といった。し
かしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性
ふしょうぶしょうに太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気
0113山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:41:59.68ID:7/Y09tcf0
が強くおなりなんだよ」といった。私わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなか
った。
 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちはは
0114山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:42:15.77ID:7/Y09tcf0
の顔を見る自由の利きかない男であった。妹は他国へ嫁とついだ。これも急場の間に合うように、おいそ
れと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしてい
る私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという
0115山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:42:31.63ID:7/Y09tcf0
事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだか
らいけない」
0116山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:42:47.68ID:7/Y09tcf0
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものよ
うな元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
0117山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:43:03.71ID:7/Y09tcf0
 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった
0118山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:43:19.69ID:7/Y09tcf0
。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格
別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待って
0119山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:43:35.70ID:7/Y09tcf0
くれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈
も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を
附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
0120山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:43:51.70ID:7/Y09tcf0
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさ
などをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
0121山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:44:07.71ID:7/Y09tcf0
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
0122山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:44:23.83ID:7/Y09tcf0
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、
驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一
本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なか
0123山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:44:39.84ID:7/Y09tcf0
ったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない
事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は
0124山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:44:55.76ID:7/Y09tcf0
今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは
出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、
0125山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:45:11.73ID:7/Y09tcf0
私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑っ
て応じなかった。
0126山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:45:27.75ID:7/Y09tcf0
二十三

 私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなの
0127山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:45:43.75ID:7/Y09tcf0
で、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛
蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方
とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという
0128山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:45:59.80ID:7/Y09tcf0
滑稽こっけいもあった。
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好
いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
0129山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:46:15.74ID:7/Y09tcf0
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要す
るに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、こ
の隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力
0130山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:46:31.86ID:7/Y09tcf0
はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の
上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを
0131山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:46:47.76ID:7/Y09tcf0
聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分
0132山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:47:03.81ID:7/Y09tcf0
らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった
。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊
興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に
0133山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:47:19.77ID:7/Y09tcf0
影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなか
に先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私に
は少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの
0134山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:47:35.78ID:7/Y09tcf0
他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのご
とくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。
0135山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:47:51.78ID:7/Y09tcf0
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも
置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろ
そろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがち
0136山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:48:07.80ID:7/Y09tcf0
になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わか
らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭にお
いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。
0137山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:48:23.80ID:7/Y09tcf0
けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。
私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠く
0138山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:48:39.93ID:7/Y09tcf0
から相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められ
なかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も
母も反対した。
0139山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:48:57.67ID:7/Y09tcf0
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。
0141山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:49:37.30ID:7/Y09tcf0
 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを
見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った
0142山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:49:53.52ID:7/Y09tcf0
。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置
いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、そ
の折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意にな
0143山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:50:09.32ID:7/Y09tcf0
ると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった
0144山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:50:25.34ID:7/Y09tcf0
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気を
つけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
0145山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:50:49.91ID:7/Y09tcf0
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに
寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいとい
0146山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:51:05.96ID:7/Y09tcf0
って、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思っ
てたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
0147山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:51:21.98ID:7/Y09tcf0
「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
0148山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:51:39.10ID:7/Y09tcf0
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかも
それがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
0149山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:51:54.00ID:7/Y09tcf0
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死に
ようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
0150山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:52:10.12ID:7/Y09tcf0
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょ
0151山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:52:26.14ID:7/Y09tcf0
う。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
0152山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:52:42.06ID:7/Y09tcf0
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬ
0153山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 22:52:58.05ID:7/Y09tcf0
とか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだ
わりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文
を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
0155山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:57:14.32ID:7/Y09tcf0
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱しかり付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
0156山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:57:44.74ID:7/Y09tcf0
たようにも感じた。仕方がないから後あとはいわない事にした。すると先生がいきなり道の端はじへ寄
って行った。そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、裾すそをまくって小便をした。私は
先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
0157山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:58:00.69ID:7/Y09tcf0
「やあ失敬」
 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段
々賑にぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畠はたけの斜面や平地ひらちが、全く眼に入いらな
0158山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:58:16.65ID:7/Y09tcf0
いように左右の家並いえなみが揃そろってきた。それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんど
うの蔓つるを竹にからませたり、金網かなあみで鶏にわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静に眺ながめ
られた。市中から帰る駄馬だばが仕切りなく擦すれ違って行った。こんなものに始終気を奪とられがちな
0159山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:58:32.66ID:7/Y09tcf0
私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻あともどり
をした時、私は実際それを忘れていた。
「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」
0160山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:58:49.03ID:7/Y09tcf0
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです
。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、
0161山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:59:04.67ID:7/Y09tcf0
十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むし
ろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私に
0162山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:59:20.77ID:7/Y09tcf0
も全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだ
かつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処とこ
ろに、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾たてを突いてみようとした私は、
0163山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:59:36.80ID:7/Y09tcf0
この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は他ひとに欺あざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私
は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否いなや許しが
0164山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)
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2017/05/17(水) 23:59:52.68ID:7/Y09tcf0
たい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負
しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないん
だから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にや
0165山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:00:08.67ID:NWShKe3u0
っているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を
覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
 私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。
0167山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:00:40.68ID:NWShKe3u0
 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅく
して、先へ進む気が起らなかったのである。
 二人は市の外はずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もな
0168山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:00:56.70ID:NWShKe3u0
く別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これか
ら六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」と
いった。私は笑って帽子を脱とった。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人
0169山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:01:12.67ID:NWShKe3u0
間を憎んでいるのだろうかと疑うたぐった。その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影は射さし
ていなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、
0170山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:01:28.72ID:NWShKe3u0
利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。先生の談話は時と
して不得要領ふとくようりょうに終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例と
して私の胸の裏うちに残った。
0171山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:01:44.70ID:NWShKe3u0
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解わかってるくせに、はっきりいってくれないの
は困ります」
0172山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:02:00.72ID:NWShKe3u0
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませ
0173山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:02:16.72ID:NWShKe3u0
んか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏まとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。
隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉ことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなる
と、それはまた別問題になります」
0174山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:02:32.74ID:NWShKe3u0
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを
切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられ
ただけで、満足はできないのです」
0175山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:02:48.71ID:NWShKe3u0
 先生はあきれたといった風ふうに、私の顔を見た。巻烟草まきタバコを持っていたその手が少し顫ふる
えた。
「あなたは大胆だ」
0176山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:03:04.73ID:NWShKe3u0
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐あばいてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響ひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐すわっている
0177山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:03:20.74ID:NWShKe3u0
のが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼あ
おかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人を疑うたぐり
0178山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:03:36.74ID:NWShKe3u0
つけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るに
はあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他ひとを信用して死にたいと思っ
ている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか
0180山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:04:08.74ID:NWShKe3u0
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その
代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ
。聞かない方が増ましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さ
0181山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:04:25.10ID:NWShKe3u0
い。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
0182山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:04:40.76ID:NWShKe3u0
三十二

 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り
0183山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:04:56.78ID:NWShKe3u0
及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にな
らぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封さ
れた自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょにな
0184山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:05:12.84ID:NWShKe3u0
った。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのように
ぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放
0185山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:05:28.76ID:NWShKe3u0
り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた
。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意
味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
0186山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:05:44.89ID:NWShKe3u0
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさん
はよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布
0187山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:06:01.06ID:NWShKe3u0
テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、
きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそ
れが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
0188山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:06:16.77ID:NWShKe3u0
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使
うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓
0189山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:06:32.80ID:NWShKe3u0
着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気に
しないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神
0190山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:06:48.81ID:NWShKe3u0
的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」と
いって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという
意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
0191山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:07:04.82ID:NWShKe3u0
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、
独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそ
0192山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:07:20.81ID:NWShKe3u0
れほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをも
っていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆
そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのう
0193山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:07:36.81ID:NWShKe3u0
ちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事がで
きなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語
っていた。
0194山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:36:11.93ID:NWShKe3u0
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
0196山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:36:43.97ID:NWShKe3u0
 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
0197山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:36:59.96ID:NWShKe3u0
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
0198山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:37:15.94ID:NWShKe3u0
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
0199山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:37:32.07ID:NWShKe3u0
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
0200山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:37:48.19ID:NWShKe3u0
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
0201山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:38:03.95ID:NWShKe3u0
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
0202山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:38:19.95ID:NWShKe3u0
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
0203山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:38:36.01ID:NWShKe3u0
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
0204山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:38:51.96ID:NWShKe3u0
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
0205山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:39:08.00ID:NWShKe3u0
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
0206山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:39:24.01ID:NWShKe3u0
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
0207山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:39:40.00ID:NWShKe3u0
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
0208山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:39:56.01ID:NWShKe3u0
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
0209山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:40:12.04ID:NWShKe3u0
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
あった。
0210山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:40:28.10ID:NWShKe3u0


 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
0211山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:40:44.15ID:NWShKe3u0
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
0212山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:41:00.03ID:NWShKe3u0
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
0213山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:41:16.02ID:NWShKe3u0
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
0214山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:41:32.01ID:NWShKe3u0
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
0215山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:41:48.01ID:NWShKe3u0
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
0216山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:42:04.04ID:NWShKe3u0
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
0217山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:42:20.14ID:NWShKe3u0
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
0218山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:42:36.00ID:NWShKe3u0
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
0219山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:42:52.06ID:NWShKe3u0
なかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
0220山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:43:08.06ID:NWShKe3u0
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
0221山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:43:24.17ID:NWShKe3u0
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
0222山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:43:40.06ID:NWShKe3u0
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
0223山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:43:56.08ID:NWShKe3u0
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
「ええ」
0225山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:44:28.21ID:NWShKe3u0
 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
0226山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:44:44.09ID:NWShKe3u0
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
0227山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:45:00.11ID:NWShKe3u0
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
0228山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:45:16.11ID:NWShKe3u0
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
0229山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:45:32.13ID:NWShKe3u0
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
0230山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:45:48.11ID:NWShKe3u0
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
0231山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:46:04.13ID:NWShKe3u0
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
0232山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:46:20.25ID:NWShKe3u0
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
0233山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:46:36.22ID:NWShKe3u0
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
0234山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:46:52.12ID:NWShKe3u0
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
0235山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:47:08.27ID:NWShKe3u0
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
0236山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:47:24.24ID:NWShKe3u0
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
度を弁護しなければ不安になった。
0237山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:47:40.14ID:NWShKe3u0
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
0239山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:48:12.25ID:NWShKe3u0
 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
0240山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:48:28.27ID:NWShKe3u0
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
0241山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:48:44.16ID:NWShKe3u0
たあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
0242山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:49:00.17ID:NWShKe3u0
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
ようだね」
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
0243山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:49:16.25ID:NWShKe3u0
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
早いだけが好よかった。
0244山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:49:32.16ID:NWShKe3u0
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
0245山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:49:48.17ID:NWShKe3u0
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
0246山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:50:04.19ID:NWShKe3u0
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
0247山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:50:20.35ID:NWShKe3u0
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
0248山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:50:36.21ID:NWShKe3u0
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
0249山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:50:52.25ID:NWShKe3u0
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
0250山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:51:08.25ID:NWShKe3u0
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
0252山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:51:40.29ID:NWShKe3u0
 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
0253山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:51:56.29ID:NWShKe3u0
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
0254山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:52:12.29ID:NWShKe3u0
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
した。
0255山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:52:28.49ID:NWShKe3u0
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
0256山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:52:44.31ID:NWShKe3u0
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
0257山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:53:00.32ID:NWShKe3u0
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
0258山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:53:16.35ID:NWShKe3u0
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
0259山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:53:32.33ID:NWShKe3u0
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
0260山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:53:48.46ID:NWShKe3u0
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
た。
0261山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:54:04.40ID:NWShKe3u0
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
0262山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:54:20.46ID:NWShKe3u0
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
0263山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:54:36.34ID:NWShKe3u0
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
0264山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 00:54:52.36ID:NWShKe3u0
んだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
0265山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:00:49.84ID:NWShKe3u0
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ
付かなくなりました。自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれ
ました。要するに奥さん始め家うちのものが、僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合
0266山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:01:05.13ID:NWShKe3u0

。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな
0267山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:01:21.28ID:NWShKe3u0
った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
0268山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:01:37.18ID:NWShKe3u0
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私
0269山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
垢版 |
2017/05/18(木) 07:01:53.19ID:NWShKe3u0
も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には
0270山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:02:09.23ID:NWShKe3u0
、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた
0271山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:02:25.21ID:NWShKe3u0
のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです
0272山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:02:41.31ID:NWShKe3u0
。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうな
るか分らないという気になりました。
0274山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:03:13.20ID:NWShKe3u0
「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちは
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
0275山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:03:29.21ID:NWShKe3u0
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け
0276山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:03:45.22ID:NWShKe3u0
れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
会を得ませんでした。
0277山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:04:01.24ID:NWShKe3u0
 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ
0278山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:04:17.22ID:NWShKe3u0
の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
0279山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:04:33.26ID:NWShKe3u0
 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
0280山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:04:49.36ID:NWShKe3u0
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
0281山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:05:05.23ID:NWShKe3u0
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
0282山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:05:21.26ID:NWShKe3u0
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
0283山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:05:37.39ID:NWShKe3u0
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
0284山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:05:53.26ID:NWShKe3u0
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
0285山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:06:09.37ID:NWShKe3u0
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
ができるからです。
0287山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:06:41.41ID:NWShKe3u0
「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか
0288山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:06:57.31ID:NWShKe3u0
。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
0289山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:07:13.29ID:NWShKe3u0
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
0290山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:07:29.30ID:NWShKe3u0
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
0291山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:07:45.32ID:NWShKe3u0
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
0292山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:08:01.29ID:NWShKe3u0
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
0293山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:08:17.31ID:NWShKe3u0
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
0294山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:08:33.33ID:NWShKe3u0
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
0295山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:08:49.34ID:NWShKe3u0
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
0296山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:09:05.32ID:NWShKe3u0
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。
0297山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:09:21.35ID:NWShKe3u0
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
0298山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:09:37.32ID:NWShKe3u0
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
0299山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:09:53.35ID:NWShKe3u0
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
生生活が私を思いも寄らない境遇に陥おとし入れたのです。
0300山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:10:09.33ID:NWShKe3u0


「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
0301山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:10:25.35ID:NWShKe3u0
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
0302山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:10:41.36ID:NWShKe3u0
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
0303山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:10:57.37ID:NWShKe3u0
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
0304山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:11:13.38ID:NWShKe3u0
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
0305山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:11:29.36ID:NWShKe3u0
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
0306山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:11:45.41ID:NWShKe3u0
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
0307山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:12:01.40ID:NWShKe3u0
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
0308山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:12:17.52ID:NWShKe3u0
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
0309山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:12:33.40ID:NWShKe3u0
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
0310山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:12:49.39ID:NWShKe3u0
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
0311山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:13:05.41ID:NWShKe3u0
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
0312山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:13:21.41ID:NWShKe3u0
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
0313山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:13:37.43ID:NWShKe3u0
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
と疑いもしました。
0314山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:13:53.42ID:NWShKe3u0
十一

「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
0315山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:14:09.40ID:NWShKe3u0
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
0316山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:14:25.43ID:NWShKe3u0
ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
0317山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:14:41.44ID:NWShKe3u0
がよく差しました。
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
0318山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:14:57.43ID:NWShKe3u0
唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに
0319山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:15:13.46ID:NWShKe3u0
されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ
0320山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:15:29.45ID:NWShKe3u0
た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった
0321山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:15:45.44ID:NWShKe3u0
のでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を
0322山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:16:01.44ID:NWShKe3u0
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
0323山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:16:17.47ID:NWShKe3u0
いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして
0324山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:16:33.46ID:NWShKe3u0
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
0325山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:16:49.51ID:NWShKe3u0
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
0326山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:17:05.49ID:NWShKe3u0
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨うまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
0327山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:17:21.48ID:NWShKe3u0
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
0328山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:17:37.49ID:NWShKe3u0
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花を眺ながめては、まずそうな琴の音ねに耳を傾けました。
0329山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:17:53.49ID:NWShKe3u0
十二

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと
0330山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:18:09.51ID:NWShKe3u0
いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする
0331山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:18:25.51ID:NWShKe3u0
と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。
0332山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:18:41.49ID:NWShKe3u0
金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。
 私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛くつろぎを与える事ができませ
0333山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:18:57.62ID:NWShKe3u0
んでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。不思議にも
よく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家うちのものの
様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐すわっていました。時々は彼らに対して気の毒だ
0334山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:19:13.53ID:NWShKe3u0
と思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注そそいでいたのです。おれは物を偸ぬすまない巾着切き
んちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭いやになる事さえあったのです。
 あなたは定さだめて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢じょうさんをどうして好すく余裕をもって
0335山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:19:29.51ID:NWShKe3u0
いるか。そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうして嬉うれしがって眺ながめる余裕があるか。同じ
く下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であ
ったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外ほかに仕方がないのです。解釈は頭のある
0336山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:19:45.54ID:NWShKe3u0
あなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑うたぐ
ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、
また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
0337山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:20:01.53ID:NWShKe3u0
 私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんとい
います。奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。それから勉強家だとも褒ほめてくれま
した。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
0338山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:20:17.54ID:NWShKe3u0
気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解わかりませんが、何しろそこにはまるで注
意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうような方かただといって
、さも尊敬したらしい口の利きき方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言
0339山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:20:33.54ID:NWShKe3u0
葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面
目まじめに説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅うちへ置くつもりではなかったらしい
のです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼ん
0340山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:20:49.53ID:NWShKe3u0
でいたらしいのです。俸給が豊ゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だ
からという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸
に描えがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒ほめるのです。なるほど
0341山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:21:05.57ID:NWShKe3u0
そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれ
は気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥
さんはまた女だけにそれを私の全体に推おし広げて、同じ言葉を応用しようと力つとめるのです。
0343山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:21:37.56ID:NWShKe3u0
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ
付かなくなりました。自分の心が自分の坐すわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれ
ました。要するに奥さん始め家うちのものが、僻ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合
0344山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:21:53.58ID:NWShKe3u0
わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないた
めに段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風ふうに取り扱ってくれたものとも思われますし
0345山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:22:09.59ID:NWShKe3u0
、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。私のこせつき
方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化
ごまかされていたのかも解わかりません。
0346山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:22:25.56ID:NWShKe3u0
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談じょう
だんをいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室へやへ呼ばれる日もありました。また私
の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖ふえた
0347山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:22:41.61ID:NWShKe3u0
ように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰つぶされる事も何度となくありました。不思議に
も、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人ひまじんでした。
お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがま
0348山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:22:57.60ID:NWShKe3u0
た案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっ
しょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室へやの前に立つ事
0349山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:23:13.58ID:NWShKe3u0
もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖ふすまの影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そ
こへ来てちょっと留とまります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵む
ずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍はたで見たらさぞ勉強家のように見え
0350山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:23:29.63ID:NWShKe3u0
たのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁ページの上
に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと
、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強です
0351山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:23:45.72ID:NWShKe3u0
か」と聞くのです。
 お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さ
んの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子
0352山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:24:01.62ID:NWShKe3u0
二人が往いったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはい
んなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事があり
ませんでした。
0353山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:24:17.64ID:NWShKe3u0
 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐すわって話し込むような場合
もその内うちに出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒おかされて来るのです。そうして
若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわ
0354山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:24:33.64ID:NWShKe3u0
そわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はか
えって平気でした。これが琴を浚さらうのに声さえ碌ろくに出せなかった[#「出せなかった」は底本で
は「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので
0355山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:24:49.59ID:NWShKe3u0
、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。そ
れでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解わかっていました。よく解
るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。
0357山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:25:21.64ID:NWShKe3u0
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた
済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見た
らなおそう見えるでしょう。しかしその頃ころの私たちは大抵そんなものだったのです。
0358山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:25:37.66ID:NWShKe3u0
 奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。たまに宅うちを留守にする時でも、お嬢さんと
私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らな
いのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能よく観察していると、何だか自分の娘と私と
0359山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:25:53.63ID:NWShKe3u0
を接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或ある場合には、私に対して暗あんに警戒
するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明
0360山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:26:09.67ID:NWShKe3u0
らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父おじに欺あざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏
み込んだ疑いを挟さしはさまずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、ど
っちかが偽いつわりだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、
0361山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:26:25.64ID:NWShKe3u0
何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑のみ込めなかったのです。理由わけを考え出そうとしても
、考え出せない私は、罪を女という一字に塗なすり付けて我慢した事もありました。必竟ひっきょう女だ
からああなのだ、女というものはどうせ愚ぐなものだ。私の考えは行き詰つまればいつでもここへ落ちて
0362山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:26:41.68ID:NWShKe3u0
来ました。
 それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私
の理屈はその人の前に全く用を為なさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に
0363山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:26:57.66ID:NWShKe3u0
近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変
に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでない
という事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしま
0364山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:27:13.68ID:NWShKe3u0
した。お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし
愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高い端はじには神聖な感じが働いて、低い端に
は性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕つらまえたものです。私はも
0365山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:27:29.76ID:NWShKe3u0
とより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さ
んを考える私の心は、全く肉の臭においを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感を抱いだくと共に、子に対して恋愛の度を増まして行ったのですから、三人の関係
0366山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:27:45.68ID:NWShKe3u0
は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて
来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろ
うかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え
0367山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:28:01.69ID:NWShKe3u0
直して来たのです。その上、それが互たがい違ちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両
方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さ
んを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警
0368山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:28:17.70ID:NWShKe3u0
戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させた
がっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌いむのだ
と解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌きざさなかった私は、その時入いらぬ
0370山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:28:49.70ID:NWShKe3u0
「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここの家うちで充分信用されている事を確かめま
した。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他ひとを疑うたぐり始
0371山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:29:05.69ID:NWShKe3u0
めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚
に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺だまされるのもここにあるのではなか
ろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていた
0372山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:29:21.80ID:NWShKe3u0
のだから、今考えるとおかしいのです。私は他ひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じ
ていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかった
0373山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:29:37.70ID:NWShKe3u0
のです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だ
けを聞こうと力つとめました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を
知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何
0374山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:29:53.83ID:NWShKe3u0
にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました
。お嬢さんは泣きました。私は話して好いい事をしたと思いました。私は嬉うれしかったのです。
 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。
0375山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:30:09.72ID:NWShKe3u0
それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ち
ませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って
来ました。
0376山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:30:25.72ID:NWShKe3u0
 私が奥さんを疑うたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。しかしその些細な事を重ねて行
くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意
味で、お嬢さんを私に接近させようと力つとめるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に
0377山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:30:41.70ID:NWShKe3u0
見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々にがにがしい唇を噛
かみました。
 奥さんは最初から、無人ぶにんで淋さむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私
0378山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:30:57.75ID:NWShKe3u0
もそれを嘘うそとは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後あとでも、そこに間違ま
ちがいはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊ゆたかだというほどではありませ
んでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかった
0379山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:31:13.73ID:NWShKe3u0
のです。
 私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に
対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。馬鹿だ
0380山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:31:29.77ID:NWShKe3u0
なといって、自分を罵ののしった事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦
痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうか
という疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろう
0381山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:31:45.76ID:NWShKe3u0
と思うと、私は急に苦しくって堪たまらなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような
行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だ
から私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像
0383山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:32:17.77ID:NWShKe3u0
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持
がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸しみ渡らないうちに烟けむのご
0384山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:32:33.86ID:NWShKe3u0
とく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想めいそうに
耽ふけってでもいるかのように、他たの友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。
都合の好いい仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合しあわせとして喜びました。それでも時々は気
0385山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:32:49.89ID:NWShKe3u0
が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥はしゃぎ廻まわって彼らを驚かした事もあります。
 私の宿は人出入ひとでいりの少ない家うちでした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達
がときたま遊びに来る事はありましたが、極きわめて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないよう
0386山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:33:05.76ID:NWShKe3u0
な話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きません
でした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅うちの人に気兼き
がねをするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人あるじのよ
0387山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:33:21.80ID:NWShKe3u0
うなもので、肝心かんじんのお嬢さんがかえって食客いそうろうの位地いちにいたと同じ事です。
 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうで
もよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室へやで、突然男の声が聞こえる
0388山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:33:37.86ID:NWShKe3u0
のです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らない
のです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮こうふんを与えるのです。私は坐す
わっていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろう
0389山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:33:53.80ID:NWShKe3u0
かとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐ってい
てそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、起たって行って障子しょうじを開けて見る訳
にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰
0390山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:34:09.79ID:NWShKe3u0
った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした
。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮ついきゅうする勇気をもっていなかったので
す。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から
0391山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:34:25.82ID:NWShKe3u0
来た自尊心と、現にその自尊心を裏切うらぎりしている物欲しそうな顔付かおつきとを同時に彼らの前に
示すのです。彼らは笑いました。それが嘲笑ちょうしょうの意味でなくって、好意から来たものか、また
好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出みいだし得ないほど落付おちつきを失って
0392山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:34:41.79ID:NWShKe3u0
しまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろう
かと、何遍なんべんも心のうちで繰り返すのです。
 私は自由な身体からだでした。たとい学校を中途で已やめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、
0393山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:34:57.82ID:NWShKe3u0
あるいはどこの何者と結婚しようが、誰だれとも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切
って奥さんにお嬢さんを貰もらい受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくあ
りました。けれどもそのたびごとに私は躊躇ちゅうちょして、口へはとうとう出さずにしまったのです。
0394山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:35:13.81ID:NWShKe3u0
断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれ
ども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですか
ら、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は誘おびき寄せられるのが厭いやでした。他ひと
0395山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:35:29.83ID:NWShKe3u0
の手に乗るのは何よりも業腹ごうはらでした。叔父おじに欺だまされた私は、これから先どんな事があっ
ても、人には欺されまいと決心したのです。
0396山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:35:45.86ID:NWShKe3u0
十七

「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵こしらえろといいました。私は実際田舎いなかで
0397山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:36:01.84ID:NWShKe3u0
織った木綿もめんものしかもっていなかったのです。その頃ころの学生は絹いとの入はいった着物を肌に
着けませんでした。私の友達に横浜よこはまの商人あきんどか何なにかで、宅うちはなかなか派出はでに
暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重はぶたえの胴着どうぎが配達で届いた事があります
0398山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:36:17.96ID:NWShKe3u0
。すると皆みんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角せっかく
の胴着を行李こうりの底へ放ほうり込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと
着せました。すると運悪くその胴着に蝨しらみがたかりました。友達はちょうど幸さいわいとでも思った
0399山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:36:33.85ID:NWShKe3u0
のでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津ねづの大きな泥溝どぶの中へ棄
すててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作しょさを
眺ながめていましたが、私の胸のどこにも勿体もったいないという気は少しも起りませんでした。
0400山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:36:49.84ID:NWShKe3u0
 その頃から見ると私も大分だいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行よそゆきの着物を
拵えるというほどの分別ふんべつは出なかったのです。私は卒業して髯ひげを生やす時代が来なければ、
服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は要い
0401山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:37:05.85ID:NWShKe3u0
るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読
むのかと聞くのです。私の買うものの中うちには字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありなが
ら、頁ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないも
0402山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:37:21.87ID:NWShKe3u0
のを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口
実の下もとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物たんものを買ってやりたかったのです。それで万事を
奥さんに依頼しました。
0403山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:37:37.85ID:NWShKe3u0
 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かな
くてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若
い女などといっしょに歩き廻まわる習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の
0404山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:37:53.87ID:NWShKe3u0
奴隷でしたから、多少躊躇ちゅうちょしましたが、思い切って出掛けました。
 お嬢さんは大層着飾っていました。地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだ
からなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視
0405山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:38:09.99ID:NWShKe3u0
線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
 三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったよ
り暇ひまがかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物た
0406山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:38:25.88ID:NWShKe3u0
んものをお嬢さんの肩から胸へ竪たてに宛あてておいて、私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろという
のです。私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞
きました。
0407山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:38:41.90ID:NWShKe3u0
 こんな事で時間が掛かかって帰りは夕飯ゆうめしの時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何か
ご馳走ちそうするといって、木原店きはらだなという寄席よせのある狭い横丁よこちょうへ私を連れ込み
ました。横丁も狭いが、飯を食わせる家うちも狭いものでした。この辺へんの地理を一向いっこう心得な
0408山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:38:57.87ID:NWShKe3u0
い私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
 我々は夜よに入いって家うちへ帰りました。その翌日あくるひは日曜でしたから、私は終日室へやの中
うちに閉じ籠こもっていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調
0409山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:39:13.90ID:NWShKe3u0
戯からかわれました。いつ妻さいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君
さいくんは非常に美人だといって賞ほめるのです。私は三人連づれで日本橋へ出掛けたところを、その男
にどこかで見られたものとみえます。
0411山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:39:45.90ID:NWShKe3u0
「私は宅うちへ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だ
ろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風ふうにして、女から気を引いて見
られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその
0412山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:40:01.91ID:NWShKe3u0
時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私には
もう狐疑こぎという薩張さっぱりしない塊かたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、
ひょいと留とまりました。そうして話の角度を故意に少し外そらしました。
0413山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:40:17.90ID:NWShKe3u0
 私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚
について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らか
に私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと
0414山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:40:33.92ID:NWShKe3u0
説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく
見えました。極きめようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それか
らお嬢さんより外ほかに子供がないのも、容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。嫁に
0415山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:40:49.92ID:NWShKe3u0
やるか、聟むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は
機会を逸いっしたと同様の結果に陥おちいってしまいました。私は自分について、ついに一言いちごんも
0416山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:41:05.95ID:NWShKe3u0
口を開く事ができませんでした。私は好いい加減なところで話を切り上げて、自分の室へやへ帰ろうとし
ました。
 さっきまで傍そばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に
0417山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:41:21.95ID:NWShKe3u0
行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見た
のです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか
、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐すわっていました。その戸棚の一尺しゃ
0418山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:41:37.93ID:NWShKe3u0
くばかり開あいている隙間すきまから、お嬢さんは何か引き出して膝ひざの上へ置いて眺ながめているら
しかったのです。私の眼はその隙間の端はじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました
。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
0419山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:41:53.95ID:NWShKe3u0
 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くの
です。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解わからないほど不意でした。それがお嬢さんを
早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、私はなるべく緩ゆっくらな方がいい
0420山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:42:09.94ID:NWShKe3u0
だろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入いり込まなければならない事にな
りました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来きたしています。もしそ
0421山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:42:25.93ID:NWShKe3u0
の男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必
要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気
が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅うちへ引張ひっぱって来たのです。
0422山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:42:41.95ID:NWShKe3u0
無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです
。ところが奥さんは止よせといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せと
いう奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善いいと思うところを強
0424山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:43:13.96ID:NWShKe3u0
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでし
た。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
0425山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:43:30.01ID:NWShKe3u0
真宗しんしゅうの坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ
養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派ほんがんじはの勢力の強い所でしたから、真宗の
坊さんは他ほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の
0426山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:43:45.98ID:NWShKe3u0
子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家だんかのものが相談して、どこか適当な
所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐ふところから出るのではありません。そんな訳で真宗寺
しんしゅうでらは大抵有福ゆうふくでした。
0427山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:44:02.00ID:NWShKe3u0
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどう
か知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まとまったものかどうか、そこも私
には分りません。とにかくKは医者の家うちへ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の
0428山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:44:18.07ID:NWShKe3u0
事でした。私は教場きょうじょうで先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今で
も記憶しています。
 Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰もらって東京へ出て来たのです。出て来た
0429山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:44:33.98ID:NWShKe3u0
のは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一
つ室へやによく二人も三人も机を並べて寝起ねおきしたものです。Kと私も二人で同じ間まにいました。
山で生捕いけどられた動物が、檻おりの中で抱き合いながら、外を睨にらめるようなものでしたろう。二
0430山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:44:50.00ID:NWShKe3u0
人は東京と東京の人を畏おそれました。それでいて六畳の間まの中では、天下を睥睨へいげいするような
事をいっていたのです。
 しかし我々は真面目まじめでした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったので
0431山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:45:06.00ID:NWShKe3u0
す。寺に生れた彼は、常に精進しょうじんという言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉ことごと
くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬いけいしてい
ました。
0432山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:45:22.02ID:NWShKe3u0
 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の
感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解わ
かりません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥はるかに坊さんらしい性格をもっていたように見受け
0433山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:45:38.02ID:NWShKe3u0
られます。元来Kの養家ようかでは彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医
者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺あざむくと
同じ事ではないかと詰なじりました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事
0434山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:45:54.01ID:NWShKe3u0
をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかっ
たでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉
が尊たっとく響いたのです。よし解らないにしても気高けだかい心持に支配されて、そちらの方へ動いて
0435山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:46:10.02ID:NWShKe3u0
行こうとする意気組いきぐみに卑いやしいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました
。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図いちずな彼は、たとい
私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万
0436山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:46:26.02ID:NWShKe3u0
一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知し
ていたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が
起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気
0438山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:46:58.05ID:NWShKe3u0
「Kと私わたくしは同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の
好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つ
0439山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:47:14.15ID:NWShKe3u0
ながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
 最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込こまごめのある寺の一間ひとまを借りて勉強するのだ
といっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音おおがんのんの傍そばの
0440山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:47:30.04ID:NWShKe3u0
汚い寺の中に閉とじ籠こもっていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室へやでしたが、彼はそこで自
分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしく
なって行くのを認めたように思います。彼は手頸てくびに珠数じゅずを懸けていました。私がそれは何の
0441山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:47:46.07ID:NWShKe3u0
ためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似まねをして見せました。彼はこうして日に何遍な
んべんも珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には解わかりません。円い輪になっ
ているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな
0442山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:48:02.06ID:NWShKe3u0
心持がして、爪繰つまぐる手を留めたでしょう。詰つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。
 私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経きょうの名を度々たびたび彼の口から聞いた覚
えがありますが、基督教キリストきょうについては、問われた事も答えられた例ためしもなかったのです
0443山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:48:18.17ID:NWShKe3u0
から、ちょっと驚きました。私はその理由わけを訊たずねずにはいられませんでした。Kは理由はないと
いいました。これほど人の有難ありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その
上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言
0444山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:48:34.08ID:NWShKe3u0
葉に大いなる興味をもっているようでした。
 二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったも
のとみえます。家うちでもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こ
0445山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:48:50.05ID:NWShKe3u0
ういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無
知なものです。我々に何でもない事が一向いっこう外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空
気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖がありま
0446山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:49:06.05ID:NWShKe3u0
す。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を
立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否いなやすぐどうだったとKに問いました。Kはどうで
もなかったと答えたのです。
0447山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:49:22.06ID:NWShKe3u0
 三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧
めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年まいとし家うちへ帰って何をするのだというのです。彼は
また踏み留とどまって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました
0448山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:49:38.08ID:NWShKe3u0
。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾はらんに富んだものかは、前に書
いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝ゆううつと孤独の淋さびしさとを一つ胸に抱いだいて
、九月に入いってまたKに逢あいました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は
0449山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:49:54.10ID:NWShKe3u0
私の知らないうちに、養家先ようかさきへ手紙を出して、こっちから自分の詐いつわりを白状してしまっ
たのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更いまさら仕方がないから、お前の好きなもの
をやるより外ほかに途みちはあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ
0450山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:50:10.10ID:NWShKe3u0
入ってまでも養父母を欺あざむき通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くも
のではないと見抜いたのかも知れません。
0451山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:50:26.09ID:NWShKe3u0
二十一

「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙だますような不埒ふらちなものに学資を送る事はできな
0452山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:50:42.11ID:NWShKe3u0
いという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私わたくしに見せました。Kはまたそれと前後し
て実家から受け取った書翰しょかんも見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責きっせきの言葉
がありました。養家先ようかさきへ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、
0453山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:50:58.12ID:NWShKe3u0
こっちでも一切いっさい構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それと
も他たに妥協の道を講じて、依然養家に留とどまるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうか
しなければならないのは、月々に必要な学資でした。
0454山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:51:14.13ID:NWShKe3u0
 私はその点についてKに何か考かんがえがあるのかと尋ねました。Kは夜学校やがっこうの教師でもす
るつもりだと答えました。その時分は今に比べると、存外ぞんがい世の中が寛くつろいでいましたから、
内職の口はあなたが考えるほど払底ふっていでもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろ
0455山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:51:30.14ID:NWShKe3u0
うと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背そむいて、自分の行きたい道を
行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱こまぬいでいる訳にゆきません。私
はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳はね付けました。彼の
0456山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:51:46.16ID:NWShKe3u0
性格からいって、自活の方が友達の保護の下もとに立つより遥はるかに快よく思われたのでしょう。彼は
大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任
を完まっとうするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は
0457山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:52:02.18ID:NWShKe3u0
手を引きました。
 Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜おしむ彼にとって、この仕事がど
のくらい辛つらかったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩ゆるめずに
0458山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:52:18.20ID:NWShKe3u0
、新しい荷を背負しょって猛進したのです。私は彼の健康を気遣きづかいました。しかし剛気ごうきな彼
は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡がらがって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のよう
0459山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:52:34.20ID:NWShKe3u0
に私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末てんまつを詳しく聞かずにしまいましたが、解決の
ますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました
。その人は手紙でKに帰国を促うながしたのですが、Kは到底駄目だめだといって、応じませんでした。
0460山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:52:50.23ID:NWShKe3u0
この剛情ごうじょうなところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、
向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を
害すると共に、実家の怒いかりも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書い
0461山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:53:06.21ID:NWShKe3u0
た時は、もう何の効果ききめもありませんでした。私の手紙は一言ひとことの返事さえ受けずに葬られて
しまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛ゆきがかり上、Kに同情していた私は、それ以後は
理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
0462山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:53:22.33ID:NWShKe3u0
 最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったの
です。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、ま
あ勘当かんどうなのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈
0463山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:53:38.26ID:NWShKe3u0
していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母けいぼに育てられた結果とも見
る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔へだ
たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく僧侶そうりょでした。け
0464山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:53:54.34ID:NWShKe3u0
れども義理堅い点において、むしろ武士さむらいに似たところがありはしないかと疑われます。

二十二
0465山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:54:10.24ID:NWShKe3u0
「Kの事件が一段落ついた後あとで、私わたくしは彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子
に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の
0466山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:54:26.27ID:NWShKe3u0
意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
 手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべ
く早く返事を貰もらいたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を嗣ついだ兄よりも、他家たけへ
0467山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:54:42.27ID:NWShKe3u0
縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟きょうだいですけれども、この姉
とKとの間には大分だいぶ年歯としの差があったのです。それでKの小供こどもの時分には、継母ままは
はよりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
0468山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:54:58.28ID:NWShKe3u0
 私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような
意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやっ
たのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物
0469山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:55:14.29ID:NWShKe3u0
質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
 私はKと同じような返事を彼の義兄宛あてで出しました。その中うちに、万一の場合には私がどうでも
するから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは固もとより私の一存いちぞ
0470山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:55:30.26ID:NWShKe3u0
んでした。Kの行先ゆくさきを心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、
私を軽蔑けいべつしたとより外ほかに取りようのない彼の実家や養家ようかに対する意地もあったのです
0471山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:55:46.29ID:NWShKe3u0
 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃なかごろになるまで、約一年半の間、彼は
独力で己おのれを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して
来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅うるさい問題も手伝っていたでしょう
0472山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:56:02.27ID:NWShKe3u0
。彼は段々感傷的センチメンタルになって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背
負しょって立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分
の未来に横よこたわる光明こうみょうが、次第に彼の眼を遠退とおのいて行くようにも思って、いらいら
0473山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:56:18.29ID:NWShKe3u0
するのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上のぼるのが常ですが、
一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍のろいのに気が付いて、過半
はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮あせり方はまた
0474山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:56:34.28ID:NWShKe3u0
普通に比べると遥はるかに甚はなはだしかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一せんい
ちだと考えました。
 私は彼に向って、余計な仕事をするのは止よせといいました。そうして当分身体からだを楽にして、遊
0475山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:56:50.33ID:NWShKe3u0
ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情ごうじょうなKの事ですから、容易に私のいう事
などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨
が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い
0476山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:57:06.30ID:NWShKe3u0
人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論する
のです。普通の人から見れば、まるで酔興すいきょうです。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっと
も強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹かかっているくらいなのです。私は仕方がないから
0477山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:57:22.33ID:NWShKe3u0
、彼に向って至極しごく同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつ
もりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったので
す。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですか
0478山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:57:38.46ID:NWShKe3u0
ら)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路みちを辿たどって行きたいと発議ほつぎし
ました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪ひざまずく事をあえてしたのです。そうして漸や
っとの事で彼を私の家に連れて来ました。
0480山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:58:10.34ID:NWShKe3u0
「私の座敷には控えの間まというような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうと
するには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極しごく不便な室
へやでした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有に
0481山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:58:26.33ID:NWShKe3u0
して置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好いいといって、自分でそっちのほう
を択えらんだのです。
 前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人よ
0482山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:58:42.47ID:NWShKe3u0
り二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止よした方が
好いいというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気
心の知れない人は厭いやだと答えるのです。それでは今厄介やっかいになっている私だって同じ事ではな
0483山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:58:58.36ID:NWShKe3u0
いかと詰なじると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して已やまないのです。私は苦笑しました
。すると奥さんはまた理屈の方向を更かえます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止よせ
といい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
0484山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:59:14.35ID:NWShKe3u0
 実をいうと私だって強しいてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形
で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇ちゅうちょするだろうと思ったのです。
彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅うちへ置いて、二人前ふたりまえの食料を彼
0485山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:59:30.34ID:NWShKe3u0
の知らない間まにそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、一言いち
ごんも奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
 私はただKの健康について云々うんぬんしました。一人で置くとますます人間が偏屈へんくつになるば
0486山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 07:59:46.35ID:NWShKe3u0
かりだからといいました。それに付け足して、Kが養家ようかと折合おりあいの悪かった事や、実家と離
れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺おぼれかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移し
てやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さ
0487山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:00:02.36ID:NWShKe3u0
んにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て漸々ようよう奥さんを説き伏せたのです。しかし私か
ら何にも聞かないKは、この顛末てんまつをまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って
、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
0488山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:00:18.39ID:NWShKe3u0
 奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何なにかをしてくれました。すべてそれを私に
対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子を
しているにもかかわらず。
0489山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:00:34.42ID:NWShKe3u0
 私がKに向って新しい住居すまいの心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言いちげん悪くないといっ
ただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい
臭においのする汚い室へやでした。食物くいものも室相応そうおうに粗末でした。私の家へ引き移った彼
0490山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:00:50.37ID:NWShKe3u0
は、幽谷ゆうこくから喬木きょうぼくに移った趣があったくらいです。それをさほどに思う気色けしきを
見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教
義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢ぜいたくをいうのをあたかも不道徳のように考えていま
0491山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:01:06.41ID:NWShKe3u0
した。なまじい昔の高僧だとか聖徒セーントだとかの伝でんを読んだ彼には、ややともすると精神と肉体
とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻べんたつすれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあっ
たのかも知れません。
0492山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:01:22.40ID:NWShKe3u0
 私はなるべく彼に逆さからわない方針を取りました。私は氷を日向ひなたへ出して溶とかす工夫をした
のです。今に融とけて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
0493山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:01:38.39ID:NWShKe3u0
二十四

「私は奥さんからそういう風ふうに取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚してい
0494山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:01:54.40ID:NWShKe3u0
たから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分だい
ぶ相違のある事は、長く交際つきあって来た私によく解わかっていましたけれども、私の神経がこの家庭
に入ってから多少角かどが取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたの
0495山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:02:10.53ID:NWShKe3u0
です。
 Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた
頭の質たちが私よりもずっとよかったのです。後あとでは専門が違いましたから何ともいえませんが、同
0496山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:02:26.40ID:NWShKe3u0
じ級にいる間あいだは、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何
をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が強しいてKを私の宅うちへ引ひっ張
ぱって来た時には、私の方がよく事理を弁わきまえていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢
0497山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:02:42.40ID:NWShKe3u0
と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたい
のですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟しげきで、発達もするし、
破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考
0498山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:02:58.44ID:NWShKe3u0
えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍はたのものも気が付かずにい
る恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥かゆばかり
食っていると、それ以上の堅いものを消化こなす力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だか
0499山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:03:14.44ID:NWShKe3u0
ら何でも食う稽古けいこをしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなか
ろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくては
なりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみれ
0500山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:03:30.45ID:NWShKe3u0
ばすぐ解わかる事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。
ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極きめていたらしいのです。艱
苦かんくを繰り返せば、繰り返すというだけの功徳くどくで、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅
0501山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:03:46.44ID:NWShKe3u0
めぐりあえるものと信じ切っていたらしいのです。
 私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに
極きまっていました。また昔の人の例などを、引合ひきあいに持って来るに違いないと思いました。そう
0502山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:04:02.46ID:NWShKe3u0
なれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯う
けがってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後あと
へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛かかります。彼は
0503山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:04:18.45ID:NWShKe3u0
こうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はた
だ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではあ
りませんでした。彼の気性きしょうをよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上
0504山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:04:34.58ID:NWShKe3u0
私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹かかっていたように思われたのです。よし私が
彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と喧嘩けんかをする事は恐れてはい
ませんでしたけれども、私が孤独の感に堪たえなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の
0505山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:04:50.46ID:NWShKe3u0
境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭いや
でした。それで私は彼が宅うちへ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにい
ました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
0507山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:05:22.47ID:NWShKe3u0
「私は蔭かげへ廻まわって、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこ
れまで通って来た無言生活が彼に祟たたっているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、
彼の心には錆さびが出ていたとしか、私には思われなかったのです。
0508山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:05:38.45ID:NWShKe3u0
 奥さんは取り付き把はのない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私
に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来き
ようというと、要いらないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといった
0509山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:05:54.47ID:NWShKe3u0
ぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいって
その場を取り繕つくろっておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強しいて火
にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
0510山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:06:10.50ID:NWShKe3u0
 それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力つとめました。Kと
私が話している所へ家うちの人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室へやに落ち合った所へ、Kを引っ
張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろん
0511山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:06:26.59ID:NWShKe3u0
Kはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起たって室の外へ出ました。またある時はいくら呼
んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな無駄話むだばなしをしてどこが面白いというのです。私
はただ笑っていました。しかし心の中うちでは、Kがそのために私を軽蔑けいべつしていることがよく解
0512山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:06:42.49ID:NWShKe3u0
わかりました。
 私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価あたいしていたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥は
るかに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否いなみはしません。しかし眼だけ高くっ
0513山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:06:58.51ID:NWShKe3u0
て、外ほかが釣り合わないのは手もなく不具かたわです。私は何を措おいても、この際彼を人間らしくす
るのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像イメジで埋うずまっていても、彼自身が偉く
なってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の
0514山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:07:14.48ID:NWShKe3u0
手段として、まず異性の傍そばに彼を坐すわらせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼
を曝さらした上、錆さび付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
 この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏まとまっ
0515山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:07:30.51ID:NWShKe3u0
て来出きだしました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向
って、女はそう軽蔑けいべつすべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同
様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたも
0516山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:07:46.51ID:NWShKe3u0
のと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女なんに
ょを一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば
、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私
0517山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:08:02.52ID:NWShKe3u0
はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃ころでしたから、自然そんな言葉も使うようになった
のでしょう。しかし裏面の消息は彼には一口ひとくちも打ち明けませんでした。
 今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠こもっていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見
0518山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:08:18.50ID:NWShKe3u0
ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、
自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さ
んに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
0520山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:08:50.66ID:NWShKe3u0
「Kと私わたくしは同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速
がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室くうしつを通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶あ
いさつをして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖ふすま
0521山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:09:06.53ID:NWShKe3u0
を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭うなず
く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
 ある日私は神田かんだに用があって、帰りがいつもよりずっと後おくれました。私は急ぎ足に門前まで
0522山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:09:22.55ID:NWShKe3u0
来て、格子こうしをがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥たし
かにKの室へやから出たと思いました。玄関から真直まっすぐに行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ
続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取まどりなのですから、どこで誰の声がし
0523山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:09:38.54ID:NWShKe3u0
たくらいは、久しく厄介やっかいになっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。する
とお嬢さんの声もすぐ已やみました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数て
かずのかかる編上あみあげを穿はいていたのですが、――私がこごんでその靴紐くつひもを解いているう
0524山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:09:54.57ID:NWShKe3u0
ち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違かんちがいか
も知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二
人はちゃんと坐すわっていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐っ
0525山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:10:10.58ID:NWShKe3u0
たままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬かたいように聞こえました。どこかで
自然を踏み外はずしているような調子として、私の鼓膜こまくに響いたのです。私はお嬢さんに、奥さん
はと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしてい
0526山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:10:26.58ID:NWShKe3u0
たから聞いて見ただけの事です。
 奥さんははたして留守でした。下女げじょも奥さんといっしょに出たのでした。だから家うちに残って
いるのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になってい
0527山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:10:42.56ID:NWShKe3u0
たけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅うちを空けた例ためしはまだなかったので
すから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。
私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さん
0528山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:10:58.57ID:NWShKe3u0
も下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断ふだんの表情に帰
りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目まじめに答えました。下宿人の私には
それ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
0529山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:11:14.57ID:NWShKe3u0
 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食ばんめしの
食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女
が膳ぜんを運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時めしどきには向うへ呼ばれて行
0530山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:11:30.60ID:NWShKe3u0
く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる
事に極きめました。その代り私は薄い板で造った足の畳たたみ込める華奢きゃしゃな食卓を奥さんに寄附
きふしました。今ではどこの宅うちでも使っているようですが、その頃ころそんな卓の周囲に並んで飯を
0531山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:11:46.57ID:NWShKe3u0
食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶おちゃの水みずの家具屋へ行って、私の工夫通り
にそれを造り上あげさせたのです。
 私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋さかなやが来なかったので、私たちに食わせるも
0532山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:12:02.59ID:NWShKe3u0
のを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以
上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は
奥さんに叱しかられてすぐ已やめました。
0534山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:12:34.60ID:NWShKe3u0
「一週間ばかりして私わたくしはまたKとお嬢さんがいっしょに話している室へやを通り抜けました。そ
の時お嬢さんは私の顔を見るや否いなや笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったの
でしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰った
0535山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:12:50.59ID:NWShKe3u0
かと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子しょうじを開けて茶の間へ入ったようでし
た。
 夕飯ゆうめしの時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまい
0536山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:13:06.62ID:NWShKe3u0
ました。ただ奥さんが睨にらめるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
 私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院でんずういんの裏手から植物園の通りをぐるりと廻
まわってまた富坂とみざかの下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間あいだ
0537山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:13:22.64ID:NWShKe3u0
に話した事は極きわめて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な
方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛しかけてみました。私の問題は
おもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかっ
0538山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:13:38.62ID:NWShKe3u0
たのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見分みわけの付かないような返事ばかりするのです。
しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の
方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼せまってい
0539山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:13:54.61ID:NWShKe3u0
る頃ころでしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼
はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
 我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後あと一年だといって奥さんは喜んでくれました
0540山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:14:10.64ID:NWShKe3u0
。そういう奥さんの唯一ゆいいつの誇ほこりとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になってい
たのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さ
んが学問以外に稽古けいこしている縫針ぬいはりだの琴だの活花いけばなだのを、まるで眼中に置いてい
0541山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:14:26.65ID:NWShKe3u0
ないようでした。私は彼の迂闊うかつを笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでな
いという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁はんばくもしませんでした。その代りな
るほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然
0542山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:14:42.65ID:NWShKe3u0
として女を軽蔑けいべつしているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、
物の数かずとも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬しっとは、そ
の時にもう充分萌きざしていたのです。
0543山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:14:58.67ID:NWShKe3u0
 私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振くちぶりを見せまし
た。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体からだではありませんが、私が誘いさえすれば、また
どこへ行っても差支さしつかえない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました
0544山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:15:14.67ID:NWShKe3u0
。彼は理由も何にもないというのです。宅うちで書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑
地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうとい
うのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが
0545山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:15:30.64ID:NWShKe3u0
段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好いい心持ではなかったのです。私が最初希望した通りに
なるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。果はて
しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに房州ぼう
0547山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:16:02.66ID:NWShKe3u0
「Kはあまり旅へ出ない男でした。私わたくしにも房州ぼうしゅうは始めてでした。二人は何にも知らな
いで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田ほたとかいいました。今ではどんなに変っ
0548山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:16:18.68ID:NWShKe3u0
ているか知りませんが、その頃ころはひどい漁村でした。第一だいちどこもかしこも腥なまぐさいのです
。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦すり剥むくのです。拳こぶしのような
大きな石が打ち寄せる波に揉もまれて、始終ごろごろしているのです。
0549山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:16:34.68ID:NWShKe3u0
 私はすぐ厭いやになりました。しかしKは好いいとも悪いともいいません。少なくとも顔付かおつきだ
けは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我けがをしない事はなかったのです。
私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦とみうらに行きました。富浦からまた那古なこに移りました
0550山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:16:50.67ID:NWShKe3u0
。すべてこの沿岸はその時分から重おもに学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃て
ごろの海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に坐すわって、遠い海の色や、近い水の底を眺
ながめました。岩の上から見下みおろす水は、また特別に綺麗きれいなものでした。赤い色だの藍あいの
0551山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:17:06.68ID:NWShKe3u0
色だの、普通市場しじょうに上のぼらないような色をした小魚こうおが、透き通る波の中をあちらこちら
と泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
 私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私には
0552山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:17:22.71ID:NWShKe3u0
それが考えに耽ふけっているのか、景色に見惚みとれているのか、もしくは好きな想像を描えがいている
のか、全く解わからなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何
もしていないと一口ひとくち答えるだけでした。私は自分の傍そばにこうじっとして坐っているものが、
0553山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:17:38.71ID:NWShKe3u0
Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいので
すが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いだいて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然こ
つぜん疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に
0554山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:17:54.72ID:NWShKe3u0
立ち上あがります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴どなります。纏まとまった詩だの歌だのを
面白そうに吟ぎんずるような手緩てぬるい事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。あ
る時私は突然彼の襟頸えりくびを後ろからぐいと攫つかみました。こうして海の中へ突き落したらどうす
0555山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:18:10.82ID:NWShKe3u0
るといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好いい、やってくれと答
えました。私はすぐ首筋を抑おさえた手を放しました。
 Kの神経衰弱はこの時もう大分だいぶよくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過
0556山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:18:26.73ID:NWShKe3u0
敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、羨うらやましがりました。また憎ら
しがりました。彼はどうしても私に取り合う気色けしきを見せなかったからです。私にはそれが一種の自
信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私
0557山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:18:42.73ID:NWShKe3u0
の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明あきらめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これ
から自分の進んで行くべき前途の光明こうみょうを再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだ
けならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし甲斐がいがあったの
0558山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:18:58.84ID:NWShKe3u0
を嬉うれしく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決
して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振そぶりに全く気が
付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでした
0559山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:19:14.71ID:NWShKe3u0
けれども。Kは元来そういう点にかけると鈍にぶい人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心
があったので、彼をわざわざ宅うちへ連れて来たのです。
0560山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:19:30.83ID:NWShKe3u0
二十九

「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなか
0561山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:19:46.72ID:NWShKe3u0
ったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつら
まえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際てぎわでは旨うまくゆかなかったのです。今から思うと
、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありま
0562山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:20:02.77ID:NWShKe3u0
せんでした。中には話す種たねをもたないのも大分だいぶいたでしょうが、たといもっていても黙ってい
るのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思わ
れるでしょう。それが道学どうがくの余習よしゅうなのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなた
0563山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:20:18.76ID:NWShKe3u0
の理解に任せておきます。
 Kと私は何でも話し合える中でした。偶たまには愛とか恋とかいう問題も、口に上のぼらないではあり
ませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも滅多めったには話題にならな
0564山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:20:34.75ID:NWShKe3u0
かったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていた
のです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩くずせるものではありません。二人は
ただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍なん
0565山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:20:50.78ID:NWShKe3u0
べん歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らか
い空気を吹き込んでやりたい気がしました。
 あなたがたから見て笑止千万しょうしせんばんな事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅
0566山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:21:06.79ID:NWShKe3u0
先でも宅うちにいた時と同じように卑怯ひきょうでした。私は始終機会を捕える気でKを観察していなが
ら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い
漆うるしで重あつく塗り固められたのも同然でした。私の注そそぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心
0567山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
垢版 |
2017/05/18(木) 08:21:22.77ID:NWShKe3u0
臓の中へは入らないで、悉ことごとく弾はじき返されてしまうのです。
 或ある時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。そうして自分の疑
いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫わびました。詫びながら自分が非常に下等な人間の
0568山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:21:38.79ID:NWShKe3u0
ように見えて、急に厭いやな心持になるのです。しかし少時しばらくすると、以前の疑いがまた逆戻りを
して、強く打ち返して来ます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした
。容貌ようぼうもKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところ
0569山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:21:54.77ID:NWShKe3u0
が、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間まが抜けていて、それでどこかに確しっかりした
男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力がくりきになれば専門こそ違いますが、私
は無論Kの敵でないと自覚していました。――すべて向うの好いいところだけがこう一度に眼先めさきへ
0570山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:22:10.80ID:NWShKe3u0
散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
 Kは落ち付かない私の様子を見て、厭いやならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そうい
われると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人
0571山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:22:26.81ID:NWShKe3u0
は房州ぼうしゅうの鼻を廻まわって向う側へ出ました。我々は暑い日に射いられながら、苦しい思いをし
て、上総かずさのそこ一里いちりに騙だまされながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている
意味がまるで解わからなかったくらいです。私は冗談じょうだん半分Kにそういいました。するとKは足
0572山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:22:42.78ID:NWShKe3u0
があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず潮
しおへ漬つかりました。その後あとをまた強い日で照り付けられるのですから、身体からだが倦怠だるく
てぐたぐたになりました。
0574山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:23:14.79ID:NWShKe3u0
「こんな風ふうにして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体からだの調子が狂って来るものです。もっ
とも病気とは違います。急に他ひとの身体の中へ、自分の霊魂が宿替やどがえをしたような気分になるの
です。私わたくしは平生へいぜいの通りKと口を利ききながら、どこかで平生の心持と離れるようになり
0575山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:23:30.80ID:NWShKe3u0
ました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中りょちゅう限かぎりという特別な性質を帯おびる風になった
のです。つまり二人は暑さのため、潮しおのため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事
ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商ぎょうしょうのようなものでした。い
0576山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:23:46.82ID:NWShKe3u0
くら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
 我々はこの調子でとうとう銚子ちょうしまで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に
忘れる事ができないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊こみなとという所で、鯛たいの浦うらを
0577山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:24:02.80ID:NWShKe3u0
見物しました。もう年数ねんすうもよほど経たっていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですか
ら、判然はんぜんとは覚えていませんが、何でもそこは日蓮にちれんの生れた村だとかいう話でした。日
蓮の生れた日に、鯛が二尾び磯いそに打ち上げられていたとかいう言伝いいつたえになっているのです。
0578山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:24:18.83ID:NWShKe3u0
それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟
を傭やとって、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
 その時私はただ一図いちずに波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、
0579山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:24:34.84ID:NWShKe3u0
面白い現象の一つとして飽かず眺めました。しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえま
す。彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。ちょうどそこに誕生寺たんじ
ょうじという寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍
0580山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:24:50.83ID:NWShKe3u0
がらんでした。Kはその寺に行って住持じゅうじに会ってみるといい出しました。実をいうと、我々はず
いぶん変な服装なりをしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠すげ
がさを買って被かぶっていました。着物は固もとより双方とも垢あかじみた上に汗で臭くさくなっていま
0581山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:25:06.82ID:NWShKe3u0
した。私は坊さんなどに会うのは止よそうといいました。Kは強情ごうじょうだから聞きません。厭いや
なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のう
ちではきっと断られるに違いないと思っていました。ところが坊さんというものは案外丁寧ていねいなも
0582山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:25:22.83ID:NWShKe3u0
ので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと大分だいぶ考えが
違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日
蓮の事を聞いていたようです。日蓮は草日蓮そうにちれんといわれるくらいで、草書そうしょが大変上手
0583山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:25:38.86ID:NWShKe3u0
であったと坊さんがいった時、字の拙まずいKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えていま
す。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足
させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内けいだいを出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々うん
0584山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:25:54.97ID:NWShKe3u0
ぬんし出しました。私は暑くて草臥くたびれて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で好
いい加減な挨拶あいさつをしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
 たしかその翌あくる晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯めしを食って、もう寝ようという少し
0585山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:26:10.88ID:NWShKe3u0
前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日きのう自分の方から話しかけた日
蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないもの
は馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの
0586山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:26:26.82ID:NWShKe3u0
事が蟠わだかまっていますから、彼の侮蔑ぶべつに近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は
私で弁解を始めたのです。
0587山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:26:42.89ID:NWShKe3u0
三十一

「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私
0588山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:26:58.88ID:NWShKe3u0
が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しか
し人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点しゅったつてんがす
でに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。す
0589山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:27:14.88ID:NWShKe3u0
るとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――
君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくな
いような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
0590山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:27:30.97ID:NWShKe3u0
 私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他ひとにはそう見えるかも知れないと答えた
だけで、一向いっこう私を反駁はんばくしようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、か
えって気の毒になりました。私はすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました
0591山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:27:46.91ID:NWShKe3u0
。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然ちょうぜん
としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を
虐しいたげたり、道のために体たいを鞭むちうったりしたいわゆる難行苦行なんぎょうくぎょうの人を指
0592山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:28:02.86ID:NWShKe3u0
すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解わからないのが、いかにも残念だと明
言しました。
 Kと私とはそれぎり寝てしまいました。そうしてその翌あくる日からまた普通の行商ぎょうしょうの態
0593山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:28:18.89ID:NWShKe3u0
度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。しかし私は路々みちみちその晩の事をひょいひ
ょいと思い出しました。私にはこの上もない好いい機会が与えられたのに、知らない振ふりをしてなぜそ
れをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる
0594山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:28:34.92ID:NWShKe3u0
代りに、もっと直截ちょくせつで簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実を
いうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事
実を蒸溜じょうりゅうして拵こしらえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原もとの形かたちそのまま
0595山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:28:50.86ID:NWShKe3u0
を彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれができなかったのは、学問
の交際が基調を構成している二人の親しみに、自おのずから一種の惰性があったため、思い切ってそれを
突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄
0596山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:29:06.97ID:NWShKe3u0
心が祟たたったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違
います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
 我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました。人間らしいとか、
0597山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:29:22.94ID:NWShKe3u0
人間らしくないとかいう小理屈こりくつはほとんど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい
様子が全く見えなくなりました。おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時
宿っていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺ながめ
0598山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:29:38.93ID:NWShKe3u0
ました。それから両国りょうごくへ来て、暑いのに軍鶏しゃもを食いました。Kはその勢いきおいで小石
川こいしかわまで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はす
ぐ応じました。
0599山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:29:54.94ID:NWShKe3u0
 宅うちへ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、む
やみに歩いていたうちに大変瘠やせてしまったのです。奥さんはそれでも丈夫そうになったといって賞ほ
めてくれるのです。お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立
0600山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:30:10.97ID:NWShKe3u0
った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。

三十二
0601山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:30:27.05ID:NWShKe3u0
「それのみならず私わたくしはお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅
から帰った私たちが平生へいぜいの通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、
0602山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:30:42.94ID:NWShKe3u0
その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻あとまわしにす
るように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえっ
て不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作しょさはその点で甚だ要領を得て
0603山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:31:02.51ID:NWShKe3u0
いたから、私は嬉うれしかったのです。つまりお嬢さんは私だけに解わかるように、持前もちまえの親切
を余分に私の方へ割り宛あててくれたのです。だからKは別に厭いやな顔もせずに平気でいました。私は
心の中うちでひそかに彼に対する※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)歌がいかを奏し
0604山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:31:30.96ID:NWShKe3u0
おくれて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室へやに認める事はな
いようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」を規則のごとく繰り返しました。
私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。
0605山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:31:46.94ID:NWShKe3u0
 たしか十月の中頃と思います。私は寝坊ねぼうをした結果、日本服にほんふくのまま急いで学校へ出た
事があります。穿物はきものも編上あみあげなどを結んでいる時間が惜しいので、草履ぞうりを突っかけ
たなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました
0606山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:32:02.96ID:NWShKe3u0
。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子こうしをがらりと開けたのです。するといないと思ってい
たKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように
手数てかずのかかる靴を穿はいていないから、すぐ玄関に上がって仕切しきりの襖ふすまを開けました。
0607山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:32:18.97ID:NWShKe3u0
私は例の通り机の前に坐すわっているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。
私はあたかもKの室へやから逃のがれ出るように去るその後姿うしろすがたをちらりと認めただけでした
。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自
0608山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:32:34.98ID:NWShKe3u0
分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さ
んは始めてお帰りといって私に挨拶あいさつをしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞
けるような捌さばけた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だ
0609山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:32:50.95ID:NWShKe3u0
ったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝えんがわづたいに向うへ行ってしまいました。しかしKの
室の前に立ち留まって、二言ふたこと三言みこと内と外とで話をしていました。それは先刻さっきの続き
らしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
0610山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:33:06.99ID:NWShKe3u0
 そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに宅うちにいる時でも、
よくKの室へやの縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論
郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にい
0611山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:33:22.94ID:NWShKe3u0
る二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念
に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざ私の
室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに
0612山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:33:38.94ID:NWShKe3u0
宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすれば私がKを無理に引張ひっぱって来た
主意が立たなくなるだけです。私にはそれができないのです。
0613山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:33:54.95ID:NWShKe3u0
三十三

「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私わたくしは外套がいとうを濡ぬらして例の通り蒟蒻閻魔こんに
0614山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:34:11.03ID:NWShKe3u0
ゃくえんまを抜けて細い坂路さかみちを上あがって宅うちへ帰りました。Kの室は空虚がらんどうでした
けれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳かざ
そうと思って、急いで自分の室の仕切しきりを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残ってい
0615山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:34:27.14ID:NWShKe3u0
るだけで、火種ひだねさえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
 その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て
、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというの
0616山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:34:43.05ID:NWShKe3u0
を聞いて、すぐ次の間まからKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら
、奥さんは帰ってまた出たと答えました。その日もKは私より後おくれて帰る時間割だったのですから、
私はどうした訳かと思いました。奥さんは大方おおかた用事でもできたのだろうといっていました。
0617山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:34:58.97ID:NWShKe3u0
 私はしばらくそこに坐すわったまま書見しょけんをしました。宅の中がしんと静まって、誰だれの話し
声も聞こえないうちに、初冬はつふゆの寒さと佗わびしさとが、私の身体からだに食い込むような感じが
しました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私はふと賑にぎやかな所へ行きたくなったのです。雨
0618山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:35:14.98ID:NWShKe3u0
はやっと歇あがったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇じゃの
目めを肩に担かついで、砲兵ほうへい工廠こうしょうの裏手の土塀どべいについて東へ坂を下おりました
。その時分はまだ道路の改正ができない頃ころなので、坂の勾配こうばいが今よりもずっと急でした。道
0619山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:35:31.02ID:NWShKe3u0
幅も狭くて、ああ真直まっすぐではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞ふさが
っているのと、放水みずはきがよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町や
なぎちょうの通りへ出る間が非道ひどかったのです。足駄あしだでも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきま
0620山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:35:46.99ID:NWShKe3u0
せん。誰でも路みちの真中に自然と細長く泥が掻かき分けられた所を、後生ごしょう大事だいじに辿たど
って行かなければならないのです。その幅は僅わずか一、二尺しゃくしかないのですから、手もなく往来
に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜け
0621山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:36:03.01ID:NWShKe3u0
ます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向
き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が塞ふさがったので偶然眼
を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。私はKにどこへ行ったのかと聞きました。Kは
0622山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:36:19.11ID:NWShKe3u0
ちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯
の上で身体を替かわせました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の
私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後あとで、その女の顔を見ると、それ
0623山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:36:35.02ID:NWShKe3u0
が宅うちのお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶
あいさつをしました。その時分の束髪そくはつは今と違って廂ひさしが出ていないのです、そうして頭の
真中まんなかに蛇へびのようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやりお嬢さんの頭を見てい
0624山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:36:51.03ID:NWShKe3u0
ましたが、次の瞬間に、どっちか路みちを譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思
い切ってどろどろの中へ片足踏ふん込ごみました。そうして比較的通りやすい所を空あけて、お嬢さんを
渡してやりました。
0625山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:37:07.07ID:NWShKe3u0
 それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好いいか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面
白くないような心持がするのです。私は飛泥はねの上がるのも構わずに、糠ぬかる海みの中を自暴やけに
どしどし歩きました。それから直すぐ宅へ帰って来ました。
0627山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:37:39.01ID:NWShKe3u0
「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町
まさごちょうで偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った
質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくな
0628山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:37:55.13ID:NWShKe3u0
りました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中あててみろ
としまいにいうのです。その頃ころの私はまだ癇癪かんしゃく持もちでしたから、そう不真面目ふまじめ
に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもの
0629山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:38:11.08ID:NWShKe3u0
のうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやる
のか、知らないで無邪気むじゃきにやるのか、そこの区別がちょっと判然はんぜんしない点がありました
。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方ほうでしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも
0630山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:38:27.07ID:NWShKe3u0
、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私
の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬しっとに帰きしていいものか、または私に対す
るお嬢さんの技巧と見傚みなしてしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその
0631山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:38:43.08ID:NWShKe3u0
時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面りめんにこの感情の
働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍はたのものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事
さじに、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事よじですが、こういう嫉妬しっ
0632山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:38:59.12ID:NWShKe3u0
とは愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しまし
た。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
 私はそれまで躊躇ちゅうちょしていた自分の心を、一思ひとおもいに相手の胸へ擲たたき付けようかと
0633山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:39:15.12ID:NWShKe3u0
考え出しました。私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。奥さんにお嬢さんを呉
くれろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延
ばして行ったのです。そういうと私はいかにも優柔ゆうじゅうな男のように見えます、また見えても構い
0634山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:39:31.07ID:NWShKe3u0
ませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、
他ひとの手に乗るのが厭いやだという我慢が私を抑おさえ付けて、一歩も動けないようにしていました。
Kの来た後のちは、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を
0635山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:39:47.14ID:NWShKe3u0
制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい
出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻かかせられるのが辛つらいなどというのとは少し
訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他ほかの人に愛の眼まなこを注そそいでいるならば
0636山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:40:03.06ID:NWShKe3u0
、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応いやおうなしに自分の好いた女を嫁に
貰もらって嬉うれしがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもな
ければ愛の心理がよく呑のみ込めない鈍物どんぶつのする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰っ
0637山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:40:19.23ID:NWShKe3u0
てしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していま
した。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠うえんな愛の実際家だった
のです。
0638山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:40:35.26ID:NWShKe3u0
 肝心かんじんのお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには
時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていない
のだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえま
0639山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:40:51.15ID:NWShKe3u0
せん。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼きがねなく自分の思った通りを遠慮せ
ずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
0640山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:41:07.11ID:NWShKe3u0
三十五

「こんな訳で私わたくしはどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦すくんでいました。身体から
0641山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:41:23.16ID:NWShKe3u0
だの悪い時に午睡ひるねなどをすると、眼だけ覚さめて周囲のものが判然はっきり見えるのに、どうして
も手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
 その内うち年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多かるたをやるから誰だれか友達を連
0642山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:41:39.15ID:NWShKe3u0
れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚い
てしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶あい
さつをするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多かるたなどを取る柄がらではな
0643山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:41:55.17ID:NWShKe3u0
かったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎
あいにくそんな陽気な遊びをする心持になれないので、好いい加減な生返事なまへんじをしたなり、打ち
やっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客
0644山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:42:11.11ID:NWShKe3u0
も誰も来ないのに、内々うちうちの小人数こにんずだけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなも
のでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手ふところでをしている人と同様でした。
私はKに一体百人一首ひゃくにんいっしゅの歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答え
0645山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:42:27.12ID:NWShKe3u0
ました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方おおかたKを軽蔑けいべつするとでも取ったのでしょう。そ
れから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有
様になって来ました。私は相手次第では喧嘩けんかを始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は
0646山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:42:43.26ID:NWShKe3u0
少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り
上げる事ができました。
 それから二、三日経たった後のちの事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ
0647山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:42:59.19ID:NWShKe3u0
行くといって宅うちを出ました。Kも私もまだ学校の始まらない頃ころでしたから、留守居同様あとに残
っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも厭いやだったので、ただ漠然と火鉢の縁ふちに肱ひじ
を載せて凝じっと顋あごを支えたなり考えていました。隣となりの室へやにいるKも一向いっこう音を立
0648山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:43:15.28ID:NWShKe3u0
てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、
二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
 十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖ふすまを開けて私と顔を見合みあわせました。彼は敷居の上に
0649山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:43:31.15ID:NWShKe3u0
立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えて
いたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論奥さんも食っ
付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる回めぐって、
0650山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:43:47.28ID:NWShKe3u0
この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで朧気おぼろげに彼を一種の邪魔ものの
如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙
っていました。するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前に坐すわ
0651山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:44:03.20ID:NWShKe3u0
りました。私はすぐ両肱りょうひじを火鉢の縁から取り除のけて、心持それをKの方へ押しやるようにし
ました。
 Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというの
0652山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:44:19.29ID:NWShKe3u0
です。私は大方叔母おばさんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。私はや
はり軍人の細君さいくんだと教えてやりました。すると女の年始は大抵十五日過すぎだのに、なぜそんな
に早く出掛けたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するより外ほかに仕方がありま
0654山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:44:51.21ID:NWShKe3u0
「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已やめませんでした。しまいには私わたくしも答えられないよう
な立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題
0655山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:45:07.20ID:NWShKe3u0
にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはい
られないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は
突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が顫ふるえるように動いているのを注視しました。彼は
0656山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:45:23.21ID:NWShKe3u0
元来無口な男でした。平生へいぜいから何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる
癖くせがありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易たやすく開あかないところに、彼の
言葉の重みも籠こもっていたのでしょう。一旦いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の
0657山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:45:39.20ID:NWShKe3u0
人よりも倍の強い力がありました。
 彼の口元をちょっと眺ながめた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付かんづいたのですが、それがは
たして何なんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口か
0658山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:45:55.19ID:NWShKe3u0
ら、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のた
めに一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです
0659山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:46:11.26ID:NWShKe3u0
 その時の私は恐ろしさの塊かたまりといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ
一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失
われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後のちに
0660山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:46:27.23ID:NWShKe3u0
、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失策しまったと思いました。先せんを越された
なと思いました。
 しかしその先さきをどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったので
0661山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:46:43.26ID:NWShKe3u0
しょう。私は腋わきの下から出る気味のわるい汗が襯衣シャツに滲しみ透とおるのを凝じっと我慢して動
かずにいました。Kはその間あいだいつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明け
てゆきます。私は苦しくって堪たまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の
0662山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:46:59.24ID:NWShKe3u0
顔の上に判然はっきりした字で貼はり付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の
付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切いっさいを集中しているから、私の表情な
どに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて
0663山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:47:15.24ID:NWShKe3u0
鈍のろい代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白
を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻かき乱されていましたから、細こまか
い点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響
0664山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:47:31.39ID:NWShKe3u0
きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったの
です。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌きざし始めたのです。
 Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白を
0665山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:47:47.30ID:NWShKe3u0
したものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたの
ではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
 午食ひるめしの時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女げじょに給仕をしてもらって、私はいつ
0666山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:48:03.28ID:NWShKe3u0
にない不味まずい飯めしを済ませました。二人は食事中もほとんど口を利ききませんでした。奥さんとお
嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。
0667山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:48:19.27ID:NWShKe3u0
三十七

「二人は各自めいめいの室へやに引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでし
0668山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:48:35.27ID:NWShKe3u0
た。私わたくしも凝じっと考え込んでいました。
 私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が後おくれてし
まったという気も起りました。なぜ先刻さっきKの言葉を遮さえぎって、こっちから逆襲しなかったのか
0669山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:48:51.29ID:NWShKe3u0
、そこが非常な手落てぬかりのように見えて来ました。せめてKの後あとに続いて、自分は自分の思う通
りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今とな
って、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法
0670山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:49:07.29ID:NWShKe3u0
を知らなかったのです。私の頭は悔恨に揺ゆられてぐらぐらしました。
 私はKが再び仕切しきりの襖ふすまを開あけて向うから突進してきてくれれば好いいと思いました。私
にいわせれば、先刻はまるで不意撃ふいうちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかっ
0671山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:49:23.30ID:NWShKe3u0
たのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心したごころを持っていました。それで
時々眼を上げて、襖を眺ながめました。しかしその襖はいつまで経たっても開あきません。そうしてKは
永久に静かなのです。
0672山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:49:39.29ID:NWShKe3u0
 その内うち私の頭は段々この静かさに掻かき乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考
えているだろうと思うと、それが気になって堪たまらないのです。不断もこんな風ふうにお互いが仕切一
枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を
0673山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:49:55.31ID:NWShKe3u0
忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりま
せん。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦いったんいいそびれた
私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外ほかに仕方がなかったのです。
0674山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:50:11.35ID:NWShKe3u0
 しまいに私は凝じっとしておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくな
るのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶て
つびんの湯を湯呑ゆのみに注ついで一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避
0675山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:50:27.29ID:NWShKe3u0
するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出みいだしたのです。私には無論どこへ行くという的
あてもありません。ただ凝じっとしていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、
むやみに歩き廻まわったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを
0676山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:50:43.33ID:NWShKe3u0
振ふるい落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼そしゃくしながら
うろついていたのです。
 私には第一に彼が解かいしがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか
0677山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:50:59.41ID:NWShKe3u0
、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募つのって来たのか、そうして平生の彼は
どこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていま
した。また彼の真面目まじめな事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼に
0678山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:51:15.33ID:NWShKe3u0
ついて聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変
に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝じっと坐すわっている彼の容貌
ようぼうを始終眼の前に描えがき出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないの
0679山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:51:31.32ID:NWShKe3u0
だという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は
永久彼に祟たたられたのではなかろうかという気さえしました。
 私が疲れて宅うちへ帰った時、彼の室は依然として人気ひとけのないように静かでした。
0681山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:52:03.36ID:NWShKe3u0
「私が家へはいると間もなく俥くるまの音が聞こえました。今のように護謨輪ゴムわのない時分でしたか
ら、がらがらいう厭いやな響ひびきがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました
0682山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:52:19.42ID:NWShKe3u0
 私が夕飯ゆうめしに呼び出されたのは、それから三十分ばかり経たった後あとの事でしたが、まだ奥さ
んとお嬢さんの晴着はれぎが脱ぎ棄すてられたまま、次の室を乱雑に彩いろどっていました。二人は遅く
なると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しか
0683山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:52:35.37ID:NWShKe3u0
し奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しが
る人のように、素気そっけない挨拶あいさつばかりしていました。Kは私よりもなお寡言かげんでした。
たまに親子連おやこづれで外出した女二人の気分が、また平生へいぜいよりは勝すぐれて晴れやかだった
0684山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:52:51.43ID:NWShKe3u0
ので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が
悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました
。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が利ききたくないからだといいました。お嬢さんは
0685山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:53:07.53ID:NWShKe3u0
なぜ口が利きたくないのかと追窮ついきゅうしました。私はその時ふと重たい瞼まぶたを上げてKの顔を
見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫ふる
えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さ
0686山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:53:23.46ID:NWShKe3u0
んは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりまし
た。
 その晩私はいつもより早く床とこへ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さ
0687山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:53:39.55ID:NWShKe3u0
んは十時頃蕎麦湯そばゆを持って来てくれました。しかし私の室へやはもう真暗まっくらでした。奥さん
はおやおやといって、仕切りの襖ふすまを細目に開けました。洋燈ランプの光がKの机から斜ななめにぼ
んやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元まくらもとに坐っ
0688山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:53:55.42ID:NWShKe3u0
て、大方おおかた風邪かぜを引いたのだろうから身体からだを暖あっためるがいいといって、湯呑ゆのみ
を顔の傍そばへ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みま
した。
0689山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:54:11.48ID:NWShKe3u0
 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転かいてんさせるだけで、外
ほかに何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私
は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたので
0690山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:54:27.59ID:NWShKe3u0
す。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶あいさつがありました。何を
しているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃
に、押入おしいれをがらりと開けて、床とこを延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時な
0691山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:54:43.45ID:NWShKe3u0
んじかとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈ランプをふっと吹き消す音がして
、家中うちじゅうが真暗なうちに、しんと静まりました。
 しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴さえて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おい
0692山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:54:59.44ID:NWShKe3u0
とKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝けさ彼から聞いた事
について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は
無論襖越ふすまごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と
0693山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:55:15.48ID:NWShKe3u0
考えたのです。ところがKは先刻さっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直すなおな
調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。
0694山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:55:31.58ID:NWShKe3u0
三十九

「Kの生返事なまへんじは翌日よくじつになっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていま
0695山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:55:47.51ID:NWShKe3u0
した。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色けしきを決して見せませんでした。もっとも機
会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが揃そろって一日宅うちを空あけでもしなければ、二人はゆっく
り落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私わたくしはそれをよく心得ていまし
0696山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:56:03.44ID:NWShKe3u0
た。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗あ
んに用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
 同時に私は黙って家うちのものの様子を観察して見ました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振そ
0697山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:56:19.52ID:NWShKe3u0
ぶりにも、別に平生へいぜいと変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動
にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心かんじんの本人にも
、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥たしかでした。そう考えた時私は少し安心し
0698山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:56:35.50ID:NWShKe3u0
ました。それで無理に機会を拵こしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるもの
を取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事
にしました。
0699山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:56:51.51ID:NWShKe3u0
 こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮しおの満干みちひと同じよう
に、色々の高低たかびくがあったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加
えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだ
0700山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:57:07.54ID:NWShKe3u0
ろうかと疑うたがってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように
、明瞭めいりょうに偽いつわりなく、盤上ばんじょうの数字を指し得うるものだろうかと考えました。要
するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句あげく、漸ようやくここに落ち付いたものと思って
0701山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:57:23.51ID:NWShKe3u0
下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのか
も知れません。
 その内うち学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立って宅うちを出ます。都合がよ
0702山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:57:39.51ID:NWShKe3u0
ければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがない
ように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自てんでんに各自てんでんの事を勝手に考えていた
に違いありません。ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私
0703山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:57:55.52ID:NWShKe3u0
だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取
るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極きめなければならないと、私は思ったのです。すると
彼は外ほかの人にはまだ誰だれにも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだった
0704山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:58:11.54ID:NWShKe3u0
ので、内心嬉うれしがりました。私はKの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも敵かなわ
ないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家ようか
を三年も欺あざむいていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私
0705山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:58:27.57ID:NWShKe3u0
はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹
の中で否定する気は起りようがなかったのです。
 私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか
0706山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:58:43.56ID:NWShKe3u0
、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになる
と、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠かくし立てをしてくれるな、すべて
思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと判然はっきり断言しました。しか
0707山師さん (ワッチョイ 7e94-PZTw)
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2017/05/18(木) 08:58:59.50ID:NWShKe3u0
し私の知ろうとする点には、一言いちごんの返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まっ
て底そこまで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。
0708山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:04:17.89ID:NWShKe3u0
なものであった。そのうちにたった一つの例外が
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
0709山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:04:33.90ID:NWShKe3u0
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
0710山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:13:38.64ID:NWShKe3u0
伸のした。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
0711山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:13:54.64ID:NWShKe3u0
 父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいる
ような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へ
いぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに
0712山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:14:10.68ID:NWShKe3u0
任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった
。適当な位置に置かれるや否いなや、すぐ己おのれに自然な勢いきおいを得て倒れようとした。
0714山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:14:42.67ID:NWShKe3u0
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう
0715山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:14:58.66ID:NWShKe3u0
事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんな
に心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
0716山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:15:14.66ID:NWShKe3u0
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいった
ものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさな
いようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ
0717山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:15:30.67ID:NWShKe3u0
。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね

 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。
0718山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:15:46.81ID:NWShKe3u0
「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考
えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっ
ちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質につい
0719山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:16:02.71ID:NWShKe3u0
て、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料
に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お
気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
0720山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:16:18.71ID:NWShKe3u0
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目ま
じめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょ
う己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだから
0721山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:16:34.72ID:NWShKe3u0
ね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大
変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに
0722山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:16:50.73ID:NWShKe3u0
免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いで
のだよ」
0723山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:17:06.83ID:NWShKe3u0
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだ
がね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うち
0724山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:17:22.71ID:NWShKe3u0
にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この
家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何
0725山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:17:38.84ID:NWShKe3u0
というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母
を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと
いう注意を、偶然思い出した。
0726山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:17:54.82ID:NWShKe3u0
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
が剣呑けんのんさ」
0727山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:18:10.81ID:NWShKe3u0
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと
聞いていた。
0728山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:18:26.75ID:NWShKe3u0


 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
0729山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:18:42.78ID:NWShKe3u0
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
た。
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
0730山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:18:58.80ID:NWShKe3u0
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
0731山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:19:14.78ID:NWShKe3u0
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
0732山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:19:30.81ID:NWShKe3u0
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
0733山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:19:46.77ID:NWShKe3u0
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
0734山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:20:02.75ID:NWShKe3u0
 父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
0735山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:20:18.76ID:NWShKe3u0
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
せん」
0736山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:20:34.79ID:NWShKe3u0
「そう理屈をいわれると困る」
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
0737山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:20:50.95ID:NWShKe3u0
理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
なかなか敵かなうどころではなかった。
0738山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:21:06.87ID:NWShKe3u0
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
0739山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:21:22.83ID:NWShKe3u0
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
0740山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:21:39.77ID:NWShKe3u0
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
0741山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:21:54.84ID:NWShKe3u0
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
0742山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:22:10.81ID:NWShKe3u0
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。
0743山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:22:26.86ID:NWShKe3u0


 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
0744山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:22:42.96ID:NWShKe3u0
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
よく勉強ができた。
0745山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:22:58.82ID:NWShKe3u0
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
0746山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:23:14.87ID:NWShKe3u0
だいた。
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
0747山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:23:30.82ID:NWShKe3u0
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
0748山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:23:46.84ID:NWShKe3u0
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
0749山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:24:02.97ID:NWShKe3u0
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
0750山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:24:18.87ID:NWShKe3u0
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
0751山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:24:34.87ID:NWShKe3u0
に来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
0752山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:24:50.97ID:NWShKe3u0
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
0753山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:25:06.86ID:NWShKe3u0
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
0754山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:25:22.87ID:NWShKe3u0
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
0755山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:25:38.87ID:NWShKe3u0
るらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
る気じゃなさそうですぜ」
0756山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:25:54.92ID:NWShKe3u0
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。
0758山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:26:26.94ID:NWShKe3u0
 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
0759山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:26:43.02ID:NWShKe3u0
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
0760山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:26:58.92ID:NWShKe3u0
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
しい」
0761山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:27:14.92ID:NWShKe3u0
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
0762山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:27:30.99ID:NWShKe3u0
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
0763山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:27:46.94ID:NWShKe3u0
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
0764山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:28:02.93ID:NWShKe3u0
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
0765山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:28:18.95ID:NWShKe3u0
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
0766山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:28:34.93ID:NWShKe3u0
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
0767山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:28:50.97ID:NWShKe3u0
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
0768山師さん (スフッ Sdca-qKRX)
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2017/05/18(木) 09:28:52.45ID:w2ZvYkwod
サボってたな!(´・ω・`)
0769山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:29:06.97ID:NWShKe3u0
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
0770山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:29:22.94ID:NWShKe3u0
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
0771山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:29:38.97ID:NWShKe3u0
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
0773山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:30:10.99ID:NWShKe3u0
 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
0774山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:30:26.98ID:NWShKe3u0
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
0775山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:30:43.08ID:NWShKe3u0
まわしてやったら好よかろうと書いた。
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
0776山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:30:58.98ID:NWShKe3u0
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
0777山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:31:15.02ID:NWShKe3u0
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
0778山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:31:31.00ID:NWShKe3u0
じゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
0779山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:31:47.04ID:NWShKe3u0
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
0780山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:32:02.98ID:NWShKe3u0
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
0781山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:32:19.02ID:NWShKe3u0
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
なかった。
0782山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:32:35.04ID:NWShKe3u0
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
0783山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:32:51.04ID:NWShKe3u0
しかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
いそうなものだがね」
0784山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:33:07.03ID:NWShKe3u0
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
0785山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:33:23.00ID:NWShKe3u0
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
0786山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:33:39.17ID:NWShKe3u0
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
「ええ」
 私は生返事なまへんじをして席を立った。
0788山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:34:11.01ID:NWShKe3u0
 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
0789山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:34:27.03ID:NWShKe3u0
見るらしかった。
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
0790山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:34:43.05ID:NWShKe3u0
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
0791山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:34:59.03ID:NWShKe3u0
た。
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
0792山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:35:15.04ID:NWShKe3u0
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
0793山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:35:31.05ID:NWShKe3u0
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
0794山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:35:47.09ID:NWShKe3u0
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
0795山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:36:03.09ID:NWShKe3u0
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
0796山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:36:19.09ID:NWShKe3u0
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
0797山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:36:35.08ID:NWShKe3u0
早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
0798山師さん (アウアウウー Sa7f-21Nw)
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2017/05/18(木) 09:36:43.06ID:aqdBEzyya
ブラジルボべスパ、今調べたら今日5%以上下げても十分元が取れるなw
0799山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:36:51.08ID:NWShKe3u0
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
0800山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:37:07.09ID:NWShKe3u0
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
度を弁護しなければ不安になった。
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
0801山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:37:23.11ID:NWShKe3u0
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
0802山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:37:39.18ID:NWShKe3u0


 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
0803山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:37:55.09ID:NWShKe3u0
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
0804山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:38:11.12ID:NWShKe3u0
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
たあくまでもその反対を信じていた。
0805山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:38:27.13ID:NWShKe3u0
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
0806山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:38:43.12ID:NWShKe3u0
ようだね」
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
0807山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:38:59.13ID:NWShKe3u0
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
早いだけが好よかった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
0808山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:39:15.14ID:NWShKe3u0
「そうしましょう」
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
0809山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:39:31.16ID:NWShKe3u0
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
0810山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:39:47.16ID:NWShKe3u0
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
0811山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:40:03.15ID:NWShKe3u0
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
0812山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:40:19.62ID:NWShKe3u0
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
0813山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:40:35.19ID:NWShKe3u0
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
0814山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:40:51.18ID:NWShKe3u0
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
た。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極きめた。
0816山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:41:23.19ID:NWShKe3u0
 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
0817山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:41:39.18ID:NWShKe3u0
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
0818山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:41:55.20ID:NWShKe3u0
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
した。
「もう大丈夫」
0819山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:42:11.20ID:NWShKe3u0
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
0820山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:42:27.22ID:NWShKe3u0
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
0821山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:42:43.23ID:NWShKe3u0
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
0822山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:42:59.24ID:NWShKe3u0
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
0823山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:43:15.25ID:NWShKe3u0
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
0824山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:43:31.20ID:NWShKe3u0
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
た。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
0825山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:43:47.23ID:NWShKe3u0
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
0826山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:44:03.35ID:NWShKe3u0
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
0827山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:44:19.28ID:NWShKe3u0
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
んだ。
0828山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:44:35.36ID:NWShKe3u0
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
0829山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:44:51.27ID:NWShKe3u0
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれ
というのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも
、その目的の一つであったらしい。
0831山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:45:23.45ID:NWShKe3u0
 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あ
てで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる
最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという
0832山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:45:39.27ID:NWShKe3u0
意味を書き込めた。
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる
自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛
0833山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:45:55.24ID:NWShKe3u0
つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは
承知していて下さい」
0834山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:46:11.29ID:NWShKe3u0
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で
、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女
を見て変な顔をした。
0835山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:46:27.29ID:NWShKe3u0
 父は死病に罹かかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのもの
には気が付かなかった。
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何
0836山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:46:43.25ID:NWShKe3u0
でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常に淋さみしがった。
0837山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:46:59.29ID:NWShKe3u0
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向
かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた
0838山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:47:15.45ID:NWShKe3u0
先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが
死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する
奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
0839山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:47:43.52ID:NWShKe3u0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
0840山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:48:19.28ID:NWShKe3u0
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
0841山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:49:17.87ID:NWShKe3u0
の方でだれかの話し声が
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
0842山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:49:38.38ID:NWShKe3u0
ていた。長谷辺はせへんに大き
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
0844山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:50:26.42ID:NWShKe3u0
 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
0845山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:50:42.44ID:NWShKe3u0
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
0846山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:50:58.46ID:NWShKe3u0
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
0847山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:51:15.95ID:NWShKe3u0
親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
0848山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:51:31.90ID:NWShKe3u0
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
で彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
0849山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:52:14.99ID:NWShKe3u0
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいとい
う境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自
由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった
0850山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:53:36.75ID:NWShKe3u0
。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなもの
には長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人
0851山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:53:52.77ID:NWShKe3u0
の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な
地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ
0852山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:54:08.79ID:NWShKe3u0
下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動
いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に
知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべって
0853山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:54:24.74ID:NWShKe3u0
みたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃ
やが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大き
0854山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:54:40.80ID:NWShKe3u0
な別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの
避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を
飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めた
0855山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:54:56.80ID:NWShKe3u0
り、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあった
ので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
0856山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:55:12.90ID:NWShKe3u0


 私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとすると
0857山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:55:28.80ID:NWShKe3u0
ころであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あい
だには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したか
も知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私が
0858山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:55:44.79ID:NWShKe3u0
すぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本
の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海
0859山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:56:00.78ID:NWShKe3u0
の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。私
にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井ゆいが浜はままで行って、砂の上にしゃがみながら
、長い間西洋人の海へ入る様子を眺ながめていた。私の尻しりをおろした所は少し小高い丘の上で、その
0860山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:56:16.80ID:NWShKe3u0
すぐ傍わきがホテルの裏口になっていたので、私の凝じっとしている間あいだに、大分だいぶ多くの男が
塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股ももは出していなかった。女は殊更ことさら肉を隠しがちで
あった。大抵は頭に護謨製ゴムせいの頭巾ずきんを被かぶって、海老茶えびちゃや紺こんや藍あいの色を
0861山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:56:32.83ID:NWShKe3u0
波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼めには、猿股一つで済まして皆みんなの前
に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
 彼はやがて自分の傍わきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたこと何なにか
0862山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:56:48.83ID:NWShKe3u0
いった。その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げ
るや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
0863山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:57:04.83ID:NWShKe3u0
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
0864山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:57:20.81ID:NWShKe3u0
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
0865山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:57:36.84ID:NWShKe3u0
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
0866山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:57:52.82ID:NWShKe3u0
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうを被かぶってやって来た。先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて
、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日きのうのように騒がしい浴客
0867山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:58:08.87ID:NWShKe3u0
よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い
水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切っ
た。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。そ
0868山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:58:24.88ID:NWShKe3u0
れで私の目的はついに達せられなかった。私が陸おかへ上がって雫しずくの垂れる手を振りながら掛茶屋
に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
0869山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:58:40.86ID:NWShKe3u0


 私わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した
0870山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:58:56.93ID:NWShKe3u0
。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生
の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいく
ら賑にぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
0871山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:59:12.87ID:NWShKe3u0
後ごまるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或ある時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぬぎ棄すてた浴衣ゆかたを着
ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向き
0872山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:59:28.85ID:NWShKe3u0
になって、浴衣を二、三度振ふるった。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落
ちた。先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡の失なくなったのに気が付いたと
見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した
0873山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 09:59:44.85ID:NWShKe3u0
。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いてい
0874山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:00:00.88ID:NWShKe3u0
るものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山と
を照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたり
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
0875山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:00:16.89ID:NWShKe3u0
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促し
た。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私は
0876山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:00:32.87ID:NWShKe3u0
すぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路みちを浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
 それから中なか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時
0877山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:01:25.42ID:NWShKe3u0
、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない
私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
0878山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:01:41.46ID:NWShKe3u0
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
0879山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:01:57.42ID:NWShKe3u0
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
0880山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:02:13.43ID:NWShKe3u0
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
0881山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:02:29.54ID:NWShKe3u0
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。
0882山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:02:45.54ID:NWShKe3u0


 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
0883山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:03:01.54ID:NWShKe3u0
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
0884山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:03:17.43ID:NWShKe3u0
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く
0885山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:03:33.47ID:NWShKe3u0
気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった
。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私
は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先
0886山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:03:49.58ID:NWShKe3u0
生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって
、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったので
0887山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:04:05.47ID:NWShKe3u0
ある。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせと
いう警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず
自分を軽蔑していたものとみえる。
0888山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:04:21.47ID:NWShKe3u0
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数
ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
0889山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:04:37.48ID:NWShKe3u0
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
0890山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:04:53.48ID:NWShKe3u0
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
0891山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:05:09.46ID:NWShKe3u0
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
0892山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:05:25.47ID:NWShKe3u0
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
0893山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:05:41.47ID:NWShKe3u0
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
やの墓地にある或ある仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分
になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈えしゃくして外へ
0894山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:05:57.47ID:NWShKe3u0
出た。賑にぎやかな町の方へ一丁ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵きびすを回めぐらした。
0895山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:06:13.53ID:NWShKe3u0


 私わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方に楓かえでを植え付けた広い
0896山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:06:29.61ID:NWShKe3u0
道を奥の方へ進んで行った。するとその端はずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出
て来た。私はその人の眼鏡めがねの縁ふちが日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生
」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
0897山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:06:45.53ID:NWShKe3u0
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二遍へん繰り返した。その言葉は森閑しんかんとした昼の中うちに異様な調子をもっ
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
0898山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:07:01.60ID:NWShKe3u0
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
きりいえないような一種の曇りがあった。
0899山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:07:17.53ID:NWShKe3u0
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
0900山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:07:33.51ID:NWShKe3u0
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
0901山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:07:49.50ID:NWShKe3u0
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
0902山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:08:05.62ID:NWShKe3u0
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
いって先生は苦笑した。
0903山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:08:21.54ID:NWShKe3u0
 先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニー
も認めてないらしかった。私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげの碑ひだのを指して、しきりにか
れこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面
0904山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:08:37.56ID:NWShKe3u0
目まじめに考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高
い梢こずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、こ
0905山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:08:53.54ID:NWShKe3u0
こいらの地面は金色きんいろの落葉で埋うずまるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ず
この木の下を通るのであった。
 向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、鍬くわの手を休めて私たちを見て
0906山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:09:09.53ID:NWShKe3u0
いた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより
口数を利きかなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行っ
0908山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:09:41.56ID:NWShKe3u0
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
0909山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:09:57.58ID:NWShKe3u0
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町ちょうほど
0910山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:10:13.60ID:NWShKe3u0
歩いた後あとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」
0912山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:10:45.61ID:NWShKe3u0


 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数どす
0913山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:11:01.60ID:NWShKe3u0
うが重なるにつれて、私はますます繁しげく先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり
変りはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は
0914山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:11:17.62ID:NWShKe3u0
最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければ
いられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの
人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後のちになって事実の上に証
0915山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:11:33.60ID:NWShKe3u0
拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自
分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人
、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――
0916山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:11:49.58ID:NWShKe3u0
これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る
事があった。窓に黒い鳥影が射さすように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその
0917山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:12:05.62ID:NWShKe3u0
曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であっ
た。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一
時の結滞けったいに過ぎなかった。私の心は五分と経たたないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎ
0918山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:12:21.69ID:NWShKe3u0
り暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽
きるに間まのない或ある晩の事であった。
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょうの大樹たいじゅを眼めの前に
0919山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:12:37.66ID:NWShKe3u0
想おもい浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょう
ど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午ひるで終おえる楽な日であった。私は先生に向かって
こういった。
0920山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:12:53.60ID:NWShKe3u0
「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった
0921山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:13:09.63ID:NWShKe3u0

「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時にお伴ともをしても宜よござんすか。私は先生といっしょにあ
すこいらが散歩してみたい」
0922山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:13:25.66ID:NWShKe3u0
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いいじゃありませんか」
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、ど
0923山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:13:41.66ID:NWShKe3u0
こまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとする風ふうに見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私に
はその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃお墓参りでも好いいからいっしょに伴つれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
0924山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:13:57.63ID:NWShKe3u0
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉まゆがち
ょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられな
い微かすかな不安らしいものであった。私は忽たちまち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く
0925山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:14:13.73ID:NWShKe3u0
思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他ひとといっしょにあす
こへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さいさえまだ伴れて行った事がないのです」
0927山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:14:45.65ID:NWShKe3u0
 私わたくしは不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅うちへ出入でいりをするのではな
かった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
尊たっとむべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができた
0928山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:15:01.75ID:NWShKe3u0
のだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋つ
なぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚し
ていなかった。それだから尊たっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が
0929山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:15:17.67ID:NWShKe3u0
二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼まなこで研究
されるのを絶えず恐れていたのである。
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁しげくなった時
0930山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:15:33.68ID:NWShKe3u0
のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」
0931山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:15:49.68ID:NWShKe3u0
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極きわめて狭い事
を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃ころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないとい
0932山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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う事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆みんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は淋さびしい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからな
0933山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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ぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」
0934山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時底そこまで押
さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経たたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出る
0935山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:16:53.80ID:NWShKe3u0
や否いなや笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
0936山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:17:09.72ID:NWShKe3u0
 私は外ほかの人からこういわれたらきっと癪しゃくに触さわったろうと思う。しかし先生にこういわれ
た時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は淋さびしい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、
0937山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:17:25.72ID:NWShKe3u0
ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいら
れるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打ぶつ
かりたいのでしょう……」
0938山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:17:41.82ID:NWShKe3u0
「私はちっとも淋さむしくはありません」
「若いうちほど淋さむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅うちへ来るので
すか」
0939山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:17:57.72ID:NWShKe3u0
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋さびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために
その淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外ほかの方を向いて今
0940山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:18:13.72ID:NWShKe3u0
に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。
0941山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:18:29.74ID:NWShKe3u0


 幸さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私わたくしは、この予言の中う
0942山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:18:45.74ID:NWShKe3u0
ちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内うちい
つの間にか先生の食卓で飯めしを食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利きかなければならない
ようになった。
0943山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:19:01.72ID:NWShKe3u0
 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇か
らいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因げんいんかどうかは疑問
だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその
0944山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:19:17.77ID:NWShKe3u0
前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった
。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知
0945山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:19:33.74ID:NWShKe3u0
れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の
夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除のければ
、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美し
0946山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:19:49.74ID:NWShKe3u0
いという外ほかに何の感じも残っていない。
 ある時私は先生の宅うちで酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍そばで酌しゃくをしてくれた。
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑のみ干した盃
0947山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:20:05.78ID:NWShKe3u0
さかずきを差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後あと、迷惑そうにそれを受け取った。奥さん
は綺麗きれいな眉まゆを寄せて、私の半分ばかり注ついで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと
先生の間に下しものような会話が始まった。
0948山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:20:21.79ID:NWShKe3u0
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」
「お前は嫌きらいだからさ。しかし稀たまには飲むといいよ。好いい心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しご酒しゅを召し上が
0949山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:20:37.75ID:NWShKe3u0
ると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
0950山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:20:53.78ID:NWShKe3u0
「今夜は好いい心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜よござんすよ」
「そうはいかない」
0951山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:21:09.79ID:NWShKe3u0
「召し上がって下さいよ。その方が淋さむしくなくって好いから」
 先生の宅うちは夫婦と下女げじょだけであった。行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。高い笑
い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或ある時ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気
0952山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:21:25.90ID:NWShKe3u0
がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。し
かし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさい
0953山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:21:41.83ID:NWShKe3u0
もののように考えていた。
「一人貰もらってやろうか」と先生がいった。
「貰もらいッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
0954山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:21:58.91ID:NWShKe3u0
「子供はいつまで経たったってできっこないよ」と先生がいった。
 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った
0955山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:22:29.83ID:NWShKe3u0
 私わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲の好いい夫婦の一対いっついであった。家庭の一員として
暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざして
いる時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静
0956山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:22:45.79ID:NWShKe3u0
しずといった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優やさ
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚はなはだ素直であった。ときたまご馳走ちそうにな
って、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間あいだに描えがき出される
0957山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:23:01.82ID:NWShKe3u0
ようであった。
 先生は時々奥さんを伴つれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行を
した事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持
0958山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:23:17.84ID:NWShKe3u0
っている。日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外が
あった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声が
0959山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:23:33.83ID:NWShKe3u0
した。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。先生の宅は玄関の次
がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ
分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先
0960山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:23:49.80ID:NWShKe3u0
生よりも低い音おんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いて
いるようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿
へ帰った。
0961山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:24:05.85ID:NWShKe3u0
 妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑のみ込む能力を失ってしまった。約一時間ば
かりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下
から私を誘った。先刻さっき帯の間へ包くるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私
0962山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:24:21.82ID:NWShKe3u0
は帰ったなりまだ袴はかまを着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
 その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで
飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
0963山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:24:37.85ID:NWShKe3u0
「今日は駄目だめです」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
 私の腹の中には始終先刻さっきの事が引ひっ懸かかっていた。肴さかなの骨が咽喉のどに刺さった時の
0964山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:24:53.87ID:NWShKe3u0
ように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止よした方が好よかろうかと思い直したりする
動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分り
0965山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:25:09.86ID:NWShKe3u0
ますか」
 私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻さっき妻さいと少し喧嘩けんかをしてね。それで下くだらない神経を昂奮こうふんさせてしま
0966山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:25:25.85ID:NWShKe3u0
ったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
0967山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:25:41.87ID:NWShKe3u0
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです

「どんなに先生を誤解なさるんですか」
0968山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:25:57.97ID:NWShKe3u0
 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
 先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
0970山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:26:29.86ID:NWShKe3u0
 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁ちょうも二丁もつづいた。その後あとで突然先生が口を利きき
出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻さいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなも
0971山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:26:45.91ID:NWShKe3u0
のですね。私わたくしの妻などは私より外ほかにまるで頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移
って行った。
0972山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:27:01.88ID:NWShKe3u0
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映ります
かね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位ちゅうぐらいに見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はま
0973山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:27:18.02ID:NWShKe3u0
た口を閉じて、無言で歩き出した。
 先生の宅うちへ帰るには私の下宿のつい傍そばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で
分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅たくの前までお伴ともしましょうか」といっ
0974山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:27:33.89ID:NWShKe3u0
た。先生は忽たちまち手で私を遮さえぎった。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」
 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言
0975山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:27:49.91ID:NWShKe3u0
葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後ごも長い間この「妻君のために」という言
葉を忘れなかった。
 先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでも解わかった。それがまた滅多
0976山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:28:05.93ID:NWShKe3u0
めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。それど
ころか先生はある時こんな感想すら私に洩もらした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻さい以外の女はほとんど女として私に訴えな
0977山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:28:21.90ID:NWShKe3u0
いのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって
、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」
 私は今前後の行ゆき掛がかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせた
0978山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:28:37.92ID:NWShKe3u0
のか、判然はっきりいう事ができない。けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んで
いたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人
間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あ
0979山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:28:53.90ID:NWShKe3u0
るべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生
の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、
それほど幸福でないのだろうか。私は心の中うちで疑うたぐらざるを得なかった。けれどもその疑いは一
0980山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:29:09.94ID:NWShKe3u0
時限りどこかへ葬ほうむられてしまった。
 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
0981山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:29:25.95ID:NWShKe3u0
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
0982山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:29:42.05ID:NWShKe3u0
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
0983山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:31:48.27ID:NWShKe3u0
十一

 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
0984山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:32:04.24ID:NWShKe3u0
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
0985山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:32:20.28ID:NWShKe3u0
断っておきたい事がある。
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った
0986山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:32:36.29ID:NWShKe3u0

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
0987山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:32:52.41ID:NWShKe3u0
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
0988山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:33:08.28ID:NWShKe3u0
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
0989山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:33:24.28ID:NWShKe3u0
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
が出なかった。
0990山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:33:40.29ID:NWShKe3u0
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
ょう」
0991山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:33:56.31ID:NWShKe3u0
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
0992山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:34:12.27ID:NWShKe3u0
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
0993山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:34:28.30ID:NWShKe3u0
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
らないから気の毒でたまらないんです」
0994山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:34:44.31ID:NWShKe3u0
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
にまた口を開いた。
0995山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:35:00.28ID:NWShKe3u0
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
んです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
0996山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
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2017/05/18(木) 10:35:16.32ID:NWShKe3u0
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
 奥さんは急に薄赤い顔をした。
0998山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
垢版 |
2017/05/18(木) 10:35:48.34ID:NWShKe3u0
 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
0999山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
垢版 |
2017/05/18(木) 10:36:04.34ID:NWShKe3u0
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
1000山師さん (ワッチョイ 7e94-mR0Q)
垢版 |
2017/05/18(木) 10:36:20.42ID:NWShKe3u0
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
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