>>104
>証拠を出してくれと何度も言ったが、都合の悪いことはとことん無視か

書かれてあったでしょう?
>弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる

P276
・外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。
・『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
・土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。

←「古墳出現前後より以前」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」

P278【比恵・那珂遺跡群】
・遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」

・IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
・IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
・IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
・IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。

←「IA期」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」

「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式   
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V 
IIC期が布留1式
におおむね併行するとする」

「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」

古墳時代=前方後円墳の出現した時代のことです。
久住氏の判断では古墳が発見される前の1A期にはとてもベッタリとは言えないですね。