【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
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邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、
女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。
この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、
いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、
今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、
卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、
纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
■邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、
「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、
今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html 畿内説の人でも、
アマテラス=卑弥呼という認識で語る人もいるので、話しがややこしくなってしまいます。
アマテラスというのは、太陽神の名前ですが、
太陽神の依代としての鏡を祭器として祀ったのが、卑弥呼の後を継いだトヨです。
卑弥呼と呼ばれた、ヤマトトトヒモモソは、三輪山のオオモノヌシを祭った巫女ということになります。
オオモノヌシというのは、国津神であり、国譲りをさせられた神の代表格です。
出雲のオオクニヌシの分霊みたいなものをヤマトで祀ってるわけですね。
ようするに、国家の繁栄を祈願して、地鎮祭みたいなものを、卑弥呼は行なってたわけです。
霊を沈めるために、桃の実が供えられました。
そんなわけで、日食は関係ありません。 オオモノヌシを祀っていたモモソヒメ(卑弥呼)と、
アマテラスを祀ってたトヨスキイリヒメ(トヨ)は、
それぞれ、崇神天皇の時代(3世紀)に、平行して祭祀を行なっていました。
モモソヒメは、崇神天皇の伯母で、トヨは、崇神天皇の娘です。
ヤマト王権の主祭神はオオモノヌシで、モモソヒメが祀っていたわけですが、
モモソヒメは高齢だったので、先にモモソヒメが亡くなり、
崇神天皇の娘のトヨが、アマテラスを祀り、ヤマト王権の祭祀を引き継ぐことになります。
ところが、アマテラスの神威が強すぎるというので、ヤマトから追い出してしまいました。
というのは、巫女による祭祀で国家を運営するのではなく、
崇神天皇の実権で国家を運営することに方針転換したという意味です。
ここに、実質的なヤマト王権がスタートするわけです。 いやぁ
モモソヒメの祖先は九州の日向からきたのかもしれん
その祖先に卑弥呼=アマテラスがいたのかもしれん
古墳は短里だと考える
年代がずれてたらあり得る話しになる
物証だ
巻向遺跡の物証プリーズ
年代測定は誤差が大きいから複数例が必要だ
この業界捏造もあったしな
少しでは信用ならん >>316
>この業界捏造もあったしな
放射性炭素年代測定のことでしょうか?
無知な人は、すぐ科学的な証拠を捏造だと言うものです。
考古学者は放射性炭素だけを根拠に年代測定をしているわけではありません。
地層を細かく調べ、地層から出てくる土器の形状を調べます。
土器の形状は、地域や時代によって細かく区分されます。
土器の形状が時代によって変化する様子を詳しく編年することで、
放射性炭素を使わずとも、土器の作られた年代は絞り込むことができます。
土の成分から、土器の作られた場所もわかります。
ヤマトには、近畿を中心として、吉備や東海地方で作られた土器が出土します。
邪馬台国が存在した3世紀のヤマトでは、
近畿を中心とした広い範囲で、人や物の移動、交易が行なわれていたことがわかります。
もっと昔の銅鐸を作っていた頃でも、東海で作られた銅鐸が出雲に奉納されていた様子もわかっています。
弥生時代後期のクニは、分裂していたのではなく、より強化な結びつきをしていたことがわかっています。
ヤマトは交易の中心地として、邪馬台国の時代に繁栄していたことは、否定しようがありません。 ヤマトにある唐古・鍵遺跡は、弥生時代中期から隆盛を極めた環濠集落です。
規模としては、全国から見ても最大級です。
古墳時代前期にいたるまで、細かく発掘調査されています。
弥生時代から古墳時代まで、何か戦乱があって荒廃したような痕跡はありません。
つまり、弥生時代から古墳時代まで、神武東征や、邪馬台国東遷を思わせるような戦乱は起きていない、
ということがわかっています。
ヤマトという土地は、弥生時代から連続的に発展してきた土地なわけです。 唐古・鍵遺跡の場所は、奈良県磯城郡田原本町にあります。
そして、ヤマトトトヒモモソヒメの父は孝霊天皇で、居城であるその黒田廬戸宮は、
奈良県磯城郡田原本町黒田周辺とされています。
ということは、孝霊天皇は、唐古・鍵遺跡の王であり、
ヤマトトトヒモモソヒメは、そこで育った娘であることがわかります。
孝霊天皇は欠史八代とか言われて架空の天皇扱いされることもありますが、
遺跡としては、そこに現実として存在しています。 魏志倭人伝に卑弥呼の墓は徑百餘歩の無槨塚と書いてあるのに
わざわざ有槨の前方後円墳でおまけに馬具まで出てる箸墓を持ち出して
卑弥呼の墓などという主張をするのは余程の無知の輩だなw
文献に何が書いてあろうが、遺跡として物証が存在しなければ、
文献の内容は信憑性が認められません。
魏志倭人伝原理主義者は、魏志倭人伝一語一句を事実と考えているようですが、
それは古代史研究のアプローチとして、間違っています。
物証が存在して、はじめて、文献の内容が正しかったと認められるのです。 馬具はどうなるんだい 3世紀の日本に馬は居ないぞw
>>323
馬具は、捏造とは言わないのですね?
なぜでしょう?
誰かがわざとそこに埋めたのかも知れないのに? ttp://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-top.html
>平成22年、邪馬台国の中心地とも言われる奈良県纏向遺跡から、
>2,765個のモモの種(桃核)が出土したことが報じられましたが、
>実は岡山県でも約10,000個ものモモの種が弥生時代の遺跡から見つかっているのです。
岡山でも、弥生時代に桃を栽培してたわけですね。
奈良と、結びつきでもあったのでしょうか?
はい、あります。
ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)の弟として、彦五十狭芹彦命(キビツヒコ)がいます。
この人が、古代の吉備の王でした。
現在も、吉備津彦神社として、祀られています。
そして、岡山といえば、桃太郎ですね。桃太郎のモデルは、ずばり、キビツヒコと言われています。
魏志倭人伝に、卑弥呼の男弟が登場しますが、キビツヒコがその人です。
ヤマトの政治を補佐していたのが、吉備国だったことがわかります。
ということは、魏の使いも、大和に向かう途中で、吉備に立ち寄ったことでしょうね。
投馬国=吉備国というのは、かなり確率高いでしょう。
もう、とっくの昔にここまでわかってるのですから、悪あがきしないでくださいね。 俺も前方後円墳は無いと思うけどもし大和政権が卑弥呼の子孫でもとあった場所から移したなら最初の墓が見つからないのはつじつまが合う どうでもいいよ
今でも歴史コロコロ変わって信用できんわ また、前方後円墳に奉納された特殊器台・特殊壺は、吉備地方で発達した土器になります。
このことからも、吉備国は、祭祀の方面でも、ヤマト王権を補佐していたことがわかります。
このように、物証があって、文献の信憑性が担保されるのです。 たとえ、箸墓古墳が卑弥呼の墓でないにしろ、
ヤマトには、他にもホケノ山古墳が存在します。
箸墓古墳より古い古墳として、ホケノ山古墳という前方後円墳があるので、
年代が信じられないと言ったからってどうにもなるものではありません。
邪馬台国の時代に、ヤマトには、前方後円墳を作る王権が確かに存在していたのです。
そしてホケノ山古墳からは、画文帯神獣鏡が出ています。
実はこれこそが卑弥呼のもらった鏡で、ホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと言っても別に問題ありません。 邪馬台国近畿説派は箸墓がダメならホケノ山か 適当でいい加減だな
なにが 別に問題ありませんだwww ぶっちゃけ、畿内説は、奈良盆地のどこかに卑弥呼の墓があればいいだけです。
九州説みたいに、佐賀だ福岡だ宇佐だ日向だと散漫な説ではありません。 >>308
これも古事記から、疑問点があり、掘り下げた箇所なんだよね。 >>332
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
ここのところで、よく1ヶ月と認識して、
かなりの距離になるとおもうけど、
本来は、水行二十日より短い日数と思う。 >>333
古事記の没年月日を全て見て欲しい。
その月で、15日をこえて、例えば、
6月18日など、記載されていない。
それは、偶然ではなく、中国の暦を利用
していたから。 >>334
春秋時代の「尚書」、西漢時代の「淮南子」で確立されたもの。2016年にユネスコの無形文化遺産になったものが、関係していると思う。
中国の古代農暦は、春夏秋冬の24節気をつくり、五日を一侯、三侯を一気として、節気を作り出した。一年72侯24節気として、黄河流域で、生まれた典型的な北方気候が、ベースです。
三侯とは、十五日なります。これが一気で、
一年を24に分けれます。この24節気を図に書いたものは、陰陽図にもなります。しらべたら、
そのように見えるのがでてくるよ。
で、節気から次の節気の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、節月という。
つまり魏志倭人伝の暦は、この24節気だとしたたら、1月とは、15日としてみてもいいと思う。 >>335
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 は、
水行十日陸行十五日とみてみると、また、違う箇所へ行くのかな? ここで邪馬台国論争してるのか、
やまたいと読むのは不自然で、やまとと読むのが自然で大和で畿内説が有力だろうけど
今のソウルから対馬壱岐を経由して糸島や博多あたりは誰も疑問視してないし正解なんだろうけど
畿内説だと出雲や吉備が出てこないのが不思議だ。投馬国を出雲と言ってる人はいるにはいるけど
それに倭人の風習が出てくるけどあれっていかにも海の民で九州、朝鮮半島のことだろうし、なかなか辻褄があわないね >>336
私の素人意見だけど、例えば陸行1ヶ月って途中の集落や開けた土地で数日過ごすとかも含めてる可能性もあるのではと
考えている。 卑弥呼がどうのこうのと言う前に、桃の種が沢山見つかったんなら、
そこの土地が桃の産地だったってだけだろ。中国から桃の種を持ってきて
ここで栽培を始めた。卑弥呼は桃が大好きだったんだろうな >>340
>桃の種が沢山見つかったんなら、
>そこの土地が桃の産地だったってだけだろ。
桃の産地に桃の種が残るのか?
桃は消費地に運ばれて、そこで食べられ、種はそこに残ると考えるのが普通だろう。 >>338
水行とかは、やみくもに行くわけでなく、
特に、古来の要所を経由していくと思われる。
交易盛んなところ、必然的に、
波が穏やかとかね。 倭国の大乱は、
公孫度が189年に、遼東太守になり、
203年に帯方郡を初めてつくる。
それまでは、韓や倭の抵抗があり、半島も荒れていたと思う。
この時期は、公孫度の軍も半島南部にきており、また、半島南部には、倭があったような記述もある。スサノオが、荒れて書かれている背景は、後漢滅亡からの帯方郡が置かれる間の政治的混乱で、個人的には、先進的な技術集団を
つれてきて、北九州まで、攻めていたかと思う。 当時の先端技術は中国の戦国時代に始まった鉄の鋳造技術だな
石器しか持たない縄文人や青銅器武装の弥生系などは鉄で武装した
連中には歯が立たんだったろう >>309
そうなんだよね、鏡作れと命令されて作る時間があったようだし。鬼海カルデラ噴火災害の記憶だろ。 ほとんど、すべての科学において誤差(error bar)は、必ず存在する。
一般的に多い正規分布など統計学では、「誤差を減らすには、サンプル数(手間、経費)は二乗程度要る」とも言われる。
つまり、誤差を1/10にしようとすると、100倍程度の経費がかかる。
問題の卑弥呼云々だが、その推定精度±400年では、いけないのか?
そこまで、税金を注ぎ込む価値があるのか?
税金は打ち出の小槌ではない。
「正史」の歴史を検証するために、それほど税金を流し込む必要があるのか?
「正史」の正当性を訴える必要など、既にないのではないか? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
やはり科学的に疑問視されている方法での年代測定だったんだな
桃の種の年代を焦って出したのがまずかったな >>348
桃の種なのか、土に触れていない中味のかくなのか、どちらを分析したかわかるように書いてほしい。 >>305
天孫降臨も、まとはずれではないものかもね。
ヒ素を食べて増殖する生命体の発見に続いて、
今度は生命の基礎となるアミノ酸を、
存在しないはずの場所からNASAが発見した。
2008年にスーダン北部に落下した隕石は
かつて非常に高温だったが、
意外なことにその破片の内部から
タンパク質の前駆物質である
アミノ酸が発見されたという。
アミノ酸はこれまでも、
炭素を豊富に含むさまざまな隕石から
発見されているが、
いずれも比較的低温の環境で
形成されたものだった。
しかし今回初めて、自然の状態で
摂氏約1100度にまで温度が
上昇していた隕石からアミノ酸が発見された。 これまでは、小惑星でアミノ酸ができるには、
単純に比較的低温な環境と液体の水の存在が
必要だと考えられていた。
しかし、非常に高温の小惑星が冷える過程で
生じる気体の反応でもアミノ酸が
生成される可能性がでてきた」
と述べている。
さらにこの発見によって、
「生命の源が小惑星によって地球に飛来したとする説を裏付ける証拠が1つ増えた」
という。
古代の人々は、今ほど科学知識なくとも
古事記における
エメリー鉱の存在や天孫降臨の
隕石からのアミノ酸合成など、
簡単に一笑に付すことはできないなと
思う。 天孫降臨の背景が、中国古代の天道思想とちがうから、背景をいろいろ見ているわけ。
山東省にある泰山は、歴代の皇帝が
登っている。あれは、天道思想の天人相関説。
「封禅」するためだが、それに必要場が、
「祭天」と「祭地」だよね。
それが前方後円墳の源とおもう。
祭天とは、天を表し、丸い。敬天法祖。
北京に「天壇」があるから、見やすい。
祭地とは、「方丘祭地」で、土地。農産物の
豊穣を願い、冬至に行われる。
で、方丘とかいている通り、四方に台をつくり、祭事を行なった。この台は、その後、囲いになったり、東西南北に門をつけたりしながら、意味合いは、のこってきている。
天子、皇帝がその間に入り、統治を天からまかされ、天命を知るとなる。
だから、前方後円墳は、西周などのこの敬天法祖になる。 天壇をみたら、きちんと方形のなかに、円壇があるから、わかりやすい。
円墳は、呉の太白の墓をみたら、わかるが、
前方後円墳とは、ちがう思想だね。
神仙思想。神獣などの世界。鏡で、神獣鏡は、呉をベースにしており、
方格規矩鏡は、祭地祭天を表しているから、
ちがう思想だね。 で、天孫降臨は、どこの思想かな?と思うわけ。日本オリジナルかな?と。 >>355
四神は、四方の方角を司るから、
方格規矩四神鏡も頷ける。その鏡の中心は、
まさに天壇とおなじだよ。
さらには、四神は、
季節にも付随しているし、天人相関説だね。
仙人がでたら、呉の思想だと思う。 畿内厨大惨敗w
【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/ >>358
(ノ∀`)アチャー
686 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 11:58:47.58 ID:W+tyEJzC0
>>681
あまり知られてないけど、吉備の上東遺跡からは纏向をはるかに上回る1万個近い数の桃核が出土してる
この事実を知っていれば纏向の桃核を見て「卑弥呼の鬼道がー!」とかバカらしくて聞いてらんない
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-syutudoiseki.html
729 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 17:47:44.29 ID:nnSj0re70
>>686
これは本当、そこそこ弥生時代興味ある人でも案外知らんかもなあ
ちょっと検索してみたが、
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-joutou.html
モモの種は勿論、ト骨まで出てる
占いに使うやつな
畿内派があんなに騒いでた纏向の桃の種やト骨とは一体何だったのか 纏向の桃核の時代がどうあれ、その他の状況から、
奈良が邪馬台国なのは揺るがない事実なのです。
桃核の存在は、卑弥呼の祭祀がその場所で行なわれた傍証にはなるというだけ。
この程度で九州説が立証されると喜んでるなら、せいぜい夢を楽しむことだね。 >>360
それが畿内教のお題目なのですねw
でも+じゃほとんどが九州説www >>361
神武東征とか卑弥呼はアマテラスだとか言ってるやつばっかりじゃん。
浅知恵の素人がいくら空想を語っても学問の分野には影響しない。 今どき畿内だと言ってる学者は橿原の一部だけだよ 大半は九州説に傾いている
>>362
京大閥が無理筋をゴリ押ししてるだけの畿内説なんて世間一般じゃ相手にされてないってことだよ
しがらみのない人間が見ればどう見たってウソの塊なのは一目瞭然だからなw 九州は朝鮮の鉄材バブルで一時期繁栄した一地方じゃないの、砂鉄たたらの普及でバブル崩壊。それに中国の王朝が地方都市を知ってて首都を知らないわけがないでしょ。 .
神功皇后の実施応仁天皇の父親は天皇ではない(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>365
こと、考古学については、世間一般の常識なんて関係ありませんので。 ところで、その世間一般の常識ってのは、
九州の地名が奈良の地名と一致してるから、
九州の邪馬台国が奈良に東遷したってやつかな?
で、アマテラスが卑弥呼で、神武東征が4世紀で、欠史八代は架空だから、
神武と崇神と同一人物ってやつかな?
九州から出土する鉄器のほうが、奈良より多いから、九州のほうが勝ってるってやつかな?
平原遺跡の鏡はとても大きいから、ヤタノカガミに間違いないってやつかな?
三種の神器が九州の墓で見つかったから、日本神話の起源は九州ってやつかな?
他にも何かあったら、言ってみ。 畿内と魏志倭人伝の記述は矛盾することばかり
1.邪馬台国の風俗は海人 奈良には海は無い どこで蛤を拾うんだよw
今倭水人好沈没捕魚蛤
2.邪馬台国までの行程に吉備も出雲も出てこない
3.倭国の絹や鉄は畿内からはほとんど出ない 蠶桑緝績
4.邪馬台国は伊那国や奴国の南と記されている
5.棺ありて槨なし 有棺無槨
魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば畿内は有り得んな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 俺は邪馬台国は皇室宗廟のある宇佐だと思うよ 宇佐から日向に抜けるには佐伯経由の
海沿いのリアス式海岸を行くより九重、高千穂経由で延岡に抜けるほうがよっぽど楽
天孫降臨というのは稲作農耕民がアマテラス=卑弥呼の国 宇佐から高千穂を経由して
日向に抜けた話を書いてるのだと思う そして日向三代のあと神武は本貫の宇佐を経由して
畿内に攻め込んだのだな >>370
「魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば」
何十年も前から、お決まりのフレーズですなあ。
>>372
天皇は渡来人というわけですね。 >>371
九州の人は、原を「はる」と発音しますよね?
でも、高天原は「はら」と発音されてます。
おかしいとは思わないのですかな? 九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊) 原は ”はら” だね はるなんて聞いたことがない
皇室が渡来人である証拠は三種の神器 この系統は朝鮮の錦江流域出身
だいたい出発点が魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は何処?って議論で魏志倭人伝は間違い
っていう話なら最初から議論にならんでしょ >>366
砂鉄たたらは邪馬台国よりずっと後だろ
ああ、つまり邪馬台国は九州ってことか 魏の使者は末盧国に上陸後、伊都国まで【陸行】している
つまり使者が乗ってきた船は末盧国に停泊中なわけでこの時点でもう畿内は無い >>375
>九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊)
卑弥呼に母ちゃんの面影見てるの?
そういうのは、「幻の邪馬台国」でおなかイッパイ。
魏志倭人伝ねえ。信用できないねえ。
厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
それとも、魏志倭人伝が事実だと言い張るなら、
>>377
水行10日、陸行1月を説明してもらおうか。 >>378
>厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
>>364 >>378
卑弥呼は長崎出身で売り出したが実際は東京生まれだったからな 【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
JCal整備に努める坂本稔・歴博教授(文化財科学)に聞くと、「(精度が上がったものが)できていない」。
信頼度を高める検証が進まず、09年段階で止まっていた。とすると、国際標準と日本産樹木のズレはどうなっているのか、
との疑問もわくが、傍証も複数あり、ズレは明らかという。ならば、今回公表されたモモの年代が変わる可能性の方を問わねばならない。
というのも、近藤論文には「議論を深める材料に」とJCalのグラフも参考に掲載され、今回の炭素年代を当てはめると、
実年代で4世紀を考える必要が出てくる。卑弥呼の時代ではない。
ガッカリニュースだった模様だな 九州に邪馬台国が実在した証拠は何一つないんだから、
ガッカリも何もないけど。
悔しかったら、九州の中で邪馬台国の場所を特定してみなさい。
卑弥呼が渡来人とかいうのは、もう聞いたから、宇佐以外で。 もともと箸墓は4世紀のものだっていわれてたじゃん?あれは覆ったの? 馬具が出てきたことが決定的だな 歴史上馬が出てくるのは4世紀以降だし
魏志倭人伝にも馬は居ないと書いてある 其地無牛馬虎豹羊鵲 箸墓以前の古墳も奈良には継続して存在してるので、
そのような議論は無意味なんだよなあ。 一方、九州では、3世紀に隆盛した遺跡が無い。
これが全てなんだよ。 其死、有棺無槨、封土作冢
邪馬台国では死者の塚は作るが古墳は作っていない
むしろその時代の古墳がないことが邪馬台国の証拠
魏書』張遼傳
「成遂將其衆就蘭轉入灊山灊中有天柱山高峻二十餘里道險狭歩徑裁通蘭等壁其上遼欲進諸將曰兵少道險難用深入…略
このなかに、「天柱山」の高峻二十余里とかいている。
道のりが、二十余里ではない。高さが二十余里。
天柱山は、1488メートル。やはり、短里76〜77メートルで計算されている。
長里なら、チョモランマ山どころか
世界一高い山になる。 実際、短里、長里あるが、なぜ使い分けられたかの歴史的背景を探れば、みえてくる。
また、唐は、長里になるが、そのときに、
陸行は、ロバ、馬車、歩兵、水行も遡上、湖、などによって、分けられている。
唐の陸行の距離を把握すれば、
短里であろうが長里であろうが、
物体の動く距離をみるわけだから、時代間で、
差異はないと思う。
要は、その当時、現在に換算して、何キロ移動
するかが、重要。 《蜀志·诸葛亮传》
后的陈寿上表(泰始十年二月一日)∶“
伏惟陛下,迈纵古圣”。
“陛下”指西晋第一代君主武帝,
“古圣”指文章中出现的咎繇(舜的臣)、
周公等人。
这表明了西晋的天子不欲承汉制,
而要恢复周以前的制度、政治。
因而它同时也就宣明∶
对作为制度之一的里单位
不取秦汉新制的“长里”,
而复用周以前古制的“短里”。
ここに、西晋は、秦漢の新制度を使わず、
周以前の制度にもどすと言って、
短里を使っている。
武帝は、漢制を使わない。
舜的臣とは、舜帝の末裔や家臣などの
意味だろう。 晋书·元帝纪》∶“
优复之科,一依汉氏故事。
元帝是东晋的第一代君主,
这一节录自大兴三年(320年)的诏书,
可以认为这是恢复汉制的宣言。
汉继承秦的新制,
沿用“长里”,正如《史记》、
《汉书》所记述的那样。
东晋也复用“长里”
東晋の元帝は、320年に、
漢制を引き継ぐと言っている。
史記、漢書は、長里として、
書かれていく。 陳寿さんがかいたものは、短里でいいかと
思われる。 陳某とヤマトの姫様の謁見の記述がない事から、楽浪郡あたりで伝聞を収集しまとめたものが魏志倭人伝。正式な魏の使いだったら現地まで行って謁見はしますよ。その場合方角と距離に誤りはないはず。 >>393
張政さんが、行っている。軍事
司令官(塞曹掾史)として、驻倭二十年。
壱岐島も最低でも4回は見ている。記述は、短里で捉えている。
商人や役人でなく、軍事専門がきている。
その報告は、帯方郡長官や魏の天子もみるもの。具体的な記述にならなければ、報告として、
採用されないだろう。 >>389
胡三省さんが、書いた「资治通鉴卷胡注」は、
それだけで、歴史書といえる。
司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した 胡三省注资治通鉴
資治通鑑卷第二百五十九 35に、
下記のように書いている。
魏志倭人伝の1月は、
15日と個人的におもうが。
〔唐制:
陸行之程,
馬日七十里,
步及驢五十里,
車三十里。
水行之程,
舟之重者泝河日三十里,
江四十里,
餘水四十五里。
空舟泝河四十里,
江五十里,
餘水六十里、
沿流之舟則輕重同制,
河日一百五十里,
江一百里,
餘水七十里。 >>396
一番最初は
唐六典に、書かれたもので、度支郎の説明の
なかに、その陸行、水行が、書いてある。
つまりは、租庸を集める財務官について、
説明している。
中国,唐・宋代の中央の財務官庁の制度。漢,魏以来,度支尚書があり,その下に度支侍郎 (度支郎中) がおかれ,国家の財政を司っていた。唐代には戸部尚書といわれ,その下に度支郎中がおかれた。 >>383
>>381を見ると全く覆ってないな
むしろ補強された >>398
九州説唱えてる学者は、いまとなっては九州の女子大だけじゃん。 >>398
別に学者と言ったって、アマ研究者と大した差はないだろ。
強いて言えば、九州説を唱えれば研究費がもらえないとか、出世できないとか
そういうどうでもいいバイアスがかかってるわけで しかも、九州説を補強する新しい根拠は、ここ30年何も出てこず。
ただ、畿内説を批判するだけ。
九州の中で、卑弥呼の墓を見つけてた学者はいない。
見つけたと言ったら掘らないといけないしな。
掘っても何も無いのをわかってるから掘らない。
九州説の生き残りのためだけに、畿内説を批判して、九州説の面目を保つしかない。
ようするに、九州説利権にしがみついてるだけの職業九州説だな。 >>403
畿内説の自己紹介お疲れ様ですw
九州じゃこないだも伊都国から硯が出たりと着実に成果が出てるよん
赤村の巨大前方後円墳も地主の発掘許可待ちだしね
むしろ畿内説こそ魏志倭人伝の記述と全く関係ないものしか出ないよねw ttps://www.youtube.com/watch?v=skPVvq4zMpc
この動画を見て、何を思うかね? >>405
反論できません、とw
畿内説は本当にオワコンだな >>406 まるで畿内説と同じだなw 魏志倭人伝をちゃんと読めよ 魏志倭人伝原理主義者が科学の発展を阻害する。
考古学という科学は、物証を元に古代の状況を復元する。
物証で得られた知見では、3世紀の九州は衰退し、畿内が繁栄しヤマト王権として継続していく。
文献は、物証を傍証するものでしかなく、
文献だけで古代の状況を推察するのは科学ではなく「歴史小説」である。
したがって、3世紀の倭国の状況を記した記録に「邪馬台国」が登場しているならば
「やまと国」と読んでヤマト王権と同一と考えなくてはいけない。
否定する物証は、九州説側が用意しなければ、議論にもならない。 赤村に巨大前方後円墳があるというが、自然の丘陵を古墳だと誤認しているだけ。
>>406が、古代ギリシャの天文機械と、何の接点も無い日本の銅鏡を比較してるのと同じ。
知識の無さと、視野の狭さゆえに、「見たいものしか見えない」という自覚が無い。 歴史書なくして歴史は語れない 物証だけで人類の歴史を云々するなら明治さえ遠い彼方だなw
>>410
いや畿内は>>381にあるように4世紀のものを3世紀だと言い張ってるだけじゃん
単なる捏造の塊、それが畿内説 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています