国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、全長486メートル、5世紀前半)が、
築造当初は現在より約40メートル長い525メートル以上あったことが宮内庁の調査で明らかになった。
現在は水で覆われている周濠(しゅうごう)内の地形を測量して判明した。
エジプトにあるクフ王のピラミッド、中国・秦始皇帝陵(しんのしこうていりょう)と並ぶ世界三大墳墓とされる同古墳。
500メートルの大台を超える規模は、「仁に篤(あつ)く徳が高い」という名の聖帝にふさわしい威容を示したともいえる。
被葬者の謎にどこまで迫ることができたのか。(小畑三秋)

 ■周濠の底を測ってみたら…

 現在の全長は大正時代の測量に基づいて算定されたが、研究者の間では、
水がたまっている周濠まで墳丘が続いていると考えられ、今回の調査はこうした推測が裏付けられた。

 宮内庁の調査は平成28年に実施。
測量機器をボートに載せて音波やレーザーを周濠の底に当てる方法で水面下の地形を調べた結果、
周濠まで墳丘が広がっていることが分かったという。

従来、同古墳の総面積は48万平方メートルで、甲子園球場12個分に相当すると推定されてきた。
30年ほど前には大手建設会社が築造コストを試算。
1日最大2千人が働いたと仮定して完成までに15年8カ月、総事業費は800億円とはじき出した。
今回の調査で墳丘が一回り大きくなることで、さらに大規模な国家プロジェクトだったことが浮かび上がった。

 ■被葬者に近づいた?

 「宮殿から国を眺めると、人家から炊煙(すいえん)が上がっていない。
人民が貧しく飯を炊くこともできないのだ。苦しみをやわらげるため3年間課税を免除した」

 古事記や日本書紀は、仁徳天皇が人々の生活を何より大切にしたことを記す。
「仁徳」という名の通り、歴代天皇の中でもとりわけ聖帝であることが強調されている。

 さらに、日本書紀には仁徳天皇陵の場所について、百舌鳥(もず)に葬られたと記す。
今回調査された仁徳天皇陵古墳は、百舌鳥と呼ばれる地域にあたる。

500メートルを超える巨大古墳の被葬者は、聖帝である仁徳天皇こそふさわしい−。
宮内庁による調査結果は、日本書紀の記述や伝承を裏付けるようなインパクトを与えた。
ただし、そう簡単に結論づけられないのが歴史の奥深さでもある。

 今から40〜50年ほど前まで、
研究者の間では「あれだけ巨大な古墳の被葬者は、聖帝である仁徳天皇以外にあり得ない」との見方が一般的だったが、
今では「可能性は五分五分」という。

 同古墳から見つかった埴輪(はにわ)などから、築造時期が「5世紀前半〜中頃」と考えられるようになったからだ。
仁徳天皇が亡くなったのは399年とされ、古墳の築造時期と最大で半世紀ほどずれる。
ただし、仁徳天皇は中国の歴史書に記された倭の五王「讃(さん)」ともいわれ、讃は438年までに死去したことから、
こちらの説をとると仁徳天皇陵として矛盾はない。

 今回の調査では、築造時期特定につながるような発掘調査は行われておらず、
被葬者論争の決着にはまだまだ時間がかかりそうだ。

■豊臣秀吉も花見に興じた仁徳陵

 今では周囲を柵で囲まれ、厳重に立ち入りが規制されているが、江戸時代までは出入りが可能だった。
墳丘を覆う雑木は地元の人たちが薪(まき)として利用し、タケノコやマツタケを収穫。
水をたたえた周濠ではフナやコイ、エビなども捕ったという。

 江戸時代の絵図を見ると、
被葬者を納めた石室があるとされる墳丘の後円部に仁徳天皇をまつる御廟所(ごびょうしょ)があり、
見事な枝ぶりの桜もあったという。江戸時代以前には、豊臣秀吉が花見に訪れたというエピソードも残る。

 現在のように立ち入りが禁じられたのは明治以降。
天皇中心の国づくりを急いだ維新政府が、天皇陵を神聖化するため管理を強化し、
墳丘全体に松や杉など19万本を植えて現在の姿になった。

 同古墳を含む百舌鳥・古市(ふるいち)古墳群の世界文化遺産登録の可否は、来年夏に決まる。
今も地元では「仁徳さん」「ご陵さん」と呼ばれる仁徳天皇陵。秀吉が愛し、時代を超えて人々に親しまれ続ける。

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産経ニュース
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