【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535457541/ 食品偽装の都「京都」
『プレマシ●ンティ』
『京●米職人』
『松坂牛/松坂米』(これは三重=京都の隣)
住まいのゴミさ
『ジェイエスビ●』
人種差別の都
『ロマノフ暗殺未遂+ギリシャ王族暴行未遂』(これは滋賀県=京都の隣)
京都周辺は、食品偽装が多く、人種差別が盛んで、ダサい木造建築が多い。
人々は、小柄で性格が悪く、コソコソしており、陰険陰湿であり、外語ができないのに「自称国際都市」を標榜する。。。!
びっくりする。。。 >>848
>そういえば漢委奴国王の「委」は「倭」ではなく素直な解釈「任命」などと解釈するべきなんだって。
>「漢が任命した奴国の王」で良いそうだ(台湾人談)
それに説得力があれば、多数説になってるだろ
印章の文字の中に動詞表現が入ってるのって聞いたことないんだけど、
他の例はあげられるかい?
三國志卷四/魏書四/三少帝紀第四には
倭國女王「俾彌呼」遣使奉獻
という「にんべん」月に卑彌呼表記がある
音訳当て字の固有名詞は、表記の揺れがあって当然 普通はロンドンやニューヨークみたいに文明のある大陸に最も近い地域が発展するのに九州はなんで発展できなかったのかね >>846
>3世紀の邪馬台国は九州で
>4世紀の大和朝廷は奈良県
これが古い編年
紀元前から2世紀初頭の107年の帥升等の朝貢までは九州の朝貢
3世紀前半には卑弥呼の共立を経て、畿内に倭国に中心が移っている >>852
ところで、いま、考察している
最中なんだが、
東冶は、どことおもいますか? >>854
その間を書いた晋書は、
東倭とかいてるし、東へ行った倭と
かいている気もするよなあ
语出:《晋书·宣帝纪》:
“正始元年春正月,东倭重译纳贡。
”唐贾邕《送萧颖士赴东府得路字》
诗序:“顷东倭之人,踰海来宾。 その発展してなかった九州を強大な奈良大和王権が影響下に入れたのはいつなの >>852
珍しい?
「親魏倭王」も同じだと思うけど。
「魏と親しむ倭王」 とうとう売国奴畿内が本性を現したな
3世紀前半には卑弥呼の共立を経て、畿内に倭国に中心が移っている
それなら1世紀頃の畿内は九州に勝手に朝貢される弱い地方王権だった事になるが >>848
>「委」は「倭」ではなく
その理屈でいえば「始度一海千餘里」は「始めてひとつの海を渡ること千里あまり」じゃなくて
「海を度する」=海上の距離を測量したら千里余りあった
ということになる。
現代支那語で解釈するなら「始めて或る海の千里余りのリゾートを楽しんだ
ということになるぞwwwwwwww >>858
>「魏と親しむ倭王」
そんな読み方するやつ初めて見たよ >>859
>とうとう売国奴畿内が本性を現したな
また訳の分からないことを言い出したな
反日パヨクは九州説だぞ 答えろよ
畿内庄内式土器の搬入で筑紫は影響下に入ったとか言ってたな
それ以前は入ってなかったのか? >>859
統一(チンギス・カーン、クビライ・カーンの自体の
支那語で云えば「混一」)されてなかったということだろう。
神武が統一されてない豊葦原の瑞穂の国の
抵抗勢力を「天平かに地成らす」が如く東に向かって征服したのを
史実として何時に設定するかだな。
卑弥呼が倭国聯合として共立される前は戦国状態にあったことは確実。
九州、畿内それぞれ勝手に朝貢していた事も無いことでは無い
九州王権も畿内を征服平定していたわけではない。 金印はカンノイトコクオウと呼び 現在の福岡県福岡市西区ヨシタケタカギです 倭国の原点地です
ニニギの墓です
金印は倭国の代表者へ与えられました >>1
金印があったのは福岡なのにね
国が滅びた後に誰かが持ち出したのかな >>866
>カンノイトコクオウと呼び
委奴はイトとは読めないと何度書けば性根に入るんだろう
簡直「仏造って魂入らず」www 伊都国の位置がわかれば邪馬台国の所在も決まるんじゃね?
邪馬台国の北に伊都国(一大率の駐留地)⇔ 伊都国の南が邪馬台国 漢委奴国王が奴国なのか伊都国なのか議論はあるがどちらにしても北部九州王権
売国畿内説ではこの時代大和王権は何をしてたんだ?
ちゃんと一大卒置いて諸国を巡察してたのか?
答えろ 金印が出たシカノシマとイザナギイザナミの発祥の島ノコノシマの間の水路がシマトです
シカノシマに祀ってあった金印(漢が終われば実用には供さなくなる)も700年の倭国の滅亡により
人の記憶から消えました 従い偶然の発見まで(江戸時代)年月を必要としました 金印のときは奈良はナガスネヒコの支配下にありました
ジンム侵略は200年ごろです >>868
かんのわのなおくおう
3段読みは漢の他の金印にはありません
全て2段読みです
正しくは かんのいとこくおう です
漢の規則を知れば2段読み以外無いと解ります 冨谷至は「かんのわどこく・おう」
当時「国王」という熟語はなかったって ナガスネヒは天の磐船(アマという転覆防止の浮きを付けたアウトリガーカヌー)で
神武より先に天下った饒速日命(ニギパヤピノミコト)の家来、臣下。
塩爺シオジイとして国民的人気を集めた衆議院議員塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう)氏の
選挙区内にある孔舎衙(日下クサカ)坂で神武の東征軍を邀撃し撃退したが
饒速日命(ニギパヤピノミコト)が突然家来を裏切ってナガスネヒコを上意討ちした。 国の概念は縄文文明時代にはあった
土器という工業製品による富の集積で
もしかして石器時代にもあったかも知れない
黒曜石という生産物による富の集積があったから 銅鐸圏への進出はジンム以前にも当然あるニギハヤも其の一人
他にも失敗者は多かったとは誰でも予想できる
行ったが武力に勝るナガスネヒコの軍門に降った
200年ジンムが奈良へ侵入したときジンムに降った
ナガスネホコ族の勢力は強くスジンまで待ってようやく奈良盆地を出ることができた >>878
孔子が「日本に行きたい。日本には君子がいるから」
ということを言っているので、国の形はあったと思う
君子が神武天皇なのか別政権なのかは分からないけど >>879
やっぱり、この倭國で、
城郭都市や城下町ができるまでは、
自然の要塞と化している奈良は
最強やったわけやなあ。
神武さんが、最初に、負けた場所は、
盆地に入れない外側の
山の裾野やしなあ。
洛陽と全く同じ王畿やわ。
洛陽も王畿と使ったし。 「倭国」大乱は中国側の認識じゃないかな。
地方国家を包括する様な意味での天下的な領域はまだなかったのかもしれない。
陳寿や当時の倭人に聞けるわけじゃないから証明のしようはないけどさw 孔子のときは倭人 倭人は周へ貢物チョウソウをやった
もしかしたらウのときのように二倍年暦もあり其のときからかもしれない
ジンムはまだ生まれていない ID:e3d9jJvOって日本語おかしいよね
天皇の名前を漢字で書けなかったりするし >>883
その古い暦を、使っていたって、
魏志倭人伝の魏略曰の語注でかいてるよね。
春、秋で、年を捉えてる。
チョウソウも越族のなかの倭人、なぜなら
チョウは、中国南部とあるが、
このチョウは、煎じて、つくるもの、
香草みたいなものと
思っていた。辞書は、
そうだが、お酒の意味で使われていたのも
みたんだよな。
だから、個人的には、倭人と思う。
考察中だが。 遺跡とかがゴロゴロ出てくるのは奈良なんだからもう畿内で確定だろ これって、関西人は、
親しい漢字やとおもうけど、
由来は、考えたことあるのかな。
畿
[音] キ
[訓] みやこ
《意味》
みやこ。首都。都からわずかしか離れていない領地。
【畿内】きない
旧国名で、京都に近い、
山城・大和・河内かわち・和泉いずみ・摂津せっつの五か国の総称。五畿内。
王城の周辺の地の意から。
「きだい」とも読む。
【畿】みやこ
帝都。
中国、周代の制度で、
都から五百里以内にあって天子が直轄する地域。
【王畿】おうき
帝王の直接治めている土地。王城の付近。
畿内。 下記を見てほしいけど、
西周と東周にしか
王畿とつかわない。ほかの時代の
首都には使わないよ。
しかも、西周から東周へと
東遷して洛陽「王畿」できてるからね。
王畿は、方千里やね。
やけ、70キロ四方やない?450キロの
九州入って、畿内というかな?
それよりも洛陽の歴史と王畿と
地勢が、奈良(王畿)とそっくり。
王畿,拼音是wáng jī,
古指王城周围千里的地域。
西周时期指镐京(西安西南)
及其周围由周王直接统治的直辖区域,
东周时期指洛邑(洛阳)
及其周围由周王直接统治的直辖区域。
中文名
王畿
拼音
wáng jī
出处
《周礼·夏官·职方氏》
释义
古指王城周围千里的地域
1).古指王城周围千里的地域。
《周礼·夏官·职方氏》
:“乃辨九服之邦国,方千里曰王畿。
” 孙诒让正义:
“方千里曰王畿者,
谓建王国也……《大司马》云国畿,
《大行人》云邦畿,义并同。 やけ、
王畿という畿を使用した人々は、
洛陽などの時代を知った方々で、
洛陽を手本にしていると思う。
いつから畿を使い出したかでも
新しいイデオロギーの搬入時期は、
わかるんではないかい? その遺跡とかがゴロゴロ出てくるのは奈良の卑弥呼が
筑紫に一大卒を置いたのはいつの時代なんだよ >>872 訂正 m(_ _)m
×唐のGHQ
○魏のGHQ 筑紫が畿内を影響下に入れて日本が形作られたなら分かるが
畿内説が言うように畿内が筑紫を影響下に入れたなら時代が問題になる
畿内が筑紫を放置してた時代が出てくるからな 邪馬壹
素直に読めば
じゃばい
じゃまい
やばい
やまい ID:ZpcD4LWK=ID:3pEve2Qh=ID:OFi82LQr=ID:GnHgUF2D
過去の書き込み見ればわかるが中身のない中傷と低レベルな難癖つけてるだけ
論文読めばわかることまで「答えろ」と命令してくるやつ
相手にする必要なし 売国奴畿内説は黙り込んだな
最初にウヨサヨ論争に持ってきたのは売国奴畿内説だからな
奈良が筑紫を影響下に入れたのはいつなんだ? そもそも中国側から見た倭国とは九州近海での単なる海賊野蛮人の軍団
魏志の記録は、倭国勢力を統制できる存在として邪馬台国が感覚的に今までの倭国とはすこし異種の、期待すべき存在感を醸し出している様子が窺えるよね。
だからこそ魏志倭人伝が成立している
それらを鑑みてもし当時九州北部に邪馬台国があったと考えたとき、中国の期待ほどに周辺勢力の統率が取れていなさすぎな感じがする。
九州説で紹介される狭い範囲で国が乱立し頻繁に朝鮮を攻めたり小競り合いする所に違和感を覚えるんだよね
せめて九州半分が邪馬台国だったとかなら理解できるけど
やはり九州以外の戦乱の少ないどこかで邪馬台国が擁立され、徐々に広がりを見せたと考える方が納得できる >>895
>奈良が筑紫を影響下に入れたのはいつなんだ?
単に>>895がもの知らずなだけだよ
九州説は日本の初期の政権をより卑小なものにし、のちの大和王権と断続させることで
日本の歴史を短くしようとする策動
>>895もその類いだろ?
日本人は科学的な議論をするときにけんか腰にはならない
なりすますならもう少し日本人を研究しなさいw
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf 畿内説が言ってるんだろ
畿内が筑紫を影響下に入れたと
畿内説でその時期が分からないのか?
庄内式の話はどうなんだ 時代も規模も何も反論しないから言うてみ
畿内が筑紫を影響下に入れたのはいつなんだ? リンク貼ってくれてるんだから自分で読めばいいだけじゃん
何のコイツ? イタリアなんか紀元前5世紀とかの精巧な金細工が
じゃんじゃん出土してるのに
日本は紀元後の金印1つ巡ってどれだけ議論や調査重ね続けるんだろうねww それにしても、ヒミコを共立したときに皆従ったわけだけど、ヒミコはどのような理由で選出されたのだろうか
吉備津彦の姉という理由だろうか
もっと実力主義だったのだろうか
もしかしたら、ヒメヒコ制を採ってるすべての国からヒメが巻向に集まって、そこで決めたのだろうか >>887
>【畿内】きない
中略
>「きだい」とも読む。
「キダイ」という読み方は隋唐時代の長安方言。
隋唐時代限定の読み方を漢音と呼んでいる。
雛人形の「お内裏様」の「内裏」を「ナイリ」と読まずに「ダイリ」と読む。
同じように「ダイリ」と読む「代理」を「ナイリ」とは決して読まない。
これは基になった支那の発音が異なるからである。
それに対して漢音より古い漢字音を呉音と呼んでいるが
倭人伝に記録された日本の人名地名に対する当て字は
呉音漢音とは又違った音韻体系に属す。
記紀万葉風土記は8世紀に書かれたものだが
漢字の音読みに関しては万葉仮名の音読み(音仮名)と一致するので
倭人伝が日本語を移した当て字が有ればまず万葉仮名一覧表の中に
同じものが有るか調べ、音仮名の読み方を最優先させるべきである。 >>835
>『西服衆夷六十六國』が九州の西には入らないだろ?
何が問題かわからない
上表文を表した倭王武の國も東西(南)北のどれかに所属しているのだから
西に所属して筑紫であれば衆夷六十六國は熊襲や隼人といった反筑紫國なるのでは?
(東方の蝦夷五十五國を征伐した)
(西は熊襲等六十六國を服従させた)
(海を北に渡って半島方面の九十五國を平定した) >>898
だから>>897で示された佐々木論文を読みなさいって >>875
「奴」を「ト」と読むのは唐の玄宗皇帝が楊貴妃を溺愛して
国が乱れたよりも後の時代の読み方で
支那語の変化の歴史を知れば
「委奴」を「イト」と読むのは誤りだとわかります。
倭人伝の對馬國(對海國と印刷された版本も有る)の
副官を「卑奴母離」と印刷しているが
「委奴」を「イト」と読むのであれば
この「卑奴母離」も漢音で「ヒトボリ」と読むことになるぞよ
何事も首尾一貫しないとねwwwwwww
首尾一貫しないであっちへフラフラ、こっちへフラフラ
内股膏薬的態度なのが九州説論者wwwwww >>901
>資料は単に古墳時代の雑器の広がりを示してる
畿内第V様式から、九州に畿内様式土器が入ってるんだよ
第X様式というのは弥生時代後期の始まりを示す土器だ
古墳時代じゃないよ
そして、庄内式土器は精製器種3種と呼ばれる「壺、平鉢、高坏」の
祭祀用供献土器を含む
これは祭祀様式とともに受け入れていることを示しているんだよ
単なる雑器じゃない 先に書いておくと、庄内式や布留式は、それ以前の弥生式土器と本質的には
変わらない土器で、形や使い方が異なるだけ
様式や使い方が「統一へ向かう」ところがその本質
須恵器は、技術革新であって、各地でいろんな形の須恵器を作っている
話が違うんだよ 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、
次曰奴佳鞮。
可七萬餘戸。
「委奴」を「イト」と読むのであれば
この「奴佳鞮」の「奴」も「ト」と読まなければ快感の絶頂に逝けないわよ >>905
>何が問題かわからない
>上表文を表した倭王武の國も東西(南)北のどれかに所属しているのだから
詭弁だな
自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處
昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川跋渉して寧處に遑あらず
と書いてあるんだから、東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國は
外征だよ
本拠地から、東と西と海北に遠征したって言うんだから、西服衆夷六十六國の中に
倭王武の本拠地があるというのは無理がある
それだと王の国も衆夷ということになってしまうことからも通らない読み方だよ >>902
そらイタリアに比べたら日本の文明なんてゴミみたいなもんだし 出土品からすると戦闘能力ゼロの纒向遺跡は奈良湖干拓時の臨時施設だね。 倭王武は5世紀後半の王だが
畿内説ではその時期に既に成立してた九州王や百済高句麗を畿内王が制圧したと言うのか
畿内は一大率で3世紀に諸国を巡検していたのではないか、どう言う解釈なのだ >>913
奈良の邪馬臺国は纒向にしなくても
弥生時代から古墳時代まで洪水に遭っても
復興した唐古鍵遺跡でいいよ >>914
>畿内説ではその時期に既に成立してた九州王
そんなものは居ない
妄想乙 >>915
邪馬臺国七万余戸は、「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式土器を
共通に用いる範囲でいいと思う >>917
個人的に思うのは自由だけどさあ(笑)
何ゆえにわざわざ住みにくい土地ばかり選ぶんだよ? >>918
>何ゆえにわざわざ住みにくい土地ばかり選ぶんだよ?
住みにくいっていうのが>>918の思い込み
河内南部も、奈良盆地も、灌漑に使いやすい中小河川が多くある、稲作適地で
豊葦原瑞穂の国という表現にまさに合う土地だよ
奈良湖なんてないからww 九州だということにしたいから必死に奈良をディスってるが、やってることは義務教育で習ったことを否定してるだけ
もしかすると義務教育レベルの日本史の知識もないのかもしれない
ヤマト政権のことは頭の片隅ににもないのかも >>919
今でも住みやすい土地とは言えないだろ。
俗に言うB地区。 3世紀に推戴されて畿内が日本の王になる
5世に四方を制圧する畿内王
中間の4世紀畿内王は九州を影響下に置けない弱い王か? 畿内説
3世紀に天皇家の卑弥呼を推戴してた奴国を
5世紀天皇家の倭王武が制圧ってどう言うことかな
奴国は西の何十ヶ国のひとつだろ 纒向からは鉄剣も青珠も出ない。
土木用の道具が大量に出てくる。
農地確保の為に奈良湖の干拓事業をやってた名残だよ。
間違いない。 ID:l+qgs8e7はいつものやつっぽいな
影響下って言いかたを昨日覚えたようで何度も使ってるわ
日本語として不自然だから同一人物だろう
倭王武の上表文をトンチンカンな解釈して文句つけてるのは相変わらず 倭国大乱があった時期は畿内では争った形跡もなく桃を食って平和に暮らしていたようだ 姫、姫、呼んでいたのを
中国から来たばかりで女王名と勘違いした
この説はなくもない気はするけど
姫彦制と名前と勘違いというのは無理あるのでは? >>929
朝鮮チンコ半頭の猿面冠者を支配してたんだよ 金山彦て蘇我氏とか物部氏の祭神らしいから
神武のルーツじゃなくて
代々大和土着神様なんじゃない?
神武以前の神代記は日向中心だけと
その前にも大和に王権があったから
憶測だけど紀記前の書で神武の前の記録って
日向じゃなく代々大和の史実か書かれていたのでは?確かめようもないけど 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
P254「また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,
弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。」
・弥生終末期から古墳開始期への移行について,「北部九州にヤマト勢力(畿内連合)がダイレクトに流入している」ことがうかがえ,
少なくとも北部九州においては「何の変化もなく移行したのではない」と認識されているといえます。
・当時の日本に劇的な変化を及ぼす外因としては,
「238年(3世紀前期)」に魏が公孫氏を破り帯方郡で半島の経営をはじめ倭国の女王「卑弥呼」が朝貢したことが挙げられます。
・しかし「247年(3世紀半ば頃)」には,台与から帯方郡に「邪馬台国と狗奴国との交戦」を報告し支援を要請しますが
「魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史の張政が派遣されるに留まった」記述を最後に「邪馬台国から魏・晋への通交は途絶え」ました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
・また「北部九州」は「魏志倭人伝に倭国(領内)として記述されていることが確実な唯一の地域」といえます。
・一方「畿内の巻向」では,「3世紀中ごろかそれ以前」とみられる(東北,北海道を除く)日本各地からの土器が見つかっており,各地の首長関係者が巻向に集結していたことがうかがえます。
・地方の特色を示す土器の内訳は多い順に,東海系、北陸・山陰系、河内系、吉備系、近江系、関東系、播磨系、西部瀬戸内海系、紀伊系,南九州系で,
「北部九州系のものはほぼ見つかっていません」。(数個の欠片が大分のものに似ているという情報はあります)
・ただ「これ以外の弥生時代」については「北部九州は畿内その他と交流があった」ことが庄内土器の分布などからも見て取れます。
・なお「弥生終末から古墳時代開始の時期」は「3世紀半ば(過ぎ)」と考えられています。
・また古墳開始期からは(それまでほとんどなかった)「北部九州の絹生産や鉄器生産の技術が畿内その他へ流出が著しい」ことも分かっています。
私はこれらの状況から「邪馬台国(倭国)が魏に朝貢した」ことこそが「日本を(畿内に)統一させた原因の一つである」として次のように考えています。
・「日本全体の国際的な窓口」であった邪馬台国は,「外国の大国に朝貢した」だけでなく,「国際的な窓口という立場」と「魏をバックした」ことで「日本列島の各国に対し従属を迫った」。
・「従属を受け入れるか,退けるか」は「各国に共通する深刻な問題」であり,「半島や九州からみて瀬戸内の最深部であり山に囲まれた」巻向に「対策センター」を構えて協議した。
そして,「一致団結して従属を退ける」ことを決定し,外国の先兵となった邪馬台国に対抗しつつむしろ畿内連合に参加するよう説得した。
・はじめは強気だった邪馬台国にとって「決定的な打撃」だったのは,魏が援軍を送らず「詔書と黄幢を携えた使者だけを送って寄越した」ことで,
ついに邪馬台国は伊都国・奴国が中心となって畿内連合への参加を承服した。
・また絹生産や鉄器生産の技術者を出すことも承服した。
・参加の条件として「倭や邪馬台(ヤマト)の名を残すこと」「(北部九州の)神を祀ること」などがあった。
(ちなみに古代の山門五郷(大江、鷹尾、山門、草壁、大神)のうち,「大神」は「於保美和(おおみわ)と訓む」とあり,畿内の三輪山のふもとの「大神神社」の祭神はもともと「山門(やまと)で祀られた神」と考えられる) >>933
>・また「北部九州」は「魏志倭人伝に倭国(領内)として記述されていることが確実な唯一の地域」といえます。
つまり当時「北部九州の参加しているグループ」と「そうでないグループ」があった場合,
「邪馬台国」と言えるのは「北部九州の参加している方のグループ」ということです。
そして(少なくとも土器からは)巻向に集結した「畿内連合」には「北部九州が参加しているとは認められない」ということです。 そのころ纒向では桃に釣られた奴隷たちが一生懸命に農地開拓に励んでいましたとさ。 戦争起こりそうって時に女王立てたのか
思い切ったことするなぁ >>934
nnって人はサイコパスなのか?
あんたが>>682や>>711で嘘・捏造やったことは指摘されてるだろ
なぜ同じ嘘を繰り返すんだ? >>911
>…王の国も衆夷ということになってしまう…
ならない
西國⊃西服衆夷六十六國
と考えればいいだけでは?
奈良からみて渡平海北という言い方はそぐわないし
ハバロフスク辺りになっちゃうしで 【参考】
ウキの「西」では
西日本、西国:一般的には近畿地方を指し(例:西国三十三所)、
近年は中国地方、四国、九州地方を指す事もある(例:西日本鉄道)。
漢和辞典の「西」の熟語「西国」では
九州だけではなく近畿以西の国を「西国」
(『漢辞海』『漢字源』『新字源』) >>912
j人類最初の工業製品といえる 土器は15000年前日本列島で生産され 大陸へ伝播しました
縄文文明といいます 場所は関東地方です >>938
噛んでるとおもうよ。
もし、魏の同盟国邪馬台国が、
狗奴國(呉と繋がっていたとしたら)
などと近い場所にいること自体、
そんな、場所は、戦略上やばい。
魏志倭人伝で、倭とかかれたら、
次の晋書では、東倭とかいている。
なんでやろ? 現在の関西弁を使う範囲は銅鐸圏と重なるようです
東鯷国の人々もまた南方から漂着したのでしょうか 興味深い話があった。
同じ畿内の古墳でも近江と奈良の古墳では、副葬品を棺に入れない風習があるとのこと。
副葬品は墓の上に置くだけらしい。
(畿内学者の説明)
しかし古墳時代以降の古墳では副葬品が棺に入れられている。
これは何を意味する? 筑紫の30か国連合の畿内植民化で全てすんなり解釈できる
弥生末期、富・武力・権威・権力・情報これら全て筑紫に集中
・銅鐸司祭の消滅(王は殺されるか服従して臣民となり畿内民は農奴化)
・纏向遺跡での各地(主に東海)の多数土器出土(筑紫権力による住民移住の裏付け)
・畿内に誕生する巨大墳墓は農地開墾の残土、巨大墳墓は住民酷使による大規模開墾
・記紀との整合性
・魏の後ろ盾、三韓の成立による国外情勢の変化
・筑紫型前方後円墳の箸墓の出現(被葬者は筑紫王族の女性)
・唐古鍵遺跡の壊滅と筑紫による再興(サヌカイト等原始的な遺物が再興後に突然進化し青銅器制作) >>945
何故かは、わかってるんでしょ。
自説を書いてみたら? >>938
> 魏志倭人伝で、倭とかかれたら、
> 次の晋書では、東倭とかいている。
確かに
興味深い「変化(展開)」
> なんでやろ? スレ読むと面白いな
読んで妄想した限りでは、元々倭国は九州まで統一された平和な国で跡目争いで九州を中心に揉めたのかな
その間は臨時で女王を立ててたけど、九州が自分たちを王と認めさせるため魏に使いを送ったとか
その後九州に色々譲歩しまくってなんとかまとめた感じかな >>948 アンカミス
× >>938
○ >>943
残り貴重なスレを m(_ _)m >>940
>奈良からみて渡平海北という言い方はそぐわないし
奈良から見て、じゃなくて、倭国から見て海北だよ
>ならない
>西國⊃西服衆夷六十六國
>と考えればいいだけでは?
考えなくてもいいだろ?
詭弁のための無理読みだよ
畿内王権なら、東は関東まで、西は九州まで、倭国から北に海を渡って、と
素直に読めるのに
それと、東征毛人五十五國西服衆夷六十六國、合わせて121国というのは、
魏志倭人伝の舊百餘國、漢時有朝見者を意識しているという見方もあり、
「衆夷六十六國のほかの西国」というのを無理に考える必要はない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。