【ナゾロジー】セイヨウミツバチ 実は「アジア出身」だったと明らかに [すらいむ★]
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セイヨウミツバチ 実は「アジア出身」だったと明らかに
ミツバチの一種であるセイヨウミツバチ(学名: Apis mellifera)は、今日、ヨーロッパからアフリカ、中近東まで世界に広く分布しています。
一方、その起源の解明は、何十年にもわたって専門家の悩みの種となっています。
しかしこのほど、ヨーク大学(York University・カナダ)の研究により、セイヨウミツバチは、アジアで生まれた可能性が高いことが判明しました。
名前に”セイヨウ(西洋)”とあるからといって、生まれはヨーロッパのどこかではないようです。
研究は、12月3日付けで学術誌『Science Advances』に掲載されています。
(以下略、続きはソースでご確認下さい)
ナゾロジー 2021.12.08
https://nazology.net/archives/101047 ならばオオスズメバチ蒸し焼き遺伝子が受け継がれているかも アフリカ起源説がいくつか提示されているので「判明」は変
ミトコンドリアDNAでも最初期の2つの全DNAでもなく
18亜種251個体の全DNAデータから分析するとアジアって話し アジアはアジアでも西アジアなのか
アフリカミツバチも種類としてはセイヨウミツバチで
その亜種なんだよな >>8
西アジア
イギリス目線で中近東って言ってるだけ アジア、ヨーロッパという名称の起源
古代(前11〜前7世紀ごろ)地中海東部に栄えたフェニキア人が、
その地より東方の地域をアスAsu(日の出る地方)、西方をエレブEreb(日の沈む地方)とよんだのが、
アジアおよびヨーロッパの名称の始まりであるという。
フェニキア人という名称は自称ではなく、ギリシア人による呼称である。
ギリシア人は、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだ。
フェニキアという名称は、フェニキア人の居住地がギリシャ語で Φοιν?κη (Phoinik?; ポイニケー)と呼ばれたことに由来している。
その語源は不明であり、フェニキアがミュレックス(en)と呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから、「紫色」(または「緋色」)という意味のギリシア語を語源とする説も存在する。
今日でも南部のサイーダなどの町中でこの貝殻の山を見ることができる。
フェニキア人の母体となったとされるカナンという呼称も、アッカド語で染料を意味するキナッフに由来する。
歴史家ヘロドトスは、その著書「歴史」の序文で
「ペルシア側の学者の説では、争いの因をなしたのはフェニキア人であったという。
それによれは、フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、
たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。」
と書いている。 フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、現存する言語ではヘブライ語と同じカナン諸語に属する。
先祖はセム系のアモリ人の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれている。
彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。
ギリシア文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。 アムル人(英: Amorite)とは、主に紀元前2000年期前半に中東各地で権力を握った諸部族の名称。アッカド語ではアムル(Amurr?)、シュメール語ではマルトゥ(mar.tu)と呼ばれる。
旧約聖書にはアモリ人もしくはエモリ人の名で登場し、彼らはハムの子であるカナンの子でありカナンの諸部族の一つとされる。なお、アラム人と混同されることが多いが、全く別ものである。
彼らはウル第3王朝の後継者という意識を強く持ち、シュメール的な宗教観・王権観を強く受け継いだ。
そのためアムル人によって建てられたイシン第1王朝などでは碑文や法典などほぼ全てがシュメール語によって書かれた。
その後も彼らは行政語その他にほぼシュメール語やアッカド語を用いたため、アムル語の記録はあまり残されていない。
ウル第3王朝滅亡後にメソポタミア各地に成立したイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝はいずれもアムル系の人々によって成立した。
ただし、アムル人が統一した政治集団として活動を起こしたわけではない。彼らは互いに覇権を争う競合関係にあった。
アムル人が具体的にどのような経過を辿って権力を握ったのかについて正確にわかる事は少ない。
確実にいえる事は、ウル第3王朝の滅亡以後、メソポタミアで権力を握ったほとんど全ての王達がアムル系であった事である。
アムル人の中でも有名な人物にはアッシリアのシャムシ・アダド1世[やバビロンのハンムラビがおり、ハンムラビは自らを「アムルの王」と称した。
ハンムラビ法典で知られる「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理はアムル人の習俗から導入されたという説が有力である。
これらの王がアムル人より輩出されて以降もアムル人のメソポタミアへの流入は続きメソポタミアにおけるアムル人の割合は増加した。
しかしながら、総じてアムル人の浸透はシュメール・アッカド以来の王権、宗教観に決定的な影響は与えず、むしろアムル人達はシュメール・アッカドの文明を受け入れ同化していく事になる。
バビロニアやアッシリアに移住したグループは紀元前17世紀頃までに現地人と同化してアムル系である事は意味を持たなくなった。
しかし、シリア地方に残ったグループは紀元前12世紀頃まで記録に残っている。
紀元前15世紀末、レバノン北部に位置する歴史的シリア内部の山岳地域においてアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国された。
遊牧民を主体とするアムル王国は海岸に位置する近隣諸都市からの逃亡者を受け入れることで軍を強化し、内陸部に位置する諸都市へと拡張した。
アブディ・アシルタ死後の混乱期を越えて王国を取りまとめたアジルの時代になると、アムル王国は当時超大国であったエジプトとヒッタイトに挟まれた緩衝国家として両国からの重圧を強く受けるようになり、最終的にヒッタイトの従属国となった。
その後、紀元前13世紀末までヒッタイトへの従属が続きながらも独立した王国として存続していたが、前1200年のカタストロフによる社会の混乱でアムル人の独立国家は消滅した。
そしてフェニキアへ >>15
アスAsu(日の出る地方)
これが巡り巡ってドイツ語の東オストになりオーストリア
ラテン語では南の意味になってオーストラリアの国名の由来になるから
この2カ国が似てる名前なんだよな 『ハチはなぜ大量死したのか』(2011)ではコーカサス辺りとか書かれてたように記憶してるけど、コーカサス南部がトルコやイランだな。 コーカサス山脈付近はさらに内陸の寒冷地域の障壁になって温暖湿潤な所が多いからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています