【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
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邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、
女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。
この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、
いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、
今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、
卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、
纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
■邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、
「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、
今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html >>113
山賊でるなら、普通に海賊もでるとおもうぞ。 >>111
鉄器は、西から東へだが、
時を同じく「北九州発祥」の横穴墓群も
西から東へ移動。
水町遺跡をみたことがあるが、
横穴墓と記載されるから、墓と認識する。
しかし、よくよく実際みてみれば、
横穴と横穴を仕切る土塁の両側面にも、
小さな横穴がある。
墓にしては、そんな場所に埋めるもかと
思う。コの字型としたら、
すべての側面に、穴があり、6〜7箇所にも
なるからなあ。
そのタイプが、隣同士で、何基もある。
つまりは、たたら製鉄後だな。
だから東へと鉄器拡大とあうわけだな。
横穴墓は、元来装飾品や人骨がでにくい
質素な墓ともいわれているのは、
用途が、たたら製鉄だからかな。その
後から
鉄器や鏃まで、九州は、でている。 桃の種の年代も必要かもしれないが、
ここ数年、分析法が確立され、
有意義な結果も見られる
「錫同位体測定」も抑えるべきでは?
数本論文でているが、
八咫鏡や神獣鏡などは、青銅鏡。
鉛同位体もされた論文あるが、
産地が多い鉛は、青銅鏡の産地特定は、
難しい。
しかし、錫は、朝鮮半島には、ない。
中国は、無錫市。昔は有錫市として、呼ばれていたが、取りすぎてなくなった。
あとは、2000年前からある
雲南省の錫鉱山。
日本は、鹿児島県錫山、大分県傾山、
高千穂祖母山(神話の里)が、
古来より知られた場所。
雲南省の錫と日本の錫には、同位体の
変動が、見られる。
いずれ日本の銅鏡の錫を同位体測定したら、
日本産か中国産かは、わかると思う。 >>110
東海と関東の境で戦争やってたのに生産された武器は工場に置きっぱなしで
最も需要のあった前線にはなぜか送られませんでした、と?
やっぱり畿内説論者の言うことは根本から破綻してるねw >>111
いや全然
単に弥生中期まで関東には鉄器文明が及んでなかったとしか見えないが
当時の鉄は朝鮮半島からの輸入品だから無理もない 平地と違って海なら遠くに海賊が見えたらすぐに逃げれる
重要な積み荷は当時最速の船を使って護衛の兵士もいたはずなので海賊にはやられない 平地と違って海なら遠くに海賊が見えたらすぐに逃げれる
重要な積み荷は当時最速の船を使って護衛の兵士もいたはずなので海賊にはやられない このザマみたらもう掘ってもたいしたもん見つからんのだろうな。桃の種で深読みするしかねーんだから。 >>120
北九州より船にて、運ぶとしたら瀬戸内海とおるから、逃げれない。
狭間をとおるから、やられやすい。
実際、後に村上水軍がでてくるから、
海賊には、格好の場所。 卑弥呼の名前の「卑」は、高貴な名前だったんだなあ。最初は、卑金属を扱うからと思って
「卑」とつけたと思ったが、やはり、系図をたどると、高貴なとこに、たどりつく。
さらには、橿原市の遺跡でも九州各遺跡でも、呉をベースにした画文鏡などが、出土するのも
繋がっているなあ。 邪馬台国の「邪」も発音自体、xie.ya.ye.などの発音で、意味が変わるし、発音でみれば、方角を表しているんやないかな。 >>122
だから九州より東に鉄器が少ないんだね
瀬戸内海から東は文化の発達も遅くなるよね >>127
畿内に倭国があれば、魏志倭人伝の通り、
海の民、入れ墨などの表記から、もっと海運
などの発展があったと思う。しかし、淡路島には、鉄鏃などの武器や船用の鉄器は出ず、鉄製の釣り針みたいなものしかでない。
入れ墨は、素潜りするため、潜むサメなどを
威嚇するためだし。 >>128
そうなるとますます邪馬台国が畿内にあるのは難しいかも
邪馬台国は戦争もしてたから当時最先端の武器は沢山使っていたはずだから当然 鉄製の矢じりなんかも沢山使っていたはずだね
出土分布とかあるのかな? 神獣鏡が、国産とした場合、
畿内説では、何処の銅山、何処の錫山を
使用したと説明するんだろ?
奈良近くには、錫山ない。
古事記でも
イシコリドメが、鏡をつくるが、国産
錫山ない箇所で、権威の象徴の
銅鏡がつくれないとなると、矛盾が生じないかな。 【話題】考古学で用いられる「放射性炭素年代測定」の精度は調査する場所によって変わるので議論の余地があるという指摘
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1528411799/ 邪馬台国は、邪馬臺国ともかきますが、
taiとは、発音しているが、
yiとも発音する。古代では、
yiと発音した場合は、central officeの
意味になる。
つまりは、臺国は、邪馬のHQといういみかな。 邪馬臺国の邪馬になるのだが、
これは、ヤマとよんでいるから、
yaと呼ばれた意味で捉えるべき。
xieとよばれたら、日本でのジャと呼ぶ意味があるが、
ヤと呼ぶため、ヤの古代として、捉えるべき。 秦の始皇帝は、現在の青島南方あたりに、琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国をたてた。
古代は、「邪」は、東、日が出る場所と認識される。 ここで、卑弥呼とつながる。
元来、卑弥呼は、ビミと呼ばれたと推測する。
なぜなら、魏志倭人伝には、曰、、、卑弥呼とかいており、曰、、、呼とのセットの文法。
だから、卑弥になる。姓氏制度は、
大化改新でなくなるが、
それ以前は、姓氏として、捉える切り口も必要かと。
となると
卑は、beiの発音てわなく、biと呼ぶ。
そうすると、卑という姓氏は、あるのかと
つながる。 魏略では、倭人は太白の子孫とかいている。つまりは、周王朝に通じる。
卑の氏をたどると「姬」に、語源があるとなる。姫とは、漢字が違うため注意。
で、姬は、周王室につながるとの説明。
さらには、卑は、台湾にはなく、中国でも希少な名前である。
ルーツをたどると3つほどあり、
「通志氏族略」にも書いてあり、泰山から
始まったルーツとも書いている。
邪馬台国なんて無かったのさ。
なんかの事情で適当に口から出まかせぶっこいたのさ。
本居宣長が、邪馬台国をヤマトでは無いって看破した根拠ってなんなん? そもそも桃の種がたったの2000個見つかったくらいで邪馬台国である結論にはならないでしょ 機内にも大国があったでも邪馬台国ではないとなぜ認められないんだろう ヤマトでない政権がなぜ邪馬台なとと紛らわしい自称を名乗るのよ 山門だったからだろ
ヤマトなんて地名はどこにでもあるんですよ いや地方名じゃなく国を代表する勢力名でしょ
紛らわしい名前なんて名乗るわけない 邪馬台国の邪馬は、山だったんだ。
邪は、東の意味もあるが、山なんだ。
山台国。丘台国ではない。山なんだ。 倭人は、半島南部で、鉄器などを、生産して、
その生活の後は残っている。
その半島南部で、倭人は祭祀をおこなうのだが、その場所は、後の高霊伽耶即ち大加羅=意冨加羅(オホカラ)の地にある「大伽耶山」。
で、ここに、「弁辰彌烏邪馬国」がある。
この邪馬は、山の意味がある。
山の漢字は、韓国語にはなく、高いからくる
岳。
ヤマ」は、「岩波古語辞典」によれば、
「地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。古く、神聖なるものとされ、神が降下し、、また神が領有すると信じられた。」場所。
つまりは、邪馬台国は、
邪馬=山
台=本部「セントラルオフィス」
やまの中にある。高い山だね。
神聖な山にまつわる話が多いのもわかります。 魏が、何故半島南部より、邪馬台国と同盟を考えていたか。鉄器などは、豊富に半島南部にもあり、北九州などとも大差ないとおもわれる。
銅も朝鮮半島には、大量に存在する。
北九州にも、大量に、存在だとする。
唯一違うのが、
「錫」 これは、錫山が、半島にない。
錫は、メッキできるため、腐敗が進まない。
不老不死ともつながる。
「九錫」という錫の格別高い表現もある。
始皇帝は、不老不死にいいと思い、
水銀飲んで、体調崩していく。
錫は、祖母山でとれ、イシコリドメの
鏡でもでてくる。神聖な山。邪馬。
その地に神楽があり、祭祀がある。 錫、すず、連呼しているが、統治する側からしたら、かなりの戦略物資なんだが。
銅鏡も必ず、錫が入る青銅。人民を統治するのに、神獣鏡などをつくるには、広大な東アジアで、1500年前では、雲南省か日本の阿蘇山「イシコリドメの記述」から南しかない。
さらには、仏教がはいり、大仏様を鋳造していくが、ここにも錫がいる。奈良の大仏様には、銅500トン、錫10トン。錫なければ、作れない。
つまりは、銅は、産地が多いため、変えがきくのだが、錫は、武力で鉱山を抑えるしかない。
それが、権利の基盤にもなる。 >>146
大和も地方名だが?
そこにいた勢力の名が地名として残るのはよくあること
それに魏志倭人伝をちゃんと読めば当時のクニは旧郡くらいの小規模なものだと分かる >>143
九州が邪馬台国だとすると、魏の使者が、畿内のヤマト王権を記述しないのは不自然だから。 >>141
江戸時代の国学者はネトウヨだから
天皇家が中華皇帝に朝貢していたはずがないニダとかいう立場 >>156
そこまで行かなかったら記述しないのは当然だろ
女王国の東に海があって千里渡海するとまた倭人の住む別の土地があると書かれているし
むしろこの記述は邪馬台国が畿内ではないことを意味している >>159
近畿のヤマト王権を、伝聞ですら知らない、過小に評価するというのは、魏への報告書として体をなしません。 >>151
本来の発音は「ピミフォ」なので、「巫女」という意味にはなりません。 >>160
それはお前に都合のいい自分ルールに過ぎない
女王国の東については倭人がいる以上の情報はないのだから書かれなくて当然
もっと近い出雲や吉備さえ書かれてないのに畿内だけは書かなきゃおかしいってのは妄想にもほどがある >隋書俀国伝
>都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
「邪靡堆」とは、ヤマト王権を指し、魏志倭人伝の邪馬台国のことだと言ってる。
こういう決定的証拠をみんな無視してるのがおかしい。
論客として不誠実極まりない。 >>159
陳寿が日本は南北に長いと思っていた説に納得する結局掘り当ててみないとわからないと思ってる派ですが。
女王国の東の海は伊勢あたりからの太平洋で別の倭人は房総の住人かもしれないじゃないですか。
東海道はないわけで当時の移動は海が主流だったのかも。 >>163
だからこそ、魏の時代(または、3世紀末に書かれたものから)の状況から、後漢、隋と時間が過ぎていくうちに、邪馬台国東遷説が、でてくる。
邪靡堆の原文を訳せば、邪馬台国とは、言っていない。
邪靡堆を都とし、魏志倭人伝でいうところの
邪馬臺の人々と言っている。
国とは言わず、すでに安定した都と認識している。そこに住んでるものが、
魏志倭人伝の邪馬臺の人々だということ。 >>81
九州と近畿が別のクニだという主張と自己矛盾する。
九州に邪馬台国があったなら、近畿まで九州が支配下に置いたと主張すべきだが、なぜしない?
邪馬台国を九州内部だけにとどめようという大前提がそもそも、九州説のおかしなところなんだよ。 >>165
>邪馬台国東遷説
中国の史書には、倭国の権力中枢が「移動」したなどという記載は無い。
記紀にある神武東征は、紀元前の話しである。 >>164
日向に、神武天皇お船出や、
大御神社(おおみ)がある。この神社は、
君が代の二番まで、完全に合う場所。
さざれ石がいわおに、なった場所がある。
ここから、東をみると約70キロには、清水町などの高知県がある。
日向、延岡は、五ヶ瀬川で、そのまま高千穂に
つながる。
神武天皇の東征が、始まる場所。 【福島認知症、認定″】 12日、交差点(52) 11日、通学路(75) 10日、スーパー(55) 9日、線路(70?)
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1528765728/l50
4日連続で、アクセルとブレーキの、踏み間違え死亡事故、発生、原因は放射能しかありません! >>168
その日向三代は、天から地上を支配するためにニニギが降臨したという伝説に基づくが、
なぜ、ニニギが初代天皇ではなく、神武が初代天皇なのか、説明できないだろ?
答え。日向の伝説は作り話だから。
天から人が降臨するわけないだろ。 >>170
天孫降臨は、神仙思想。呉の太白の廟をみたらわかる。神社の狛犬が、2対向き合っている。
狛犬は、神仙思想からきて、それが、神獣鏡に
刻まれていく。
その祭祀の場所は、高い山になる。 ようするに、ヤマト王権の初代王として、カムヤマトイワレヒコ(神武)が知られており、
あとから権威付けのために、天孫降臨神話が作られ、日向を聖地に選んだわけ。
なぜ、日向かと言うと、大和王権の王は、日向から姫を迎えているから。
日向がヤマト王権に服属した見返りに、日向にも権威を付与したのだ。
日向なんて、ヤマト王権以前は、遺跡的にも何にもないところだぞ。 >>172
神獣鏡の錫は、国産なら、どこで入手した? 邪馬台国は宮崎県の西都市(西都原古墳群)で決まり!
原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」を読んで理解したらどうかな。。。。。 >>173
>神獣鏡の錫は、国産なら、どこで入手した?
その質問には、何か特別な意味があるの?
銅製品なら、銅鐸つくる技術はずっと前からあったけど? >>174
どうせ、ニニギが初代天皇でない理由なんて書いてないよね。 >>172
日向は国名というより方角だと思うわ。
太陽は東から昇り、西に沈む。
太陽神の子孫が天から下るなら西という考え方じゃね。
古事記には編纂者の思惑がてんこもりじゃないかな。 >>175
青銅で、できた銅鏡は、銅だけでは、
絶対つくれない。 古代日本の国際(国境線も民族国家もないのにw)交易航路が東夷伝の半島対馬壱岐北九州ルートだけとはかぎらない。
東夷伝はとりあえず邪馬台国へのルートだしな。 「魏志倭人伝」に記載の邪馬台国は大和国を報告した中国人が耳で聞いて勝手な漢字を当てただけだから奈良の纏向でいいがな >>178
ttp://pcrescue.b.la9.jp/bunseki.html
これを見ると、銅鐸にも錫は含まれてますよ?
東海に行くほど、錫は減少してるようなので、錫は西方から輸入されてると見るのは正しいでしょう。
邪馬台国以前からも、東西交易がなされていたという証拠にはなりますが、
それが九州説の何の根拠になるのでしょうか? >>182
銅鐸も青銅器。錫が入るから、青銅器。
それほど錫が、貴重だから、産地からはなれたら少なくなる。
錫は、朝鮮半島に、ないよ。
1500年前は、中国は、雲南省しかないよ。 >>182
無錫市が、呉の太白がいたとこにあるが、
2000年前は、有錫市だったが、錫取り過ぎて、
名前をわざわざ無錫市にその後かえた。
どこでも、ここでも取れない代物だよ。 >>182
そこで、錫には、放射性同位体がある。
最近同位体を分析した論文がでてきている。
鉛同位体の鉛は、産地が多いため、厳密には、産地を比定しにくい。
錫の同位体分析では、雲南省の錫と中国内の銅鏡の錫は、雲南省と見られる結果がでている。
ちなみに、日本の錫と雲南省の錫には、
有意義な変動があるようだ。 古事記の「天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津まらを求ぎて、イシコリドメノミコトに科せて鏡を作らしめ、』をグーグルでみながら、高千穂に天安河原があり、その上流みたら、祖母山があった。
で、金山の鉄は、都城にあるし、銅は、日之影町に、岩戸銅山あるし。祖母山調べたら、
錫がとれた。
古事記で、書いた鏡をつくる材料は、調べてみたら、揃っていた。敢えて、堅い石と書くのは、錫が、戦略物資だから。 >>182
九州説でも畿内説でも東遷説でもない。
物流していた物資、鉄や銅鐸、神獣鏡を
中国とのつながり、半島のつながり、
古事記、魏志倭人伝と見て行くうちに、
錫に、興味を持っただけ。
なぜなら、錫は、青銅、大仏として、
必ず含まれている代物なのに、
あまりに記述がない。八咫鏡が、
国産なら、錫はどこ産?とおもうだけ。 >>172
ヤマト王権以前に日向が、なにもないとか。
正倉院という中に入れない場所があるが、
日本で唯一中に入れる西の正倉院がある。
正倉院と同じレベルの遺品がある。
なぜ、そこに王族がにげてきたか。
その地域が、それほど、人を惹きつける力があったから。 >>186
鏡を作ったイシコリドメを祀る有力な神社が九州に無いってのが悲しいね。
せめて、九州に古来からある神社で、イシコリドメが祀られてたら拝聴する価値はあるんだけど。 ttp://nihonsinwa.com/page/1021.html
>石凝姥神(イシコリドメ)を祖先とする大和朝廷の部署。
>銅に錫(スズ)・鉛・亜鉛を加えて強くして、鏡だけでなく他の道具を作る技術者集団のこと。
>弥生時代には技術者はいた。それを古墳時代に大和朝廷がまとめて部署を作った。
>「カガミ(覚美・香美・各務)」という地名は鏡作部にちなんでいる(彼らが住んでいたと思われる)。
>大和・伊豆に鏡作郷という集落があった。また摂津・美濃・美作・安芸に
>カガミ(覚美・香美・各務)が地名として残っています。
イシコリドメを祖とする鏡を作っていた集団は、九州にはいませんでした。
記紀神話を引き合いにだすなら、こうした伝承にも知見を広げて考察してください。 イシコリドメを祖とする鏡作部は、近畿を中心に活動していたのだから、
もっと古代には銅鐸を作っていた集団の流れと見るべきです。
天の岩戸神話では、そのものずばり、「オモイカネ」という銅鐸を意味する知恵の神様がいることをお忘れなく。 時代が流れば、集団が生まれるだろうが、
八咫鏡は、国産なんだし、錫は、輸入していたら、国産と言うかな?
集団は、統一王権できたら、まとめれるが、
初期の技術者が、国産八咫鏡として、作れる場所が他にあるかどうかを考察しているだけ。 国産八咫鏡の銅、錫、なまりなどは、
輸入品でなければ、畿内あたりなら、
つくれますか?古事記にかいてあれば、
より、把握しやすいと言うスタンス。 実際、どこで作られても、個人的には、いい。
ただ、どの産地のどの原料で、
国内初の技術がうまれたのか、
その場所をしりたいだけ。
奈良でも、四国でも、畿内でも、九州でも
どこでもいい。 国内初の技術?が何を意味するのかわかりませんが、
銅製品を作る技術というのなら、
大陸から北部九州に初めに伝来したと見るべきでしょう。
それだけで、邪馬台国の位置など論じられませんが。 問題を整理すれば、
1世紀の倭国では、中国から金印をもらったのは九州です。
その後、倭国大乱を経て、卑弥呼が共立され、
中国から金印をもらったのは、九州か、畿内か、どっちだ?ということです。
九州説の立場では、1世紀から3世紀まで、九州が中国との外交窓口だったとされ、
畿内説の立場では、2世紀頃に、中国との外交窓口が畿内のヤマト王権が担うようになったということです。
では、考古学的に、九州の1世紀から3世紀の様子はというと、めぼしい遺跡は廃棄され、
王権が綿々と続いた様子はなく、北部九州は衰退していったと見るべきです。
一方、畿内では、大規模な遺跡が次々と作られてヤマト王権が着々と力を付けていった様子が伺えます。
このように、総合的に見ることで、3世紀に力を付けていった畿内のヤマト王権が邪馬台国であると、
疑う余地は全く無くなってしまったというわけです。 >>184
無錫市から錫を輸入してた可能性を考えるのは面白いと思います。
もともと、あのあたりは古代から倭人の往来があったようです。 畿内のヤマト王権と邪馬台国とは別物で
邪馬台国は出雲族の国だったが、卑弥呼の亡き後
九州から来た天孫族が、出雲族と戦い、国譲りを受けて
邪馬台国を乗っ取った。
天孫族と卑弥呼は繋がりがないので。記紀は卑弥呼の存在を隠した。 311から急に人口減少、減少幅は毎年30万人! (データあり)
【気の弱い方、注意″】 2010年 3万人増加△ <累計死者200万人!> 2011年 26万人減少 ▼▼
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1528680727/l50 >>197
商の青銅器の錫同位体分析した結果、雲南省の錫鉱石と類似した変動が見られる。
青銅技術は、その後半島経由で、技術集団が
いただろう。
そのような学べる技術のなかで、その当時には
銅鏡の祖と呼ぶ存在はおらず、
その後イシコリドメが、祖になる。
青銅の技術は、鋳造は、3000年も前よりあり、
卑弥呼より1000年も前に技術ある。
にも関わらず、イシコリドメを祖としているのは、雲南省の錫ではなく、国内の錫で、
初めて作ったんやないかと思い、
初めての技術といったわけ。
古事記のイシコリドメの記載を
グーグルでみてみたら、よりわかりやすい。 >>198
魏志倭人伝の倭人の紋身や鉄器の出土数、
二回魏より邪馬台国を訪れた張政が、卑弥呼の死後、臺与をたて、乱を治めたり。
まだまだ、議論は深くなるかと思います。 >>164
> 女王国の東の海は伊勢あたりからの太平洋で別の倭人は房総の住人かもしれないじゃないですか。
残念、畿内説は短里説を否定しているからそれは成り立たないんだな
畿内から長里で1000里東に進むと犬吠埼よりも東の太平洋ど真ん中w
九州説は短里説を採るから大分あたりから1000里東でも四国か山口の瀬戸内側に到着できる
つまり畿内説は成り立たないんだよ >>200
とすると当時の三輪はなんと呼ばれてたのだろう
狗奴国? >>205
短里とか長里とかいって、現代の地図帳で、定規で測ってあれこれやってるようだけども、
3世紀の測量技術が現代に匹敵するという前提で語ってるところが滑稽だね。
中国周辺の地理も正確に記録できない中国人が、どういう測量技師を連れて、
その里数を測ったと考えているのかね? アマテラスは卑弥呼 卑弥呼の墓は皇室宗廟である宇佐神宮の丘
ちなみに宇佐神宮の主祭神は比売大神
>>208
周髀算経と三国志は、短里で書かれている。
偶然の一致ではないよ。
その時代は、短里だよ。 宇佐神宮は、秦氏など渡来系の人々が祀った神社なので、卑弥呼とは関係ありません。
宇佐神宮の沖合いにある姫(ヒメ)島は、朝鮮半島から渡ってきた娘の伝承に由来するものです。
宇佐神宮の比売(ヒメ)大神も、この伝承に由来すると見るべきです。
もうすこし、日本書紀を読み込んでください。
ttps://www.travel.co.jp/guide/article/15805/
>垂仁天皇の時代、意思加羅国(当時、現在の朝鮮半島南部にあった国)の皇子である都怒我何羅斯等が
>牛を連れ歩いていたのですが、牛から目を離したすきに郡公に捕らえられて食われてしまいました。
>皇子が郡公に賠償を求めたところ白い石を渡されます。皇子がそれを持ち帰って寝室においたみると、
>石はたちまち美女へと姿を変えたそうです。皇子は美女に求婚しましたが断られ、
>立ち去った美女は現在の大阪を経由してここ姫島に移り住み、神となりました。
>彼女はなぜかお姫様とも呼ばれていて、「姫」島という名前はこの女性に由来していると言われています。 >>210
3世紀にどのような測量技術があったのか、先に論証してください。 >>211 皇室の祭祀である三種の神器(玉、鏡、剣)のルーツは朝鮮半島錦江流域
錦江流域出土品の年代は戦国初・中期(BC5−4世紀)と見られる古いものです。
そしてその3点セットは日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡からも
見つかっています。ここで発見された多紐細文鏡は朝鮮半島で作られたもので、この遺跡自体は
朝鮮半島から来た渡来人の王族のものであろうと考えられています。
つまり、皇室は天皇自ら語ってる通り半島からの渡来人
宇佐神宮が渡来系であることと全く矛盾しない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています