>>74
>【比恵・那珂遺跡群】「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」

これから分かるのは,この時期「箸墓」の畿内勢力は(段階的に浸透したのではなく)「(ほとんど)ダイレクトに到達した」ということです。
おそらく畿内側の北部九州内の駐屯地とも言える中心地が 比恵・那珂だったのでしょう。

そしてこの時期より,「北部九州の鉄器生産や絹生産の技術者」が畿内や本州各地に連れ去られるわけです。
もはや国としての機密性は崩壊しており,やりたい放題で「全面降伏」状態といってもおかしくありません。

ただ,北部九州は抹殺されたわけではなく連合政権「ヤマト王権(大和朝廷)」の一員として迎え入れられることになります。
(台与が生きていたとしたら,畿内まで連れていかれたかもしれません)