【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★6
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1536582943/ 方格規矩鏡が、でるところは、
魏や後漢に関連ある地域だよね? 後漢時代がメインだろうな
魏の時代になると数はかなり減る >>458
仮に放射読みをしても邪馬台国は九州を飛び出ちゃうね >>465
さらに南へ水行十日陸行一月をまっすぐやってしまうと飛び出るね
陸行は九州を横断かなあ 畿内説が拒絶反応する旧唐書には重要な事実が書かれているね。
[倭国条]
九州倭国の朝貢は漢〜唐まで記録がある。
ただし631年の唐への朝貢で最後。
(遠いから無理をして朝貢しなくても良いと言われる)
帰りに着いてきた唐の使者と倭国の王子が揉めた模様。
以降は新羅を通じて連絡をとりあった。
[日本条]
その後畿内日本人が唐に朝貢に来た。
ここで倭国と日本は合併したと報告している。
受け応えが誠実でないので疑われる。
(倭国人とは様子が違う)
以降、日本人は継続的に朝貢している。
まともな人も来たが、居座って帰らない人もいた。
よって7世紀あたりでようやく畿内大和政権が機能し始めたと考えられるが、壬申の乱など、苦労は絶えない。
全国を統一出来たのは天武天皇が無難な形で記紀を作成したおかげか?
(天武は魏志倭人伝を読んでいた) >>462
>西暦90〜100年頃に九州北部の首長が畿内邪馬台国の唐子・鍵遺跡
>でヤマト国の倭国の統一祭祀王になったというのか?
駄々を捏ねてるだけだろ?
めんどくさいな
後漢書に倭国王帥升等と書いてあるから、とりあえず帥升は倭王として扱うが、
北宋版『通典』に倭面土國王とあるのに従えば、漢委奴國王と同じで
倭国内の面土国の王であって、倭国全体の王ではないとも取れる
倭の奴国の王は倭国の中の地域首長で奴国(福岡平野)の王、
倭の面土国のの王は倭国の中の地域首長で面土国(米多郷)の王
どちらも北部九州の地域首長
縄文以来、日本列島では各地の特産品を交易により広域流通させていた
神津島の黒曜石しかり、関東の貝塚で作った干し貝しかり、糸魚川の翡翠しかり
そして一時期、北部九州が出していた特産品が大陸由来の青銅器で、その頃には
稀少品として北部九州に一定の優位性があった
それが、後漢末の混乱、公孫氏の自立により舶来の青銅器が手に入らなくなって、
北部九州の優位性は失われ、決定的に没落する
その後、列島内の談合により、大和の祭祀王が統一祭祀王として共立され、
新しい都が計画都市として纒向に建設される
大陸側からすれば朝貢記録があり金印も出しているから、西暦57年の漢委奴國王も
107年の帥升も「王あり」と書かれるけれど、それが倭国全体の王だったかは疑問 >>466
>陸行は九州を横断かなあ
九州を横断なら、東行だよね?
そんな簡単に東にしてよいなら、最初から東で畿内に向かった方が簡単じゃないかね?
まあ、日本海航路を東へ水行して最後、丹後若狭湾辺りから陸行して大和に向かうと
逆に最後の旅程は南向きになるけれど >>468
畿内がいくら頑張っても祭祀では統一出来ず、ねじ伏せる力もなくグダグダな時代が続いただけ。
天武天皇が忘れ去られていた神武東征説を復活させ文書化したことでようやく落ち着いたって感じだよ。 まずは倭国大乱の痕跡を探せばよい。
2世紀頃の同年代の戦闘の痕跡がどの範囲に見られるかで倭国の範囲は検討が付く。
そして邪馬台国のあった地域なら3世紀末まで狗奴国と争った痕跡があるはずだ。
簡単だろ? しかし、道路も整備されていなく地図もない時代にまともな靴もない中よく島根だとか岡山だとかから移動したものだよな 卑弥呼女王がシャーマンだと 誰が決めたの?
土着の人間は 裏が無いから素直に太陽信仰していたのよ。
呪詛とか占いは 渡来人が持ち込んだもの。 邪馬台国の頃に
八咫烏さんが日本におられたらしいから
聞けばよいと思うよ?
通り魔に殺された被害者を 敗者とは言わない。
同じルールで 同じ土俵で戦って
敗れたなら 敗者でしょう。
無抵抗に近いものを一方的に成敗して 勝者・・・?
日本語って 奇妙だなとしみじみ思わせる
邪馬台国論争。
海洋国家の邪馬台国が
奈良や京都へ遷都するわけが無い。 纏向は瀬戸内海洋集団・物部の遺跡。
10代崇神のお母さんも物部。
纏向にヒミコはいない、ヒミコがいたのは葛城。 >>459
>崇神天皇が纒向遺跡と同時代で3世紀だよ
崇神が3世紀は無理、4世紀初〜前半。
纏向古墳群は崇神以前の物部の墓。 神武が大和に来た時、すでに神と王がいた。
事代主神と鴨王だ。
これは日本書記に明記されている。
神武は4世紀前半の崇神の6世代前、つまりヒミコの時代だ。
ヒミコとは事代主神の娘であり鴨王の妹であるヒメだ。
後の時代、ヒメに「蹈鞴」と「五十鈴」を付け加え、
記紀で姫蹈鞴五十鈴媛となった。
彼女が住んだのは葛城である。纏向ではない。
ヒメの墓は鴨族の聖地、高天原の日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚の周囲に、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
https://goo.gl/maps/JPUsgagd94t >>472
>しかし、道路も整備されていなく地図もない時代にまともな靴もない中よく島根だとか
>岡山だとかから移動したものだよな
出雲と大和の間には土器の出土から見て往来が確立されているわけだから、
そのルートに乗って、大和まで来ただけだと思うよ
そして、北部九州から出雲は、大国主がタキリヒメに妻問いした日本海沿岸の海路だろう >>477
>崇神が3世紀は無理、4世紀初〜前半。
それが思い込み
纒向が卑弥呼の宮室で、その近くに磯城瑞籬宮を置いて
国を治めるのを佐けた男弟が崇神天皇 それはね、入れ替わり立ち替わり九州説を盲信している人が来て、
「専門家の研究を全て信じない、オレ様の考えが正しい」って言い張って荒らし回るからだよ 畿内説が正しいという説明はかなり出てきた。
念のため九州説を検証しようじゃないか。
女王ヒミコがいたのは、九州説では具体的にどこだと言うのか。
(天皇家の血筋らしいので、倭人伝の漢字は使わない) その前に畿内説では
大和河内環大阪湾が邪馬台国で纏向は計画都市で唐古が大和の首都云々言ってるんだが
卑弥呼は何処にいたんだ? 旧唐書を読めば倭国と奈良日本はべつものと明確に解るが 奈良派は日本列島の歴史全部が
奈良から始まると火病を起こす
紀元前から700年までが倭国が日本列島の代表 奈良は700年以降の代表
倭国では金印 ヒミカ 倭五王 タリシホコ 白村の戦い 岩井 サチヤマ などの事跡 >>484
>大和河内環大阪湾が邪馬台国で纏向は計画都市で唐古が大和の首都云々言ってるんだが
>卑弥呼は何処にいたんだ?
日本語が読めない人かな?
纒向が共立された統一祭祀王卑弥呼のために新たに建設された計画都市なんだから、
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼は纒向にいることになる
そして、辻地区の居館跡の近くの大型祭祀土坑(複数)が、祭祀の場所だろう 纏向は卑弥呼の時代に卑弥呼のために新たに建設された都市なんだな
それまで邪馬台国の男王や卑弥呼はどこにいたんだ? >>485
>旧唐書を読めば倭国と奈良日本はべつものと明確に解る
この>>485のような誤読チェリーピッカーが典型的な九州説
旧唐書の前の隋書で、裴世清が大和の倭国まで訪ねているのは無視かい?
隋書には「則魏志所謂邪馬臺者也」とはっきり書いてあるし
旧唐書はその前にまとめられた唐会要を引き写しているだけ
唐会要の「倭国伝」には
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。
大歷十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。」
とはっきり書かれていて、武則天の長安四年の粟田真人を執節使とした遣唐使の時に
倭国が改号して日本国と号するようになった訳だ
粟田真人を九州倭国(筑紫倭国)の人間とは言わないよな?
704年までの倭国は、大和朝廷そのものだよ
そして開成四年(839年)の遣唐使も倭国伝に書かれている
この時の大使の名前が唐会要で薛原朝常嗣、続日本後紀で藤原朝臣常嗣と
固有名詞まで一致しており平安朝の藤原氏であることが確認できる
唐会要では倭国伝が99巻、日本国伝が100巻だから紛れはないよ
畿内の王朝が倭国の王朝そのものなのは大陸の史書からも明らかなんだよ
700年まで続く九州倭国(筑紫倭国)などというのは、噴飯物のトンデモ以外の何ものでもない 【邪馬台国纒向】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…吉村武彦
否定…関川尚功(橿原考研) 若井敏明
【卑弥呼箸墓】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…白石太一郎 歴博西本豊弘 奈良県立橿原考古学研究所
否定…石野博信 寺澤薫
(以上 >>150)
よくワカンナーイんだから
このくらいのバランスで理解しとけばいいんじゃね
ただ率直に言って肯定説はマスゴミ押しだからちょっと引く ヒミコ(ヒメ、後にヒメ踏鞴五十鈴)の墓は高天原最有力の地にある日本最古の神社境内にある。
径百余歩、周りに奴婢が埋められている。
埋められた奴婢とは土蜘蛛。
https://goo.gl/maps/2PZFbjAVo762
ヒミコ(ヒメ、後にヒメ踏鞴五十鈴)の時代、この地で土蜘蛛を退治した男が日向から来た神武。 >>480
思い込みでではなくて最有力の行燈山が布留1式=4世紀初頭から前半。
崇神=3世紀などとはお前の思い込み。 >>487
>纏向は卑弥呼の時代に卑弥呼のために新たに建設された都市なんだな
瀬戸内海洋集団物部の遺跡。
>それまで邪馬台国の男王や卑弥呼はどこにいたんだ?
葛城だよ。
纏向にヒミコなんているわけない。
3世紀後半あたりまで葛城。
事代主神や鴨王(オオキミ)こと天日方奇日方がいた葛城。
神武という男は王ではない(※ここ重要)
やがて実権が纏向に移る。
それが箸墓になる。
そして生まれたのが崇神。 京都の五塚原古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。ごく普通に考えて山代国造、山代県主の類であろう。
ならば候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
天孫本紀に交野連と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)である。
伊香色雄命の子である。
ここにきて箸墓と強く関連する二つの古墳の被葬者候補に伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。
箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。
彼が磯城の王であったことは姉のイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してることでも明らか。
そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。
崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
纏向は瀬戸内海洋集団物部の遺跡。
ここに卑弥呼はいない、卑弥呼がいたのは上記、葛城である。 なるほど畿内説邪馬台国の首都は葛城から纏向に移行か
AD90ー100頃から3世紀後半までが葛城で3世紀後半以降が纏向なんだな かつて上田正昭さんや森浩一さんが先代旧事本紀の復権を言われた。
にもかかわらず橿原考古研や寺沢は無視。
だから纏向遺跡に卑弥呼がいたなんてミスリードをしている。
寺沢など、纏向遺跡を「筑紫、吉備、讃岐、播磨(2013纏向学)」と言ってるにもかかわらず、
その意味が分からないと来た。
かつて筑紫の物部、播磨の物部、讃岐三野物部らを率いて大和入りした男がいた。
ニギハヤヒである。
纏向遺跡はニギハヤヒ後裔・物部の遺跡。
先代旧事本紀を読めばそれくらい分かりそうなものだが、寺沢や橿原考古研はアホウ。 >>150朝鮮韓国人テロリスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
先導罪・内乱罪、 公安に通報した
邪馬台国の卑弥呼なんて、シャーマンと我が国は
全く何の関係も無いぞ
シャーマニズムというのは、未開原始部族の
危険なカルト信仰だからだ。
キリスト教では、カルトの偶像崇拝・個人崇拝は
禁止されている。オウムと同じことで、個人崇拝
の教祖が少し変節しただけで、たいへんな事態と
なるからだ。
「邪馬台国が、 」 などを日本で言い出すヤカラは、
日本を貶めて侮辱したい朝鮮人韓国人である。
>>31朝鮮韓国人テロリスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
先導罪・内乱罪、 公安に通報した
邪馬台国の卑弥呼なんて、シャーマンと我が国は
全く何の関係も無いぞ
シャーマニズムというのは、未開原始部族の
危険なカルト信仰だからだ。
キリスト教では、カルトの偶像崇拝・個人崇拝は
禁止されている。オウムと同じことで、個人崇拝
の教祖が少し変節しただけで、たいへんな事態と
なるからだ。
「邪馬台国が、 」 などを日本で言い出すヤカラは、
日本を貶めて侮辱したい朝鮮人韓国人である。
>>495
>AD90ー100頃から3世紀後半までが葛城で3世紀後半以降が纏向なんだな
おおよそその通り。(本当はBC3世紀からだと思うが)
倭国王・帥升ことスサノオも葛城の高天原(御所市高天)。
高天原のふもとの生口を引き連れ後漢・安帝に謁見要請、という事は外交儀礼として土下座した。
朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 >>490の質問に答える義理はないんだが?w
専門家の論文を読んで勉強して!
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
大和+河内〜環大阪湾のヤマト国も、のちの卑弥呼を共立した倭国(女王国連合)と
同様に内部に複数の地域首長があり、唐子・鍵を中心集落とする狭義のヤマトの他に
開化天皇の宮があったとされる奈良盆地北部の佐保、奈良盆地西武の葛城、
中河内にはそれぞれ有力者がいたと考えられる
まあ、
狭義のヤマトの中心が唐子・鍵遺跡、
佐保の中心が大安寺西遺跡
葛城に中心が鴨津波遺跡
中河内の中心が亀井遺跡または中田遺跡辺りだから、
これらのいずれかにヤマト国の王はいたのだろう >>492
>思い込みでではなくて最有力の行燈山が布留1式=4世紀初頭から前半。
それはあくまで最有力であって、決定事項ではない
箸中山古墳の被葬者に崇神天皇を当てる考えも根強い
>>492は相変わらず態度が悪いな ヤマト国とかヤマトの国の王とかヤマトの中心とか
邪馬台国と女王卑弥呼の事を話してるんだが
ヤマト国が邪馬台国なら
邪馬台国各地に邪馬台国の王が複数いたのか? 故・金関 恕(かなせき ひろし)さんが奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を言われてた。
また和田萃さん(元・橿原考古学研究所指導研究員)も和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではないかと言われてたようだ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が誰にも分からなかった。
説いたのはわしだ。
まいったか。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
和邇氏は魏志倭人伝の台与このトヨ津媛から始まる。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津も葛城である。
邪馬台国とは葛城(奈良県御所市)なのである。 >>501
>それはあくまで最有力であって、決定事項ではない
久住編年はほぼ決定事項であろう。
>箸中山古墳の被葬者に崇神天皇を当てる考えも根強い
どこで?
強引に自説に持って行こうとするおまえこそ態度が悪い。 >>504
>久住編年はほぼ決定事項であろう。
確定事項ではないのは久住編年ではなく、古墳の被葬者の方
古墳の被葬者がほぼ確定と言えるのは、今城塚古墳の継体天皇、
岩戸山古墳の筑紫君磐井、野口王墓(檜隈大内陵)の天武持統合葬陵くらいで、
あとは基本的に伝○○天皇陵の域を出ない
箸中山古墳に関しては、これをその隔絶した規模からヤマト王権の始祖王の墓とするのが
通説であり、その始祖王として、魏志倭人伝の卑弥呼を当てる説と、
実在が確実視される最初の大王の崇神天皇を当てる説が並立している
自分でも少しググってご覧
>強引に自説に持って行こうとするおまえこそ態度が悪い。
まあ、客観的に態度が悪いのは>>504の方だろうw まあ、頭が悪いと虚勢を張るために言葉が悪くなりがち
論理で勝てない人はよくそうなる
育ちが悪い、お里が知れる、ってやつだ >>464
ありがとう。
三国時代は、
武昌(今の鄂州)と洛阳、
会稽、徐州が、四大銅産地やったからね。
会稽と鄂州は、長江流域やから、
倭国は、神獣鏡の影響を先にうけたんやろな。
黄河文明の正統王朝は、中原で、洛陽だし、
彼らは、神仙思想は、鬼道としてみたいたからね。
鄂州が、製鏡では、最先端技術を
持っていたよね。三角縁の形は、
似たのが、鄂州銅鏡にもあるし。
そう考えたら、魏志倭人伝の鬼道は、
神獣鏡を使っていたということやね。
で、魏が、内行花文鏡などのデザインがある
中原の正方形と円などの円天思想を
邪馬台国に
持ち込んできたのだろう。
まだ、後漢の
デザインは、残っていただろうから。
国産初の八咫鏡は、内行花文鏡に近いと。
邪馬台国が、神仙思想の鬼道から
魏の内行花文鏡などの中原思想に
触れた、または、同盟のため、
檄文、黄色の錦、後漢から続く、
中原で流行って鏡を持ってきたんやろう。 >>505
応神天皇が誉田御廟山古墳で即位390年であることは百済王との兼ね合いからも明らか、
また考古学的にも誉田御廟山が最古の須恵器から2番目である事からもほぼ決定。
ならば崇神まで遡ること5世代だがすべて父子継承とは言いがたく、
新唐書の神功は開化の曾孫の記述、または各豪族の系譜からも4世代が妥当であろう。
ならば崇神が3世紀初頭の卑弥呼の男弟なら、応神から遡る4世代が約200年になる。
一世代間50年。
記紀のとおり応神から崇神まで5世代としても一世代間40年。
平成の今で一世代間36年だから、
お前の言う事がいかに時系列を無視したトンデモか自分で理解しろ。 >>505
>箸中山古墳に関しては、これをその隔絶した規模からヤマト王権の始祖王の墓とするのが
通説であり、
なんで播磨や吉備の特殊器台があるの?
なんで墳形が讃岐タイプなの?
その(大王」と瀬戸内に何の関係があるの? 倭国の始まりはイトシマのクシフル岳から 東へ山を抜けて ヨシタケタカギ(ここのニニギの墓あり)
更に東へいき春日市スクオカモト(ここがヒミカの墓殉死者100人と眠る)更に東南へ移動して太宰府
ここがトトクフ都府楼倭国の首都で周囲に城を築く 倭の五王からタリシホコ岩井サチヤマ白村の戦いまで
続く ニニギのヨシタケタカギやヒミカのスクオカモトは何れもなだらかな斜面で水害もなく 住居に最適の場所
みなさん一度行きましょう
太宰府はもうお解かりでしょう ここもよいところです >>151
原を「ばる」というのは九州では比較的広い範囲で使われてるよ
宮崎に限らず福岡でも言う
沖縄との関連如何は知らんが、その理屈はちょっと苦しい 当時の製鏡は、
プロセス化されていたよね。
1人で、全部つくれたわけではない。
一般的には、型どりの粘土からつくる
型取する者と鋳造する者。
モデル、型取りするものは、鋳造には、
参加しない。型取りの表、裏をつくり、
乾かし、焼いて陶器にしたあと、
鋳造するものが、そこから参加する。
铭文带のなかの、名前は、大部分は、
鋳造する匠の名前が掘られている。
鋳造の匠は、デザインできる彫刻の能力は
あわせもたない。
理論上は、そう言われていたが、
《鄂州铜镜》の「太平三年対置式神兽鏡」
の銘文に、
太平三年,造作明鏡、
服者万年,师大朱仁李氏□□□□王孙朔,
十三日□者师朱武世造三湅明鏡
と書いている。
で、この「朔」は、モデルをいみする
「塑形」の略字だね。
大朱仁李氏が、モデルを作り、
朱武世が、鋳造したんやね。 >>508
>応神天皇が誉田御廟山古墳で即位390年であることは百済王との兼ね合いからも明らか
これが明らかじゃないんだって!
自分が正しいって凝り固まってないで、もうちょっとフラットに物事見てごらん
百済王との兼ね合いってのは三国史記じゃないのか?
それ12世紀の二次情報
誉田御廟山古墳が古墳の被葬者が応神天皇ってのも疑問符が付いてる
高城修三の紀年解読での応神推定即位年は368年
おもしろそう紀の住吉十楽は応神即位年に422年を取る
>ならば崇神まで遡ること5世代だがすべて父子継承とは言いがたく、
>新唐書の神功は開化の曾孫の記述、または各豪族の系譜からも4世代が妥当であろう。
これも「父子継承とは言いがたく」というのは感想
新唐書は記紀の情報準拠の二次情報だから、新唐書を記紀の否定に使うのは筋違い
>ならば崇神が3世紀初頭の卑弥呼の男弟なら、応神から遡る4世代が約200年になる。
>一世代間50年。
卑弥呼を3世紀初頭とするのは、確定事項ではない
卑弥呼の実在が確認できるのは景初三年、239年以降
3世紀初頭と239年では40年、一世代半ずれることになる
>記紀のとおり応神から崇神まで5世代としても一世代間40年。
記紀の通りなら
崇神、垂仁、景行、ヤマトタケル、仲哀、応神だから世代数で6代目代目になる
結構>>508がいいかげんだって分かるだろ? >>510
>イトシマのクシフル岳
これがいきなり根拠なしだからしょうがない 後漢から三国時代の銅鏡には、
良く目にかける以下の銘文がある。
“辟除不羊(祥) 宜古(贾) 市”
この銘文は、その時代は、
すでに民間技術として、
流通し、商業的な取引もあったことを
意味している。だからこそ、
「市」の漢字もある。
つまりは、製鏡士とでもいえる
ものは、市場の要求に応じ、
自分の鋳造能力に応じて、
その地、その地で適した商業取引される
銅鏡を作っていた。
円天思想や神仙思想などの
背景も含めて、市場の競争に
合わせながら、利益のある、
ニーズの高いものを作っていた。
日本に渡った製鏡する
型取りするもの、鋳造するものも
その製鏡マーケットから、
ヘッドハンティングされたかもね。 >>513
>铭文带のなかの、名前は、大部分は、
普通の文章の中に簡体字が混じるってのは、中国の方かな? >>517
ちがうよ。
原文で書いた方が、より
わかりやすいからね。
魏志倭人伝の文献に合わせて、
銅鏡のタイプも、把握すれば、
みやすくなるかなと。 >>514
>百済王との兼ね合いってのは三国史記じゃないのか?
>誉田御廟山古墳が古墳の被葬者が応神天皇ってのも疑問符が付いてる
>高城修三の紀年解読での応神推定即位年は368年
>おもしろそう紀の住吉十楽は応神即位年に422年を取る
百済の武寧王(462年 - 523年)の墓から買地券(金石文)が出ている。
その百済王の系譜から
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
したがって応神元年は390年。
>記紀の通りなら
>崇神、垂仁、景行、ヤマトタケル、仲哀、応神だから世代数で6代目代目になる
それを遡ること5世代というのだ。
自分がいいかげんだって分かるだろ? >高城修三の紀年解読での応神推定即位年は368年
小説家www 史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
たまたま掘り当てた吉野ヶ里だけでも相当数出てる。
しかも縄文〜弥生〜古墳時代までの連続性有り。
長崎や有明海で行われる鐘楼船の記述があるから使者は吉野ヶ里を見た可能性もある。
[奈良]
〜ここに記入〜 偉そうに○○は確定事項ではないと言いながら、
自分が出してくるのは「おもしろそう紀の住吉十楽は応神即位年に422年を取る」
それ古代史ファンタジーwww
ID:76NHWBWCはさすがにIDがトイレなだけあるwww なるほどねえ〜
[倭国条]
九州倭国の朝貢は漢〜唐まで記録がある。
ただし631年の唐への朝貢で最後。
(遠いから無理をして朝貢しなくても良いと言われる)
帰りに着いてきた唐の使者と倭国の王子が揉めた模様。
以降は新羅を通じて連絡をとりあった。
[日本条]
その後畿内日本人が唐に朝貢に来た。
ここで倭国と日本は合併したと報告している。
受け応えが誠実でないので疑われる。
(倭国人とは様子が違う)
以降、日本人は継続的に朝貢している。
まともな人も来たが、居座って帰らない人もいた。 >>521
>登ってきましたが 隣のヒナタ山にも
それ、九州説の人が「勝手にそうだと決めた」だけだよ
で、九州説のサークル内では、それが事実だと思い込んでるw バルか
福岡で思いつくだけでも
長者原、屋形原、椎原、桧原
結構あるな >>524
>[倭国条]
>九州倭国の朝貢は漢〜唐まで記録がある。
>ただし631年の唐への朝貢で最後。
そんなことはない
>>488を再掲
そして開成四年(839年)の遣唐使も倭国伝に書かれている
この時の大使の名前が唐会要で薛原朝常嗣、続日本後紀で藤原朝臣常嗣と
固有名詞まで一致しており平安朝の藤原氏であることが確認できる
これが、旧唐書・新唐書の元ネタの唐会要の記事
日本伝の方は、武則天の長安四年(704年)の遣唐使で日本への改号を
認められた以降が書いてあるだけ
倭国も日本も同じ国であり、政権は畿内の皇統だよ >>528
頭大丈夫ですか? 近くに精神科医院はありますか 明日にでもいきましょう
倭国と日本が同じなら 唐書の他の国は何のために区分して記載するのか >>528
隋書・流求国伝では琉球人が使っていた布甲について倭国の使者が屋久島の物だと答えてる場面がある。
この倭国の使者が畿内大和の小野妹子だとしたら、本当に屋久島を知っていたのか?
畿内の使者とは考えにくいねえ。。。 古代からクシフルと呼ばれていたから現在も呼ばれているのでしょう
クシはチクシのクシ クシ国のクシ 今の櫛田神社のクシと通じるものです >>523
>それ古代史ファンタジーwww
一度きちんと読んでみ
>>523の頭の中よりよっぽど理路整然としてるぞw
于道朱君や五百木入彦の考察とか、とてもおもしろい
まあ、これが史実だというつもりもないが、応神天皇の治世は意外に決めがたいんだよ
雄略天皇の462〜483年はそれほど大きく動かない
応神、仁徳、允恭、雄略で四世代遡るというのが基本
ただ、記紀の記述では応神、仁徳、允恭は治世が特に長い天皇ということになっている >>529
>倭国と日本が同じなら 唐書の他の国は何のために区分して記載するのか
改号したから、改号前と改号後を別の国号で書いてるだけだろ?
ごく単純な形式論理だ >>531
>古代からクシフルと呼ばれていたから現在も呼ばれているのでしょう
古代の記録にクシフルという山の名前が出てくるが、
それが、一部の九州説の人が考える山を指すことを示した記録は
古代からずっと一切ないんだ
古代から高祖山塊の小さなピークをクシフルと呼んだことを示す記録は一つもない 理屈にならない理屈を振り回す自己を真艫と思う精神状態は末期かも
さよなら >>532
>于道朱君や五百木入彦の考察とか、とてもおもしろい
面白いというのおまえの感想。
>雄略天皇の462〜483年はそれほど大きく動かない
>応神、仁徳、允恭、雄略で四世代遡るというのが基本
そこは否定してない。
百済王の系譜から
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
応神は羽田矢代宿禰らを派遣し辰斯王を叱責、そして阿莘王擁立。
倉西裕子『東アジアの古代文化112号』 の「『日本書紀』における紀年の編成をめぐる一考察」
応神元年が390年である理由。
● 応神3年条において百済国の阿花王 (392-405)の即位を伝えているが、
『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、
逆算して求められる 応神元年は390年である。
● 応神8年条文註に百済国の王子直支の来日 を伝えている。
『東国通鑑』『百済本紀』は、直支王(405-420)を人質として遣わした年代を397年と記しており、
逆算して求められ得 る応神元年は390年となる。
● 応神16年条に「是歳百済阿花王薨」と所 見されるが、
『百済本紀』の伝える阿花王の崩年は405年であることから、
逆算して求められ得る応神元年は390年である。
● 巻九神功紀後半の紀年が四世紀後半に位置 づけられることは、
実証主義の立場からは否めない。従って、次巻の応神紀の応神元年は、四世紀末にくる。
応神元年条の正文にある「庚寅」の年 は『日本書紀』の編年においては西暦270年に当たるが、
史実としては390年に設定されていると認識される。」
古代史ファンタジーなお前には理解できないだろう、あきらめろ。 >>467
>7世紀あたりでようやく畿内大和政権が機能し始めた
これが統一政権の始まりだよな。
637~686年の天武天皇が初めて「天皇」となり国名を「日本」と定めた。
唐に学んでまっとうな律令の基盤を作った。
実質的に全国統一政権が始まったのはこの時代だね。
大和王朝はあったかもしれないが、長らく統一政権では無かったということ。
3世紀以前からすでに統一国家があっただなんて、畿内の妄想も甚だしいな。 誰でもいいから奈良の個所の追記を宜しく
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
[奈良]
〜ここに記入〜 九州説だと、その後の邪馬台国はどうなってるの?
ヤマトに跡形もなく滅ぼされたのか半島に逃げて新羅になったのかどっち? 奈良
邪馬台国
葛城が邪馬台国の首都
大阪湾岸河内から奈良まで領土
邪馬台国内各地に複数の王、九州の王が畿内の王になった時期有り
葛城王から纏向王に政権が移り東海吉備出雲九州から首長が集まる
AD90頃から倭人伝に記述が確認されている >>540
九州倭国は660年白江戦で敗れて衰退したと考えるのが妥当。
その後は日本政権が朝貢している。 倭国の長い歴史のうちの一こまがヒミカのヤマイチ国でありヤマイチの首都春日市のスクオカモトから
東南の太宰府へ移りヤマイチの名称は使用されなくなりました
チャイナの当事者の魏も晋となり隋となり唐となります
その間倭国は倭の五王 タリシホコ(法隆寺に残る仏像のモデルでありショウトクタイシが其の
功績を剽窃した人物)岩井天皇(継体の裏切りで暗殺された)がでました >>543
新羅じゃなくて百済になったってことね。ありがとう >>542
纒向遺跡は居住集落じゃないんだが。
奈良の遺跡はそういう単発的なものが多い。
邪馬台国は普通に考えて平城京をつくる際に整地されたんだろう。
見つかるわけがない。 >>545
百済になるってどういうこと?
日本政権成立後に九州が半島に出兵したという節ならあるが。 畿内説が邪馬台国の首都は葛城から纏向に移行と断言した
平城京の下とか言い訳はもう遅い >>548
葛城の話がどこから出てきたのか知らないが、そこは邪馬台国とは無縁だろ? まず畿内説は意思をはっきりしてくれ
邪馬台国の首都が葛城なのか纏向なのか平城宮の整地で見つからないのか 葛城は邪馬台国発祥の場所で男王が70〜80年
纏向は卑弥呼のための計画都市であり首都
七万戸の邪馬台国の住民は大阪湾岸河内方面から奈良まで
東海から九州の奴国までが影響下
まず畿内説をはっきりさせよう
平城京とか急に言われても困るわ >>551
それを示す古墳や遺跡、出土品を並べながら説明してみて。
〜3世紀という事を忘れずに。 集団ストーカー(Gang Stalking)は精神病の妄想ではない - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/796999
2015年3月19日 ... 山本弘氏の集団ストーカーに関するまとめが偏っており、
集団ストーカー被害者=統合 失調症であるという印象操作の意図が感じられた ...
A◇矢野絢也元公明党委員長は、 集団ストーカー行為等につき裁判を起こし、
2009年に勝訴した。
矢野絢也氏とその家族に対して、日常生活が困難になる程の監視、尾行、 恫喝によって
、警察が矢野宅の隣に常駐するに至った集団ストーカー事件である。裁判 の結果、
敗訴して、集団ストーカー問題が広く知られる原因となった 事件
オリンパスが明るみに出した「集団ストーカー」の事実。: 怒りの10式暴走 ...
jgsdf74tk.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-9d10.html
2011/09/15 - 裁判所によって作成された公式文書の中で、職場におけるリストラ工作の手口として「集団ストーカー」と言う表現が用いられています。
ニュース - Facebook、「脳で入力」するインターフェイスを開発中:ITpro
itpro.nikkeibp.co.jp › システム
2017/04/20 - 米Facebookは現地時間2017年4月19日、頭の中で考えていることを読み取る「サイレントスピーチ」のコミュニケーションインターフェイスを開発する取り組みを明らかにした。
桶川ストーカー殺人事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/桶川ストーカー殺人事件 - キャッシュ - 類似ページ
2000年1月12日発売の『FOCUS』第3号において、「桶川女子大生刺殺『主犯』
を捕まえ ない埼玉県警の『無気力捜査』 事件前の対応から問題」という記事が
掲載され、追及の 矛先は犯人グループから新たに上尾署の捜査状況に向けられた
。この記事では被害者 が一連の被害申告をした際の警察の対応や、警察から被害者
への告訴取り下げ要請 の事実が書かれていた。 7 誰でもいいから奈良の個所の追記を宜しく。
話はそれからだ。
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
[奈良]
〜ここに記入〜 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 あと、これも重要だよな。
471 名前:ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 02:01:00.47 ID:E0FMAzRh [1/10]
まずは倭国大乱の痕跡を探せばよい。
2世紀頃の同年代の戦闘の痕跡がどの範囲に見られるかで倭国の範囲は検討が付く。
そして邪馬台国のあった地域なら3世紀末まで狗奴国と争った痕跡があるはずだ。
簡単だろ? 誰でもいいから奈良の個所の追記を宜しく。
話はそれからだ。
史書と関連する出土品
[九州]
防柵、墳丘墓、弥生人の人骨、祭祀用土器、鉄器、稲作用の痕跡、絹を紡ぐ為の紡錘車、鋳型、宮殿、青珠、、、、、etc
[奈良]
畿内第V様式土器が 共通して出土する範囲 >>518
共産党支配下の中国では
「發」と「髪」を「发」に集約してるから不正確。
共産党式略字は「宋元以来俗字譜」というのをベースにしている。 同年代の桃の種が出たら邪馬台国なのか?w
全国邪馬台国だらけになる悪感w
お前らも掘れよ!www >>559
「稲作用の痕跡」って何のこと
理解不可能なんだが元ネタは何処に書いてあるの??? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています