別のプロの、自分とは異なった視線、異なった関心をそれとして理解しようとせず、
自分の専門領域の、内輪の符丁で相手を抑え込もうとする人は、
そもそも専門家として失格なのです。


上空を旋回する報道のヘリコプターの轟音に、
救出を求める人の声が聞こえないと憤る人もいれば、
「だれかが見守ってくれている」と感じる人もいるでしょう。
人の思いというものはこのように、立っている場所でずいぶん異なります。


哲学者というのは、言葉で世界に拮抗したいという人間の強い意思というか、
あるいは最後の牙城かもしれないけれど、そういう危うさを一番よく知ってるし、
それが嘘か誠かもわからないものと知りながら、
そこの立脚点で現実と戦おうという、その確信だけはある。


リーダーシップとおなじくらい、
優れたフォロワーシップというものが重要になってきます。
自分たちが選んだリーダーの指示に従うが、みずからもつねに全体を見やりながら、
リーダーが見逃していること、見落としていることがないかというふうに
リーダーをケアしつつ付き従ってゆく、そういうフォロワーシップです。


(真に強い集団とは)日々それぞれの持ち場でおのれの務めを果たしながら、
公共的な課題が持ち上がれば、だれもがときにリーダーに推され、
ときにメンバーの一員、そうワン・オブ・ゼムになって行動する、
そういう主役交代のすぐにできる、しなりのある集団です。


成熟というのは、未熟さを守ること。


教養とは「何が大事で何が大事でないか」という価値判断、
「絶対いる」「あったらいい」「端的になくていい」「絶対あってはならない」
というのを即断せずに持続させるのに必要な「知性の体力」である。


プロとしての自分たちの思いとはうんと隔たったところで
ものを感じている患者さんやその家族の思いに、
十分な想像力をはたらかせられない医療スタッフは、プロとして失格なのです。

鷲田清一(哲学者)