>>71
>「(北部)九州勢」がその時期に「畿内(本州)勢」に「吸収された」とみるのが妥当。

そこまで理解していながら、なぜ九州説なのか素朴な疑問
2つほど質問していい?

・九州説前提だと畿内ヤマトは魏志倭人伝に登場しないことになるが、なぜだと思う?

前方後円墳が北部九州で築造されるのは3世紀中頃以降になるが、3世紀前半から畿内系土器が北部九州の各地で出土している
伊都国の中枢であった三雲遺跡でも、奴国の中枢であった比恵・那珂遺跡でも出ている
ちなみに、3世紀前半とは北部九州の標準的な土器編年のこと(久住編年)
そんな状況で、魏使が畿内ヤマトの存在を知らなかったと考えるのは無理があると思わない?

また、魏使が倭国の情勢を調査するにあたり、コンタクトするのは一般庶民ではなく、
伊都国の支配階級になるであろうが、彼らが嘘をついたってこと?

中国鏡の取引は3世紀からは畿内が独占して、九州勢力は蚊帳の外に置かれたことは知ってるだろうけど、
中国にとって倭国でのメイン取引先である畿内ヤマトの存在を知らないことにするのは矛盾してると思わない?

・伊都国や奴国が九州邪馬台国の影響を受けていないのはなぜ?

伊都国も奴国も、畿内系土器の浸透→前方後円墳築造の流れがあり、その動きは3世紀前半から始まってる
しかし伊都国や奴国をいくら発掘しても、九州邪馬台国に繋がるものが何も発見されないのはおかしいと思わない?

九州説論者がよく言うことに、「邪馬台国はヤマト王権に跡形もなく破壊されたから何の痕跡も残ってない」とか
「詳しい場所が不明だから遺跡が見つかってないだけだ」というのがある
でも、伊都国や奴国は場所がわかってるし、破壊されてもない
同じ場所を同じように発掘して、九州邪馬台国の痕跡だけが見つからないってありえないと思わない?