いろいろ
魏志韓伝(馬韓)
 韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有
韓は帯方の南に在り 東西海をもって限りとなし 南 倭と接する 方4000里為るべし
韓は東西300kmで日本海と黄海に面する 南方は倭の領土と接している
奈良をいつからやまとと発音するようになったのか?
700年以降だが 倭国の歴史を成りすましで自己のものとしたかったテンムが古よりヤマトだったといい始めた
チクシ→倭→大倭(オオチクシ)→700年以降 大和(ヤマト)
700年以降白村江の戦いで敗戦し滅亡した倭国の紀元前からの歴史を 自己のものとして成りすました
奈良政権 其の証明として日本書紀をつくったが皇国史観の呪縛が解けるにつれ襤褸が出始め
人々は正しい歴史を知りはじめた
天孫降臨は九州の島を拠点として 九州へは糸島が橋頭堡 次にヒナタ山を東に越えて 福岡平野西部ヨシタケタカキへ進出此処がニニギの宮殿と墓
先住民リーダーのサルタヒコと戦い後懐柔する
其の後東南へ移動し春日市スクオカモトへ此処がヒミカの宮殿と墓 次に倭の五王時代では太宰府へ首都を移す
倭国終焉の700年まで
サルタヒコを祀る神社が福岡市西新にあり今も賑わいを見せている
ニニギがきたとき簡単に降伏しておれば人々の尊崇を集める事はなかったと思う
抵抗したからこそ2000年後の今も祀られている
菅原道真の失脚の理由は
菅原道真の祖先はアメノホヒノミコトと言われている
天孫降臨族だ 倭国の歴史は700年迄続いた
菅原の時より僅か200年前のこと
万葉集に倭国人の歌として掲載されていない歌の研究により
倭国編纂の古万葉集の存在を知る
追求すれば更に深く知性無き者は諦めるしかないと感じる研究に
回答したのが新選万葉集 之が奈良政権の怒りを買うこととなった
安楽寺を墓所としたのは偶然では無く 道真の希望だった
祖先の地倭国の首都であり あまみつる天満の神を祀るところを望んだ