>>462
>西暦90〜100年頃に九州北部の首長が畿内邪馬台国の唐子・鍵遺跡
>でヤマト国の倭国の統一祭祀王になったというのか?

駄々を捏ねてるだけだろ?
めんどくさいな

後漢書に倭国王帥升等と書いてあるから、とりあえず帥升は倭王として扱うが、
北宋版『通典』に倭面土國王とあるのに従えば、漢委奴國王と同じで
倭国内の面土国の王であって、倭国全体の王ではないとも取れる

倭の奴国の王は倭国の中の地域首長で奴国(福岡平野)の王、
倭の面土国のの王は倭国の中の地域首長で面土国(米多郷)の王

どちらも北部九州の地域首長

縄文以来、日本列島では各地の特産品を交易により広域流通させていた
神津島の黒曜石しかり、関東の貝塚で作った干し貝しかり、糸魚川の翡翠しかり
そして一時期、北部九州が出していた特産品が大陸由来の青銅器で、その頃には
稀少品として北部九州に一定の優位性があった

それが、後漢末の混乱、公孫氏の自立により舶来の青銅器が手に入らなくなって、
北部九州の優位性は失われ、決定的に没落する

その後、列島内の談合により、大和の祭祀王が統一祭祀王として共立され、
新しい都が計画都市として纒向に建設される

大陸側からすれば朝貢記録があり金印も出しているから、西暦57年の漢委奴國王も
107年の帥升も「王あり」と書かれるけれど、それが倭国全体の王だったかは疑問