■遺伝学では「人種」は否定されている

今年4月、アメリカ・ミネソタ州で警官によって「黒人」男性が殺害された。その映像はテレビやSNSで世界中に拡散され、アメリカ各地で差別に抗議するデモが行われるとともに、暴動も起きた。こうした反差別デモは「黒人の命は大事だ(Black Lives Matter)」の標語とともに世界各地に広まっている。

そうした中、「人種」による差別(レイシズム)があってはならないということ自体は多くの人が共有しつつも、「人種」の違いをどう乗り越えるべきか、あるいは「人種」間の平等がいかに可能かをめぐっては、議論が錯綜しているように思われる。「人種」が違っても差別をしないよう心がけ、差別を禁止する法律を整備すればレイシズムは徐々になくなっていくのだろうか。

このように問うなかで、しばしば忘れられている前提がある。それは、遺伝学的見地からは、「人種」は存在しないという指摘がなされていることである。しかし、そう言われても、感覚的には納得できない人は非常に多いはずである。また、「人種はない」という表明は、現在も明白に存在するレイシズムを隠蔽しているようにも思われかねない。むしろ、単純に「人種はある」と考える方がふつうなのではないだろうか。

(中略)

■「人種」の存在を否定する遺伝学

2018年、米国人類遺伝学会(ASHG)は「人種」概念を用いないよう声明を出した。

この声明では「白人の優越性」を主張することに警鐘を鳴らし、生物種としての人類に下位分類はできず、遺伝的に人類を異なる集団に隔てることはできないと述べられている。加えて、「人種」とは社会的構築物であることが強調されている。

このような立場は米国の遺伝学に限らない。例えば、フランスの遺伝学者であるベルトラン・ジョルダンは邦訳もある著書『人種は存在しない』において、生物進化、医学、薬学、スポーツ、知能などの事例を取り上げながら、「人種」がないということを説得的に論じている。ジョルダンの基本的な立場は、先の声明と同じである。

■「人種」と薬効

遺伝学においては否定される「人種」概念であるが、医学や薬学では積極的に用いることがあるようである。その理由の一つは、体質や薬効について、「人種」区分が有効と考えられるからである。このような立場を分かりやすく示す事件が、2005年に米国食品医薬品局(FDA)によって販売を承認された治療薬BiDilの開発である。

ジョルダンの『人種は存在しない』はこの事件を次のように整理している(邦訳166〜174頁)。BiDilとは心不全の治療薬であり、「黒人」ないしはアフリカ系アメリカ人の患者の治療のためだけに開発され、承認された「特定人種用の医薬品」である。この医薬品はしかし、既に存在していた、動脈を拡張させる効果のある二つの医薬品を組み合わせただけにすぎない。

また、BiDilの科学的根拠として用いられる「人種」概念は遺伝学の見地からは完全に誤りであり、この医薬品の開発は商業主義的な目的でしかない。にもかかわらず、全米「黒人」地位向上協会(NAACP)などもこれを支持してしまった。

文化人類学者のジョナサン・X.インダは、最新のテクノロジーと商業主義とレイシズムの結びついた事例として、BiDilの開発と販売を分析している(Jonathan Xavier Inda, 2014, Racial Prescriptions: Pharmaceuticals, Difference, and the Politics of Life, London: Routledge)。

また、扱われている主題は薬効に限らないが、国際的に権威のある医学誌であるBMJは今年、「医療におけるレイシズム」特集を組んだ。このように内部からもレイシズムが問題にされていることから、医学・医療における「人種」概念の使用はしばしばレイシズムと結びついていると仮定することは可能であろう。

■人種はないが、レイシズムはある

「人種はない」ということと「レイシズムはある」ということは一見対立するようであるが、実際には両立する。このような立場を示したのが、イギリスの社会学者ロバート・マイルズである。マイルズによれば、「人種」があるのではなく、それがあるように信じさせるレイシズムがあるのである(Robert Miles, 1993, Racism After ‘Race Relations’, London: Routledge.)。

「人種」はないにもかかわらず、どうしてそれが確固としてあるように思えてしまうのか。レイシズムに反対する側も、どうして「人種的平等」などと唱えて「人種」を実体化してしまうのか。ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み、さらには社会的現実こそが問われなければならない。

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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73415