八 「白村江の戦い」敗戦の真実

 七世紀に朝鮮半島の百済と新羅の戦争が勃発しました。当時の日本列島の主権者・九州王朝倭国は、国消滅の危機に陥っていた百済の応援要請に応えるためと、朝鮮半島南端部にあった“失われたわが国の領土「任那」”を回復するために、百済に加担したのです。
一方、新羅には唐が加担して両国軍の全面戦争となりました。
百済とわが国の連合軍は四度戦って全て負けました。この戦いには近畿王朝は参戦しませんでした。その訳は、九州まで出陣した斉明天皇が崩御したので、その喪に服するためとされています。
 しかし事実とは大きく異なります。第四回『「にぎたづ」は何処に』 -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実(平成23年 7月 9日講演、『松前史談』第28号所収)で詳述しましたように、近畿王朝は唐と結託して九州王朝を裏切ったのです。
しかも、「斉明天皇は九州王朝の天子」であり、その崩御地は通説の「九州朝倉」ではなく、「越智国朝倉」であることも述べました。
また、後述しますが「崩御年」も違います。従って、「斉明天皇の喪に服する」などは全く関係がなかったのです。そして、この戦争の最後となる「白村江の戦い」(662年 ーー
古田説、『日本書紀』は663年)で九州王朝の摂政・薩野馬、伊予国関係では越智国主・越智守興、風早国主・物部薬なども捕虜となり、九州・中国・四国、それに関東の多くの将兵が海底に沈んだのです。
 この後、郭務宗*かくむそう・沙宅孫登さたくそんとう率いる唐と新羅の戦勝軍数千人が、当時の「九州王朝・倭国」の首都・太宰府や博多湾岸、それに軍都・吉野ヶ里などに39年間で6回に亘り進駐して来たのです(郭務宗*は4回)。
この辺りの王墓はそれら進駐軍により徹底的に破壊し尽くされたと思われますが(敵の屍を暴くのは中国の慣習)、
唐の味方となった近畿王朝の領土には危害を加えなかったのです。近畿に巨大古墳が破壊されずに、存在しているのはその証左です。
      郭務宗*かくむそうの宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0