この問題は解決済だ。
別名:「Einstein=Rosen=Podolsky paradox」
アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス

隠れた変数理論は間違っていた。
よって、「物理学の根本に、より違いのは、量子力学だ」となった。

もともと、西欧には、「イデア」(プラトン)という仮説がある。
この仮説とは、
「実は世界は、極めて単純であり、現実の世界が複雑なのは、
 この世界が、そういった単純な世界の影だからだ」という仮説だ。

量子電磁気学で、反粒子(陽電子)を理論預言したときも、
「数学的に美しいから、反粒子のある理論は正しいだろう」と理論家は言った。
言い換えるなら、
「この世界の本質は『数学的に美しい世界』であり、
現実の世界が複雑なのは、この世界が、『数学的美形世界』の影だからだ」ということになる。
無数に考えられる理論から、超弦理論や超対称性理論が、熱心に選ばれるのは、
こういった理由があるのでは?

しかし、この世界の本質(物理法則)が「我々人間の脳にとって美しい?」「数学的に美しい」必然性はあるのだろうか?(プラトンのイデア仮説)
もともと、物理学の源流は、キリスト教の光学だとも言われる。
つまり、聖書にある「まず光があった」などの記述に基づいて、
光を研究すれば、この世界が神の御意思に基づいていることが自ずと示されるはずだ…から始まった、とも言われる。


「シュレディンガーの猫」のパラドックスでは、思考実験で本来、毒ガス室(アウシュビッツ)送りにされるのは人間だったはずだ。
つまり、当時、「観測問題」というのが議論されていた。
「どこまでが量子力学の支配する微視的な領域で、どこからが古典物理学の支配する巨大領域なのか?」という議論だ。
で、量子力学的な微視的領域の量子力学的な事象を、巨視的な領域まで増幅させたのが、「シュレディンガーの猫」パラドックスだ。

猫にとっては、毒ガスが放出されるかどうかは、既に決まっている。
しかし、その猫を観測する人間にとっては、毒ガスが放出されたかどうかを知るのは、箱を開けたときだ。
当時、観測問題を決定するのは、「人間の意識に届いたときが観測だ」としていた。
で、猫を人間に置き変えると、では、毒ガス室の観測が終わるのはいつ?となる。
中の人間にとっては、観測は済んでいる。
でも、箱を開ける人間にとっては、観測は箱を開けたときだ。
EPR(量子もつれ)に言い換えてみよう。
STEP1:毒ガス装置と猫の状態が量子もつれの状態になる。
STEP2:猫の状態と、箱を開けて猫の状態を知る人間の意識の状態が量子もつれになる。

換言すれば、
「観測者(人間Aの意識)と量子現象Bが量子もつれの状態になること」を、
「人間Aが量子現象Bを観測した」と呼ぶのだろうか?
「観測装置Aの状態と量子現象Bが量子もつれの状態になること」を、
「観測装置Aが量子現象Bを観測した」と呼ぶのだろうか?

となると、
量子もつれの状態に陥った「観測者(人間Aの意識)と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
量子もつれの状態に陥った「「観測装置Aの状態と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
量子もつれの状態に陥った「「宇宙Aの状態と量子現象B」の組み合わせは無数にあるかもしれない、
これを「多重世界論(並行世界論)」と呼ぶのだろうか?