【考古学】日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測 邪馬台国の有力地の纒向遺跡から出土 [しじみ★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石(といし)などとされてきた150例以上は筆記用具のすずりでは? 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最新論文でそう指摘している。日本での本格的な文字文化の広がりは5世紀ごろともされるが、石製品がすずりなら、文字の使用が紀元前にさかのぼる可能性を示唆する。
奈良県桜井市の纒向(まきむく)学研究センターの研究紀要で4月23日に公表した。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「伊都国(いとこく)」の都とされる三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡(福岡県糸島市)で2016年、弥生時代後期(1〜2世紀ごろ)のすずりが見つかったことに注目。邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市、3世紀初め〜4世紀初め)の出土例も含め、中国・近畿地方も含めた西日本一帯で、弥生時代などの石製品の実測や探索を進めた。
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200503000718_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200503000717_comm.jpg
https://www.asahi.com/articles/ASN5340WDN51POMB002.html 墨を削って字を書いたということですか? ?
日本すごい >>3
かなり古いくさび形文字が出てきているのに、何を今更 小学生の頃、墨汁があるのにすずりを擦る意味がわからなかった
今もわからない 邪馬台国は冊封制度に参加していたんだから、文字があって当然。
仲哀天皇グループは文字無し生活をしていたかもしれんが。 問題は弥生時代の文字記録そのものが存在しないことだな 何の不思議もない。
中東の砂漠の端っこで聖書とか書いたり、ローマ皇帝が布告書を出してた時代に、日本で文字がないと考えるのが異常。
漢字の導入とかは、今まで個別に古代文字や漢字混用してたのを、東アジア圏共通文字の漢字に統一したというだけだろ。
あたかも現代において漢字ひらがなを廃止して教育と公文書を英語に統一しようという流れみたいなもんだろ。 韓国にはスズーリを持って朝鮮文字を書いてる壁画がある、文字の起源は韓国 神代文字とかそういう話じゃないのか、安心。
正直紀元前くらいから文字は多少使われてたとは思うな。
中国から船で文具を持ったまま流れ着けば、日記や詩を多少認めるだろうし、
それはその後きれいさっぱり歴史から消える。
全うな歴史書なんかができるってのは文字の流入からかなりの期間がたってからの話だよ。 縄文にも、もちろん文字はあった。こういった日本古代史は、
なぜか日本人よりもユダヤ人の方が、詳しいという事実。 スレタイ捏造で逆に畿内派の焦りが見えて興味深いぞしじみよw なぜ文字記録が出てこないのか
理由のひとつは大和朝廷が徹底的な焚書をしたから
続日本紀にもフツーに書いてあることだ 神代文字の文献を極めると 日本の真の歴史が見えてくる、はず。 魏志倭人伝に倭人は文字がなくって書いてあったじゃん。
とは言え、何もなきゃ、生口連れて朝貢できんしな そりゃ昔から大陸と交易があるんだから文字くらい使うだろうな そりゃ九州王朝を構成した勢力のほとんどは
大陸王朝の末裔なのだから文字を使うのは至極当然なこと
重要なのは彼らが古代シナ語を日本に広めるのではなく
日本語を受け入れ、漢文を日本語で読み下す技術を開発したこと
これがなければ日本は完全にシナの一部になっていただろう ウリたちが倭猿に文字を教えたことに変わりはないニダ >>12
民明書房刊「文字は何処から来たのか?」より 硯であれば墨、すなわち炭素が検出されるはずであるが、そうしたものは検出されているのかな? これだけ文字に囲まれてると、
どうすれば文字のない生活が出来るかが想像しがたい そろそろ「旧記」を公表してみたらどうですか?宮内庁の皆さん
そろそろ「削りくず」を公表してみたらどうですか?九歴の皆さん つうか紀元前のほうがいろいろあった感じ
なぜ中世ああなった? 漢字導入の過程で古代文字による翻訳本とか作られなかったのかねぇ
漢字導入以前でも大陸から書物が入ってきたら内容の解説を日本語で残すと思うが 3000年ほど前から長江流域を起源とする移民が日本列島に流入してたんだから文字も持ち込まれてるだろ
特に、2400年ほど前に大勢の呉人、2100年ほど前に越人が入植している >>34
もしそんな書物があったとしても
記紀の普及に全力を挙げていた大和朝廷が徹底的に回収&焚書しただろうな
日本統一のためにやむを得ない措置だったのだろうが 黒い絵具を溶く容器ではないのか?
魏志倭人伝には、当時の倭人はイレズミ(鯨面)をしていたとあるので、そのための墨とか。 >>18
竹簡が腐敗して残ってないだけでしょ。
日本でも、亀甲占いとかやってたら殷文化並みに
記録が残ってるんだろうけど。 >>18
全ての歴史書を焼いたから、1冊も残っていない >>39
知らんのか?
『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条
「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首さぬは、復罪ふこと初の如くせよ。」 >>33
「ああなった」てのはいわゆる鎖国のことかな?
そりゃ理由の一つは宣教師を尖兵とするキリスト教徒どもの侵略を阻むためだろうな そもそも日本近海水深130m以内にある
氷河期時代(1万年以上前)に陸地だった場所の
石工遺跡に絵文字が刻まれてるんだから
全ての文字の大元が日本
鬼界カルデラ大噴火(7300年前)によって日本人が世界中に散らばって出来たのがペトログリフ >>6
鉛筆があるのに筆を使うことには疑問を持たないのか 卑弥呼の時代に文字はあった
国書を携えた国使が魏に行ってるから
日本人に文字を教えてやったと嘘をつき、恩に着せる朝鮮人は
古代末期から中世初期までシベリアで石器狩猟生活をしていた
王仁はシナ人であり、日本の皇室の子女の家庭教師として百済王が献上した
王仁が持ってきたとされる千字文は後世の本であり、時代が合わない 漢字と別系統でも不思議は無いな
文明の母のシュメールはどうも東側のアジア系っぽいし
文明の断絶は古代ギリシャローマにしても簡単に起こる アメリカ人の着ているTシャツの漢字みたいなもんだろ
意味は分かんないけど、なんとなくクールだぜ! 縄文時代など言葉も無く文字も無く人間が無言で何も書かずに暮らしていたのかい。
そんなのは有り得ないことだ。縄文時代では広く交易が行われていたことにより、
言葉も文字もそれなりに発達していなければ交易など出来る訳が無い。中国の「古書」
では漢字の元になるものは日本から伝わって来たとあるんだがね。
日本は考古学が文系の学問とされているようだがこれはダメだ。考古学は理系脳
が必要とされる学問である。文系脳であると、まず自分の思いや思想があってそれに
沿って物事を捉える様だ。分析とか仮説とかデータとかロジックとか、、客観性とか
論理性とかが欠如している。だから日本の考古学はお粗末でレベルが低すぎるのだ。 日本に稲作が伝えられた時に、文字も一緒に入ってきたんだろ?稲作だけ伝来して
文字や文化、衣服が入ってこないなんてありえない。長江流域から来たんだから、
呉服、製塩、なれずし、文字、占術も長江文化のものだったんだろうね。 矢じりを埋めてたのがばれて歴史が変わったぐらいだし。 いくら弥生時代といっても四則演算が出来ない奴は商売はできませんよね、注文書も書くし在庫管理も必要・・・ >>18
それな
腐敗しやすい竹簡以外にも記述された石碑文なども破壊
大和朝廷天皇家の歴史捏造はカリアゲや韓国もビックリw >>57
ただし、そのおかげで1300年王朝が拓けた
不比等はじめ当時の為政者はそれなりの志と罪悪感があったようだ
その証拠に日本書紀にはいくつもの明らかな不審点が含まれ「不比等の暗号」といわれる
後世この国が安定したとき、この暗号を解き真の歴史を探求できるように、との願いがあったのではないか
ところが現在この暗号を解いているのは市井の研究家たち
第一線の学者研究者どもは記紀原理主義に陥り、勝手に行き詰まっている
不比等もあの世で落胆しているのではないか >>57
記紀原理主義だよな。
史学、考古学は日本では成り立たない。
無理。 >>1
まず道具として使っていたかどうか。中国からの贈答品の可能性もあるから素材で調べる。付着物からの推定は年月を考えると難しい。ただ交易、交流はあったから、読める、書ける人間が日本側にいてもおかしくはない。 >>33
ローマコンクリート含めて技術が何らかの理由で途絶えるのはよくある事だよ。 まあ、それなりの人がいれば文字を生み出すでしょ。
それが広く社会に浸透するのとは別だけどさ。
そんなものが、古代文字だよん。 >>11
だからその文字が記された碑文なり遺物はどこにあるんだと
現物はどこかと 石に彫ったりしなかったのかね
硯ってことは皮とか紙だろ?古代エジプトみたいだな >>64
個人的には、的外れな場所を発掘しているのでは?と思ってる
全然違う場所で見つかるとかね
想定外の地域が邪馬台国でした、とか 日本書紀の最初の方も中国人が書いてるという話だから、
文字記録より口伝を重んじる文化だったんだろ。 同じ頃、ローマ人は酒池肉林で上下水道。
公衆浴場にコロセウム。 硯だとして必ずしも文字を書いたとは言えんだろ
もしかしたら絵を描いてたかもしれないし だが弥生土器に文字がないのはなんでだ?
文字あったならそれこそ先進文化の象徴のように文字を書いていたと思う
精々舶来鏡くらいだろ当時の文字って >>70
その絵はどこにあるんだ?
あるなら洞窟の奥で発見されても良いでしょう >>61
図星だな。くそ蛆の
カマッテちゃん。
>>72
https://www.google.com/search?source=univ&tbm=isch&q=古墳の壁画&sa=X&ved=2ahUKEwjkocXF7dnpAhVJ7WEKHSVyCH0QsAR6BAgKEAE&biw=1502&bih=682&dpr=1.25 >>71
消耗品の土器になぜ文字が書いてないのかとか言うのかお前は 史学、考古学は日本では成り立たない。
特に宮内庁管轄する歴代天皇一族の古墳。
埋葬者のDNAよる鑑定はやらせない。
日本考古学会は、それをアピールもせず、
要求もしないのか? 文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 >>69
ローマがすごいのって道作ったからかもね
あのおかげで遠くの情報共有できたし、土地の監視もできたし 渡来人は春秋戦国時代の戦乱から逃げてきた中国人っぽいけど
彼らの文字や話し言葉は、どうだったんだ? 弥生人って中国大陸から来たんだよ。
だから中には漢字を使っているやつもいた。
特に、徐福の関係者。
それだけのことだよ。 >>80
紀元3世紀で卑弥呼の時代だから、この時代まで中国人渡ってない可能性ないか?
アボリジニとかインディアンみたいな土人レベルの可能性あるだろ 弥生時代後期までは、委奴国(伊都=現在の福岡県糸島市)が国内最大勢力だったんだけど
弥生時代末期である2世紀後半に大規模な戦乱があったことが判明していて、
これ以降、邪馬台国(大和=現在の奈良県桜井市)に権力が移行する・・・
その頃の大和国の女王が有名な卑弥呼である。
征服した伊都国には、一大卒という大宰府の原型を置いて、畿内からの九州統治、
あるいは外交の要所とした。今の大宰府に移ってきたのはもっと後の時代・・・
その後、大和による西日本の平定は続き、3世紀半ばを以って古墳時代の始まり、
すなわち大和王権(あるいは大和朝廷)の始まりとなる・・・ かの魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)
は奴国(現在の福岡市)に留まった中国の役人の伝聞で書かれている。
中国の正史において、当時の日本(倭国)についてまとめられた最初の記述であり、
弥生時代最末期の日本人の習俗や、大和が国内を平定していく様子、
あるいは現在まで続く大和朝廷の萌芽を示すものである。
3世紀半ばの古墳時代の開始と共に記述が終わっており、
その後は中国の混乱とともに5世紀まで日本の動向については記録がない
(いわゆる空白の4世紀) 文字を書いてたとは限らないのでは?
刺青だのボディペイントだのあるだろ >>6
忍耐と精神統一を養うって
文字というのは神聖なもので昔は新聞を踏むと叱られる 古事記、日本書紀以前の文書が残っていないのは、なぜ?
古墳の埋葬者がわからないのは、なぜ? まぁ当時の中国から貰った鏡には文字が書いてあるからね。
邪馬台国が貰ったと思しき景初三年(238年)の銘が入った鏡が出土している
おそらく権力の中枢にいた層は文字を読めたと考えられる
日本は高温多湿であるため、記録が残りにくいこともあり、古いものは金石文
(石や金属に彫りいれたり、象嵌をしたもの)になってしまう
なもんで、日本人が残した文字として最も古いのは
埼玉県の県名の由来となっている「さきたま」古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘(国宝)だろう
これは雄略天皇に仕えた武官が代々、古墳時代初期から大和朝廷に仕えてきた系譜と
鉄剣を作った経緯を鉄の剣に金の線を埋め込んで書き残している。
これが作成されたのは辛亥年(西暦だと471年)七月と書いてある。 稲荷山古墳出土鉄剣銘
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中しるす。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。その児、(名は)タカリのスクネ。その児、名はテヨカリワケ。
その児、名はタカハシワケ。その児、名はタサキワケ。その児、名はハテヒ。」
「その児、名はカサヒヨ。その児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首となり、奉事し来り今にいたる。ワカタケルの大王の寺、
シキの宮にある時、われ天下を左治し、この百練の利刀を作らしめ、わが奉事の根原を記すなり。」 >>88
神武は東征したのではなく
近畿日本に請われて頭に据えてもらった雇われ店長であり
記紀は神武東征を捏造するために書かれたものだから これはちょうど同時期の話だな。この頃になると日本国内の知識階級は漢文を読みこなしてた。
↓
倭の五王の上表文
倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)
躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、
寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)
倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、
対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っていることを
誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。
この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から
引かれているものが見受けられるという。
例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた雄略朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。 >>76
そう
どうさかのぼっても3世紀が限度なんだよね日本の文字記録は
これ以上は出土品がない限り主張は無理だわ 因みに箸墓は崇神の墓であり崇神は現代日本の祖
モモソがどうのなどネタを言ってはならない
不敬極まりない
神武は王族でありながら自分の故郷(投馬国=妻国=隼人)と敵対する可能性のある近畿日本へ寝返ったクズ
で無能な人間
おそらく志村のバカ殿みたいな存在だった
欠史八代は神武の種の無能ぶりを表している 仲哀暗殺は神武東征の捏造の副作用であり
バカの神武系から有能な崇神の母方系へ
血を変えるためのクーデター
崇神の母方系の一族こそが日本を作った人たち
神武雇われ店長の副作用
頭を他所から借りてくると言うウルトラCは、それなりに効果はあった。
中国はウソだと気づきながらも、結局は近畿日本の言い分に渋々乗っかった訳だから。(新唐書)
しかしそのかわり深刻な副作用も起こした。
1. 正史である記紀が捏造だらけになったこと。
2. 焚書をせざるを得なかったこと。
3. 神武のように、王族でありながら敵国へ寝返る人間などクズでしか無かったこと。
近畿日本は神武のタネのカスぶりに苦しめられることになる。
その端的な例が欠史八代。
4. 天皇暗殺。仲哀が暗殺されたのは実に仲哀が神武系のバカだったから。
「せっかく崇神で持ち直したのに、ヤマトタケルと言い仲哀と言い、またバカのタネに戻るのか?
もういい加減にしてくれ。」
実に、これが仲哀暗殺の理由。みんなこれを分かっており、仲哀は暗黙の了解のもと暗殺された。
5. 近畿パーのような病的なウソつきを多量に作り出したこと。
(因みに、ヤマトタケルの事績はほとんどただのウソ。恐らくは赤の他人からのただの借り物。
ヤマトタケルの事績の内、事実なのは多分兄殺しだけ。) 近畿日本は簒奪者ではない。
近畿日本は当時の国際情勢ゆえの方便としてのギリギリのウソはついたが、簒奪者ではない。
つまり近畿日本は日本の正統な政権である。
これは非常に重要な事であるので、全ての日本人は確認する必要がある。
1 九州倭国は近畿日本へ事実上の禅譲をしていた。
隋書
>開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
これは奴国王。
>上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、
天は高天原=筑紫平野の邪馬台国であり、
日は近畿日本のこと。
>天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
これは奴国王が既に近畿日本へ事実上の禅譲を行っていた事を示している。
これは非常に重要な記述だ。
>高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
これが小野妹子が紛失したことにした「隋からの国書(実際は訓令書)」のことで、
倭人の代表は九州倭国であり、お前ら近畿日本は認めないと書いてあった。
2 九州倭国は基本自滅したのであって、近畿日本が攻め滅ぼしたのではない。
九州倭国は白村江の戦いで滅亡したが、この戦いに近畿日本は参加していない。
3 近畿日本は九州倭国に対して最大限の配慮を行なっている。
磐井の乱のとき、一気加勢に攻め滅ぼしても良かったはず。ところが敢えて許している。
むしろ磐井を筑紫の君と呼び、太宰府(倭京)を遠の朝廷と呼び、最大限の尊重をしていた。
中大兄皇子が即位をあのように遅らせたのも、即位を倭国滅亡まで待ったから。
このように可能な限りの配慮を行っている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています