【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★6
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1536582943/ あと、これも重要だよな。
471 名前:ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 02:01:00.47 ID:E0FMAzRh [1/10]
まずは倭国大乱の痕跡を探せばよい。
2世紀頃の同年代の戦闘の痕跡がどの範囲に見られるかで倭国の範囲は検討が付く。
そして邪馬台国のあった地域なら3世紀末まで狗奴国と争った痕跡があるはずだ。
簡単だろ? 誰でもいいから奈良の個所の追記を宜しく。
話はそれからだ。
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
[奈良]
畿内第V様式土器が 共通して出土する範囲 >>518
共産党支配下の中国では
「發」と「髪」を「发」に集約してるから不正確。
共産党式略字は「宋元以来俗字譜」というのをベースにしている。 同年代の桃の種が出たら邪馬台国なのか?w
全国邪馬台国だらけになる悪感w
お前らも掘れよ!www >>559
「稲作用の痕跡」って何のこと
理解不可能なんだが元ネタは何処に書いてあるの??? >>559
追記サンクス。
土器の様式についてまで史書に書かれているかな?
まあいいけど。
纏向では土器による編年を重視してるが、この問題をどう説明する?
「布留0式土器(3世紀末〜)と古式新羅伽耶陶質土器(4世紀以降)とは共伴して出土している」
当たり前だけど、同じ遺構から年代の違う土器が出土した場合は新しい方で編年すべきだよね?
>>562
石包丁でググれば?
いまさら考えるまでもないんじゃない?
稲作は早くから九州で始まっていたんだから。 九州説は「モノ」
近畿説は「場所」
大まかに考えるとこんな違いなのかな
どっちかというよりも発掘と記紀の整合性に興味がある
例えば四世紀前後の初期ヤマトが出雲や吉備に対してどうアプローチしたかとかね
その延長上に卑弥呼がいたら素敵だ >>565
残念ながら「場所」はどちらも不確定だよ。
史書に書かれた方角や距離を無視してるからね。
それが通るんだから出雲や吉備説も頑張って欲しいところ。 誰でもいいから奈良の個所の追記を宜しく。
話はそれからだ。
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
[奈良]
畿内第V様式土器が 共通して出土する範囲
三角縁神獣鏡、箸墓古墳、環濠、水銀、邪馬台の国号 >>567
そういう史書に対しストライクなのをよく調べるべきだよね。 祇園山=「23mの方墳」が卑弥呼墓って、もっとまともな墓はないの?
あと2世紀前半の其の国の男王の墓は? >>569
>稲作用の痕跡
その舌足らず、打ち込み不足のカキコはヤメロよ
オマエのヒトリヨガリ=オナニー、マスタベーションw >>571
墳丘の外周にも墓があるし石棺がむき出しになってるんだから当時はもうちょっと大きかったはずだよね。
墳丘墓だと1700年の間に削れて小さくなっても珍しくないだろ。
少なくとも埋葬者が女性なので候補として妥当だね。
似たような古墳って奈良にあったっけ? >>573
中国人かな?
舌足らずって言葉の使い方間違ってるぞ(笑)
ニーシーティン(笑) 誰でもいいから追記宜しく。
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の傷ついた人骨(倭国大乱の痕跡)、祭祀用土器、鉄器、稲作用石包丁、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、祇園山古墳(卑弥呼の墓)、、、、etc
[奈良]
畿内第V様式土器が 共通して出土する範囲
三角縁神獣鏡、箸墓古墳、環濠、水銀(朱) 不思議なことに九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。
突然、常陸国説など言われても意味が分からない。
これは逆に考えるべきだ。
新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原は大和にあった事を知ってたからだ。
高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。
国学者としてこれほど辛い事はない。
つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸ということで大和に焦点があたることを避けたのだ。
九州説とはデマである。 なんで陸基準じゃなくて海基準の瀬戸内海文化だったってのが解らんのかねぇ
地中海文化とかを引き合いに出すまでもなく、古代の基準は海、というか水域
九州も近畿も同じ水域の沿岸であり、つまり同じ地域なんだよ
これらを分けて考える意味ってのがそもそもない >>574
>当時はもうちょっと大きかったはずだよね。
いやそれでも23m が25mになるだけで大して変わらんw
>似たような古墳って奈良にあったっけ?
俺は畿内説だが纏向はヒミコがいた場所だと思っていない。
当然、箸墓もヒミコの墓ではないっという意見。
ヒミコは葛城にいた。
ヒミコはヒメ(のちに踏鞴と五十鈴が加えられ姫踏鞴五十鈴媛と呼ばれる)。
彼女は鴨族。
鴨族の聖地は高天原(御所市高天)。
その高天原にある日本最古の神社の境内に徑百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通りまわりに奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
https://goo.gl/maps/UvDybh8Sd4p
この塚は高天彦神社の参道になっており歩ける。
中程にさほど古くない墓石群があった。
地元で墓の場所と認識されていた証拠だ。 ここにいる九州説の人の意見をまとめると
北部九州にある小国がヤマトの名を騙って魏に使いを送った
その後、ヤマトが激怒したため、朝鮮半島に逃げ込み百済を建国
白村江の戦いで完全に消滅した
これが九州説の最終結論でいい? >>579
掘ってこいよw
捕まるかもしれないがw おまえなんで畿内説なのに九州説捏造してんだ?
おまえの文章ひとつひとつ発信元を出せよ
畿内説語れない畿内説の屑が出てくるんじゃねーよ >>580
畿内がヤマトを名乗ったのは邪馬台国の数百年後だ。 明確にしておく
1。アホ説だろうが畿内説を語る持論がある畿内説
2。畿内説を語れない九州説を罵倒するだけの似非畿内説
2は去れ >>580
白羅本記では倭の集団が餓えて攻めてきたって記述あるし、好太王碑でも似たようなことが書かれているからあっておかしくない説だと思う
特に九州中心の倭の勢力
鉄の交易で軍備も充実してたし
ただ騙ってたかどうかは謎だな
朝鮮での戦記は全て倭でヤマトの表記は一切ないからね
むしろ本州近畿の勢力がバックアップしたと考えるほうが自然 >>581
掘って石室なんて出るわけない。
「棺あり槨なし」
つまり奈良の山間部でいまだに続く土葬であったのだろう。
卑弥呼は土に還った。 >>586
今でも土葬ってw
それ違法じゃねえのか?w >>587
衛生上、水源はだめなようだ。
高天原(御所市高天)は水源なので、もう土葬は行われていないと思われる。
しかしそれ以外なら山間部でいまだに土葬は続いている。 >>576
奈良
倭国の盟主の国(魏使が認識していることが確実な範囲でという意味)
30ヶ国の連合国に確実に含まれている奴国が畿内ヤマトとベッタリな関係
邪馬台国の発音に近い国名(上記の3つで99%決まり)
戸数7万戸を想定できる近畿第X様式土器分布圏
箸墓古墳の後円部を墓、前方部を祭壇とみなした場合、径百歩の墓
宮室、城柵(楼観は見つかってないが唐子鍵遺跡から楼観が書かれた土器が出てるから存在していたことは確実だろう)
3世紀前半から中頃の中国との交流痕跡
・ホケノの出土品
・魏の年号が入った鏡
・三角縁神獣鏡の製作技術(コンサバに国産を前提にしている)
・中国式の建築土木技術(方角を揃えた建物配置、四角い柱、真円で古墳を造る技術)
九州の出土品として挙げてるものも倭国一般ではなく邪馬台国固有のもので頼む
A地点ならこの条件に合う、B地点ならこの条件に合うとかバラバラなら注意書きを添えてもらいたい
年代も238年〜247年(266年まででも可)の範囲に限定できるもので まだ続いとるのか。邪馬台国は相変わらず人気。
邪馬台国は西都原?
せいぜい、我田引水の議論やってちょ。 奈良派がこんなに頓珍漢な状態になったのは 江戸時代のマチムラがヤマイチをヤマトに
結びつけんが為 ヤマタイと偽称したからですが つられてモトオリもヤマトに固執して筑後山門を想定しました
倭人伝のとおり素直にヤマイチと呼べば少しはましな研究が出来たでしょう >>575
オマイの脳内字書に「舌足らず」は無いのか
「打ち込み不足」と補足説明もしてるんだがw
「言葉不足」「貧弱な語彙」「言語障害」「脳足りん」www >>591
ヤマイ国じゃね?
いずれにせよ当時の地名が残ってるとは思えない。
長らく残るのは山の名前ぐらいなものだと婆さんが言ってた。 >>573 で指摘されて
8分27秒経っても >>575でまだ気づかず
強がりを書いてみて
更に7分34秒経ってやっと気がついたのかwwwww
コピペばかりしてるから自分の貼り付けてる内容すら判ってないwwwww
訂正するのに16分掛かった。
最初に書き込んでから何時間気が付かなかったのか
知恵遅れは千年ROMってろ さっさとタイムマシンを作ればいいだけだろ
はよしろ >>569
>史書と関連する出土品
>[九州]
>防柵、 逆茂木のことか? 逆茂木は柵じゃないだろうが?
>墳丘墓、 3世紀には九州にはろくな墳丘墓ないぞ?
お気に入りの平原1号墓は同じ九州の吉野ヶ里北墳丘墓の
10分の1サイズしかない
>弥生人の人骨、 人が死ねば骨が残るがそれのどこが証拠になるんだ?
>祭祀用土器、 どれのこと? 庄内式土器の精製器種は畿内様式だぞ?
>鉄器、 日本中で出てるが?
>稲作用の痕跡、 日本語がおかしい
>絹を紡ぐ為の紡錘車、 絹とは限らないだろ?
>鋳型、 愛知の朝日遺跡でも出てるね
>宮殿、 九州にはないよ? 吉野ヶ里はそれっぽく復元しただけ
>青珠、 どれのこと? サファイヤは出てないだろ?
、、、、etc >>593
>いずれにせよ当時の地名が残ってるとは思えない。
對馬國 対馬
一支國 壱岐
末盧國 松浦
伊都國 怡土(糸島)
奴國 那珂、那の津
投馬國 出雲
邪馬臺國 大和
斯馬國 志摩
已百支國 伊吹
伊邪國 伊賀
都支國 土岐
彌奴國 美濃
よく残ってると思うが?
人が住み続ける限り、親子で話が通じるためには
世代を超えて地名は共有されないといけない
地名は変わりにくいよ >>593
>ヤマイ国じゃね?
上代に母音が連続する単語は日本語になかったとされている 現代のヨットでも九州を一周するのに30日かかるそうだ。
当時のボロ船なら何日かかるだろうか?
これを踏まえて、もう一度水行20日と水行10日陸行1月について考えてみた。
博多湾を出て時計回りに水行して宇佐あたりで投馬、更に水行して大分あたりで上陸し、山を越えてうきは市あたりまで抜ける。
つまり九州北部を一周してきたと考える。
道中は散々寄り道してきたが小さい国ばかりなので詳細は端折る。
女王国についてから改めて国名のみ紹介した。
要は2ヶ月かけてあちこち寄ってみたんだろうと思う。
というかあちこちで飲んできたw
とりいそぎ魏志倭人伝の道程は正しいと解釈する。 >>597
説関係なく、日本人が無理やりそう読んでるだけだからw
そもそも当時の日本語の発音やなまりが不明。 地名は残ってるよ、特に旧郡として
例えば
鬼国ー基肄郡ー基山町
邪馬国ー八女郡
伊都国ーいど郡
不弥国は宇美町
この辺は確実だな 奈良の出土品出せとしつこく要求してた人どこ行った?
不利だからダンマリ? >>598
その通り
「場合ばあい」という言葉でも「バワイ」とか「バヤイ」と発音する地方がある。
大体「壹it」「一it」を「イ」と開音節で発音するようになったのは
趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した
南宋の後半からモンゴル人支配が始まった支那北部だ。
支那南部の福建人、客家人、広東人は
今でも「一」を「イッit」「ヤッyat」と閉音節で発音してる。
マレー半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡は
「馬六甲」海峡と書くがこれを福建語読みするとマラッカになる。
シンガポールのBukit Timahブキ(ッ)・ティマ
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Bukit_Timah
は漢字で武吉知马/武吉知馬と書き
「吉」がkiatとかという発音。
臺灣閩南語常用詞辭典「吉」
http://fast-uploader.com/file/7093353597419/
臺灣閩南語常用詞辭典「一/壹」
http://fast-uploader.com/file/7093353327094/
itが文語音=古典を読むときの発音で大体唐代長安音を使って読む
tsitが白話音=古典以外の日常会話に使う発音 考古学者はほとんど全員が畿内説なんだから物証で張り合って九州説が勝てるわけないじゃん 唐古鍵遺跡からは稲穂束、炭化米、炭化籾
木製の杵、鋤などが出土してるから稲作してたのは確かだ。 >>601
なるほどね、これ合ってるのかな?
好古都国ー博多
己百支国ー行橋
>>604
俺は逆に畿内説の言い分に嫌気がさしたな。
学者はゴッドハンドに憧れてるし。
奈良の人に倭と書いてヤマトと読んではいけないと言われた。
倭と大和を一緒にしちゃいけないってね。
九州で見つかる史跡の方が圧倒的に生々しいから面白いし。
何より藤原の手の触れた部分は信用しない。 >>606
飛鳥奈良時代の「博多」の読みはパカタpakataだ。
hakataと発音するようになったのは17世紀江戸時代から。
旗がパタパタとはためくと云うだろ。
日本語のオノマトペ(擬態語、擬声語)は古代の発音が残ってる。
パクパクpakupaku食べるとは云うけどハクハクhakuhaku食べるとは言わない。 長文失礼
出雲大社、伊勢神宮をはじめとした神殿造は食料用の倉庫を発展させたものだし新嘗祭なども稲作と縁が深いものだ
日本(近畿から西日本)は弥生以降、水稲稲作文化の先進地であり古墳時代に一つの技術の頂点に立ったと思う
弥生の精神文化は今もって継続している
丁度古墳時代の頃、青銅器や鉄器が使われ生産効率と開墾技術が急上昇した
今でいうお金を産み出しているのと同じくらいのインパクト
米生産に余裕が出来た土地と、生産できずに貧しい場所、他の物産が豊富で米と交換できた場所があり、その間を米が流通と富を担っていた
今でもその文化の名残が残っていることは民族的断絶が起こっていない証拠でもあり、とても誇らしいことだと思う
さて、そこでだが卑弥呼はは何を祀ったのか?太陽信仰?鏡?道教?
いや違う、多分米生産そのものの出来不出来についての責任を担っていたのだろう
雨乞いや山伏祈祷等の文化を調べればヒントが出てくるかもしれないな
鬼道は雨乞いや農業に関する知識、秘術や技術伝播だったのではないかと思われる
それに比べ記紀は米生産の伝統性と重要性について語ることが少なく、弥生期の米生産至上主義とすこしずれている気がする
富の源泉である米生産と開発開墾はもっと重要だったはず。
ここに米社会に対する自虐的風潮のような何かを感じる
都市化が進み富んだ飛鳥以降の奈良は米社会以上の価値を見出だしたい願望があった
その視点から見て、魏は日本的なリーダーである卑弥呼を鬼道と表現したのだろうな
軍事的覇権だけでなく、人々が豊かになる方法を求めて連合し、情報を共有したと考えたほうがロマンを感じる
農業や開発や土器に関する出土状況はそのようなリアルを反映してると思う
そしてその技術は古墳築造にも表れてる
俺が畿内説を推すのはこういうところ 邪馬台国はどこ?
ヒント:樹齢の長いクスの木のある地域 好古都国ー博多
今の博多と呼ばれる地域はほぼ海だったし保留
似てるけど裏付けがない
発音に関しては投馬国をズモまで言い換える嘘つきの言う事は信用できんよ
西都原の都萬神社投馬国、地名を妻とも言っていた痕跡
こんなのモロ投馬国でしょ ID:76NHWBWCはよくID:A2t7Ec8bとかID:hJ7X51pQみたいな基地外の相手してられるな
俺なら発狂してるw 邪馬台国畿内説で、卑弥呼の宮殿のあった場所の最有力候補地、「纏向遺跡」。
そこから発掘された桃の種の科学的分析で、その遺跡が魏志倭人伝にある卑弥呼
の時代のものであることが確実になった。
畿内説はそこまで来ている。
他の説は、卑弥呼の宮殿遺跡の候補地すら提示できてない。
いい加減、夢から醒めたら。 桃の種を打ち出してくる畿内説も珍しい
畿内説の倭人伝リストにも
さすがに可哀想に思ったから入れなかったんだよ
桃の種を畿内説の証拠として打ち出すなら応援しようか? >>612
それをチョーセン式短絡とかバカチョンと言います 地名は残る
投馬国の地名は薩摩と都萬神社に残ってる
確定だな、これはズモには崩せんだろ もう うちとこ(邪馬台国)に構わんといて・・・
玩具にせんといて 寄ってたかって・・・ 畿内説で検索してもこういう動画が見られないね。
やる畿内のでは?
https://youtu.be/yetoX6MC63U 畿内説が見たら発狂する良い動画
素直な解釈、最後吉野ケ里で意見が分散するのが九州説
現状解るものは解る、解らないものは解らない
だから九州説は卑弥呼の居場所など推定するが断定しない
学問的にはこれが正しい。 >>618
吉野ケ里遺跡は邪馬台国の時代には衰退済み。平塚川添は小さすぎ。
祇園山古墳から三角縁神獣鏡が出てること自体、畿内の支配下だったことを物語る。
客観的事実として筑紫平野には邪馬台国に比定できるような遺跡や古墳がないのだから、
邪馬台国九州説を主張しても意味がない。 九州説派はまず邪馬台国候補地を探すことから始めるべき。
それからだろう畿内説の成果を攻撃するのは。 >>616
素朴な疑問
投馬国が薩摩や都萬神社なら、本体の邪馬台国はどこなの。
鹿児島沖の海の中? なんか纏向の発掘調査ってまだ2パーセントなんだって まだ98パー残ってる
2パーであの大量の物的証拠だよ これからまだまだ出てくるんだよ
九州説はほんとに正念場 現状戦力では戦えない 新たな遺跡を発見しないと・・・ >>623
それが前向きな九州説としての態度。
仮定でしかないが、邪馬台国の勢力は九州から畿内に移動している。
吉野ケ里遺跡が衰退したのも、恐らくそれが原因。
そういうことを考えていくのもおもしろい。 畿内の遺跡と九州の遺跡でどっちが魏志倭人伝に近いかの競争をしてるわけじゃないんだよね
3世紀前半には畿内ではヤマト政権のベースとなる政治連合ができていて
学者によっては3世紀の初めから古墳時代と呼んでる人もいる
その畿内勢が3世紀前半には北部九州に到達していたことが確実になったから学者の間では論争が決着したんだ
くだけた言い方をすると、日本列島のナンバー1勢力が魏使の目の前にいたのに
九州の小勢力を倭国の盟主に認定するわけないということ
はっきり言うと、九州の雑魚なんか出る幕ないから引っ込んでなさいってことだよ
ちなみに九州で真っ先に畿内連合に加わったのが九州最大勢力の奴国
だから今後九州でどんな遺跡が見つかろうと、もうひっくり返らない 九州説が致命的なのは本拠地となる遺跡が見つかってないだけではない
伊都国や奴国で九州邪馬台国なるものが存在した痕跡が皆無であること
邪馬台国よりも前の時代にもないし、後の時代にもない
一方、伊都国や奴国での畿内勢のプレゼンスは邪馬台国の時代から急速に高まってくる
畿内系土器が浸透していき、3世紀後半には前方後円墳が造られる
同じ条件で糸島(伊都国)や博多(奴国)を発掘してて、出てくるのは畿内勢の痕跡ばかり
これはもう言い訳できない
九州邪馬台国なるものは存在しなかったという結論にしかならない 装飾古墳は、朝鮮半島と九州にある
神武東征という神話がある
朝鮮→九州→畿内 >>626
最初から最後までウリナラファンタジー(ひとりよがり)
残念でした 米論の俺から言わせると
北九州は近畿から潤沢に供給される米の対価に銅鏡や鉄などの舶来品を払っていた。
やがて吉備などで鉄生産が本格化すると交易商品に困った北九州の国々は、舶来品が溢れ不良在庫化し土中に埋める
肥大化した都市として自給自足出来ない状態になり、新たな活路を朝鮮半島に求める倭寇になるしかなかった
結局は近畿の倭勢力と融合するしか道はなかった
もしも卑弥呼が九州にいたとしたら、北九州の幸せだった時代の象徴だったかもな。 >>623
掘れば掘るほど遠ざかっていくから途中で止めるんじゃない? >>627
神武東征は史実。神話ではない。
記紀に書いてある。
記紀は、神話と人間に関する歴史を冷静に分けて書いてある。
初代のことは子孫に印象深く伝わっているはず。
必ず痕跡があるはず。 >>628
おまえの脳内邪馬台国が伊都国や奴国を支配下に置いていた証拠を出してから文句言えや
あるのはせいぜい雑魚勢力が大陸貿易のため来てた痕跡だけ
九州邪馬台国連合を想定できるものは皆無 >>610
>発音に関しては投馬国をズモまで言い換える嘘つきの言う事は信用できんよ
これを嘘つきという方がおかしい
上古音から考えると、出雲が一番妥当
>西都原の都萬神社投馬国、地名を妻とも言っていた痕跡
>こんなのモロ投馬国でしょ
投馬国は邪馬台国以北の国
西都原以南に、戸数七万余戸を想定できる遺跡・地域はないから、
投馬国=都万の比定も妥当性がない >>619
>だから九州説は卑弥呼の居場所など推定するが断定しない
断定しなくていいから、推定地を出してみてよww
まともなところが一箇所もないくせにw >>628
>最初から最後までウリナラファンタジー(ひとりよがり)
>残念でした
批判するのは構わないが、論点、反論を「具体的に提示」してくれ
どこがどうファンタジーなのか?
ファンタジーだと判断するポイントはどこか?
具体的に、どうぞ! >>632
共立って意味知ってる?
支配下?
だからファンタジーって言われる 畿内説なんて最初から圏外かも。
魏志倭人伝に誤字は無い。
距離等の数字は10倍ルールで書かれている。
九州北部が邪馬台国でその最南端が女王国かつ本物の奴国。
こうした記述方法は暗号とは言わないらしい。 >>636
九州説のやつらが畿内説での連合について文句をつけてくる点が正にその文言だな
一大率が検察し諸国は畏れ憚るとあるから強権的な統治のはずだと理由をつけてな
九州説前提だからあえて支配としたんだが、
九州説でも支配・被支配の関係でないと言うなら傘下と表現に変えよう
で、伊都国や奴国が傘下に入っていた物証はあるのか?
なければ九州邪馬台国連合なるものは妄想だったと認めろ >>633
霧島、都城、大隅まで含めたら、
足りますよ。 卑弥呼が埋葬された場所は祇園山古墳が最有力だね。
径15mぐらいの小さな墳丘墓で周りを殉葬者で囲む形式のが他にもあるんじゃないかな。 畿内説は、宮崎の西都原の陵墓を、
どうみるんかね?
宮内庁により「男狭穂塚陵墓参考地」
(被葬候補者:瓊瓊杵尊)
として陵墓参考地に治定 >>631
古事記も事実をうまく隠してるんだよね。
そのうち解読してみようかな。 投馬国=薩摩宮崎
・弥生時代以前から栄え北部九州に匹敵する人口
・東は倭種で一括り、九州説名の倭人伝が南九州を説明しない理由が無い
・南船行20日が帯方郡から南九州
・ニニギとコノハナサクヤヒメと天孫降臨、日本史上の重要性
・西都原に都万神社、妻との地名も残る、薩摩もツマの名残
・水行10日の邪馬台国は水行20日の投馬より当然北である
こんなところかな、これが決定的ですね。
倭人伝の解釈だけで違う違う言われても、貴方の解釈が間違ってますよ
としか言えないな。
都萬神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E8%90%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE 和名抄を紐解くと山城の国(京都府)愛宕(於多岐オタギ又はオタキ)郡に
出雲(以都毛いづも)という郷がある。
邪馬台国は奈良で決まりだな。 >>639
>霧島、都城、大隅まで含めたら、
>足りますよ。
そこにどんな遺跡がありますか?
3世紀の遺跡でお願いします
でも、実際問題、そんなところに7万戸を想定できる遺跡群なんてないでしょ? 投馬国=薩摩宮崎 薩摩都万神社妻
畿内説では投馬国は卑弥呼までの道順のために適当に場所決めた国扱いだが
北部九州からは霧島連峰で途絶され四国からは海で途絶
温暖で地味豊で独自の文化をもつ投馬の重要性を認識すべきだよ >>640
>卑弥呼が埋葬された場所は祇園山古墳が最有力だね。
祇園山古墳は、三角縁神獣鏡が出ている古墳時代にがっつり入ってからの古墳だよ
三角縁神獣鏡が出ているということは、畿内政権の仲良しさん
>周りを殉葬者で囲む形式
祇園山古墳の周辺の甕棺墓等は、弥生時代の集団墓地だよ
祇園山古墳より100年単位で古い
100年前に殉死するのはむつかしかろ?
祇園山古墳周囲に殉葬墓があると言っているのは、
一部のトンデモ系九州説の人だけだ
今のところ、大規模殉葬は時代を問わず見つかっていない
そんなのが最有力っていう時点でダメダメだろう >>647
国分、霧島あたりに広がる
9500年前の縄文時代の大規模な定住集落跡である国指定史跡「上野原遺跡」がある。
52軒の竪穴(たてあな)住居群を中心に
65基の集石遺構や16基の連穴土坑などが
整然と配置され、
日本最古、最大規模の定住集落跡と
いわれている。
台地南側からは、
縄文時代早期後葉の約7500年前の
集石遺構と大型壺形土器、
磨製石斧(せきふ)などを埋納した
祭祀遺構や15万点におよぶ
土器、石器、装身具などが発見され、
先進的な縄文文化が
開花していたと推定される
西日本の縄文イメージを覆した遺跡だよね。
ベンガラも縄文時代から、あるよ。 >>641
>畿内説は、宮崎の西都原の陵墓を、
>どうみるんかね?
記紀を信じるなら、応神・仁徳紀にある日向髪長姫の入内に伴う実家筋の
墳墓で、畿内中央から大墳墓造営の支援がなされたのだろう
>(被葬候補者:瓊瓊杵尊)
古墳時代中期のものだから、瓊瓊杵尊にはどうやっても時代が合わない
応神・仁徳朝の頃がまさに古墳時代中期だから、髪長姫の父の諸県君牛諸井あたりが
被葬者の候補となる >>653
実家筋に、
列島最大の帆立型をつくるかな、
かなり、高位な人ではないかな。
2005年のレーダー調査で、
従来より20メートルぐらい、
大きいことわかったからね。 >>643
>・水行10日の邪馬台国は水行20日の投馬より当然北である
そんな放射読みは通らない
「南至」投馬國「水行二十日」(官名略)『可五萬戸』
「南至」邪馬壹國女王之所都「水行十日陸行一月」(官名略)『可七萬戸』
自女王國以北其『戸數』「道里」可得略載其旁國遠絶不可得詳
この順番で書いてあって、投馬国には
『戸數』『可五萬戸』
「道里」「南至」「水行二十日」がともにきちんと略載されているんだから
明確に、自女王國以北の国と位置づけられてるよ
邪馬台国比定地より南に投馬国を置くのは、読み方として破綻している 史書を無視する畿内説はアホw
必死な罵倒や屁理屈が哀れ過ぎてorz >>654
>実家筋に、
>列島最大の帆立型をつくるかな、
古墳時代中期は、古墳時代でもっとも大きな墳丘を作った時代だから、
大きくなっているという側面もある
同じ時期に畿内では、誉田御廟山古墳、大仙古墳という
全世界で1,2位の巨大墳墓を作っている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています