五、邪馬壹国の所在地

 それでは、女王・卑弥呼の国「邪馬壹国」の所在地を古田説に基づきお話しします。
 邪馬壹国の玄関・不弥国は、伊都国から東へ100里、つまり7.7キロメートルです。基準となる伊都国は旧怡土村、今の前原市か糸島神社あたりとしますと、不弥国は今宿か姪の浜あたりです。
そこが博多湾岸への西からの入り口、つまり玄関となるので、邪馬壹国は博多湾岸一帯となるのです。
志賀島から朝倉までの線上の中心域がそれで、春日市を中心に博多駅から太宰府までの間は、数多の王墓や考古学上の豪華な出土物の密集地帯、
いわゆる弥生のゴールデンベルトなのです。従来の論者は、ここを3番目の大国「奴国」に当てていますが、
じつはこの地こそ「魏志倭人伝」が記す第一の大国、戸数七万戸に最もふさわしい所、女王の都する国だったのです。



六、女王・卑弥呼ひみか

 「魏志倭人伝」に描かれた女王・卑弥呼の人物像は次のようです。

  「邪馬壹国は元は男王でしたが、その70〜80年後(二倍年暦であり、実際は35〜40年)、倭国が乱れ、何年も互いに攻伐し合ったので、皆で相談して、
一女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼と言います。卑弥呼は、シャーマンつまり巫女でした。「年すでに長大」は、
『三国志』の「長大」の用法をすべて検証した結果、30歳ぐらいのことを長大と言っていたことが解りました
(従来説の「老人」ではない)。独身で弟が政治を補佐していました。いわゆる姉弟統治です。王となってからは見る者も少なく、婢千人をはべらせて、
唯一人の男性が飲食の世話をし、言葉を伝えるため居室に出入りしたと言っております。宮殿・物見楼・城柵を厳重にして常に兵が守っていました。」

と。謎に包まれた女王卑弥呼は、古来、天照大神あまてらすおおみかみ・神功皇后じんぐうこうごう・倭姫命やまとひめのみこと・
倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことなどに当てられてきました。これについて古田氏は、『よみがえる卑弥呼』 13 で次のように述べておられます。

   「天照大神では時代が全く合わない。卑弥呼は中国錦や倭国錦をまとった「錦の女王」であり(なお、この当時の近畿地方からは絹の出土例はないので、
このことからも近畿は後進地帯と言える)、天照大神は布の時代「布の女神」である。
神功皇后は『日本書紀』では「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、卑弥呼は3世紀前半ないし中葉、
神功皇后は4世紀前半ないし中葉の人物であり、卑弥呼に当てはめようにも到底無理である。倭姫命・倭迹迹日百襲姫命は、いずれも中心の権力者ではない。従って該当しえない。」

 それではいよいよ卑弥呼の正体は如何に。
 『筑後国風土記』逸文に「筑紫君」や「肥君」の祖「甕依姫みかよりひめ」が出ている。この甕依姫が卑弥呼であった。そして、「ヒミコ」と読むのではなく「ヒミカ」である、と。