【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535457541/ >>664
近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究する
畿内説論者は九州説論者は飯の種に〜というが
畿内説論者も同じ飯の種にしてるだけ >>668
万里を超えてれば適当でよかったんじゃね陳寿的に。
司馬懿をよいしょしたかったという説もある。
光武以来音沙汰のなかった倭人が京都にやってきたことで曹魏の天子の徳が高まった。
その徳の高い曹魏の禅譲を受けた晋の天子の徳はさらに高いと宮仕え的にいいた方のかも。 >>670
畿内説と九州説を五分五分くらいで考えてるのかな
都市伝説でさ
パイロットがUFO見ても決して人に言わない
言うとパイロット失格で地上勤務にされるから
でも、みんな見てるんだよねー
ってのあるよね
学者がいま九州説なんか言ったら、学者失格の烙印を押されるよ
でも、九州なんだよねーってか >>学者がいま九州説なんか言ったら、学者失格の烙印を押されるよ
これ言ってるの畿内説信じてるド素人さんだけね 九州説のやつらのよくある勘違い・間違った認識
・学者の間でも畿内説と九州説で論争がまだ続いてる
・畿内説の主張とは方角の南は間違いで東が正しいというもの
・邪馬台国の時代とヤマト王権の時代は数十年の差がある
・九州には邪馬台国の証拠となる遺跡や出土品が山ほどあるが、多すぎて絞り込めないだけ 伊都国の副葬品の銅鏡がほとんど意図的に割られていたのはどういうことなのだろう
何らかの力が掛かって自然に割れたのか
役割を終えて武器など別のものに鋳潰すつもりだったのか
攻められて墓を暴かれた際に割られたか
祭祀の内容が急激に変わって罷免された首長の名残として副葬されたか
祭祀で使う大事な副葬品が壊されているのって重要な理由が含まれている気がするんだよなぁ 剣と勾玉はそのままで鏡だけ破壊
凄い霊能力を持った卑弥呼を黄泉の国から復活させないための魔封じ 邪馬台国は、もはや科学的証拠から、近畿ということは否定できない。
ただ、天皇家のルーツは、やはり吉野ケ里に辿りつくだろう。
そのまたルーツは、徐福一行を含めた弥生人だ。
縄文人と弥生人、知能は弥生人の方が上。稲作で栄養もあって爆発的に人口も増えた。 日本の最も古い鉄器は、縄文時代晩期の九州の田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧鉄器
稲作農耕の始まったのも、この時期だろ >>627
>不合理なこの程度の精度無理読み終わってる<トンデモはオマエ >>643
なるへそΘ
<こっち>方面かな⊂そっち⊃方面かな 畿内説の論拠?は3つ。
1)大和(ヤマト)は邪馬台(ヤマタイ)に名前が似ている。
2)日本(西日本)で一番(大きな勢力の)の国を差し置いて魏が他国を目指したはずがない。
3)陸行一月を満足するには本州西部を東西に行くしかない。(そのためには「南」とある記述を「東」の誤りとするのも厭わない)
しかし,
・ヤマタイ・ヤマトに似た名は九州の山門,山戸,山都をはじめ日本中にあって畿内と断定する根拠はない。
・「魏の使者が北部九州に来た」ことまでは確実視されているが,当時,「北部九州勢と畿内勢は(弥生末期から古墳時代開始までは敵対的な)別勢力」
とみられるため魏が北部九州を通って畿内に行くことは考えにくく,また記述からは魏にとって邪馬台国が大国と認識されたようにも見えない。
・「陸行一月」は「畿内説を支えるほとんど唯一の記述」であるが,名だたる国々を一か月もかけて巡っているはずなのにその間の記述が一切ない。 >>682
北部九州説に限って言えば
・邪馬台国までの行程および帯方郡〜邪馬台国までのスケールと方向から,邪馬台国は九州はおろか北部九州すら出ることはない。
・魏志倭人伝に記述された倭国までの相対的なスケールや,倭人の風俗や生産物,自然環境,植生は,「北部九州内を想定した場合ほぼ満足する」が
桃をはじめとする巻向遺跡など畿内の遺跡からの出土品は,「魏志倭人伝の記述に照らして畿内を指し示す根拠となり得るものはほとんどない」。
・とりわけ「絹」は邪馬台国(倭国)の生産品として魏や晋に贈られたもので北部九州を中心に生産拠点や絹,絹製品が多数見つかっているが,
当時の畿内では生産したことを示す遺物はなく巻向遺跡からは絹製品が1点見つかったのみである。
(畿内側はこれに関し根拠を示さないまま「(北部)九州は畿内の支配下のはずだから畿内説は正しい」と詭弁を弄している)
・「山門」所在遺跡から出土した青銅鏡は分析結果から(魏・晋のあった)大陸の華北領域のものと合致しており,「当時この地域が魏・晋と流通(通交)があった」ことを示唆している。
・「北部九州内陸部の弥生遺跡」は福岡平野を流れる「御笠川(牛頸川)」および筑前,筑後平野を流れる「宝満川・筑後川」流域に集中しており,
奴国(福岡)から山門に向かったとすると,魏の威信を知らしめる上からもこれらの流域の水行は避けて通れない。
・当時は山門まで有明湾が進出しており,ここで上陸したとするとかなり内陸部でも一日程度で行けるため一月掛かることは考えにくく,
「陸行一月」は「北部九州説に合致しないほとんど唯一の記述」といえる。
・魏志倭人伝は写本のみが現存するが,写本ミスすなわち(「邪馬臺国」と「邪馬壹國」あるいは関連史書の「邪摩堆」と「邪靡堆」など)
「よく似た別の文字と間違えて判別して写してしまう」ことが指摘されており,状況的に「陸行一月」は「陸行一日」の判別ミス(あるいは意図的な改ざん)のひとつと考えると「北部九州説は魏志倭人伝の記述にほとんど全てが合致」する。 九州説のやつって東方にまだ大きな国とも言える中心地があるってことを無視してんのか
ヤマト説のやつは九州北部は玄関ないし出張所にすぎないと言っているのだが 邪馬台国は韓国の釜山です!
卑弥呼の子孫の近所の焼肉屋の婆さんが言っていた。 >>684
大きなクニがあったからこそ
共立でまとまり中国の後楯得て対抗したんでしょ 進んだ武器がある地域は、
強いじゃないか。九州は、鉄器の
製造も古く、青銅より性能が
いいから、青銅剣はなくなったよね。
しかも、武器を供給し、製造方法を
教えてくれる国があるとなおさら強い。
この当時をみていると、
明治維新と重なるんよな。薩摩藩には、
イギリスのアーネストサトウが、西郷さんと
ずっといたし、長崎グラバーは、
アメリカの市民戦争(南北戦争)終了で、
余った武器を売り込んできたしね。
だからこそ、当時の質の良いものを
手に入れたからこそ、成し遂げたのも
あるよね。 そもそも畿内説なんてずっと想像論を語ってきただけで物証は皆無。
つまり畿内説なんて存在しないんですよ。
遺跡から出てくる雑貨や桃の種から当時の国勢までに想像を発展させる空想家ばかりでさ。 >>682
>「北部九州勢と畿内勢は(弥生末期から古墳時代開始までは敵対的な)別勢力」
物証に反した妄想をいくら連呼しても無駄
嘘を100回ついても、日本では嘘は嘘 >>668
>万二千里が、計算できたの?ってなると思うよ
計算してないよ
淮南子に見られる東方之極の萬二千里を、そのまま書いているだけ
世界の果てからの朝貢であるという程度の符牒
淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,『萬二千里』。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。 >>680
九州説の典型
畿内説の説明に反論一つ、合理的な疑問一つすらできなくなると、
根拠も理由もなしに、ただ悪口をいうw >>682
>・ヤマタイ・ヤマトに似た名は九州の山門,山戸,山都をはじめ
>日本中にあって畿内と断定する根拠はない。
ヤマトと読む地名があっても、それが小さな集落レベル、小字レベルの地名で
そこに国があったと想定できる遺跡がなければ候補にならないんだよ
九州の山門,山戸,山都はみんな小さいんだ
山門は郡名(山門郡)になる程度の広がりがあるが、弥生時代の末期にはまだ
半分海の中だし、7万戸の都を想定できる遺跡もない >>682
>・「魏の使者が北部九州に来た」ことまでは確実視されているが,
>当時,「北部九州勢と畿内勢は(弥生末期から古墳時代開始までは敵対的な)別勢力」
それは通らないと、佐々木論文他で何度も説明されてるだろうが?
北部九州の中心、最大勢力の奴国が畿内とべったりなんだから
>とみられるため魏が北部九州を通って畿内に行くことは考えにくく,
魏志倭人伝に北部九州から、水行20+10日、陸行1月かけて行くと書いてあるのは無視ですか?
>また記述からは魏にとって邪馬台国が大国と認識されたようにも見えない。
邪馬台国だけで七萬餘戸と書いてある
東夷伝韓条の「大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶」と比較しても、
十分な大国だろう >>682
>・「陸行一月」は「畿内説を支えるほとんど唯一の記述」であるが,
>名だたる国々を一か月もかけて巡っているはずなのにその間の記述が一切ない。
「名だたる国々」というのがまったく何の根拠もないただの妄想
>>682は、nn氏だったのか
まともに相手にして損したw >>694
>どうあがこうと奈良ではない
九州説の典型
畿内説の説明に反論一つ、合理的な疑問一つすらできなくなると、
根拠も理由もなしに、一言レス、一行レスで言い返した気になるw 奈良は九州説を攻撃する事しかしないな
もはや学問でも説でもない そもそも九州説のいう項目は、邪馬台国と関係ない倭人一般、
倭国一般の風習風土であって、ある意味どうでもいい
そして邪馬台国固有の記述は、都合が悪いから無視する
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 ・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? >>698
>実際根拠となるものが奈良には何もない
それを具体的に指摘しなければ無意味w >>702
史書に記載されているものに該当する畿内で出土したものを具体的に提示してくれ。 ちなみに仮設付き見当違いの物は無視してな。
ストライクだけ並べろ。 畿内説は那国から先は東の纏向方面を説明して
那国の南にある筑後川流域の巨大な生産力を有する国々は無視? .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 な、ストライクを要求すると必ず逃げるのが妄想畿内説信者w 日本は山ばかり
山と山の間はヤマトという
島と島の間はシマトという
大和は大倭からきたもので おおちくし と呼んだ >>690
淮南子の中身ね。この原道には、
万二千里を超えた表記はあるよ。
時則訓 五位に、かいたその距離と
その距離を優に超えた距離を
トップに持ってきてかいている。
万二千里しか知らないことはない。
会えて、万二千里とかいているのは、
中国神話は、万二千里とかいてきたからかな。
1=原道(根本を問う)、
2=俶真(めでたい真理)、
3=天文、
4=地形、
5=時則(時の問題)、
6=覧冥(見えざるものについて)、
7=精神、
8=本経(大本の意味)、
9=主術(人生と政治)、
10=繆称(誤謬論)、
11=斉俗(世俗同化論)、
12=道応(タオについて)、
13=氾論(広く論じること)、
14=詮言(要点の言葉)、
15=兵略、
16=説山(エピソードいろいろA)、
17=説林(エピソードいろいろB)、
18=人間(処世とは何か)、
19=修務(人としてのありかた)、
20=泰族(大いなる帰結へ)、
21=要略(まとめ)。 原道で、四海の表記箇所があり、
地形訓で、下記のようにかいてるよ。
阖四海之内,东西二万八千里,
(個人として、半分しても万四千里は
把握しているんやないかな)
南北二万六千里;
水道八千里,
通谷其名川六百;
陆径三千里。
禹乃使太章步自东极,
至于西极,
二亿三万三千五百里七十五步;
使竖亥步自北极,
至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。
凡鸿水渊薮,自三百侧以上,
二亿三万三千五百五十里,有九渊。
禹乃以息土填洪水,以为名山。
掘昆仑虚以下地,中有搶驪繽d,
其高万一千里百一十四步二尺六寸,
↑
これみたら、わかるが
高さも万千里とかいている。
自ずと、淮南子に使われていた
「里」は、共通項として、ある
値が定義されていたんやないかな。
その高さ万千里にあうのは、自ずとわかるやない。 >>689
土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。
ところが古墳時代開始期になると畿内や本州の土器が一気に北部九州に流入する一方,
ほぼ北部九州で行われていた絹生産や鉄器製造が畿内を中心に各地に一気に広まっている。 もう一つ 重要な点。
使竖亥步自北极,
至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。
これは、北極から南極までの直線
距離やないかな。
つまりは、おおよその地球を
計算できていたかもね。
間違わないでほしいのは、
二億三万三千五百里七十五步だよ。
古代の億は、現代と違い十万だから、
二十三万三千五百里七十五步。
ですね。 >>692
>九州の山門,山戸,山都はみんな小さいんだ
>7万戸の都を想定できる遺跡もない
魏にとって(はだしで朱を白粉のように塗りたくる)倭人の国が文明レベルの高い地域と見なされていたとはいえず
卑弥呼も(稲作によって)人口だけは多い集落群の女酋長レベルではあっても,
大きな都の主として認識されていたといえる記述はみられない。
縄文前期から弥生後期までに広がった筑前,筑紫,佐賀平野部の面積の50〜70%が作付け可能だとすると,7万人を優にしのぐ人口の確保は容易と考えられる。
そして最も重要なことは「山門所在遺跡からは大陸の華北領域とのつながりを示す物証が見つかっている」ということであって,いくら山門は小さいと言ったところで意味はない。
(ちなみに邪馬台国とは比較にならないほど大規模な「平城京」跡も,平安京に遷都したとき支柱や礎石まで一切持ち去ったためただの野原(田畑)に戻りそこに都があったことさえよく分からなくなった) >>703
>史書に記載されているものに該当する畿内で出土したものを具体的に提示してくれ
九州説が強調する鉄とか絹とかは、邪馬台国と関係ない倭人一般、倭国一般の風習風土だから、
倭国の範囲で出ればそれでいいものであって、邪馬台国の比定地探しにはある意味どうでもいいんだよ
青玉も真珠も首都で採れるとか考える方がおかしいだろ?
そして、弥生時代に水銀朱の鉱山が知られていない九州は
其山有丹で即死
大事なのは邪馬台国固有の記述
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 地球の北極から南極までの円周は、
約40000キロ
地球の中心から北極までを
rとすると
2πr=40000
r=40000/6.28
r=約6369キロ
北極から南極まで、下に掘った
直線距離は、rを2倍して、
約12738キロ
一方で、
淮南子地形訓にかいてある、
二亿三万三千五百里七十五步は、
二億三万三千五百里七十五步だね。
間違えては、いけないのは、
古代の億は、十万単位。
つまりは、
二十三万三千五百里七十五步が、
直線距離と言ってるから、
約233,500里
淮南子天文訓の一里は、
約61メートルだから、
0.061キロメートル。
233500×0.061=約14243キロ
淮南子は、地球の大きさを
把握していたんやないかい?
円周もわかっていたしね >>705
>那国の南にある筑後川流域の巨大な生産力を有する国々は無視?
そんな国は弥生時代にはないんだよ
筑後川のような大河が灌漑に使えるようになるのは、もっと土木技術が進んだ後代
それに筑後川の領域まで、奴国からどうやって水行するんだ?
筑紫平野の邪馬台国は今、主張してる人はいないよ あまり、だれも
計算した文章を見かけないから、
海島算経といい、独自で、
検算してね。
一里を把握する上で、重要かと。
個人的な考察。素人の考察やからね。 >>716
もともと、測量が
進んだ原因の一つに、
水稲栽培のための灌漑施設を
作るためだから。灌漑施設は、
適当につくれば、
水など淀むから。 >>710
>阖四海之内,东西二万八千里,
>(個人として、半分しても万四千里は
>把握しているんやないかな)
なんで時則訓 「五位」を引用したのか理解してないな
地の果てまでが萬二千里というのは、>>690で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
世界全体の広さではなく、中央之極=漢土の外の東方之極な距離だから、
漢土の端、直轄領土の東端の帯方郡からの距離で萬二千里なんだよ >>693
>それは通らないと、佐々木論文他で何度も説明されてるだろうが?
申し訳ありませんが見落としているようなので今一度ソースをお教えください。検討いたします。
>北部九州の中心、最大勢力の奴国が畿内とべったりなんだから
これは北部九州地域でダイレクトに畿内本州系土器が集結する「古墳開始期」以降ですよね。
>魏志倭人伝に北部九州から、水行20+10日、陸行1月かけて行くと書いてあるのは無視ですか?
一切無視はしていません。
・弥生遺跡の集中する御笠川(牛頸川),宝満川,筑後川,有明湾沿岸(後背)部を大量の荷とともに魏の大団体全てが川筋に沿ってたどるのに
要した日数が水行の日数です。(「これぐらいの日数ならいけるだろう」という想像ではなくトラブルも含め「実際にかかった日数」ということです)
・畿内説の場合,陸行1月かけて行くのに北部九州で済む記述以外(畿内を示すような記述)はなく
北部九州なら目的地付近まで水行でいけばほとんど1日程度で内陸部までいけること,そして魏志倭人伝関連には確実に「誤記がある」ことから,
「陸行一月は陸行一日の誤記である」と考えられるということです。 ああ、南北も見た方が分かりやすいか
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
淮南子時則訓五位では
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている 何度か訊いたけれど、nn氏は年いくつ?
60代? 70代? >>695
>「名だたる国々」というのがまったく何の根拠もないただの妄想
あなたが示した出雲(や吉備)などの国々のことですよ。
「取るに足らない国を挙げただけ」というなら,北部九州説派としてはそれでも良いですが。 >>721
ありがとう。以前もみて、
考察したんだが、
万二千里だけをみたら、
洛陽からだよね。
洛陽から東へ万二千里の
思想だよね。
魏志倭人伝は、帯方郡からだよね?
わざわざ
自という漢字をつかい
自郡至女王國 萬二千餘里
つまりは、五行説の中心地洛陽から、かなり
離れた帯方郡からの出発だよね?
その万二千里は、洛陽からの五行説が、
及ぶ範囲だよね。 >>714
>そして、弥生時代に水銀朱の鉱山が知られていない九州は
これがおかしい。
「(北部)九州には水銀朱の鉱床がない」のなら破綻するが,鉱床は北部九州の西部にも東部にも存在する。
自然に露頭したり溜まった朱が弥生時代に利用されたのを古墳時代に本格的に鉱山を探索し掘削したのと同列にしても意味はない。 畿内派は、まず>>703を列挙しろ。
土器とかじゃなくて鉄製のものや青玉などな。
それが畿内のどこで発掘されたのか?
話はそこからだ。 九州説が1万2千里を言うのは、不弥国まで何里だから、残りは何里のはずってやつだよね
それって東遷説や放射説と同じ珍説の類いだよ
珍説がいつのまにか脳内で事実になって魏志倭人伝に書いてるってなってる
畿内説が珍説を無視すると、魏志倭人伝を無視してるように思うんだろうな 716ニュースソース検討中@自治議論スレ2018/09/08(土) 15:22:01.23ID:x9sPE4EP>>718
>>705
>那国の南にある筑後川流域の巨大な生産力を有する国々は無視?
そんな国は弥生時代にはないんだよ
筑後川のような大河が灌漑に使えるようになるのは、もっと土木技術が進んだ後
なるほど畿内説では弥生時代に筑後川流域は国が無いんだね >>九州説が強調する鉄とか絹とかは、邪馬台国と関係ない倭人一般、倭国一般の風習風土だから、
>>倭国の範囲で出ればそれでいいものであって、邪馬台国の比定地探しにはある意味どうでもいいんだよ
一般の風習風土のものが中心地とするところから全く出ないってはどう見てもおかしいぞ >>700
どなたかも言われたように同時代であることと大きさだけで論じるなら
日本全国畿内でなくとも成立します。
そしてこれらは「天皇とその臣になる人々の遺跡」であって
「他人の遺跡」を(規模と時代性だけで)
根拠なく勝手に「邪馬台国(卑弥呼)」に当てはめているようにしか見えません。 >>730
残りは何里と言わずとも
「対馬〜壱岐間は千余里」と与えられているのですから
それを「帯方郡〜女王國まで一万二千余里」にあてはめても構いません。 自という漢字は、もともと鼻を指す
意味だったんだよ。それが、
鼻を指す行為は、自分を指す行為となり、
自分となった経緯もあるからね。
帯方郡の前に、自がつくと
通常の从より、当事者が、
時間的、事柄起因で
〜からと訳さないといかんのよ。
通常の从は、事象のある場所からの意味やから、時間的なものは、含んでないんよ。
自を使うのは、帯方郡から向かった人が、
周知も事実としていた、自明なことの
意味がある。
つまり帯方郡から万二千といえば、
そこが、自明な起点やということ。
場所が適当やないというより強い
漢字の、自だよ。 >>734
それなら九州のはるか南になるよね
それこそ会稽東冶の東あたり 脳内歴史を信じてる者から他人を見りゃ脳内歴史を語ってるように見えるのは当然。
だから>>703のように形あるものを見ながら話そうと言うと無視する。
畿内説は妄想病だとか俺以外からも言われてる話だけどな。 >>653
>金印(カンノイトコクオウ)
それは読み間違い
委(倭)の音読みはヲ(ウォ)
奴の音読みは古代音=ナ、前期中古音=ヌ又はノ
基本的な事が間違ってる。 >>736
会稽東冶は、蘇州市あたりやろ?その市の
南北範囲みたら、都城や西都原あたりに
なるよ。 >>711
>土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
>弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。
どこにそんな証拠があるんだよ
時代別分布状況とやらの資料が本当にあるなら出してくれ
どうせいつもの嘘八百だろうけど >>732
>一般の風習風土のものが中心地とするところから全く出ない
出ない、と、存在しなかったは、同値ではない
実際、大量の鉄用の砥石が出土しているし、
鉄が広く行き渡ることの指標である石庖丁の消失が、畿内の方が九州より早かったりする
畿内周辺の、淡路島(五斗長垣内遺跡)からも、淡海國(稲部遺跡)からも、
3世紀の製鉄遺跡が発掘されていて、それがむしろ3世紀の国内最大級のもの
畿内で鉄が出ないからなかったに違いない、ではなく、あるのは当然で
むしろどうして出ないのかを考える段階に来ている >>724
>あなたが示した出雲(や吉備)などの国々のことですよ。
出雲は、投馬国として倭国第二の大国として書かれているじゃないか?
詭弁、あるいは見ないふり、聞かないふりもいい加減にしな
吉備は、日本海経路では通らないから書いてないのは当然だよな >>725
>もっと若いです。
じゃあ、ものを見る目がおかしい
昔の邪馬台国ブームの頃に、九州説に心酔して修正ができなくなっているバカ以外は
九州説はほぼ絶滅状態
若くて正しい情報を見てなお九州説なら、頭がおかしい
そうじゃないと言い張るなら、正しい情報を見ない聞かないで、
ごまかしているとしか言いようがない >>741
よけいなこと思いついた、レベルなんだが
畿内の鉄は大仏に使われたってのはないのかな? >>741
この淡路島の遺跡が出るまでは、「畿内から鉄が出ない」と、九州説が鬼の首獲ったように騒いでて、そしたらこの遺跡が発見されて、今度こそ大人しくなるかと思いきや、まだ鉄で騒いでたのかよw >>742
「南至投馬國、水行二十曰」
ですから
・これが出雲だと何を根拠に分かるのですか?
・このあたりの海流は西から東に流れていますが
どこから20日が割り出せたのですか?
・出雲であることを示すような記述がどこかに見当たりますか_ >>736
南にまっすぐ直線距離とした場合の最大半径ならそうですね。
つまりこのスケールからみて畿内説は成立しません。
そして,「自郡至女王國、萬二千餘里。」ですからこれは道程の「総延長距離」のことですね。
朝鮮半島も含め東に何度も曲がっているので,南北距離としてはこれより短くなります。 >>741
淡路島から出たのに纏向ではでないのはなおさらおかしいでしょ
考古学的に考えれば纏向では鉄は使われていなかったとしかならない
畿内説もすでに考古学から否定されてるのに、権威にしがみついているだけの理論
奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功先生も
魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無い
といってるしな 滋賀県の稲部遺跡から鉄器工房遺構が見つかったし中国と交流のあった30ヶ国に入ると考えるのが妥当
纒向に関してもホケノの出土品がある
魏使が認識してた倭国の範囲は九州だけだなんていう詭弁はどうやっても通用しない >>746
このnn氏はまったく知識が足りず、自分の「脳内の3世紀倭国」が正しいと思い込み、
人の話をまったく聞かない
短里はある、九州島内の細くてしょぼい川を水行したと言い張り、
投馬国の比定地は無視
こんな人
>「南至投馬國、水行二十曰」
当時の船で、一日航行距離を20キロ弱とすると、北部九州から出雲まで
10日単位で丸めてちょうど20日くらいになるぞ
そして、3世紀の出雲では広い範囲の土器が発掘され、人々の交流の結節点であり
栄えた国があったことが分かっている
西谷墳墓郡には、北部九州には存在しない立派な墳丘を備えた「王墓級」弥生墳丘墓(四隅突出墓)がある
四隅突出墓を作る範囲(丹波以西)を出雲の国の範囲と見れば、5万戸の大国というのも
無理がない
投馬の上古音がdug-mag 、雑にカタカナに直せばヅマだ
出雲、イズモの、最初の母音が弱声化すれば、外国人の聞き書き、音訳としては
十分同じ国名だと認識できる範囲だろう
これで、出雲が投馬国じゃなかったら不思議ってくらいだ
そして、nn氏は福岡平野が奴国で、筑後平野を広く取れば七万戸の邪馬台国が入るという
主張だったはずだが、投馬国は五万戸だぞ?
福岡平野と筑後平野の隙間のどこに五万個を入れるんだ? >>748
>淡路島から出たのに纏向ではでないのはなおさらおかしいでしょ
そうだよ、おかしいんだよ
畿内大和でも、鉄は普通に使っていたと考えるしかない
>考古学的に考えれば纏向では鉄は使われていなかったとしかならない
そうはならない
考古学的に、「鉄が見つからない理由」を考えないといけないんだよ 畿内説に聞くが
那国から北東の出雲に何で南至と書いた? >>750
>筑後平野を広く取れば七万戸の邪馬台国が入るという
主張だったはずだが、投馬国は五万戸だぞ?
http://sanbesan.web.fc2.com/sanbe_web/about/kawa_izumoplain.html
図―5からすると当時の出雲平野は10km四方といったところですね。
これで五万戸が賄えると主張するなら筑前平野はそれ以上ありますね。
>西谷墳墓郡には、北部九州には存在しない立派な墳丘を備えた「王墓級」弥生墳丘墓(四隅突出墓)がある
後の本州側の連合王権のひとつとしては申し分ありません。
>これで、出雲が投馬国じゃなかったら不思議ってくらいだ
魏志倭人伝には投馬国の文化的な特徴が記載されていないのに,なぜそう言えるのかが分かりません。
思い込みにしか見えませんが。 隋書倭国伝「夷人不知里數但計以日」とあるから距離の単位に日を使っているのは確かだが
それが実際に何日かかる距離かということは言えないかと
人によっても地形によっても天候によっても変わりうるものだから
それよりも、その後に「其國境東西五月行南北三月行各至於海」とあるから
それを元に1日をどれくらいの距離に比定しているのか考えた方が理に適っている 力をもった国々が共倒れを防ぐために、神祇を統一して連邦制を敷いたのがヤマトの国の始まりだと分かってきたわけだけど、これって国の成り立ちとしては画期的だよな
今でも隣国同士いがみ合って戦争してることも多いのに、あんな昔に話し合いでご自慢の神祀り情報持ち寄って、象徴アイドル巫女置いて解決とか、今よりよっぽど知恵があるじゃん
聖徳太子が和をもって貴しとなすとしたのも、この頃の事が伝わっていたからなのかもしれない
なんか映画マクロス愛覚えていますかを思い出すw
年がバレる >>752
>畿内説に聞くが
>那国から北東の出雲に何で南至と書いた?
これも何度も書いてきたことだが、陳寿をはじめ、大陸の知識人の認識では
倭国は帯方東南大海中の南北に長く延びた洲島の上の国なんだよ
そして、それは會稽、東冶之東に届くほど南まで続いている
だから、九州島に着いたあと倭国を進んでいくのは基本的に
「南でなければおかしい」と思っているから、南なんだよ
もう一つ、あまり意味のある根拠・考え方ではないけれど、
最後の陸行一月が、京都盆地から平城山越えで奈良盆地に
「南へ向かう」ルートなので、それに九州を出てからの行程が
ひきづられて全て「南」と書かれた可能性もあると個人的には思っている >>753
>図―5からすると当時の出雲平野は10km四方といったところですね。
>これで五万戸が賄えると主張するなら筑前平野はそれ以上ありますね。
だから、人の話をきちんと聞け
>>750に
「四隅突出墓を作る範囲(丹波以西)を出雲の国の範囲と見れば、5万戸の大国というのも
無理がない 」
と書いてあるだろう?
出雲には
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野
それに妻木晩田遺跡のある大山付近
と、四隅突出墓を作る文化圏の中に多くの中心がある
これらをひっくるめて、出雲=投馬国五萬余戸だろう
筑後平野じゃ全然足りないって分かるかい?
しかも、筑後平野は邪馬台国に使うんだろ?
ますます足りないw 使節が常駐して交易もして親魏倭王金印も与えた邪馬台国の方向を知らないとは考えられないね >>756
そして、それは會稽、東冶之東に届くほど南まで続いている
↑
東冶を中国のどこに比定しているの?
だから、九州島に着いたあと倭国を進んでいくのは基本的に
「南でなければおかしい」
↑
そう思うとかやなく、普通に
日の出る方向あるいとる、あら、これ、
東やわと気づくと思うよ。
どんだけ東に行くんと二十日もあるいたら、
二日目ぐらいで、気づくかもよ。 魏志倭人伝では邪馬台国の南と書かれた狗奴国が
後漢書東夷伝では東に海を渡ったところにあると書かれているのは
どういうわけだろう >>757
10km四方では5万戸は賄えるか疑問でしたが,合計面積としてなら確かに可能でしょう。
>筑後平野じゃ全然足りないって分かるかい?
当時の佐賀平野,筑後平野の作付け可能面積から言って7万戸を賄うなら十分足るでしょうし
筑前平野も作付け可能面積から言って5万戸を賄うのに足りないわけではないでしょう。 >>756
>だから、九州島に着いたあと倭国を進んでいくのは基本的に
「南でなければおかしい」と思っているから、南なんだよ
現場で調査しながら進んでいるのにそれは成立しないですね。
太陽の位置からも北極星や星座の位置からもそれをおかしいと思わないのは,
高層住宅の谷間に生き,日の出日の入りを気にしない現代人ぐらいでしょうか。 >>762
現地で「実際の方角が違うことに気づかなかった」にせよ,『気づいていながら報告しなかった」にせよ,
斬首されても文句が言えない罪ですね。 南を東にするなら
南の裸国は東の関東東北方面
寒いだろ冬はどうするんだ? >>756
會稽、東冶を福建省の東冶港とかに、
比定しているの? >>756
>「総延長距離」のことですね
それが間違い。旅行記じゃないんだよ
東京からロスに行くのにオーストラリアよってから行きました
東京からロスまでの距離にオーストラリアよった距離含める?
直線距離だよね
仮に総延長距離なら、水行20日とか書かないでしょ
距離分かってんなら >>763
魏使が倭国の情勢を間違って本国に報告したため、日本列島の盟主の国にいる王ではなく、
九州の小国にいる偽者を親魏倭王と認定してしまったら、それこそ斬首されるわ ごめん。アンカ間違えた
756やなくて>>747やった 菊池彦は名古屋なのかな
朝鮮日本を統括している畿内卑弥呼は名古屋の菊池彦と戦って負けそうだから魏に応援求めたの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています