>>815
農耕民族はスサとその周辺に住んでたはずで、
ペルシャに住んでたのはスサと交流してた金属器系山岳民族だと推測してて、
むしろ出雲属の方がそれに該当すると思ってる。
上海あたりから水田稲作を伝来した民族が九州北部で古代日本人と混血になり、
次男坊、三男坊とかが従者を引き連れ領域を拡大していった結果、
日向から大和に一気に東征したと思ってる。
大阪平野の成り立ちと記紀の記述の一致が信頼性を高めてるし。
1年を2年と考える方法は銅鐸の消滅を説明するのにかなり有力とは思うが、
神宮皇后の朝鮮進出を機会に外来人が来た話がもっと後になってしまうので、
現時点ではどうなんだろうと思ってるってとこかな。
応仁、仁徳天皇辺りの古墳が確定し、建設時期が一致してたら納得ってところかな。