戦国から江戸時代にかけて鉄砲を多く生産した堺で、
大規模な戦争がなかった江戸時代後期でも、盛んに鉄砲が作られていたことが、
堺市にある鉄砲鍛冶屋敷で見つかった史料で分かった。
「平和が続いた江戸時代中期以降、堺の鉄砲産業は斜陽化した」という長年の通説を覆すことになり、
堺市の担当者は「外国からの船に備え、海岸線の警備に使ったのではないか」と分析している。

 堺市と関西大が、江戸時代に建てられ、
現存する最古の鉄砲の生産現場が残る鉄砲鍛冶屋敷
「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺市堺区北旅籠(はたご)町西)での共同調査を実施。
この中で、17世紀後半から幕末にかけて鉄砲の受注などに関する古文書約1万1700点を精査した。
それによると、大名や旗本からの鉄砲の新調の注文は、宝暦2(1752)年は約30丁だったが、
その後注文量は増加し、幕末の元治元(1864)年には約230丁に増えたことが確認された。

 さらに古文書のうち、「諸家様方御出入先名前帳(しょけさまがたおでいりさきなまえちょう)」には、
天保13(1842)年の堺の鉄砲の取引状況が記載されていた。堺全体で239の大名・旗本から受注があり、
このうち井上家が61を占めていたという。

 調査を行った関西大の藪田貫(ゆたか)名誉教授(日本近世史)は
「戦はなくても、参勤交代の際に武士は銃を持つなどの用途はあり、
新型の銃は次々と開発されたため注文が増えたのでは」と指摘した。

 井上家当主の井上修一さん(74)は「こんなに貴重な資料が出てくるとは思わなかったので、びっくりしている。
身を引き締めて後世に伝える努力をしていきたい」と話している。

 井上家ではこのほか、当時の堺の様子などを記した古文書も見つかっており、堺市や関西大はさらに調査を進める。

 


 鉄砲と堺 戦国時代にポルトガルから種子島に伝来後、堺に伝えられ、鉄砲の一大産地となった。
港があり、古くから優れた技術者が多かったことなどが背景にあるとされる。
井上家は承応2(1653)年に初代が関右衛門を名乗り、鉄砲鍛冶に。
伊予・大洲(おおず)藩からの受注などで急成長し、江戸時代後期には全国有数の鉄砲生産量を誇るようになった。

画像:井上関右衛門家から見つかった図入りの鉄砲の注文書(堺市提供)
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産経ニュース
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