【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★6
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1536582943/ >>779
>葛城には天皇の古墳はあるが、大きい遺跡はない
4世紀以前の式内・名神大社が集中、纏向(磯城)ごときの比ではない。
御神域は発掘できない。
おまえはアホなのか。 >>781
纏向遺跡の年代が卑弥呼の時代に一致したというのが、
この桃の種の年代分析の記事だ。
ずれているのは、おまえの方。
簡単にアホなんて言葉使うな馬鹿が。 >>783
>纏向遺跡の年代が卑弥呼の時代に一致
だから何なんだ、そんなことは当たり前。
纏向の謂れは物部しかない。
物部3代、ウマシマジ、ヒコユキ、イズモシコオは、
申食国政太夫(おすくにもまつりごおもうすまえつきみ)、
今で言えば総理か官房長官。
しかし彼らは「王」ではない。
王は鴨王こと天日方奇日方の系譜。
居住地は葛城だ。
おまえも「馬鹿が」なんて言ってるくせに偉そうに言うな馬鹿。 × 申食国政太夫(おすくにもまつりごおもうすまえつきみ)、
○ 申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)、 但馬も丹波も音読みしたらタンバ
元は同じ国なのかね >>719 >>774
【邪馬台国纒向】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…吉村武彦
否定…関川尚功(橿原考研) 若井敏明
【卑弥呼箸墓】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…白石太一郎 歴博西本豊弘 奈良県立橿原考古学研究所
否定…石野博信 寺澤薫
(>>150のコピペ) >>770
スレ違いだが裴世清は聖徳太子に会ったのかな。 大スクープ!
卑弥呼がいた頃に奈良にも人が居た事が判明した! 欠史八代時代の畿内は葛城王権で
葛城王権内の有力豪族物部氏が纏向の主催者という事かな >>764
>奴国は女王に含まれる北限なんだから仕方ないだろ
北限っていうのがそもそもおかしい
普通は後漢書の「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」を誤読して
南限というものだが、北限ってどこから来たんだ?
まあ、勝手な思い込みだろうが
>奴国は女王に含まれる
奴国は女王国連合の一員だが、邪馬台国の内側ではない
これも勝手な思い込み
>邪馬台国7万の都市なんて存在しない
7万の都市が存在しないのは同意
邪馬台国七万は、国がある程度の範囲を持つ段階に達していることを示している
そして、魏志倭人伝でこの段階に達している倭国内の大国が3つあって
奴国 二万 福岡平野(〜もしかしたら筑後平野も)
投馬国 五万 丹波以西の日本海側(四隅突出墓を共通に使う範囲)
邪馬台国 七万 大和+河内〜環大阪湾(畿内第V様式土器を共通に使う範囲)
と記されているわけだ
>筑紫平野と福岡平野で7万
筑紫平野と福岡平野で2万だろう
奴国首長一族の筑紫君磐井の墓が筑後平野側の八女にあるから、
そっちも奴国と見ることには十分な蓋然性がある
>邪馬台国と投馬国はクニの連合体
奴国も当然そうだよ
吉竹高木遺跡の早良平野の国も奴国の中に数えられている
だから、奴国2万戸を邪馬台国の戸数に紛れ込ませるのは二重帳簿詐欺 >>764
>まとめて小国が書いてある其餘旁國って筑紫平野の傍らの小国という事だよ
突っ込みどころしかないな
筑紫平野の傍らに小国なんてないよ
それにそこまで近かったら、戸数道里も分かるだろ?
>帯方郡から南に水行20日の宮崎投馬国に「旁」は使ってないでしょ
帯方郡から南に行ったら、東シナ海しかない
倭人在帶方「東南」大海之中と矛盾するし、
旅程の途中で移動の起点が振り出しに戻ることも、
旅程を里程と日程の二通りで二重に書くことも大陸の史書では一例もない
あったとしても注釈が入らない限りはそうは読めない
つまり、水行の起点を帯方郡にするのはでたらめ読み >>776
>文○で専門家って不幸だろうねえw
ポリコレ棒を振り回す気はないけれど、「文○」を平気で使う人は
まともな議論ができない人だと思う >>755
日本国内で見つかった最も古い鉄器は
縄文時代晩期の九州の田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧だろ
稲作と鉄の伝来が同じなんだろう 卑弥呼の影響範囲は意外にも狭いぞ。
文盲は水行20日で圏外に飛び出すように仕掛けがしてある。
つまり畿内説は全員失格。
中国の史書はお前らの想像以上に正確だぞ。 >>792
>欠史八代時代の畿内は葛城王権で
>葛城王権内の有力豪族物部氏が纏向の主催者という事かな
違う違う、物部は桜井(磯城)の纏向遺跡。
葛城は鴨氏。
豪族というか、崇神の頃まで彼らの王権があった。
神武はその王権への入り婿。
神武の義理兄が日本書記での鴨王(かものきみ かものおおきみ)こと天日方奇日方。
その父は事代主神、えべっさんだ。
日本では一度だけクーデターがあった。
それは崇神の時代。
山陰出雲に出雲国造が置かれ、出雲の神宝が奪われ、慰霊・鎮魂のために大神神社が建てられた。
大物主の怨霊がよほど怖かったのか崇神は手元にあった鏡を放逐、
その鏡は行き所がなく、今だ伊勢神宮境内を20年に一度、式年遷宮という形で彷徨う。
明治天皇になるまで皇室が伊勢神宮を参拝しなかったのはそれが理由。 自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国の北は道順など書ける、つまり伊都国奴国不弥国まで
其餘旁國遠絶 不可得詳
筑紫平野の女王国の傍の国は遠くて書けない、鳥栖とか基山町とかあの辺だ
次有 次有奴國 此女王境界所盡
傍が尽きるところが奴国、女王国以北の境界が奴国という事
これらが邪馬台国と言ってるんだよ
女王国+傍国「奴国含む」
奴国までが境界とあるから伊都国の扱いは一大卒置いて巡回
こんな簡単な事なぜわからないかな
河内とかぜんぜん関係ないからな 南至邪馬台国までが帯方郡からの行程と地理
それ以降は邪馬台国内部の説明だ 俺は太宰府に一票。
ただ、見つかったとしても金印は既に盗掘されてるか、統一政権が出来たときに没収されてるかもしれない。
漢委奴国王の金印は没収されないように埋めて隠してたのかもね。 畿内説は文書読解力ゼロというより勝手に書き換えて読んでるもんな。
これ歴史捏造事件じゃないの?
公費横領とか? >>797
>水行20日で圏外に飛び出すように仕掛けがしてある。
圏外というのが、九州だけを考えているから飛び出すだけで
倭国のくくりで考えればまったく問題ない
一日20キロ弱の水行で、最大でも400キロだから若狭湾まで届かないよ
短里は捏造w >>799
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
>女王国の北は道順など書ける、つまり伊都国奴国不弥国まで
投馬国も戸数(五万余戸)道里(南至 水行20日)が略載されてるから
女王国以北の国
>其餘旁國遠絶 不可得詳
>筑紫平野の女王国の傍の国は遠くて書けない、鳥栖とか基山町とかあの辺だ
この遠絶は、大陸から見て倭国が遠絶ということで、
邪馬台国からの距離がどうこうということではない
次有斯馬國は、邪馬台国の次の国だが、それも其餘旁國のくくりに入れられている
>次有 次有奴國 此女王境界所盡
>傍が尽きるところが奴国、女王国以北の境界が奴国という事
尽きるところは傍ではなく、女王国連合
陳寿の倭人伝の記述は北から南へ、だから、対馬から順に南へ行って
次有○奴國が一番南になる
後漢書では、これを光武帝に朝貢した倭奴国と同一だと誤読して、
これを倭國之極南界也としている
一番北だと思っている辺り、おおまちがいいもいいとこ 「文○」と書くなと何度言えば
非識字者という言葉があるが、九州説の連中は軒並み機能的非識字者だな >>805
>短里は捏造w
そういうオマエは単細胞w 投馬国も戸数(五万余戸)道里(南至 水行20日)が略載されてるから
女王国以北の国
それだと邪馬台国も同じ扱いの略載だから邪馬台国は女王国の北の国となるけどな
畿内説では女王国とは別に邪馬台国があるのか、不思議だなぁ >>807
> 後漢書では、…と誤読して、…
出ました畿内説得意の伝家の宝刀=捏造
憲法9条の解釈は、内閣の閣議決定のほうで、かってに行ったことである。
安倍内閣のほうで、憲法9条が原因で、専守防衛で敵地攻撃禁止、
ミサイル禁止・長距離爆撃機禁止・空母禁止・原子力潜水艦禁止・核兵器禁止、
とかってに決めているだけのことだ。
ようするに朝鮮人の安倍首相には、日本国民を守るという意思が皆無である
ということだ。安倍は、自分自身の仕事を完全に放棄している。
日本国憲法にはアメリカ合衆国憲法と完全に同一に、国民を守ることが
政府の義務だと書かれてある。これが近代憲法の最重要事項であるからだ。
【 日 本 国 憲 法 】
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
もちろん国連が制定した日本国憲法は、日本国民の人権を守っているのであって、
国民を守るのにあたってこれは駄目だあれは駄目だなどと規制はいっさいしていない。
安倍内閣のようなことでは、日本国民の自由や生命を守ることは不可能で、
これは国民を守ることが目的の日本国憲法に完全に反することだ。
国際法で、自衛権は国民の基本的人権である。自分で自分を守ること、
すなわち民主主義政府が国民の自由や生命を守ることを自衛という。
国民の貴重な生命や自由を守るための方法で、国民が選んだ民主主義政府に
制限などは、あり得ない。人類共通の常識である。
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
南は狗奴、服従していないから邪馬台国外
ここまで奴国から狗奴国境までが邪馬台国の範囲説明
ここまで明瞭に倭人伝は説明してくれてる
筑紫平野から筑後平野辺りにしか考えられんだろ 畿内説は京大閥が煩いだけの印象
九州いがいの以外の大学の人もだいたい九州説だろなあろなあてみてるよ
まあこういうニュースはなんでか現役の教員が少ないということから、いろいろと察せられるだろうが >>815
>筑紫平野から筑後平野辺りにしか考えられんだろ
先入観でカチカチに凝り固まってるな
そんな狭い範囲なら戸数で完全にアウト、近過ぎて合計60日の行程と矛盾 >>815
普通に考えて史書のような重要文書を書く人がデタラメ書くわけないよね。
国もきっちり30国あるし。
あとこれは推測だけど一支国を一大国と表現してるよね。
そして後に一大率と出てくる。
文字の違いは上部の「十」で中国お得意の10倍ルールが使われてるとみた。
つまり数値は10倍の値で書かれているぞと。 合計60日の行程と矛盾
呆れた、まだ倭人伝を旅行日誌と思ってるのか
それじゃ奴国から畿内までの旅行を古跡や資料付けて説明してみなよ >>820
>呆れた、まだ倭人伝を旅行日誌と思ってるのか
誰がそんなこと言ってる?
倭人は里の概念がないから距離も日数で表していて、邪馬台国まで合計60日かかる距離だという意味だ >>822
聞いたことはあるが、九州にしたいがために作った与太話に興味なし 九州説の人、邪馬台国を九州の中で見つけたいならこの図のグレーの部分と纒向型前方後円墳のあるところは外しといてよ
そこは畿内連合の傘下の国になるからさ
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg >>823
当時の中国における常識なんだけど、知らないんだねw
あくまでも推測だから構わないけど、魏書では他にも使われている手法だからね。
>>824
卑弥呼のいない時代の他国の話は論外。
〜3世紀半ばで語ろうぜ。 >>825
卑弥呼だけなら庄内期のところだけ外せばいい
だが266年の遣使が台与と考えるのが妥当で布留期も含めるのが現実的だとは思うがね
外すのは庄内期だけでもいいが、その場合、266年までの短期間で倭国のトップが変わったことを
合理的に説明できるのが条件になるが
さらにその国も女王だったという、ありえなくらいの偶然が重なることも必要になる >>825
里の誇張は国の比定地から確認済み
日数は別ソースであり10倍の根拠なし
文献改ざんして九州だと言い張っても史実にはならない >>827
確かに戸数と道里は情報を得られ詳細に書けたとあるよね。
これは戸数と里数以外は不正確だとして読みかえしてみなよ。 正史に書かれた南を勝手に東の間違いだとか言ってるバカは桃の種でもしゃぶってろ。
東に行っても12000里じゃ奈良まで届かないからな。 畿内説が魏の使節の纏向までの旅程を説明して九州説を納得させるしかないな
出雲から奈良盆地に徒歩で歩くのは大変だ
普通は瀬戸内海航路で畿内に行きそうなんだが 生きてるうちに結論が出てほしいと思う気持ちと、出てしまうとがっかりする人たちが
少なからずいるんだろうなと案ずる気持ちの間で揺れ動いてる
特に九州人としては >>809
>ごめん、何て書けばいい?
>>808にもあるように「非識字者」が基本 >>810
>そういうオマエは単細胞w
私個人は単細胞でもなんでもいいんだけど、
「短里は捏造」には具体的な反論はないんだね? >>811
>それだと邪馬台国も同じ扱いの略載だから邪馬台国は女王国の北の国となるけどな
>畿内説では女王国とは別に邪馬台国があるのか、不思議だなぁ
魏志倭人伝では、女王国の意味合いに揺れがあって、
基本的には、卑弥呼の共立に参加した範囲・女王国連合(≒倭国ー一部の国)
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國
の2ヶ所だけ女王国=邪馬台国(=女王の都するところの地名)になっている
そして、戸数道里略載に関しては、邪馬台国も当然入るよ
以上と未満の使い分けのときに「以 もって」はそれを含むって習っただろ?
まあ、そんなに厳密には書いていないけれど女王国以北に女王国(ここでは
邪馬台国)が含まれるのは何の問題もない >>812
>出ました畿内説得意の伝家の宝刀=捏造
短里の捏造や、東夷伝は10倍ルール、とかいうのと違って、
ちゃんと根拠は示してあるだろ?
捏造は、九州説の得意技
それを畿内説のことと言い募るのは、ミラーリングという詭弁使いの初歩の技法w >>815
>筑紫平野から筑後平野辺りにしか考えられんだろ
その範囲でどうやったら、水行20日+10日、陸行1月が入るんだ?
投馬国はどこ?
根拠もなく書けばいいってもんじゃない >>817
>九州いがいの以外の大学の人もだいたい九州説だろなあろなあてみてるよ
はい、これがまた真っ赤なウソ
ウソじゃないなら、ソースを出してごらん
研究者はもう20年位前から、みんな、畿内説が常識だと思ってるよ >>824
九州説はこういう物証を無視しないと成り立たないんだよな
平地だと熊本は一応空白だけど
あとは鹿児島しか残ってない >>820
>それじゃ奴国から畿内までの旅行を古跡や資料付けて説明してみなよ
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
水行が一日に20キロ弱とすると
300〜370キロで、16〜18日くらいになる
150キロで、7〜8日
10日単位で丸めれば、そのまま20日と10日になる
陸行は、見積もりにくいが、170キロを30日で歩くと単純計算で
1日あたり5.6キロになる
もう少し早く着いてもよいと思うが、丹波から大和まで歩いて一月というのは
それほど突飛でもない >>822
>10倍ルールって知らないの?
知ってるww
九州説しか信じていない捏造の勝手ルールだよw >>825
>魏書では他にも使われている手法だからね。
それ、原典の原文で示してね >>831
でも金印は南九州から出てくる可能性もあるよ。
女王国は南の狗奴国に滅ぼされたとすれば。 >>825
>卑弥呼のいない時代の他国の話は論外。
>〜3世紀半ばで語ろうぜ。
他国ではなく倭国の話だし、>>824は3世紀の土器の分布だよ
まさに卑弥呼の居る時代の、卑弥呼の国の勢力図だね
ただ、それぞれの首長同士の個人的つながりが基本の祭祀同盟だから
面的な広がりではなく、祭祀同盟に参加している首長の傘下の土地だけが、
網掛けされている 涙目で叫んでる畿内信者の声は過ぎ去って行く夏の蝉の声w
さて、女王国が九州の何処なのかについて語っておくれ。 >>828
>確かに戸数と道里は情報を得られ詳細に書けたとあるよね。
魏志倭人伝の原文読んでないだろ?
原文は自女王國以北、其戸數道里可得「略載」だ
詳細に書けたなんて、どこにも書いてない
九州説の書いた本とか、二次情報しか読んでないんだろ?
>これは戸数と里数以外は不正確だとして読みかえしてみなよ。
略載なんだから、戸数、道里も、もとより正確な数字じゃないよ
里は百里単位、日数は十日単位で丸めた数字になってる
あと、日数も普通の道里の表記法だから
念のため
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 >>829
>東に行っても12000里じゃ奈良まで届かないからな。
だから短里は捏造だと何度言えば
北部九州までの萬七百里を抜いた残り千三百里で
北部九州から畿内まで普通に届くよ
魏晋里の435メートルに1300をかければ565.5キロで
福岡ー奈良の直線距離514キロと比べてもおつりが出る
前にも示したように、北部九州に上陸してからの
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
で4倍異なる値が出る
そんな単位などない >>844
>さて、女王国が九州の何処なのかについて語っておくれ。
畿内説の人間が、女王国が九州のどこかなどと考えるはずがないだろ?
論理が根本から分からないんだな?
女王国(卑弥呼の共立に参加した首長の祭祀連合)は
東海・畿内から九州まで含むよ
>>824の図の網掛けの範囲が、倭国≒女王国連合だと思えばいい 倭人伝は軍人チョウセイの軍事報告書に基きチンジュが書いたもの
倭国が呉の攻撃を受けた場合の正確な旅程と考えれば間違いは無い
当時の倭国ヤマイチは春日市スクオカモトにあった
呉への防御線がヨシノガリです あと高良も 魏の使節が九州から纏向行くならわざわざ山陰通って若狭上陸して1ヶ月も歩くより
船で瀬戸内海通って行くだろ >>839
裴世清は、
AD609年4月筑紫を皮切りに、
6月15日難波到着。
水行とか使わず、奈良に行ってるし、
陸行だけで、筑紫から難波まで、
45日かかってる。
秦国とかも書きながら。
つまり、水行するメリットがない。 >>849
私見だが、倭人伝に書かれてるのは地理志
倭国の中でどこにどういう国があるかを言葉で表したもの
邪馬台国まで行くときの実際の旅程ではない
出雲は大国だから記載する必要があり、邪馬台国の説明の際は起点が出雲に移ってるからあのような記述になっている
ちなみに壱岐から伊都国に行く際も唐津に寄る必要がないので、末盧国も旅程とは言えない
末盧国の記述も地理志とみなせば説明がつく >>850
なるほど、300年で街道が整備されたんだね
そういうのおもしろいね >>824の図にあるように、伊都国や奴国が畿内ヤマトの同盟国なんだからもう決まりでしょうに
九州説を前提にするとこうなる
伊都国や奴国の王様が魏使に倭国情勢を聞かれたとき、倭国の盟主の国は畿内にあるヤマト国ではなく、
九州にあるもう一つのヤマト国ですと説明したというストーリーを作らないといけない
つまり伊都国や奴国の王様が嘘をついたということにしなければならない
そんな無理筋の物語が現実にあったと言い張るなら物証を示せばいい >>848
>倭国が呉の攻撃を受けた場合の正確な旅程と考えれば間違いは無い
それがな、まとめたのは陳寿で、晋の時代になってからなんだよ
晋の高祖司馬懿の功績を顕彰するために、司馬懿が公孫氏を討伐したおかげで
東夷の諸国が大陸王朝に帰服したというストーリーになっている
そして、その司馬懿の功績を、漢代に西域を中華世界に紹介した張騫や班超に
比肩する大偉業だとするために、倭国までは萬二千里でなければならなかった訳だ
その結論に合わせて、途中の距離が過大に盛ってある
大陸から倭国の入り口の九州までが万里、残りが二千里という割り振りになっているだけ
これで邪馬台国の位置が分かるとか、大笑い
でも、この盛った数字から逆算される実態のない数字を「短里があった」と言い張った上で
萬二千里なら九州、というのだけが九州説の根拠になってる
これが否定されているんだから、九州説にはなにも根拠が残っていない それでは超大国吉備の存在感が無さすぎる吉備は出雲以上の大国
纏向の搬入土器の49%が東海で東海の強い影響下にあったはずなのに記述が無い
奴国から若狭は対馬暖流が川の様に流れてるから船なら3日もあれば到着 >>850
>水行とか使わず、奈良に行ってるし、
>陸行だけで、筑紫から難波まで、
また、隋書の本文読んでないだろ?
明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
又經十餘國「達於海岸」 自竹斯國以東皆附庸於俀
この海岸というのは、瀬戸内海を海路で来て近畿難波の海岸に着いてるんだよ
隋書の頃には、瀬戸内航路を使ってたことが分かる
陸路ではないよ
九州説の書いた二次情報の本だけ読んで、思い込みで語ってないで、
きちんと原文を読みな
そうすれば、九州説の言ってることが、ウソごまかしだらけだってすぐに分かるから >>849
>魏の使節が九州から纏向行くならわざわざ山陰通って若狭上陸して1ヶ月も歩くより
>船で瀬戸内海通って行くだろ
その理由は既に何度も書いている
出雲(投馬国)は倭国第二の大国で、倭国情報の報告が仕事の魏使は出雲を通る必要があるんだよ
そして、出雲からは、出雲と大和の往還路を使う
それが、丹後半島から福知山、亀岡経由で山背から平城山越えで奈良盆地に入るルート
ちゃんと必然性があるんだよ >>855
>畿内蝉がまだ泣いてるねえ
反論はネタ切れかい?
意味のある具体的な反論をしないとダメだよ? >>857
>それでは超大国吉備の存在感が無さすぎる吉備は出雲以上の大国
超大国というのは言い過ぎ
吉備の山の方は四隅突出墓を作っているし、吉備と出雲の交流があったのも確実
ただ、古代において古事記の出雲神話の扱いから見ても、出雲の方が存在感が
高かったと見た方がいいだろう
>纏向の搬入土器の49%が東海で東海の強い影響下にあったはずなのに記述が無い
邪馬台国の次に、次有斯馬國(伊勢志摩)が書かれているだろ?
旅程としては、邪馬台国までしか書いてなくて、その向こうは餘旁國扱い
>奴国から若狭は対馬暖流が川の様に流れてるから船なら3日もあれば到着
対馬暖流は、沿岸流ではない
水行は沿岸航行だから、沖合いの海流の流れはそれほど強く影響しない
2014年4月のデータでもこんなもの
http://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/db/kaikyo/archive/c_1/jpn_monthly/2014/04/curM50_HQ201404.gif >>861
>どう考えても出雲より吉備の方が大国だろう
いつも言ってることだけれど、そう思うなら
「具体的な根拠」をつけて書き込んでよ
そうすれば、レスが1往復短縮できるから話が早く進む
根拠が出せないなら、それはただの感想で無意味 >>849
瀬戸内海 潮流で検索すると、
>瀬戸内海では潮流は速くて複雑な流れを見せ、鳴門、速吸瀬戸などの狭水道では、
5〜10ノットにも及び地形の複雑さも加えて独特の海象を呈しています。
動力を持たない古代の船には航海はむつかしそうね。
風も静かだと思えば、強風になったり気まぐれに吹くそうだよ。
日本海沿岸を丹後まで航海した方がらくちん。 奴国から若狭湾まで30日としたら
帰りは対馬暖流の流れに逆らって航海することになる
当時の手漕ぎ丸木舟なら韓国まで3倍の90日はかかるはず 纏向が魏と交易しようとすれば一ヵ月歩かないといけない出雲より
瀬戸内海航路にある大国吉備の許可が必要その吉備の存在感が無さ過ぎる
当時の商人の立場になって現実的に考えれば鏡1枚買うのにわざわざ片道一ヵ月の道を歩いて対馬暖流の流れに逆らって行くより
多少通行料を取られても吉備の許可をもらって瀬戸内海を安全に航海した方がいいだろう
それに瀬戸内海を通れば歩かないで良い まだ邪馬台国は纏向だとか不毛な議論してる奴がいるのか?
上の方で答えが出たしもう次のステップに入ってるというのによ? >>840
十倍てのは中国の史書で自分や相手を過大に見積もるときによく出てくる
こんだけ遠くまで行ったんだぜ、とか
こんだけ多くの敵をやっつけたんだぜ、とか
なので1/10にしたほうが良いという場合もある
そして同じ著者の同じ書物でも、伝聞や思惑などでこうしたことをしたりしなかったりだが
>>864
日本海なんて荒くて荒くて、とてもじゃないが瀬戸内海と比べたら
厳しすぎるよw 狗奴韓国で既に7000里
[始度]一海千餘里至尊馬國
この測定開始ポイントから5000里≒212km圏内(10倍ルールだと)
大宰府だな。
大野城の下とか。 大宰府ってのも考えにくい
そこより2〜3q離れたとこじゃね 九州から邪馬台国までだろう。
日本海には対馬海流があり、それに乗れば沿岸を楽に東へ進める。
投馬国を過ぎて丹後の久美浜湾で上陸。
そこから陸路で1か月。
邪馬台国へようこそ。 >>872
単に距離で合致する事と「翰苑」が残ってるって事だけで強引に決めた。
ちなみに「翰苑」は呉の末裔とか書かれてる文書ね。 >>873
東へ向かうなら南を東に変換するスイッチを探せよ。
陳寿は手ごわいぞ。 >>875
だから当時の中国人の地理観だと、日本列島は90度南に垂れ下がっていると
思われていた。 by 先月発売の文春
ネット上にも情報があるからぐぐりな。 >>877
またモンゴル帝国の自己満足地図かよ。
時代が違いすぎるのに頭悪いんじゃね?
大きさが重要度を表してる征服マップだ。 >>875
文献を改竄して大宰府だとか言い張ってるおまえが言うなw
そもそも距離が正しいか、方角が正しいか、文献だけからは決められない
中立が正しい姿勢
他の史料との整合性や考古資料から判断しなければならない
現在は考古資料が充実してきており、方角が誤りと考えた方が妥当となっている
九州だとすると物証との矛盾が多く現実的には不可能といっていい >>846
方角も距離も違うから伊都国も奴国も比定が間違ってるんじゃないの? >>846
>北部九州までの萬七百里
10700 x 0.435 = 4654.5km
どこから来たんだ?w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています