ねずさん(=小名木善行)ってどうよ Part.9
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
このまらはいずこへむかうや
あの穴スカ
それとも体感帝国慰安婦のアヌスカ
自称国史啓蒙家(笑)の小名木善行こと伸太郎の豚オヤジは旧陸軍が薩摩閥だなんて真剣に思い込んでいるのだろうか?
流石は底辺高卒www 前スレ終わりましたね。今日はまだねずきちのブログ見てない。 "B、C級戦犯の合祀は問題だ!"
A級戦犯合祀が問題なんでしょう。元々はB, C戦犯が祀られていたのです。
昭和天皇は、勝手にA級戦犯を合祀した宮司に不満を抱いておられたようですね。 >>4
ねずきちのヤツ、この掲示板を見て、コソコソと会津から熊本に書き替えしましたが、肝心要の海軍を陸軍にしたままの粗忽ぶり。 >>6
A級戦犯合祀の松平永芳宮司は、元海軍将校ですが、かの福井藩主松平慶永の孫で、ねずきちが大好きな(苦笑)醍醐忠重海軍中将の娘婿です。 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。 分祀すればいいだけなのだが。
明治維新のときに、天皇が東京に移られるので、神田明神の祭神に将門がいるのは不適切、と言うことで、将門を分祀してる。 堀内豊秋指揮の落下傘部隊は、インドネシアのラトゥアディル伝説もあり、熱烈に現地民衆に受け入れられた面がありましたが、その人気の裏で現地人の妾を囲うばかりか、強姦や殺人もしていました。堀内豊秋の知らぬところながら、彼は部下の監督不行き届きの責任を問われたのです。 小名木は出鱈目戦記ばかりタレ流していて偕行社から怒られないのカナ? (・∀・) >>12
偕行社もねずきち位しか相手にしてくれないから拒否できないんでしょ。情けない。 「日本のピラミッド」って、やはりねずきちは『ムー』の愛読者なんですね(爆)。国史啓蒙が聞いて呆れる。 今日は特に中身がない。何言いたいんだかわからない。 ねずきち情報を全否定するのはディスカウントジャパン工作関係者の証(笑) 自称左派の苫米地英人をみなさん知ってると思うけど、苫米地が発信してきた情報とねずきち情報とでほぼ齟齬がないんだよね。 ねずきちがまた妄言(爆)。律令の後の関東御成敗式目や戦国の分国法、公事方御定書と刑事罰を定めた法令は幾らでもあります。 つまり、信者が何も言わなくても自発的に自分に金を払ってくれる、それが信者の責任、と言ってるんですね。 ねずきちは、まあ低能だから仕方ないけど、なんで外国の憲法と日本の憲法を比較するのかね。改定回数なんかは、憲法に何を規定しているかで違うよ。
それと、現憲法のおかげで、日本が朝鮮戦争やベトナム戦争に派兵することを拒否できたことは確かだからね。特需の恩恵を受けられたし。
ねずきちって何も見ないで歳取ってきたんだね。 性懲りもなく静御前。
ねずやねず ねずはおだまき 繰り返し 今になすべき いにしへもがな
意味は
ねずきちは、おだまきおだまきとくりかえしているけれど、ねずきちの過去には再現したくなるような輝かしいものはないね
無限連鎖講? ねずやねず ねずのくだまき くりかえし
のほうが現状にあってそうですね。
くだをまくねずきち。 チンギス・カンと源義経同一人物説なんてトンでも話も良いところに、お得意のエロを混ぜるねずきちの下劣さに朝から気分悪いです。 大体、チンギス・カンのカンは「qan」。その息子オゴデイ・カアンは「qagan」とペルシャ語文献で、音写されています。カアンは、満洲語ではハーンに変わります。この辺りは、杉山正明先生の御著作が詳しいです。源義経は「守」に補任されていませんから、カンが「守」に由来なんてあり得ない話。 >>24
更にそれを学問と称する。。。
それを目からウロコと歓迎する情けない信者たち。終わってます。 低学歴底辺高卒の小名木善行こと伸太郎はジンギスカン源義経説が正しいと言うのならば然るべき学会にて発表してみればヨイ(笑)。
マルチ商法元社長の凶状持ちが偉そうに国史啓蒙家だなんて名乗るな阿保が。 >>27
ねずきちがやたら引用する宮脇淳子って、チンギス・カンと源義経同一人物説は否定します。 今日は鳩。
もうすぐセイタカアワダチソウと葛が出てくるよ。 善行こと伸太郎の十八番の『蝿は金冠を選ばず』を読みたいwww
木村重成気取りの文章に反吐が出るぜwww ねずきち、今日は「オリンポスの神々」を「アポロンの神々」とな。最早、小学生からやり直しです(爆)。 今日のねずblogで小名木の詐話師は『負け犬になってはだめです』等と偉そうな発言をしておりますが信販会社をリストラ(無能なので同業他社から声が 掛からない)されて広島でマルチ商法の元社長として年金生活者を自◯に追い込む→逃亡→創価系仏具店に飴玉卸し→固定客相手の堅い商売なのに低能なので自己破産→ネトウヨ相手の商売と何をやらせてもダメな低学歴底辺高卒男です。
小名木の阿保はテメェの身の程を弁えてから物を言いやがれ。
悔しかったら信販会社時代に社長賞を何度も貰ったと言い張るのならばblogに上げてみやがれ。
負け犬ブタ親父が爆笑なんだよwww 手塚治虫の漫画を引き合いに出してきましたが、『火の鳥』黎明編で騎馬民族のニニギなる男が邪馬台国を滅ぼして、日本の支配者として君臨するのを「神武東征」と描いていますよね。神武天皇は農業指導したんじゃないのか、ねずきち(爆)。 神代文字は五十音だそうですが、そもそも上代特殊仮名遣いから、昔は日本語の母音は5つではなかったということが明らかになっています。
つまり神代文字は、上代特殊仮名遣いの研究がされる前にでっち上げられたと考えることが正しいのです。 >>23
今日のblogは、特に「ねずのくだまき繰り返し」ですね。 いかがわしい経歴の低学歴底辺高卒詐話師の主宰する講演会なんぞに参加してカネを浪費する輩の気が知れない
そんなムダ金があるのならば高級寿司でも食った方がマシ
豚オヤジの老後を養う義務は無い >>38
見ました。おっしゃるとおりですね。
ねずやねず ねずのくだまき くりかへし
いまになすべき いにしへもがな ねずきちって本気で自分が啓蒙家だと思ってるんでしょうか。 国史啓蒙家という国家資格は実在するのでしょうか?
所管は文科省?(・∀・) >>42
存在しないでしょうね。
存在してたら、僭称になっちゃいます。 >>42
某公立大学大学院の文学研究科修了ですが、ねずきちみたいな妄想だけでは、入試に合格しません。 >>44
妄想ですね。確かに。
ただ、妄想ってもっとこだわりがあったり、ある部分だけは深かったりするものです。ねずきちの場合、コピペバカリズムで深みを全く感じないのですよ。 凄いぞこれ。
https://www.youtube.com/watch?v=g1vlDP13ods
発言内容の1%も真実が無い。
空白の1世紀(4世紀)がワンピース由来?
教科書が対象のはずの近隣諸国条項が歴史学会を支配?
大山古墳懐疑論ならまだしも仁徳天皇不在論???
コメント欄の共感してる人・・・大丈夫かこの国 古典読解力が欠如している事が明らかになる記事ですね。これを繰り返し出して、自分の無知をさらけだして恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
誰でもすぐわかる間違いは、ものをこそおもへ。これは燃える、消える両方に掛かっているということ。ねずきちは燃えるにしかかかっていないとこじつけています。難癖のにレベル。 そもそも、物思いといえば、勅撰集、連歌、連句を通じて恋の詞です。 どちらの歌についても、基本的な和歌の素養を全く持たずに語呂合わせしています。本職の文学者は洟も引っ掛けないレベルの論、人物であることを良いことに、偉そうに語呂合わせを展開し、無知な信者たちのメカラウロコを引き出します。 >>47
ねずきちは、王朝官職無知だから、近衛府の官が大将・次将と将監・将曹の間に厳然たる差別があったのを知らないんですよ。まさに笑止千万。 >>50
玉井浅一の慰霊行脚を讃えるのが目的だから、良岑玄利の出家を戦にこじつけるなど、歴史を歪曲している奴が「国史啓蒙」を称し、和歌の解釈までするとは。国賊はねずきちです。 御垣守のたく篝火のように、
(私の恋心は)
夜は燃えるけれど、
昼間は消えてしまう。
これって何なのでしょうね」
誰がこのような解釈を公表しているのでしょうか。
御垣守がたく篝火が夜は燃えて昼は消えるように、
私も夜は激しく、昼は静かに物思いをしているのです。
というのが正しい。
ところでねずきち解釈の これって何なのでしょうね というのはなんのつもりなのでしょう。まさか地の文? ねずきちは題詠ということも全く理解できない模様です。
歌合などで、シチュエーションを決めて歌を詠むということは良く行われていました。逢ひて逢葉ざる恋、とかですね。当然男が女の立場で詠むこともあります。藤原定家の来ぬ人を、の歌も、女の立場の歌ですね。
ねずきちが理解しやすいように現代に例を取れば、演歌で男性歌手が女性の立場の歌を歌うこともしょっちゅうですね。 ねずきちは和歌の技法全てに不案内なようですが、序詞、枕詞は特に理解不能なようですね。
文字通りに受け取ってなんとか意味をこじつけようとして、トンデモに落ち込むという、中学生がやりそうな失敗です。 音にのみきくの白露よるはおきて ひるは思ひにあへず消ぬべし
という歌が素性法師にもありますね。
御垣守の歌と同様に、夜と昼を対比させています。こちらは篝火ではなくて白露。
ねずきちの不幸は、経験の乏しいこと。それがために、極めて一般的な表現に勿体つけて語っちゃうんです。見てて痛々しい。 通常セックスするのはは夜ですので、夜は体を動かして激しくもえ、昼は心の中だけで静かにもえる、というのは当然です。
ねずきちはぶりっこオヤジなので、そのような明らかな現実を受け入れたくないのでしょうか。いい歳こいて。 二つを対比させてみましょう。
大中臣能宣
みかきもり 衛士のたく火の夜はもえて昼は消えつつ 物をこそ思へ
素性法師
音にのみきくの白露よるはおきてひるは思ひにあへず消ぬべし
きく、は聞くと菊の掛詞
おきて、は置きてと起きての掛詞
前者は、夜は燃えて、後者は、夜は起きて (置きて)
前者は、昼は消えつつ、後者は 昼は消ぬべし
となっており、夜の自分から積極的に動く様と、昼の消え入るように想う様を対比させています。どちらも恋の形態が夜は能動的に、昼は受動的に、もしくは、夜は激しく、昼は静かになる、という意味であり、昼は恋がなくなるいうことではりません。
特に、前者では "昼は消えつつ" となっています。消えつつ、というのは消えながら という意味で、消えつつ物思いする、とつながります。ねずきちの解釈のように物思いが消えてしまうという解釈は、このつつがある限り成り立ちません。 そういえば、つつ、に関するねずきちの解釈もとても楽しいものがあります。過去記事を探してみてください。
田子の浦の歌とみかきもりの歌の両方でやらかしています。 ねずきちは、本人の知識不足で理解できなかった、もしくは間違えて理解した内容を、社会的に受け入れられているように喧伝します。
そして、そこでトンでも自説を持ち出してきて、彼の所謂世間の解釈と対比させ、正当性を主張します。
多分これは、彼が過去の営業活動から学んだ手法なのでしょう。 >>60
そうそう、
ねずきちは知らないと思いますので注意ですが、露は置く物です。 今日のねずblogで小名木の詐話師は安倍受け売りの『日本を取り戻す(誰から?)』と『ウヨクでもサヨクでもなく皆ナカヨク(ウヨ子ちゃんからのパクリ)』と矛盾した事をのたまわっておりますが左派の側にしても与党の自民党が感染拡大リスクを無視してオリンピックを強行する以上、仲良くする事など不可能です。
秋の総選挙で自公は大きく議席を減らしてその穴を維新or小池党が埋めるのでしょうが国民の敵意は治まる事はありません。
いよいよ『上級国民と下級国民』の対立と分断は拡がるばかりでしょう。
今上陛下のご懸念を無視する自民党こそが『反日の朝敵』なのです。
小名木は愛国者ぶるのを辞めてアルバイトでもよいから働くべきです。
このままでは哀れな末路を辿る事になるでしょう。 ねずきちは丸川オヤジとでも言うべき位置付けですね。
自民党の上位オヤジの朝令暮改的発言に唯々諾々と従い、啓蒙と称して屁理屈を後づけする。
普通に頭の良い人たちにはすでにばれている手法ですが、信者にはまだ有効なようです。 小名木は自民党から餌付けされてはいないと思うんだけど。
餌付けされていないからあんなにデタラメ講演会の倭塾の開催にこだわるんだと思うwww >>67
そうかも。
必死ですり寄っても拒否されてる? カワイソスなドラマキングのねずきち。 でも、あの行橋市のネトウヨを加入させる自民党に入れてもらえないねずきちって。。。 ねずやねずねずのおだまき黒歴史
昔も今も変わることなし 小名木も信者も共に負け犬www
負け犬同士で傷の舐め合いでもしてやがれwww 契丹古伝によれば、漢字は元は倭なりと出ていた筈。長江文明が倭人の文面だしね。 "事実なら、それについての出典は必要です。
しかし、意見(ないし論)は、その人の意見でしかなく、しかもその意見や論が、あまりに底の浅い、明後日の方を向いたものであれば、そのことを「○○教授の○○という本による」と書けば、それは名指しの批判であり、むしろ場合によってはその先生の名誉を傷つけることになってしまいます。"
だそうです。
それで、誰もねずきちの論を名指しで批判しないんですねw.
ソースなしのストローマンはねずきちの常套手段です。ソースを開示せずに、サヨクがこんなことを言ってる、と言って批判します。しかし実際には
a, 誰もそんなことは言っていない
b, 誰かが言ったことをねずきちが間違って理解している
のどちらかです。bは、啓蒙家を自称するねずきちとしてはあまりにみっともないので、ソースを開示できないのです。開示したらツッコミ満載ですから。 正直なところ、例えばねずきちの歌論は歌人も和歌の研究者も歯牙にかけません。
ねずきちが佐々木幸綱を批判したところで佐々木幸綱が本気でそれに応対することはありません。歌人や和歌研究者にとって、ねずきちの記事はあまりに底が浅く明後日の方向を向いたものだからです。歌論と言うようなものではありません。
これは、歴史記事でも同様でしょう。 但し、歌人、和歌研究者、歴史家がねずきちの記事を名指しで批判しないのは、ねずきちの名誉のためではありません。子供が間違えても大人が怒らない、趣味の成果をプロはあえて批判しないのと同じでしょう。
ドラマキングねずきちは、過去に批判されたようなことを時々ブログに書いていますが、これはただネトウヨの内紛です。研究者や歴史家からまともに取り上げられて批判されたことは一回もありません。
愛情の反対は無関心、寂しい限りですね。 本来仲間である筈のネトウヨ連中からも嫌われて政治blogランキングを所払いになった自称国史啓蒙家(笑)の小名木善行こと伸太郎哀れ
底辺高卒の分際で偉そうな上から目線の文章ばかり書いているからネトウヨ連中からも嫌われ
るんだよwww あのイメージは何なのかと思ってたら、ねずきちは Source と Sauceの区別がついてなかった、ってことなのねwwwwww. 逆に、事実ではなく、過去の意見(ないし論)に目を向けるなら、それは二つの結果しか生みません。
ひとつは、過去の論説への付和雷同であり、
ひとつは、過去の論説への批判、対立です。
この二つ以外に起こることはありません。
筆者は、付和雷同は嫌いです。
常に自由でありたい。
と言いつつ、ネトウヨ付和雷同のねずきちwwwww 例えば、先日の記事、
"いまでも世界では、ありもしないデタラメで世間をたばかり政府の転覆を図ろうとする者は、カルト、テロとして、家族も含めて逮捕投獄死刑があたりまえです。"
この記事の出典はどこなのでしょうか。
少なくとも先進国では、カルト、テロのメンバーの、カルト、テロに参加ていない家族が逮捕されたり投獄されたりすることはりません。
見方を変えるとそう見える、いうのであればどのような見方をすればのようになるのかを御教示ただきたいものですねwww ありもしないデタラメで世間をたばかり…って善行ちゃんの自己紹介じゃん(笑)♪(・∀・) >>84
そのねずきちが、逮捕も投獄もされていないわけですからね。
言論の自由はありがたい。 ねずきちは、主観と客観ということがわからないのですね。
この国、という言い方は、司馬遼太郎あたりから一般的になったものです。司馬遼太郎は産経新聞出身ですね。 信者ですら、この国、というスタイルは司馬遼太郎のものと認識していますね。コメント見ると。
それでもねずきちは朝日起源という。 今回のTOKYO2020の大失敗によって日本は約2兆円の損失を抱え込む事になり自公政権や保守勢力(笑)の時代は終わりを告げます。
一般の国民は損失の埋め合わせをしなければならないので自民党はおろか、国家にまで敵がい心を抱く事になるでしょう。
自民党の太鼓持ちをしてきたネトウヨ連中にとっては『失業の危機』です。
小名木も『日本スゴい』本の出版やデタラメ講演会の開催等で糊口を凌いできましたがそれも終わりです。
底辺高卒は底辺高卒らしくアルバイトの非正規雇用で実直に働いておればヨイのです。
日本国に於ける『愛国の時代』は終焉を迎えました。
『日本を取り戻す』などチャンチャラ可笑しくて臍で茶が沸きます。 >>90
そもそもあの手の本はみんな過去形。
日本すごかった。今ダメなので、むりやり過去の栄光を作り出してそれに逃避。
みんなで逃避してたら、お先真っ暗だってことに気づかない信者たち。 ねずきちは何でも現代語ベースにした語呂合わせでしか考えられないのね。いまだに50音にこだわっている。
それが神代文字否定の大きな根拠なのにね。
まあ、彼の目的は古典知識の無い人を信者に引き入れることで、真実の追求では無いからね。 >>93
学校法人格すらない単なる私塾。
小名木一派は大学を僭称してカネ集めを企むエセ愛国集団。 「これまでこのように言われていたけれど、
誰が考えても、それっておかしいよね。
そこで事実に基づいて再考してみると、
こういう見方もできるよね」
これはそのとおり。
ただしねずきちの場合代替案として持ち出す再考の元となる"事実"というのが、現代語の語呂合わせだったりするわけ。
これでは誰も信じない。 信者は、数年の間はねずきちの記事に反射的に いいね! をクリックするように条件づけられています。 和泉式部の歌に対する、貴船明神の返歌の解釈を、ねずきちは以下のように訳していますね。
奥山に たぎりておつる 滝つ瀬の
たまちるばかり 物な思ひそ
貴船神社の御神体は、神社の奥にある滝です。
その滝が「たぎり落ちる」ように魂が散る、つまり毎日、多くの人がお亡くなりになっています。
要約すると神様の声は、次のようになります。
貴船神社の奥にある山で、
たぎり落ちている滝の瀬のように、
おまえは魂が散ることばかりを
思っておるのか?
人は、いつかは死ぬものじゃ。
毎日、滝のように多くの人が
様々な事由で亡くなっていることを
お前も存じておろう。
人は生きれば、いずれは死ぬのじゃ。
おまえはまだ生きている。
生きているじゃないか。
生きていればこそ
ものも思えるのじゃ。
なのになぜお前は
魂の散ることばかりを思うのじゃ。
ねずきちは、魂散るばかり、を、魂の散ることばかりを、と訳しています。
和泉式部の時代には、ばかり、という言葉に、限定の用法はありませんでしたから、これは大間違です。 この時代では、魂散るばかり、には
魂が散る程に、
という意味しかありませんでした。ですから、魂が散ることばかりを、という意味にはなりようがありません。
魂が散ってしまうほど、物思いをしてはいけない、という意味にしかならないのです。
このような本的なことをわきまえていないねずきちが古典についてどのようなゴタクを並べてもそれがまっとうな研究者に受け入れられるわけはありません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています