【考古学】仁徳天皇陵で円筒埴輪列を確認 築造に数十年のずれか 宮内庁と堺市が初の共同調査[11/22]
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国内最大の前方後円墳で百舌鳥(もず)・古市古墳群の一つ、仁徳天皇陵(大山(だいせん)古墳、堺市堺区)を調査している宮内庁と堺市は22日、墳丘を囲む堤(つつみ)で1列に並んだ円筒埴輪(はにわ)や石敷きが見つかったと発表した。同古墳で円筒埴輪列が確認されたのは初めて。日本書紀などから仁徳天皇は4世紀末に死去したともいわれるが、埴輪は5世紀前半〜中頃の特徴を持ち、数十年のずれがあるとの指摘もある。仁徳天皇陵では以前も同時代の埴輪が見つかっており、築造された時期や被葬者をめぐる議論が熱を帯びそうだ。
古代の天皇や皇族の墓とされる「陵墓」を同庁が外部機関と共同発掘するのは初めて。
墳丘を囲む2つの堤のうち、内側の第1堤の南側に調査区(幅2メートル、長さ30メートル)を3カ所設置。地表から20〜40センチ掘り下げると、各調査区で直径約35センチの円筒埴輪4〜5本が接するように並んでいた。いずれも基底部だけで、上部は割れて失われていた。
今回の調査地の約100メートル西では昭和48年に同時代とみられる円筒埴輪1本が出土していた。このことを合わせて考えると、埴輪列が堤を1周するように約2.6キロにわたって7千本以上が立てられたと推定できるという。
ただし、埴輪列があったのは堤の外縁部だけで、墳丘寄りの内縁部では確認されなかった。大型古墳では堤の両側に埴輪を並べるのが一般的。仁徳天皇陵では当初から内縁部に埴輪列がなかったか、墳丘を囲む周濠(しゅうごう)の水による浸食で埴輪列や堤の一部が崩落した可能性もあるという。
一方、堤にはこぶし大の石が敷き詰められていた。堤で石敷きが確認されたのは、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群では初めて。堤を荘厳に見せるためだったともみられる。
同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。
https://www.sankei.com/images/news/181122/wst1811220028-p1.jpg
https://www.sankei.com/west/news/181122/wst1811220028-n1.html 難波駅には 大きなハニワ像を飾っておくべしだよ
大阪は、ハニマル君の場所だから ^^ 僕は仁徳天皇は450年前後に薨御された前提で考え事に耽っています
概ね整合的になります
和の五王の朝貢の中に
第16代仁徳がいて
第21代が全国制覇の雄略で
第26代が福井からやってきた継体 >>64
マルクス主義的な学者であれ御用学者であれ自分たちの都合で
考古学のデータを改竄する輩は最低だ。俺はたとえ古代の天皇が
百数十歳生きたという自分の中の常識に反する事実が出て来ても
それが本当であると確定されれば信じるよ。記紀に書いてあること
(矛盾はあるが)が何から何まで調べても国家権力の悪意の一切入
っていない、純朴な伝承を集めたものであることが文献学的にも
証明されるなら信じるよ。神話の神々が実在したことが証明された
ならそれも信じる。神武天皇が紀元前7世紀の人物であることが
判明し、天皇の血筋が一回も途切れていないというなら俺は右翼に
なってお国のために命を奉げるよ。だから調査をどんどん進めてくれ。 >>78
スフィンクスとその周りに作ったエジプトの遺跡群みたいなこともあるだろうな 古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm
あくまで仮説だろうが、これまでの通説と大いにズレまくるよ。
神功皇后:生没年 359〜398(41歳) 在位 390〜398(9年)
応神天皇:生没年 390〜430(41歳) 在位 399〜430(32年)
仁徳天皇:生没年 410〜459(50歳) 在位 433〜459(27年)←ここ
それ以降は
左は日本書紀などによる誕生年。→右はそれを修正した推定誕生年。
()内は没年齢。どうやらこの人は継体天皇は雄略天皇の死後20年
かけて大和を攻略し武烈天皇を傀儡にしたものの皇位を禅譲されなか
ったと考えているようだよ。
履中:336年(70歳)、369年(64歳)→ 428年(38歳)
反正:378年(60歳)→ 432年(39歳)
允恭:377年?(78歳)→ 434年(47歳)
安康:401年(56歳)→ 457年(27歳)
雄略:418年(62歳)、366年(124歳)→ 463年(44歳)
清寧:444年?(41歳)→ 494年(18歳)
顕宗:450年?(38歳)→ 477年(38歳)
仁賢:449年?(50歳)→ 475年(51歳)
武烈:489年?(18歳)→ 514年(20歳)
継体:450年(82歳)→ 485年(50歳)
安閑:466年(70歳)→ 505年(31歳)
宣化:467年(73歳)→ 506年(34歳)
欽明:509年?(63歳)→ 527年(45歳)
>>81
参考にどうぞ。 >>18
災害大国で失われる前に調査と保存は急務
歴史的に疑念がある以上、真実を知りたいのは自然な願い 仁徳天皇の墓という歴史に異を唱えたいだけの研究
文字がない時代の歴史を探っても何も確定できないだろ >>58
古事記から日本書紀でも
記述が相当、増えてるのに…
天孫降臨が179万年前のこととか
日本書紀だけの設定で古事記には無いぞ 歴史を左翼思想に応じて捻じ曲げる左翼学者には調査させるんじゃねーよ >>38
んなこと言い出したら全員アフリカだよ(爆) >>1
28年の違いを数十年と書いてしまうのが、この記者がバカだから。
信憑性が低い日本書紀だと399年の崩御だけど、古事記の干支だと427年となる。
で、今回の埴輪は、「埴輪は5世紀前半〜中頃の特徴」を持つと言うことだから
古事記の崩御干支が正しいことを示したことを、ニュースにするべき。 年号なんてつくったおかげで史実が混乱
やっぱりアホ民族なんだよなあ >>54
その書簡って容貌がカリスマ白人でピラトが誉めまくっているやつだよね?
出来過ぎたフェイクって感じ
聖書読んだことのない人は簡単に騙される そもそも、日本語で数十年というば、普通は、「五、六十年」のことを示す。
戦後英語の影響で、「any」が、「2〜3個」、severalが「5〜6個」と中学で習うが、
どちらも、数個と訳してしまうことによる弊害が現れている。
二、三十年を、数十年と言ってしまうのは間違いだ。 >>62
神話は何かを暗示する象徴表現
後世に伝達する上で記憶に定着しやすいシンプルなもの 日本各地のピラミッドやら剣山のミイラやら
もっと古代のことが知りたいんだが >>87
文字が無いんじゃなくて残ってない
鉄剣とかなら辛うじて残ったりするけど、木簡の類は日本の気候・土地ではまず残らない
現存する最古の木簡で既に歌が詠まれたり帳簿が付けられたり苦情が書かれたりと
文字が一般に普及していると伺えるので、仁徳天皇時代でも文字は使われていたと考える方が自然
現に出土したその時代の鉄剣には銘文が彫られている物がある >>76
俺んとこは丘の頂に古墳が集中してるけどな >>42
1年の数え方が、今と違うだけじゃないの? >>57
ですよねー、亡くなった年に完成なんてありえないし
亡くなる前に用意して置くものとか言い出すのかしらねぇ? >>103
奈良時代以降の書物でも日本書紀で130歳生きた計算になるような
天皇はやはりその年齢前後で叙述されている。大昔の天皇の年齢に
興味をもった貴族でさえ昔の一年と今の一年とでは数え方が違う
という発想を持っていない。 >>103
日本書紀編纂者が神功皇后を百何十年も前のヒミコの時代を
生きていたかのように工作していたことは明白。国威発揚のため
過去の天皇の活躍時期をずっと昔に引き伸ばした分仁徳天皇が亡
くなった年が30年あるいは5、60年も前に引っ張られているという
こと。応神天皇と百済本紀の間に120年のずれがあるから、日本書紀
編纂者は二倍歴ではなく60年ごとに巡ってくる干支を利用して歴史を
誤魔化していると考えられる。でもなぜかこの説、二倍歴に比べて
不評なんだよな。 >>106
皇紀が干支から推測される値ってこと自体を知らない奴多いからじゃね? これ堤の一部なんぞなんで?と思ってたんだが
大凡埴輪が出る目星がついてたんだな >>77
史学・考古学じゃ5世紀頃と言われてたような
日本書紀を頼りにした宮内庁くらいでは、4世紀だの万世一系だの言ってるのは >>109
そうだよね。古事記の仁徳崩御の干支は、427年でそれが正しいだろうと私は思う。
日本書紀の399年は信憑性が低い。
しかし、日本書紀の記述も、西暦450年以降は信頼できそう。
たぶん、西暦451年頃に、元嘉暦がもたらされている。これは小川清彦氏の暦法の研究から
科学的に類推されていること。
日本書紀の450年以前の日付の計算は、儀鳳暦を使って捏造されていると考えるのが
自然。 4世紀に作った古墳が地味で天皇陵に見えないので
5世紀に作られた埴輪で豪華にしたとかね >>111
違うって。倭の五王が朝鮮半島に絶大なパワーを持ってい、中国南朝の宋に使いを送り
安東大将軍に任命されたのは、451年の事だと、宋の史書に書いてある。
だから、その頃の倭の大王が、巨大前方後円墳の被葬者であることはまず間違いない。
で、日本書紀には、仁徳天皇は399年に亡くなったと書かれているのだけれど、
古事記に書かれている没年の干支は、427年だと判断される。そのうえで
今回、発掘された埴輪は、400年から450年頃のものだったというニュースなわけ。 >>21
www
近所の「百姓」オヤジを低く見ているようだが
>>7
ここではないが672年壬申の乱以降
「倭」→「日本」の国号、
「大王」→「天皇」諡号を最初に使用した、記紀神話では40、41代目の
確実に天皇陵である
天武/持統天皇の陵、、、、持統天皇は仏教式に火葬→江戸時代に盗掘で銀製の骨壷は盗まれる→
墓泥棒は帰りの道すがら、持統天皇のお骨はゴミとして道に棄てて歩いた→それが米国の博物館に売られて残っている?そうな。
そして本題w近隣の百姓どもの糞オヤジどもwww
室町時代から江戸時代には
石室の上まで百姓どもが畑として利用し
肥料として便所の糞、小便を上から何百年も撒いた結果→幕末に宇都宮藩主の戸田氏が
家老にやらせた「御陵調査」では
石室の中に上からの糞尿が溜まり「異臭を発した水溜まり」になっていた、、、ってスケッチまで
残っているwww
「天皇」諡号の最初の帝夫婦でさえ、明治期に鳥居を建てて国民の立ち入り禁止して聖域化する前はこんなもんw
大坂夏の陣では仁徳陵だけでなく周辺の巨大古墳は「第二、三の真田丸」に勝手に利用されたと
千田さんは新説を発表しているw 因みに夏の陣での「第一の真田丸」は冬の陣で家康が本陣に使った茶臼山な。 現在日本国内に宮内庁の管理してる古墳が数百基あるらしいね
基本的に墓を暴くのはダメとか言って立ち入らせないらしいが
宮内庁には日本の歴史の解明のために是非とも発掘調査に協力してもらいたい >>117
だからその発掘調査で何度も取り返しのつかない失敗をされて今に至ってる訳だが
その経緯すら知らずに叩かれるとかさすがに宮内庁が可哀相すぎる >>118
調査させないために失われてきた文化遺産のことはだんまりですかw
自然崩壊したら自分たちの責任じゃねーからですかw
そもそも文化遺産を宮内庁が管理すること自体がふざけている。 >>116
じゃりン子チエの「チャブス山(茶臼山)でどんこ釣り〜♪」の茶臼山? >>18
堤が年月によって浸食されているため、工事を行うんだと
これはその予備調査 >>122
そんなのは、少なくとも三十年ぐらいあとでいい。
現在の日本の遺伝子分析技術では、貴重な試料を無駄にするだけだよ。
マックスプランク研究所のレベルよりまだ数段劣るし。 >>122
今の皇室についても調査して比較した結果、なんと赤の他人
だったことが判明したりしてw >>115
>>116
たしか第二真田丸が茶臼山古墳
第三は御勝山古墳
天王寺岡山の戦いで長い堀を築いて応戦
徳川家康をあと一歩まで追い詰めたって
千田先生が言ってた 円筒埴輪は殉葬
形式埴輪は副葬や祭祀代理を表してる
要するに納めさえすれば簡易的に祀るだけで良いようにしたシステム
これが箸墓ですでに見られるのがポイント
全段階の祭祀を踏襲している証左だから円筒埴輪がある時点で卑弥呼の墓ではないということになる 応神天皇の吉備国自体が大和とは違う民族。
鬼退治もある吉備国は日本の歴史から消された突厥国だから。
突厥といえば中央アジアをまたがり、イラクから中国まで好き勝手に略奪していた部族。
その一部が仏教徒のテュルク人が日本に来ていたとみていい。
父である応神天皇も渡来人。
天皇家につながるササン朝ペルシャと突厥国は同盟で関係で、ササン朝が滅びる時期でもある。 突厥国の歴史な
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-076.html
ゾクド人やらユダヤ人やら貿易の他民族国家。
ポイントは鉄製造技術が優れていた点。
言語も同じ日トルコ同祖論だわ。 >>31 神武天皇は沖縄経由も渡来人だとおもう。
それとは別の応神天皇は気比神宮の福井出身とされている説があるが、福井経由のテュルク人が上陸した場所。
弓月国からの渡来人も受け入れして、かなり中央アジア周辺と結びつきが強い。
仏教自体がアフガニスタンの宗教だから、そこに12カ国語はなした聖徳太子やらにつながってくる。 物部と蘇我の宗教対立は、神道拜火教=と仏教の対立。
最初に来たペルシャ人と大和と仏教徒のテュルク人の対立だわ。
大和民族で一緒に考えるからややこしい。
もちろん政略婚で出雲族やら九州の邪馬台国部族やらと複雑だが。 >>53
とはいえ記紀の記述をいいようにつまみぐいしてるのが現状の古代研究なのはいかんともしがたい
魏志倭人伝だって記述がいい加減だからどこに邪馬台国があったのかすらわからんのだしね 国というものが認識される以前から人は住んでいたのだから、その歴史って物があると思うんだが、なかなか古事記より昔にはさかのぼれんなあ。 古事記以前の書物は焼失散逸してしまったけど出土品は色々出てる
文字が打たれた鉄剣ってのもある 皇室の先祖の墓がどこにあるかわからないってのは腑に落ちないなあ、つまり断絶があったという事だろう。国家権力を皇室が独占していたというのは妄想かも。 >>136
埴輪どころか鐙が出るぐらいだから箸墓も5世紀頃の墓だろうね。 >>27
まあそのとおりではあるが、それは一面的な真実というやつだ。
権力闘争が大好きな異常者と、平和が欲しい一般庶民、
両者のニーズが合致して初めて国家統一は実現する。
その過程で流れた血は、国民が享受する平和のメリットで贖(あがな)われる。 >>137
古代日本は墳墓の保存に関心が薄い
神道見れば分かるだろ 最初は奴隷などを生き埋めにしていたんだそうだが、
それを土器で出来た人形(よりしろ)に変えたんだそうだよ。
今でも明治150年祭とかいって、昔の偉大な頃のことを記念して
行事が行われるように、この墓を作ったその地域の偉大なる権力者の
生前の業績を称えるために、没後に一大イベントを行って、そのとき
整理清掃改築をした可能性があるとも考えられる。 殉葬の遺跡は存在しない。
よそからやってきた王だろう。 伝えられる名前交換が、
事実であれば、高句麗主導によって
倭王と百済王の領地替えが行われたと考えてられる。 長寿王はおそらく蘇我氏のダミー。
好太王碑は干支一巡り遡らせてるだろう。
だから、
倭王・蘇我氏がその時点で
高句麗女帝を手中にし、
高句麗を支配していたと考えられる。
その前段階。
ここでは、倭王が半島にいて、百済・新羅のなかで
暗躍していたと思われる。 2世紀末に政権が九州北部から大和に移ってきたあと、大和(邪馬台国)が西日本の小国を平定していき
あの頃の時代でもっとも有力だったのは、埼玉の埼玉(さきたま)古墳群出土の鉄剣に記載があり
東国や朝鮮南部まで手中に収めた雄略天皇だろうなぁ・・・
雄略天皇の時代に始祖の功を記念するために作ったんじゃないの? あまり日本人でも知ってる人は少ないが
仁徳天皇陵って敗戦直後にやってきたアメリカ軍に盗掘されてるんだぜ 古代では先祖代々の墓地というようなことは無かったのですかね? >>135
まあそうだよね
交差してるからこその6世紀から、新羅征討の審議が毎度大王即位の度に為されてたんだろうね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています