「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
P254「また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,
弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。」

・弥生終末期から古墳開始期への移行について,「北部九州にヤマト勢力(畿内連合)がダイレクトに流入している」ことがうかがえ,
少なくとも北部九州においては「何の変化もなく移行したのではない」と認識されているといえます。

・当時の日本に劇的な変化を及ぼす外因としては,
「238年(3世紀前期)」に魏が公孫氏を破り帯方郡で半島の経営をはじめ倭国の女王「卑弥呼」が朝貢したことが挙げられます。
・しかし「247年(3世紀半ば頃)」には,台与から帯方郡に「邪馬台国と狗奴国との交戦」を報告し支援を要請しますが
「魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史の張政が派遣されるに留まった」記述を最後に「邪馬台国から魏・晋への通交は途絶え」ました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1

・また「北部九州」は「魏志倭人伝に倭国(領内)として記述されていることが確実な唯一の地域」といえます。

・一方「畿内の巻向」では,「3世紀中ごろかそれ以前」とみられる(東北,北海道を除く)日本各地からの土器が見つかっており,各地の首長関係者が巻向に集結していたことがうかがえます。
・地方の特色を示す土器の内訳は多い順に,東海系、北陸・山陰系、河内系、吉備系、近江系、関東系、播磨系、西部瀬戸内海系、紀伊系,南九州系で,
「北部九州系のものはほぼ見つかっていません」。(数個の欠片が大分のものに似ているという情報はあります)
・ただ「これ以外の弥生時代」については「北部九州は畿内その他と交流があった」ことが庄内土器の分布などからも見て取れます。

・なお「弥生終末から古墳時代開始の時期」は「3世紀半ば(過ぎ)」と考えられています。
・また古墳開始期からは(それまでほとんどなかった)「北部九州の絹生産や鉄器生産の技術が畿内その他へ流出が著しい」ことも分かっています。


私はこれらの状況から「邪馬台国(倭国)が魏に朝貢した」ことこそが「日本を(畿内に)統一させた原因の一つである」として次のように考えています。

・「日本全体の国際的な窓口」であった邪馬台国は,「外国の大国に朝貢した」だけでなく,「国際的な窓口という立場」と「魏をバックした」ことで「日本列島の各国に対し従属を迫った」。
・「従属を受け入れるか,退けるか」は「各国に共通する深刻な問題」であり,「半島や九州からみて瀬戸内の最深部であり山に囲まれた」巻向に「対策センター」を構えて協議した。
そして,「一致団結して従属を退ける」ことを決定し,外国の先兵となった邪馬台国に対抗しつつむしろ畿内連合に参加するよう説得した。
・はじめは強気だった邪馬台国にとって「決定的な打撃」だったのは,魏が援軍を送らず「詔書と黄幢を携えた使者だけを送って寄越した」ことで,
ついに邪馬台国は伊都国・奴国が中心となって畿内連合への参加を承服した。
・また絹生産や鉄器生産の技術者を出すことも承服した。
・参加の条件として「倭や邪馬台(ヤマト)の名を残すこと」「(北部九州の)神を祀ること」などがあった。
(ちなみに古代の山門五郷(大江、鷹尾、山門、草壁、大神)のうち,「大神」は「於保美和(おおみわ)と訓む」とあり,畿内の三輪山のふもとの「大神神社」の祭神はもともと「山門(やまと)で祀られた神」と考えられる)