畿内説の論拠?は3つ。
1)大和(ヤマト)は邪馬台(ヤマタイ)に名前が似ている。
2)日本(西日本)で一番(大きな勢力の)の国を差し置いて魏が他国を目指したはずがない。
3)陸行一月を満足するには本州西部を東西に行くしかない。(そのためには「南」とある記述を「東」の誤りとするのも厭わない)

しかし,
・ヤマタイ・ヤマトに似た名は九州の山門,山戸,山都をはじめ日本中にあって畿内と断定する根拠はない。
・「魏の使者が北部九州に来た」ことまでは確実視されているが,当時,「北部九州勢と畿内勢は(弥生末期から古墳時代開始までは敵対的な)別勢力」
とみられるため魏が北部九州を通って畿内に行くことは考えにくく,また記述からは魏にとって邪馬台国が大国と認識されたようにも見えない。
・「陸行一月」は「畿内説を支えるほとんど唯一の記述」であるが,名だたる国々を一か月もかけて巡っているはずなのにその間の記述が一切ない。