他板に投稿された、興味深い格言の転載スレ 16
★
カーブを描く昔の道で、両側にお茶の垣がある道なんかは、
真横から見たら奥まで見えないんだけど、手前から見た瞬間、奥だけ見える。
動いているので、奥がチラッと見えた瞬間にもう通り過ぎている。
それが脳の中で1本の道として出来上がるんですね、映像として。
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原発を再開したい連中は、なんかかんか言いながら再開したがるだろう。
所詮、何も見えていないから。大体、使用済み核燃料が原料だったら
採算上は資産になるけど、あれはものすごい負債ですからね。
負債として認めた途端に全部崩れるわけでしょう?
もう大負債なわけですよ、永代の。
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『風立ちぬ』で、僕は僕の堀越二郎を取り戻したと思ってるんです。
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毎朝決まった道のゴミ拾いをして、コーヒーを飲みに行く。
それから戻って朝めしを食って同じ道を通ってスタジオに行く。
毎朝ゴミ拾いしてる時に出会うのって同じ人たちですよ。
ほんとは「あなたは何のご職業ですか?」って訊きたくてうずうずしてるんだけど。
「年収はいかほどですか?」とかね。
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今、自分は半径20メートルで生きています。映画もテレビも観ない。
盛り場へも行かない。インターネットもケータイも持たない。
自分の観たものだけで世界の気配を感じようとしています。
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3・11以降、ペラペラペラペラものを書く人が増えてね、頭くるんですよ。
「黙ってろこいつら!」って。そう思わない?おたおたしてるんですよね。
もっともらしくしゃべってるけど。何をこんなに騒いでんだ、と。
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50年もやってきましたからね、アニメーションを。
その時に、身過ぎ世過ぎでアニメーションをやらない、っていうことでやっていくと、
そういう意味では、堀越二郎がどういうふうに生きたかっていうのはね、
どういう姿勢で自分の仕事に取り組むかってことにあてはめて、理解できますよ。
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零戦神話はほとんどが嘘の塊です。
宮崎駿 ★
僕は、福島の原発に行かなきゃ行けないと思ってるんですけど。
もう羽交い絞め同然にプロデューサーに止められましたけどね。
「向こうでマスコミが待っててすぐ捕まるから」とか、絶対嘘だと思ったんですけど。
でも、行きますよ。行ってこなきゃいけないと思ってるんで。
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ぼくが日本の軍用機でじっさいに見たことがあるのは、零戦の風防だけです。
物置の土間に新品の風防が二つ置いてあるのを見ました。
そのときはなんだかわからなかったんですけど、ピカピカ光っていました。
まだ色も塗っていない新品だったのだと思います。
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インターネットの検索による、なんというのか、
コピー文化というようなものがいまの世の中を支配していますが、
どうなのでしょうか。これ、四十年来の謎だったんだというようなことが、
あっさりチョロッと出てくる。で、チョロッと消えていくんですね。
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わがまま放題にやらせてもらいました。
やりたいけれどがまんしたってことはないです。
それについてプロデューサーが口を挟んでくることもないし、
「やれるもんならやってみろ」みたいな感じになっていますから(笑)。
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ちかごろ画面が妙に明るくなってきたんです。
もう四十年ちかく前に『アルプスの少女ハイジ』というテレビアニメを
つくったのですが、画面の背景はほとんど緑色ですから、
それをバックに赤い服を着たハイジがチラチラ走っていると、
かつてはしっくりと調和して、元気がいい、という印象でした。
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いま、橋に照明を当ててその下を屋形船で通るというような趣向もあるようですが、
あの趣向はちょっとどうかな、と思います。
★
日本橋の風景もなんとかならないものか、と思います。
なんだかヘソのない町になっちゃいましたね。
そのうち将来的に、もしかしたらまた海に戻るんじゃないかと、
ぼくは思ったりもしているのですが。
宮崎駿 ★
じつは就職するときに戸籍謄本を取って見たら、
母親の実年齢がはじめてわかりました。
それと親父の隠された半生が全部あきらかになったんです。
親父にはおふくろとの結婚の前に最初の奥さんがいたということが、
はじめてわかった。しかも学生結婚なんです。
★
自分の住んでいるところに関心を持てるような映像が
できないかなあと思うんですけどね。
江戸東京博物館なんかも、そういう映像があれば、
一発でわかることがいっぱいあるのに、と残念に思うんです。
★
新河岸川。この川は荒川の西岸を流れて岩淵水門の先で
隅田川と合流するのですが、江戸のはじめの頃から、
上流の川越から川船が上り下りしていたんです。
その様子をなんとかしてアニメーションにできないかと思って
いろいろ画策したことがあるんです。
★
「ぼくは火縄銃でいくよ」と宣言して、
いまもコンピュータはまったくやらないんです。
ほんとうに変わってしまいましたね。
まわりに聞くと、みんなテレビなんかもう見ないと言いますし。
★
父が死んでからしばらくして、
小津安二郎の『青春の夢いまいづこ』という映画を見て呆然としました。
主人公の青年が父そっくりなんです。
この映画を見て、親父は真似したんじゃないかと思うくらい。
アナーキーで、享楽的で、権威は大嫌い。デカダンスな昭和のモダン・ボーイです。
★
ぼくの親父は秀才では決してなかったと思います。
★
中国の戦闘機の名前が「殲」幾つといいますね。
殲滅の「殲」です。ぼくは、これはよくない名前だなあと思った。
ナチスのゲーリングが戦闘機に「屠殺機」という名前を使ったことがあるんです。
「殲」だの「屠殺」だのといった名前をつける空軍って……。
宮崎駿 ★
ぼくは飛行機が好きなくせに、博物館に並んでいる飛行機は
なんだか死体みたいな気がしましてね、ぜんぜん興味が湧かないんです。
★
膨張する中国を横に見て、その大陸とこの原発だらけの列島
をどう共存させるのかという戦略的な視点が必要なのに、
ちっぽけな岩礁一つを巡って、チョッカイを出し合っている様子というのは、
まことにバカげていますね。
★
映画ができあがって、「これだけお金がかかりました」って
この前数字を見せられて、「ああ〜。こんなの回収不能だあ!」って、
ぼくはひっくりかえりそうになったんですけど(笑)。
★
アニメーションというのは、一定の観客数がいることによって
成り立っている部門ですから、今後は確実にだめになっていくんです。
少なくとも、惜しみなく時間とお金と才能を注ぎ込むような、
そういうアニメーションを作る機会は減っていくと思います。
★
ぼくはいずれ中国の共産党政権は崩壊すると思っているんです。
でも、それは平和になるなんていう意味じゃなくて、
大混乱時代になると思うんです。そんな時代を前にして、
この国は人的資源がやせ細っていくという問題を抱えながら、
どうやって生き延びていくのか。
宮崎駿 ★
優柔不断ほど疲れることはない。そして、これほど大きなエネルギーの無駄もない。
★
戦争は誰が正しいかを決めるのではない。誰が生き残るかを決めるのだ。
★
「自制の効用」は、列車におけるブレーキの効用に似ている。
間違った方向に進んでいると気づいた時には役に立つが
方向が正しい時は、害になるばかりである。
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あなたが何を信じようと、慎みを忘れてはいけない。
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最も優れた愛は、互いに命を与え合うものである。
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知識を身につける機会があれば、たとえ不完全なものでも無視してはいけない。
無視するのは、劇場に行って芝居を見ないのと同じだ。
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自分の意見と違う意見に腹を立てず、
そういう意見が出た理由を理解しようとする術を学ぶことが大事である。
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嫌いな人間、国家、信条がなければ、大抵の人は幸せになれない。
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愛というものは、地中深くにしっかりと根を張り、
天にも届かんばかりの大きな枝を張った大樹になるべきものである。
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義務感は、仕事においては有用であるが、人間関係においてはいやなものである。
人は、他人に好かれることは望むが、
我慢強いあきらめをもって耐えてもらうことは望まない。
多くの人びとを無意識かつ努力しないで好きになれることは、
おそらく個人の幸福のあらゆる源泉のなかで最大のものであるだろう。
バートランド・ラッセル ★
幸福な生活とは、その大部分が静かな生活であることにかかっている。
なぜならその静かな雰囲気のなかでだけ、真の喜びは生き続けられるのだから。
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神経衰弱が近づいた徴候の一つは、自分の仕事は非常に重要であり、
休暇をとったりすれば種々の災難をもたらすことになると思いこむことである。
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恐怖はどのようなものであれ、直視しないことによってよりひどいものになっていく。
考えをよそへそらそうと努力すれば、
目をそむけようとしている幽霊の恐ろしさが一段と増してくる。
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賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、
避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。
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首尾一貫した目的だけでは人生を幸福にするのに十分ではない。
しかし、それは幸福な人生のほぼ必須の条件である。
★
最も満足すべき目的とは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて
決して行き詰ることのない目的である。
そして、この点で建設は破壊よりも一段と大きな幸福の源であることがわかるだろう。
★
愛を恐れることは人生を恐れること。
そして、人生を恐れる人たちは、ほとんどの部分が死んでいる事と同じなのだ。
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実際、人類の大半が愚かであるということを考えれば
広く受け入れられている意見は、馬鹿げている可能性のほうが高い。
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常識外れの思想を持つことを恐れてはいけない。
今日の常識のほとんどは、元々常識外れの思想から生まれているのだから。
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浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない。
バートランド・ラッセル ★
世界の災いの一つは、何か特定のことを独断的に信ずる習慣である。
理性的な人間なら、自分が絶対に正しいなどとむやみに信じたりはしないだろう。
私たちは常に、自分の意見にある程度の疑いをまじえなければいけない。
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私は両親の愛にまさる、偉大な愛を知らない。
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幸福になる秘訣をお教えしよう。できるだけいろいろなものに興味を持ち、
物ごとであれ人間であれ興味を感じるものを無視せず、
できるだけ好意的に接することだ。
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愛情を受け取る人間は、一般的にいえば愛情を付与する人である。
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他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である。
★
私たちが愛する人々の幸福を願うのは当然である。
だが、自分達の幸福を棄ててまでこれを願うべきではない。
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諸君が自分自身に対して関心を持つのと同じように、
他人が自分に関心を持っているとは期待するな。
★
愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。
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科学は既に知っていること。哲学は未知のこと。
★
人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、
また、ますます運命に左右されることが少なくなる。
かりに、一つを失っても、もう一つに頼ることができるからである。
バートランド・ラッセル ★
何かをやれるという最良の証拠は、
他人がすでにそれをやり遂げたという事実である。
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私は、どんなに前途が多難であろうとも、
人類史のもっともよき部分が未来にあって、過去にないことを確信している。
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世論に流されないのは、力であり、幸福の源泉である。
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希望というものは、絶望から生まれるのです。
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愛を受け取る人間は、愛を与える者である。
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次に起こる戦争は勝利に終わるのではなく、相互の全滅に終わる。
★
道徳は、つねに変化している。
★
最上のタイプの愛情は、相互に生命を与え合うものだ。
★
私たちは知りすぎている一方で、感じなさすぎる。
ついには、人生の大切な源泉である創造的な感動を感じなくなるのだ。
★
道徳を云々するものにとっては、退屈こそひとつの重要な問題である。
というのは、人類の罪悪の少なくとも半分は、
退屈を恐れるあまりおかされるものであるから。
バートランド・ラッセル ★
因襲にぜんぜん屈服しない男女から成り立つ社会のほうが、
みんなが画一的になるような社会よりも面白い社会であろう。
★
素晴らしい人生とは、愛に鼓舞され、知識に導かれた人生だ。
★
自分に起こるどんなことも、宇宙から見ればまったく取るに足らないことだ。
★
幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。
そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、
できるかぎり友好的なものにせよ。
★
われわれにとって最も不愉快な人種は、
相手を見境なく分類して、分かり切ったレッテルを貼る人々である。
★
何か不運に見舞われそうになったら、
起こり得る最悪の事態について真剣に、慎重に考えてみよう。
この起こり得る最悪の事態をしっかり見据えたら、
それも結局大した災難ではないと思うための理由を考えてみよう。
その理由は必ずあるものだ。
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すばらしき人生は、愛に鼓舞され、知識に導かれたものだ。
★
自分で自分の価値を過大評価しないように。
★
不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。
★
愛を恐れることは、人生を恐れることだ。
人生を恐れるものは、すでにほとんど死んだも同じだ。
バートランド・ラッセル ★
過度にならない程度に自己の能力を高く評価することが幸福の一つの源である。
★
突飛な意見を持つことを恐れるな。
今日認められている意見は皆、かつては突飛だったのだ。
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愛国者は常に祖国のために死ぬことを口にするが、
祖国のために殺すことについては決して語らない。
★
人は生まれたとき無知であって、ばかではない。教育によってばかになるのだ。
★
役に立たない知識から得る喜びは大きい。
★
もしも平和が名誉を持って維持され得ないならば、そのような平和はいかなる平和でもない。
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金銭を崇拝する人間は自分自身の努力を通し、
あるいは自分自身の活動の中に幸福を得ようとする望みを、捨てた人間である。
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政府がちょっと手を貸せばどんなに馬鹿げた事でも大多数の国民が信じるようになる。
★
人はみな、自分の幸福を望んでいる。
しかし、文明の技術の上で一つとなった今日の世界では、
他人の幸福を望む気持ちが一つにならない限り、自分の幸福を望んでも無駄である。
★
人間は「自分の死後に、何が起ころうとしているのか」に思いをはせることが大事である。
バートランド・ラッセル ★
本当に心を満足させる幸福は、私たちのさまざまな能力を精いっぱいに行使することから、
また私たちの生きている世界が充分に完成することから生まれるものである。
★
幸福になる一番簡単な方法は、他人の幸せを願うことです。
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本当に理性的な人間は絶対に自分が正しいなどとはめったに思うことはない。
理性的な人間になろうと思ったら自分の思想に対しても常に疑いを持っていなくてはならない。
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愚かな人は、賢い人が言ったことを、正確に理解することは出来ない。
それは人間というのは、自分が聞いたことを、
自分が理解できる範囲の内容に変換してしまうからである。
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酩酊は一時的な自殺である。
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科学がなければ、愛は無力である。愛がなければ、科学は破壊的である。
★
現実の人生というのは、大抵の人にとっては、じつに長い次善の人生である。
つまり、理想と可能性との永遠の妥協である。
バートランド・ラッセル ★
行いの悪い者に腹を立てるのは時間の無駄である。
動かない車に怒るのと同じようなものだから。
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よい生活は、恐怖や束縛やお互いの自由に対する干渉の上に築くことはできない。
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私たちが愛する人々の幸福を願うのは当然である。
だが、自分たちの幸福を棄ててまで、これを願うべきではない。
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世論に対して関心を示さないのは、まさに一つの力であり、幸福の源泉である。
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人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、
ますます幸福になるチャンスが多くなる。
★
経済学は人々がどのような選択をするか明らかにするが、
社会学は人々に選択の余地がないことを明らかにする。
バートランド・ラッセル ★
自惚れるということが全然なかったとしたなら、この世にはさして楽しいこともあるまい。
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適当に語るには多くの技巧を要するにしても、
黙っているのにも、それ以上の技巧が必要である。
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偉人の名声は、それを得るために用いられた手段によって評価されるべきである。
★
相手方の言い分を聞いてやろう、という気持が無くなったら、もうその人の負けである。
★
大抵の人々は小さな義理を返したがる。
多くの人達が、中くらいの義理に対しては感謝の念をいだくが、
大きな恩恵に対しては、恩知らずの振る舞いに出ない人はまずいない。
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あまり利口でない人達は、一般に自分の及びえない事柄については何でもけなす。
★
女は長くその最初のひとを守っている。ただし、第二のひとができない限りは。
★
人間はときに、他人と別人であると同じほどに自分とも別人である。
★
よい結婚はあるけれども、愉しい結婚はない。
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善の究極は悪であり、悪の究極は善である。
★
恋愛においては、往々にして疑うよりも騙すほうが先に立つ。
★
真の勇気は第三者の目撃者のいない場合に示される。
★
希望と怖れとは切り離せない。
希望のない怖れもなければ、怖れのない希望もない。
ラ・ロシュフコー ★
真の苦労はひと目につかない苦労である。
ひと目につく苦労は虚栄心さえあれば楽に出来る。
★
青年は熱い血によりその趣味を変えるし、老人は習慣によりその趣味を保つ。
★
声の調子や目つきや姿のうちにも、取捨選択した言葉に劣らない雄弁がある。
★
人が不正を非難するのは、そのことを憎悪するからではなく、
自分がその害を被りたくないからである。
★
相手の張った縄にいかにもはまり込んだような様子を見せるのが、
最たる策略である。相手を騙そうと考える時ほど、騙されることはない。
★
我々は、あまりに他人の前で自分を偽装するのに慣れているので、
しまいには自分の前でまで自分を偽装するようになる。
★
自己の腕前をひとに示さないことこそが真の腕前である。
★
我々自身がいだいている自信が、他人に対する信用を芽生えさす。
★
利口者が何か利益を引き出す余地がないほど不幸な出来事はないし、
愚か者が貧乏籤を引かずにすむほど幸福な出来事もない。
★
われわれの自尊心にとっては、自分の意見をこきおろされるよりも
趣味をこきおろされるほうが、いちだんと苛立たしく我慢できない。
★
人間一般を知ることは、個々の人間を知ることよりも容易である。
★
真の勇気とは、人々の前でできたことを一人のときでも実行できることを言うのだ。
ラ・ロシュフコー ★
幸運に圧し潰されないためには、不運に堪える以上に大きな徳を必要とする。
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我々が小さな欠点を認めるのは、
大きな欠点を持っていないと、人に信じさせるためである。
★
希望はすこぶる嘘つきではあるが、
とにかく我々を楽しい小道を経て、人生の終わりまで連れて行ってくれる。
★
哲学は容易に過去と未来の不幸を打ち負かすが、現在の不幸には打ち負かされる。
★
世間のひとが友愛と呼称するものは、
社交・欲望の掛け合い、駆け引き、親切の交換にすぎない。
★
肉体の苦労は、精神の苦労を癒す。これこそ貧乏人を幸せにする。
★
軽蔑されまいと怖れているのは、軽蔑されて然るべき輩ばかりである。
★
虚栄は理性以上に、我々に我々の嗜好に反することをさせる。
★
老人はよい教訓を言いたがるが、それは、
もう悪い手本を示す歳ではなくなったことを、ひそかに自慰するためである。
★
死と太陽は直視することは不可能である。
★
友人に不信をいだくことは、友人にあざむかれるよりもっと恥ずべきことだ。
★
人は愛している限り許す。
ラ・ロシュフコー ★
嫉妬の内には、愛よりも自愛のほうが多くひそんでいる。
★
真の友は最大の財産であり、また、最も得がたい財産である。
★
よく調べもせずに、簡単に悪と決めてかかるのは、傲慢と怠惰のせいである。
★
人は、他人と違っているのと同じくらい自分自身とも違っている時がある。
★
恋は火と同じく不断の動きなしには存続しえない。
何かを望んだり、怖れたりする気持ちが失せるやいなや恋は息絶える。
★
恋愛を一度もしなかった女はたびたび見つかるものだが、
恋愛を一度しかしない女はめったに見つからない。
★
嫉妬は常に恋と共に生まれる。しかし必ずしも恋と共には滅びない。
★
愛する人に本当のことを言われるよりも、
だまされているほうがまだ幸せなときがある。
★
自分の内に安らぎを見出せない者がそれを外に求めても無駄である。
★
真実の愛は幽霊のようなものだ。
誰もがそれについて話をするがそれを見た人はほとんどいない。
★
恋する男と女が一緒にいて、少しも退屈しないのは、
いつも自分たちの事だけを話題にしているからだ。
★
二人の間に恋がなくなったとき、
愛し愛された昔を恥ずかしく思わない人はほとんどいない。
★
我々は、幸福になるためよりも、幸福だと人に思わせるため四苦八苦している。
ラ・ロシュフコー ★
よもや他人の迷惑にはなるまいと思っているときに、
他人の迷惑になっていることがよくあるものである。
★
人間には、裏切ってやろうとたくらんだ裏切りより、
心弱きがゆえの裏切りのほうが多いのだ。
★
知はいつも情に一杯食わされる。
★
他人に欺かれるもっとも確実な手段は、他人よりも自分のほうが狡猾だと思うことである。
★
運も健康と同じように管理する必要がある。
好調な時は充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、
そしてよくよくの場合でない限り、決して荒治療はしないことである。
★
情熱は、つねに人を説き伏せる無類の弁舌家である。
★
不可能なことはない。すべてに至る道がある。
★
われわれは生涯の様々な年齢にまったくの新参者としてたどりつく。
だから、多くの場合、いくら年をとっても、その経験においては経験不足なのである。
★
人は好んで他人の心を推察するが、他人にこちらの心を推察されるのを好まない。
★
運命は理性の力では直せない数々の欠点を改めさせる。
★
洞察力の最大の欠点は、的(まと)に達しないことではなく、
その先まで行ってしまうことである。
★
ありのままの自分を出すほうが自分を偽って見せるより得るものは大きいはず。
★
社交においては、われわれの優れた特性によってよりも、
欠点によって気に入られることのほうが、かえって多い。
ラ・ロシュフコー ★
小さい事に身を入れすぎる人は、通常大きな事ができなくなる。
★
われわれは、たとえどれほどの恥辱を自ら招いたとしても、
ほとんど必ず自分の力で名誉を挽回できるものである。
★
現在自分が何を欲しているのかもはっきり分からないのに、
将来自分が欲するであろうことを、どうして請け合えるだろう?
★
欲はあらゆる種類の言葉を話し、あらゆる種類の人物の役を演じ、
無欲な人物まで演じてみせる。
★
過ちを犯した人びとに向かってわれわれがする説教には、
善意よりも傲慢のほうが多分に働いている。
そしてわれわれは、彼らの過ちを正そうというつもりはそれほどなしに、
むしろ、自分がそんな過ちとは無縁であることを彼らに篤とわからせるために、叱るのである。
★
人間は何かに動かされている時でも、自分で動いていると思うことが多い。
そして頭では一つの目的を目指しながら、
心に引きずられて知らぬまに別の目的に連れて行かれるのである。
★
人間の幸不幸は、運命に左右されると共に、それに劣らずその人の気質に左右される。
★
ある時に自分が誉めていたことを、別の時になって、
自分が少しもよいと思わないのに気がつくことくらい、
われわれの自己満足をしぼませるものはあるまい。
★
人は最も罪深い情念までもしばしば自慢の種にする。
しかし妬みだけは、人が敢えて自認することのできない惰弱で恥ずかしい情念である。
★
われわれは希望に従って約束し、怖気に従って約束を果たす。
ラ・ロシュフコー ★
われわれが美徳と思い込んでいるものは、往々にして、
さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない。
それを運命とか人間の才覚とかがうまく案配してみせるのである。
だから男が豪胆であったり、女が貞淑であったりするのは、
かならずしも豪胆や貞淑のせいではないのである。
★
自然がいかに傑出した天分を与えるにしても、
英雄を作るのは自然だけではなく、運命が自然と協力して作るのである。
★
われわれは皆、他人の不幸には充分耐えられるだけの強さを持っている。
★
君主の寛恕は、往々にして、民心を得るための術策に過ぎない。
★
情熱には一種の不当さと独善があって、それが情熱に従うことを危険にし、
またたとえこの上なく穏当な情熱に見える時でも、
警戒しなければならなくするのである。
★
死刑に処せられる人が、時として不動心と死への軽侮を粧うことがあるが、
あれは実は死を正視することへの恐れにほかならない。
だからあの不動心と軽侮は、彼らの精神にとって、
彼らの目に当てる目かくし布と同じものだ、と言うことができる。
★
情熱は必ず人を承服させる唯一の雄弁家である。
それは自然の技巧とも言うべく、その方式はしくじることがない。
それで情熱のある最も朴訥な人が、
情熱のない最も雄弁な人もよく相手を承服させるのである。
★
自己愛は天下一の遣り手をも凌ぐ遣り手である。
★
寵臣に対する憎しみは、君寵への執心にほかならない。
寵を得られない忌々しさは、寵を得ている人びとについて軽蔑を表すことで慰められ和らぐ。
そこでわれわれは、万人の敬意を集める本になっているものを
寵臣から奪うことができないので、自分の敬意だけは彼らにやるまいとするのである。
ラ・ロシュフコー ★
人それぞれの運命がどんなに違うように見えても、
それでもやはり禍と福の相殺といったものが存在していて、
それがすべての運命を平等にするのである。
★
恋を定義するのは難しい。
強いて言えば、恋は心においては支配の情熱、知においては共感であり、
そして肉体においては、大いにもったいをつけて愛する人を所有しようとする、
隠微な欲望にほかならない。
★
自己愛の国で人が発見したことがどれほどあるとしても、
まだそこには未知の土地がたくさん残っている。
★
哲人たちが持っていた生への執着もしくは無関心は、
単に彼らの自己愛の好みに過ぎなかったのだから、
味の好みや色の好き嫌いと同様、その是非を論じてはならない。
★
どうやらわれわれの行為には吉、凶の星がついていて、
人がわれわれの行為に寄せる賞賛や非難の大部分は、その星のおかげであるらしい。
★
われわれが為す悪は、われわれの美質ほどにはわが身に迫害や憎悪を招かない。
★
優雅は肉体にとって、精神にとっての良識に当たる。
★
地位を確実に掴むために、人はあらゆる手を使って、
すでに自分がその地位を占めているように見せかける。
★
情熱はしばしば最高の利口者を愚か者に変え、
またしばしば最低の馬鹿を利口者にする。
★
愛しているのにそれを隠したり、愛していないのに愛を粧(よそお)ったりすることを、
長い間続けられるような偽装は、どこにもない。
ラ・ロシュフコー ★
利口な人はきっと自分の様々な欲の序列を定めて、
それぞれの欲に順位を守らせているに違いない。
我々の貪婪さは我々を一時にむやみに多くのものに向かわせることによって、
しばしばこの順位を乱し、結局最もつまらぬものを欲しがるあまり、
最も大切なものを取り逃がすようにしてしまうのである。
★
われわれの持っている力は意志も大きい。
だから事を不可能だときめこむのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。
★
われわれの情熱がどれだけ長続きするかは、
われわれの寿命の長さと同じく、自分の力ではどうにもならない。
★
われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。
★
自己愛こそはあらゆる阿諛追従の徒の中の最たるものである。
★
猜忌は、自分の掌中にあるか、もしくはそう信じている幸福を、
まもり通そうとするだけだから、ある意味で正当で理にかなっている。
それにひきかえ嫉みは、他人の幸福が我慢できないのだから一種の狂気である。
★
嫉妬は疑いを糧にしている。それで人が疑いから確信に転じるや否や、
嫉妬は狂気と化すか、もしくは死んでしまうのである。
★
真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない。
★
運命によってわれわれに起きるすべてのことに、われわれの気質が値段をつける。
★
強さとか弱さとかいうのは当を得ない言い方だ。
それが実は肉体の諸器官の状態の良し悪しに過ぎないからである
★
賢者の不動心とは、心の動揺を胸中に閉じ込める技巧に過ぎない。
★
もしわれわれに全く欠点がなければ、
他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。
ラ・ロシュフコー ★
人は自分の偉大な功績を鼻にかけるが、
その功績は偉大な志の賜物ではなく偶然の結果であることが多い。
★
人は決して自分が思うほど幸福でも不幸でもない。
★
真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない。
★
死を解する人はほんの僅かである。
人はふつう覚悟をきめてではなく、愚鈍と慣れで死に耐える。
そして大部分の人間は死なざるを得ないから死ぬのである。
★
人間の心の中では情熱の不断の生殖が行われていて、
それで一つの情熱の消滅はすなわちもう一つの情熱の出現と、ほぼきまっているのだ。
★
人は知恵に対していかなる賛辞も惜しまない。
しかしその知恵は、一寸先のこともわれわれに保証できないであろう。
★
もし自分に傲慢さが少しもなければ、われわれは他人の傲慢を責めはしないだろう。
★
われわれの気質の気まぐれは、運命の気まぐれよりもさらにいっそう奇矯である。
★
欲で目が見えなくなる人があり、欲で目を開かれる人がある。
★
自分を偉いと信じている人たちは、逆境にあることを名誉とするが、
それは、自分は運命から狙い撃ちされるほどの大物だと、
他人にも自分にも思いこませるためなのである。
★
慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。
幸福に酔いしれれば必ずそういう目にあうからだ。
それはわれわれの精神のくだらない虚勢である。
さらにまた、栄達を極めた人びとの慎ましさは、
その栄位をものともしないほど偉い人間に自分を見せようとする欲望なのである。
ラ・ロシュフコー ★
情念は往々にしてそれ自身と正反対の情念を産む。
貪欲は時に浪費欲を、浪費欲は貪欲を産み出すし、
人はしばしば弱さから強かになり、臆病から向こう見ずになる。
★
運命は一切を転じてその寵児たちの利をはかる。
★
われわれを幸福にするために肉体の諸器官をかくも巧妙に組織した自然は、
どうやらそれと同時に傲慢を与えて、われわれが自分の不完全さを
知る辛さを味わわずにすむようにしたらしい。
★
哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。
しかし現在の不幸は哲学を克服する。
★
傲慢は何があろうと必ずどこかで元を取る。
虚栄を捨てる時さえ、少しも損をしないですませる。
★
傲慢はすべての人間の心の中では一様なのであって、
ただそれを外に表す手段と趣きに相違があるに過ぎない。
★
みちたりた仕合わせは好みの中に存在するので、事物の中にあるのではない。
だから人は自分の好きなものを得ることによって幸福になるので、
他人が好ましく思うものを得るからではないのだ。
★
人間は受けた恩誼や非道い仕打ちの記憶を失いやすいだけではない。
自分によくしてくれた人を憎みさえするし、
自分を踏みにじった人を憎むのもやめてしまう。
善に報い悪に復讐しようとひたすら心掛けることは、
人間には桎梏のように思われて、服し難いのである。
★
偉大な人たちが悲運があまりに長く続くためにうちひしがれるのを見ると、
彼らはただ野心の力に支えられていただけで、彼らの魂の力にたよったのではないとわかり、
英雄も大きな虚栄心を別とすれば、ほかの人間と同じように出来ていることがわかる。
ラ・ロシュフコー ★
率直とは心を開くことである。これはごく少数の人にしか見出せない。
ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。
★
人々が美徳とするこの寛恕は、ある時は虚栄心、間々怠惰、しばしば危惧、
そしてほとんど常にこれら三つ全部の協力によって実践される。
★
どれほど念入りに敬虔や貞淑の外見で包み隠しても、
情念は必ずその覆い布を通してありありと見えるものである。
★
嘘に対する反発は、自分の証言に箔をつけ、
自分の言葉に宗教的な畏敬の耳を貸させたいという、
それと気づかぬ野心であることが多い。
★
仕合わせな人々の慎ましさは、幸運が彼らの気質に与える穏やかさからくる。
★
純粋で、ほかの情念が一切混じらない愛があるとすれば、
それは心の奥底に隠されていて、われわれ自身も知らない愛である。
ラ・ロシュフコー ★
人の性質は、永久に前に進めるわけではない。引き潮があり、差し潮がある。
★
「彼にとり入りたいのか? それならば、彼の前に出て当惑のさまを示せ・・・」
★
「事柄に対するよろこび」と人は言う。
しかし本当はそれは事柄を介しての自己に対する喜びである。
★
ある事柄をまったく深く捉える人々は、
いつまでもその事柄に忠実であることは稀である。
彼らはまさしく深みを光に晒したのである。
そこにはいつでも具合の悪いものが沢山見当たる。
★
人間に対して控えめの人は、事柄(都市、国家、社会、時代、人間性)に対しては
それだけひどく自惚れを見せる。これが彼の復讐である。
★
男は、相手に苦しみを与えたと思って涙を流すが、
女は、相手を十分に苦しめなかったと考えて涙を流す。
★
友達の間で親密さが不足しているということは、
咎めたら最後、治しようがなくなるような過失である。
★
学者や芸術家との交際においては、評価を反対に誤ることがよくある。
注目すべき学者の背後に凡庸な人間を、
また、凡庸な芸術家の背後にしばしばきわめて注目すべき人間を見ることが希ではない。
★
羊飼いは、全群を導く一匹の羊を必要とする。
さもなくば、彼みずからその羊にならねばならぬ。
★
他人の自我にたえず耳を貸さねばならぬこと――それこそまさに読書ということなのだ。
ニーチェ ★
公然と大きい目標を立て、そののち内心自分がそれにはあまりに
無力だと認める者は、通常またその目標を公然と撤回するだけの力もなく、
そののち偽善者となることは避けられない。
★
道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈である。
★
登山の喜びは、山頂を極めたときに頂点に達する。
★
外国語を少ししか話せない人は、上手く話す人よりも
外国語を嬉しがる。楽しみは半可通の人にある。
★
人生に対してもっと大きい信頼を寄せているなら、
おまえたちはこれほど瞬間に身を委ねることもないだろうに。
★
己の敵を誇れ。されば汝の敵の成功は汝自身の成功となる。
★
いったん灰になることがなくて、どうして新しくよみがえることが望めよう。
★
現実における希望は、悪の中でももっとも悪い。それは人間の苦しみを長引かせる。
★
世界を悪質で醜いものだと理解したキリスト教の解決は、
世界を悪質で醜いものにしてきた。
★
信念──真実を知ろうと欲しないこと。
ニーチェ ★
医者よ、あなた自身を助けなさい。
そうすれば、あなたはあなたの病人たちをも助けることになる。
自分自身を癒す者を、目の当たりに見ることが、
病人の何よりの助けになるようにすれば良い。
★
あなたがたは高められたいと願うとき、上方を仰ぎみる。
だがわたしはもう高みにいるから、下方を見下ろす。
あなたがたの誰が、高められて、しかも同時に哄笑することができるだろうか?
最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を笑うのである。
★
私は君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。
私が勧めるのは官能の無邪気さだ。
★
いかに? 偉人とは?私が見るのはつねにただ、みずからの理想を演ずる俳優にすぎない。
★
才気に富んだ人たちをある命題に賛成させるには、時として、
それを途方もない逆説の形にさえしてみせればいいことがある。
★
最も良い作家とは、文学者であることを恥ずかしく思っている人間だ。
★
精神的な人は、そういう人は同時に勇気もある人だと前提しての話だが、
精神的であればあるだけ、また痛ましい悲劇にも出会う。
だが、彼らはまさに人生が自分たちに大きく敵対してくればくるだけ、
その人生を称賛する。
★
だれしも、分別に欠けるだけ虚栄に毒されている。
★
愛──その手段においては両性の闘い、その根底においては両性の命がけの憎悪。
★
友への同情は、堅い殻の下にひそんでいるのがいい。
ニーチェ ★
あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう。
★
ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!
★
同情されたがる渇望は自己陶酔、しかも、隣人の懐を傷めての自己陶酔の渇望である。
★
友たるものは、推察と沈黙に熟達した者でなければならない。
★
あなたの実力以上に有徳であろうとするな!できそうもないことを己に要求するな!
★
人間は行動を約束することはできるが、感情は約束できない。
なぜなら、感情は気まぐれだからである。
★
大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。
この苦痛のみが、我々を最後の深みに至らせる。
★
自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段となり得る。
★
男の幸せは「われ欲す」、女の幸せは「彼欲す」ということである。
★
軽蔑すべき者を敵として選ぶな。汝の敵について誇りを感じなければならない。
ニーチェ ★
母親は息子の友人が成功すると妬む。
母親は息子よりも息子の中の自分を愛しているのである。
★
信念は、嘘よりも危険な真理の敵である。
★
真理は醜いもの。
★
人は、説明のついた明瞭な事柄よりも、
説明のつかない不明瞭な事柄をいっそう重要に受け取る。
★
不満というものは、不満の誘因があとで除かれるだけで
もう癒されているというわけにはいかぬ一つの肉体的な病気である。
★
私が望みたいのは、君たちが、あらゆる種類の隣人たち、
またその近所の者たちに堪えきれなくなることだ。
そうすれば君たちは、自分自身の内部から、
友とそのあふれる心情とを創り出さざるをえなくなるだろう。
★
職業はものを考えないようにさせる。そこに職業の最も大きい恵みがある。
なぜならそれは、ごくありふれた疑念や憂慮に襲われるとき、
誰はばかることなく蔭に引っ込むことのできる防壁だからである。
★
人はしばしばある意見に反対する。
ところが本当はそれの述べられた調子だけが同感できないのに過ぎないのだが。
★
真の男の中にはひとりの子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。
★
人々はなんらかの不潔なことを考えることを恥としないが、
この不潔な考えが彼らのものだと言われていると感じると恥じる。
ニーチェ ★
我々が不意にある事柄について問われた場合に思いつく最初の意見は、
一般に我々の意見ではなく、我々の階級・地位・素性につきもののきまり文句にすぎない。
★
人間が神の失敗作にすぎないのか、それとも神が人間の失敗作にすぎないのか。
★
ある程度までのところ、所有が人間をいっそう独立的に自由にするが、
一段と進むと所有が主人となり、所有者が奴隷となる。
★
男たちは、自分の職業がほかのいかなる職業よりも大切だと信ずるか、
自分で思いこませる以外に、その職業を持ちこたえることはまず出来ない。
★
社会主義は老いぼれきった専制主義の空想的な弟で、
これを継承しようとしているのである。
★
ものの始めを探すことで、人間は蟹になる。
歴史家は後ろ向きにものを見る。ついには後ろ向きに信ずるようになる。
★
「文化国家」とは、近代的観念にすぎない。
一方は他方を食っていき、他方は一方の犠牲において繁栄する。
文化のすべて偉大な時代は、政治的には没落の時期である。
★
真の思想家が何よりもあこがれるのは閑暇であるのに、
凡な学者がそれを回避するのは、閑暇をどうして始末するかを
知らないからである。その折りに彼を慰める者は書物である。
★
才能が一つ多いほうが、才能が一つ少ないよりもより危険である。
★
多くの人間は、その記憶があまりにもよいという唯一の理由から思索者になれない。
ニーチェ ★
自分の意見を隠すか、さもなければ、その意見の陰に自分を隠すか、
そのいずれかがよい。
★
人間は行動を約束することはできても、感情は約束できない。
自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ。
★
忘れっぽい人は幸いである。というのは、彼らは自らの失敗からさえ、
「より良きものを得る」からである。
★
忘れっぽい人々は幸いである。
彼らは自分の愚行をも「綺麗さっぱり」忘れてしまうからだ。
★
同情を表示するのは軽蔑のしるしと感じられる。
同情が示されると、直ちに相手の怖れの対象でないことがはっきりするからである。
★
芸術こそ至上である!それは生きることを可能にする偉大なもの。
生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である。
★
多く考える人は党員には向かない。
というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである。
★
人々は、真実を聞くことを拒む。
それは、自分たちの幻想が壊れていくことを拒むからだ。
★
混沌を内に秘めた人こそ躍動する星を生み出すことができる。
★
問題に立ち向かうときは、飲み込まれないよう注意が必要だ。
奈落の底ばかり見つめていてはいつか自分も吸い込まれてしまう。
ニーチェ ★
表にはさながら悪意のごとく振舞う、気位の高い慈愛もある。
★
男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。
男が女を愛するのは、それがもっとも危険な遊びであるからだ。
★
知識のある者は、敵を愛するだけでなく友を憎むこともできる。
★
愛には狂気がつきもの。だが、狂気にもまた、つねになんらかの理由がある。
★
アンチテーゼは好んで誤謬が真理に忍び込んでいくときに通る狭い門に他ならない。
★
キリスト教道徳は奴隷の道徳、弱者の道徳である。
生の拡大を妨げ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる道徳である。
★
復仇は、みずから呼んで「刑罰」となす。
それは、一つの虚言をもって良心のやましくないことをよそおうものだ。
★
音楽の良さを理解できなければ踊っている人たちはみな正気に見えないはずだ。
★
結婚とは一つのものを創造しようとする意志だ。
その一つのものは、それをつくる二つのもの以上のものだ。
★
世界は深い。昼が考えたより深い。
ニーチェ ★
極端な行動は虚栄、普通の行動は習慣、
卑劣な行動は恐怖に帰されるならば、過失を犯すことはまずなかろう。
★
結婚は、愛という多くの短い愚行を終わらせる。一つの長い愚行として。
★
自己の思想を氷の上へ置くことを心得ていない人は、
論争の熱の中へ身を投じてはいけない。
★
現存在の最大の生産性と最大の享楽とを、
収穫するための秘密は、危機に生きるということである。
★
たいていの男は、誰も自分の妻をさらってくれないことを嘆く。
★
愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。
しかし狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
★
貞潔は、ある人においては徳であるが、多くの者においてはほとんど悪徳である。
★
常に称賛を要求するような神の存在を私は信じることができない。
★
天国には興味深い人たちが一人もいない。
ニーチェ ★
狂気はどこにあるか。それを汝らに植え付けねばならぬのだが。
★
勇気は笑いたいのだ……。
★
私を破滅させないものが、私を強くする。
★
恐らくは、今日のもので未来を持つものは他に何もないとしても、
やはり我々の笑いこそはなお未来を持つのだ!
★
嵐を捲き起こすものは、最も静かな言葉である。鳩の足で来る思想が世界を左右する。
★
人間は汚れた流れである。それを受け入れて、
しかも不潔にならないためには、我々は大海にならなければならない。
★
孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる。
★
血と格言を持って書くものは、読まれることを望まず、暗誦されることを欲する。
★
虚栄心の強い者は抜きん出たいと思うよりも、
自己が秀でていると思ったがゆえに、
自己欺瞞や自己謀略のいかなる手段も嫌うことがない。
★
自ら敵に躍り込んで行くのは、臆病の証拠である。
ニーチェ ★
賞賛の中には、非難の中よりも、より多くの鉄面皮がある。
★
善とは何か。人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのものである。
★
君は言う「善行のためには戦いを犠牲にせよ」と。
私は言う「善戦のためには万物を犠牲にする」と。
★
人間は深淵に架けられた一本の綱である。
渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険。
★
人間だけがこの世で苦しむため、笑いを発明するほかなかったのだ。
★
人間は、もはや誇りを持って生きることができないときには、誇らしげに死ぬべきである。
★
人間は恋をしている時には、他のいかなる時よりも、じっとよく耐える。
つまり、すべてのことを甘受するのである。
★
私を破壊するに至らないすべてのことが、私をさらに強くする。
★
「なぜ生きるか」を知っている者は、
ほとんど、あらゆる「いかに生きるか」に耐えるのだ。
★
いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、
歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。
その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ。
★
到達された自由のしるしは何か?もはや自分自身に対して恥じないこと。
★
成熟とは、子供のとき遊戯の際に示したあの真剣味をふたたび見出したことである。
★
目的を忘れることは、愚かな人間にもっともありがちなことだ。
★
経験は、経験に対する欲望のように消えることはない。
私たちは経験を積む間は、自らを探求しようとしてはいけない。
★
若者を確実に堕落させる方法がある。
違う思想を持つ者よりも同じ思想を持つ者を尊重するように指導することである。
ニーチェ ★
私はあなたに助言する。
友よ、人を懲らしめたいという強い衝動を持つ者を信用するな!
★
人々はあなたの美徳によってあなたを罰し、あなたの過ちによってあなたを許す。
★
悪とは何か?弱さから生じるすべてのものだ。
★
忘却はよりよき前進を生む。
★
孤独な者よ、君は創造者の道を行く。
★
人は自分の認識を他人に伝えると、もはやその認識を前ほどには愛さなくなる。
★
心の中に未来にふさわしいビジョンを描け。
そして、自分を過去の末裔であるという迷信を忘れるんだ。
あの未来の生を思い巡らせば、工夫し、発明すべきものが限りなくある。
★
樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、
それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ。
★
一切の書かれたもののうち、私はただ、その人がその血をもって
書かれたもののみを愛する。血をもって書け。
君は、血が精神であることを知るだろう。
★
人は何を笑いの対象にするかで、その人の人格がわかる。
★
いったん選んだ道に関して頑張る人は多い。目標に関してそうする人は少ない。
★
およそこの世の中で、怒りという激情ほど、
男性の精カを急速に消耗させるものはない。
★
君の魂の中にある英雄を放棄してはならぬ。
ニーチェ ★
人は常に前へだけは進めない。引き潮あり、差し潮がある。
★
愛せなければ通過せよ。
★
われわれに関する他人の悪評は、しばしば本当は我々に当てられているのではなく、
まったく別の理由から出る腹立ちや不機嫌の表明なのである。
★
孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はもっともよく知っている。
孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを発明しなくてはならなかったのだ。
★
復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。
★
どちらも相手を通して、自分個人の目標を何か達成しようと
するような夫婦関係はうまくいく。例えば妻が夫によって有名になろうとし、
夫が妻を通して愛されようとするような場合である。
★
この世に音楽がなかったら、
人生はきっと誤解することばかりになってしまうだろう。
★
善にも強ければ、悪にも強いというのがいちばん強力な性格である。
★
昼の光に夜の闇の深さが分かるものか。
ニーチェ ★
自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ。敵に対しては、勇気を持て。
敗者に対しては、寛容さを持て。その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て。
★
愛が恐れているのは、愛の破滅よりも、むしろ、愛の変化である。
★
男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。
そしてまた、男は女を愛するが、それは遊びのなかで最も危険なものであるからだ。
★
孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる。
★
愛の終わりはいつも善悪を越えたところで起こる。
★
結婚するときはこう自問せよ。
「年をとってもこの相手と会話ができるだろうか」
そのほかは年月がたてばいずれ変化することだ。
★
考え過ぎたことはすべて問題になる。
★
人が意見に反対するときはだいたいその伝え方が気に食わないときである。
★
職業は生活の背景である。
★
喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。
★
あなたの嘘に動揺なんてしない。
これからあなたを信じることができないことが悲しいだけ。
★
辛いことこそがあなたを強くする。
★
不幸な結婚とは、愛の欠如がもたらすものではなく友情の欠如がまねくもの。
★
人は衝動と葛藤の渦中にある。衝動に身を任せれば、
しばしば孤独と恐怖を味わうからだ。
だが、自分自身の名誉ほど高くつくものはない。
★
一度も踊らなかった日は失われた一日と考えるべき。
一度も笑われなかった真実は偽りのものだと思った方がいい。
★
私には私のやり方があるようにあなたにもあなたの方法がある。
この世に唯一の方法など存在しない。
ニーチェ ★
繊細な魂は、誰かが自分に感謝する義務があると知ると塞ぎ込む。
粗野な魂は、自分が誰かに感謝する義務があると知ると塞ぎ込む。
★
本当の世界は想像よりもはるかに小さい。
★
いい手本を示そうとする者は、自分の徳に微量の馬鹿げたところを添えなくてはならぬ。
すると人は見習って、同時にその模範を眼下に見下ろす、これが人々の好むところである。
★
汝の敵には嫌うべき敵を選び、軽蔑すべき敵を決して選ぶな。
汝は汝の敵について誇りを感じなければならない。
★
悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。
★
独創的――何か新しいものを初めて観察することではなく、
古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが
見逃されていたものを、新しいもののように観察することが、
真に独創的な頭脳の証拠である。
★
世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。
★
汝が平和を求めるならば、それは新しい戦いの準備としての、
それでなければならない。永い平和よりも短い平和を求めよ。
★
生きる意味を見出した者は、たいていのことは耐えられる。
★
あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、
現在でも奴隷と自由人に分かれる。
自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。
ニーチェ ★
孤独のなかでは、人がそのなかへ持ち込んだものが成長する。
★
苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人をつくる。
★
多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。
他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、
むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。
★
愛または憎しみと共演しないとき、女は凡庸な役者だ。
★
我々一人ひとりの気が狂うことは稀である。
しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。
★
悪意というものは、他人の苦痛自体を目的とするものではなく、
われわれ自身の享楽を目的とする。
★
静かに横たわって、のんびりして、待っていること、辛抱すること。
だが、それこそ、考えるということではないか!
★
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
★
一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、
いつも間違っているということを知っている。
★
高く登ろうと思うなら、自分の脚(あし)を使うことだ。
高い所へは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない。
★
毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、
毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。
★
我々のうちで最も勇気のある者でさえ、
自分が本当に知っていることに対する勇気を持つのは、まれなことだ。
★
轢(ひ)かれる危険が最も多いのは、ちょうど一つの車を避けた時である。
★
私は隣人に対する愛を諸君には勧めない。
私が諸君に勧めるのは遠き者に対する愛である。
★
愛されたいという要求は、自惚れの最たるものである。
ニーチェ ★
生きるとは何のことか――生きるとは、
死にかけているようなものを絶えず自分から突き放していくことである。
★
話題に窮したときに、自分の友人の秘密を暴露しない者は稀である。
★
消化ということには、健康上一種の怠惰が必要である。
およそ体験を消化するにもやはり同じ事だ。
★
真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての真実の疑いから始まる。
★
不当に非難することより不当に称賛してしまうことの方が、良心の呵責を呼び起こす。
★
過小評価するより過大評価する方が、判断力の欠如を完璧に暴露してしまう。
★
人生は常に頂上に近づくほど困難が増してくる。寒さは厳しくなり責任は重くなる。
★
夢想家は自分自身に嘘をつくが、嘘つきは他人にだけ嘘をつく。
★
すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。
★
足下を掘れ、そこに泉あり。
★
たくさんのことを生半可に知っているよりは、何も知らないほうがよい。
★
よい評判を得るために自己を犠牲にしなかった人が何人いるだろう?
ニーチェ ★
過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。
★
われわれは、批評せずには生きていられないが、
自分の批評を批評せずとも生きていられる。
★
あなたにとってもっとも人間的なこと。
それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。
★
この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、
危険に生きることである。
★
怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。
長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。
★
夫婦生活は長い会話である。
★
われわれが広々とした自然にこれほど焦がれるのは、
自然がわれわれに関してなんら意見をもっていないからである。
★
真実の山では、登って無駄に終わることは決してない。
★
一日一日を始める最良の方法は、目覚めの際に、
今日は少なくとも一人の人間に、一つの喜びを
与えることができないだろうかと、考えることである。
ニーチェ ★
世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。
その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。
★
人は賞讃し、あるいは、けなす事ができるが、永久に理解しない。
★
いつも大きすぎる課題を負わされてきたために、
才能が実際よりも乏しく見える人が少なくない。
★
半可通は全知よりも圧倒的勝利を博する。
それは物事を実際よりも単純に理解し、
そのために彼の意見の方が分かりやすい説得力のあるものとなる。
★
過去に存在したものたちを救済し、
いっさいの「そうであった」を「わたしはそう欲した」に創り変えること。
これこそはじめて救済の名に値する。
意志、それが解放し、喜びをもたらすものの名前だ。
★
深夜の明るみがわたしをつつんでいた。孤独がそのほとりにうずくまっていた。
死の静寂も、喉を鳴らしている。わたしの最悪の女友達が。
★
見るがいい。月は正体を現して、蒼ざめてかかっている。
あけぼのの真紅の光の前に。はやくもあの灼熱する太陽がやってくる。
大地への太陽の愛が。無邪気さと創造の欲望が。
★
偉大なことをしとげるのは困難だ。
しかし、より難しいのは、偉大なことを命令することだ。
★
傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではないだろうか。
反対に、誇りが傷つけられた場合には、
おそらく誇りよりももっとよいものが生まれるであろう。
ニーチェ ★
刑罰とは、復讐が自分自身に与えた名前である。
★
大胆に自分自身を信じるがよい。おまえたち自身とおまえたちの内臓を信じるがよい。
自分自身を信じないものの言葉は、つねに嘘になる。
★
弱者が強者に仕えるのは、自分のほうは、さらに弱い者の主に
なろうとする弱者の意志があるからなのだ。
支配する喜びは、捨てることができないのだ。
★
およそ生あるものの見いだされるところに、わたしは力への意志も見いだした。
服従して仕える意志のなかにも、わたしは主人であろうとする意志を見いだしたのだ。
★
いっさいの命令には試みと冒険が含まれているとわたしには思えた。
生あるものが命令するときには、いつも自分自身を賭けているのだ。
★
あたりを見まわすと、わたしの道連れは、ただ時だけであった。
★
生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ。
★
善と悪において創造者とならざるを得ないものは、
まず破壊者となって、もろもろの価値を砕かざるを得ない。
したがって、最高の悪は最高の善の一端である。
そして最高の善とは創造的なものなのである。
★
われわれがよりよく楽しむことを学び得るなら、
他人に苦痛を与えようとする気持ちなどは、きれいさっぱり捨て去ってしまえるだろう。
他人の苦痛になることを考え出すこともなくなるだろう。
★
共に生きることは難しい。それは沈黙していることが難しいからなのである。
ニーチェ ★
人間が復讐心から開放されること。
これがわたしにとって最高の希望、長い嵐のあとにかかる虹である。
★
いつも自分自身をいたわることの多い者は、
その多いいたわりのために病弱になる。
われわれを過酷ならしめるものを讃えよう。
★
愛は孤独の極みにあるものにとっての危険だ。
★
神はひとつの臆測である。だが、この臆測が持つあらゆる苦痛を
飲み干したとき、生き延びるものはいるのだろうか。
★
最高の徳は通常性を離れた稀有のもの、不要のものであり、
柔らかい輝きを帯びている。それは贈り与える徳である。
★
いつまでも忠実な弟子でいるのは、師に報いる道ではない。
なぜ君たちはわたしの花冠をむしりとろうとしないのだ。
★
君たちはわたしを敬う。
しかし、君たちの崇拝がくつがえる日が来ないとは限らないのだ。
そのとき倒れるわたしの像の下敷きにならないように気をつけよ。
★
おのれの正義について多くを語るすべての人間を信用するな。
★
正義はわたしにこう語っている。人間は平等ではないと。
ニーチェ ★
わたしは光だ。ああ、わたしは夜でありたい。光に包まれていることがわたしの孤独だ。
★
人間が生きるすべての場所で服従という言葉が使われているのをわたしは聞いた。
すべての生あるものは、服従するのである。
自分自身に服従することができない者は、他者から命令されるということである。
これが生あるものの天性なのだ。
★
地球は皮膚を持っている。
そしてその皮膚はさまざまな病気を持っている。その病気のひとつが人間である。
★
私の真理は怖ろしい。
というのは、いままでは嘘が真理と呼ばれてきたのだから。
あらゆる価値の価値転倒、これが私の方式だ。
★
人は女を深いと思う──なぜか?女の場合、
底まで行けないからだ。女は浅くさえもないのだ。
★
戦争を非難していえば、戦争は勝者を愚かにし、敗者を邪悪にする。
戦争を弁解していえば、さきに述べた二つの作用のいずれの場合でも
野蛮にさせ、それによってより自然的にならしめる。
★
女のもとへ赴こうとするならば鞭を忘れるな!
★
道徳的理想の勝利は、ほかのいずれの勝利と同じく、「非道徳的」手段によって、
つまり暴力・虚言・誹謗・不正によって得られる。
★
高さがいるから階級が必要なのであり、
階段とそれを登っていく人たちの矛盾が必要なのだ!
人生は登ろうとする。登りながら自己を克服しようとするのである。
★
科学者が天才視されないのは、単なる理性の児戯にすぎないからだ。
ニーチェ ★
私は人間ではない。私はダイナマイトである。
・・・私は宗教的な人と接触した後では手を洗わずにはすませない。
★
女にはあまりにも長い間、暴君と奴隷とが隠されていた。
女に友情を営む能力の無いゆえんであって、女の知っているのは恋愛だけだ。
★
幸福とは何か。
権力が成長しつつあるという感情、抵抗が克服されるという感情である。
★
いちばん危険な党員とは、その人間が脱党したら
党派全体が瓦解するような人である。だから最良の党員である。
★
人間が神のしくじりにすぎないのか、神が人間のしくじりにすぎないのか。
★
勇気──攻撃する勇気は最善の殺戮者だ。死をも殺戮する。
★
霊魂は肉体が衰え、いまわしくなり、飢えることを欲した。
こうして肉体と地から脱れようと思った。
哀れ、その霊魂こそ痩せ、いまわしくなり、飢えたのだ。
★
国家におけるいっさいは虚偽である。
かむことを好む者は、ぬすみたる歯をもってかむ。
彼の腸すらにせものである。
★
最高の賢者たちよ、君たちの危険、
言い換えれば善と悪との終末は川から来るのではない。
あの意志そのものに潜んでいるのだ。
常に生み続けていく、尽きることのない生の意志に。
★
心から愛しているのは生だけだ。
そして生を憎むときこそ、生をもっとも強く愛している。
ニーチェ ★
贈ることのなかにあるわたしの幸福は、贈ることで死んだ。
わたしの徳は、ありあまって自分自身に倦んだ。
与え続けるものの危険は、羞恥を失うことだ。
★
乞食──乞食は一掃すべきである。けだし何か恵むのもしゃくにさわるし、
何もやらないのも、しゃくにさわるから。
★
悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳。
この善悪の価値表は、速やかに破り捨てなければならない。
★
自ら敵の間へ躍り込んでいくのは、臆病の証拠であるかもしれない。
★
南国の勤勉は営利欲ではなく、他人に絶えず必要とされるからである。
食わんがためだけなら勤勉は不必要である。北国のそれは、その反対である。
★
他の人に懺悔してしまうと、当人は自己の罪は忘れるが、
たいてい相手の人はそれを忘れない。
★
恋愛から結ばれるいわゆる恋愛結婚は、
誤謬をその父とし、必要をその母とする。
★
私はキリスト教に対するこの永遠の弾劾を壁という壁、
壁さえあればどこでも書き付けたい。
私は盲目でも読める文字を持っている。私はキリスト教を一大呪詛と呼ぶ。
★
すべての悦びは永遠を求める。深い、深い永遠を欲する。
(中略)わたしはおまえを愛しているのだ、永遠よ。
★
いっさいの真理から追放されたいという願い。
ニーチェ ★
同情は厚顔である。
★
神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は恥知らずである。
助けようとしないことは、助けようとすぐに
駆け寄って来る徳よりも、高貴でありうるのだ。
★
正しく与えることは、正しく受け取るよりも、難しい。
★
手のひら大の根底。その上に人は立つことができる。
真の良心的な知識の世界には、大小の区別はない。
★
絶望している者の顔を見れば、誰しも陽気になるものだ。
誰しも、自分は絶望している者に話しかけるくらいの
元気はある、と思うものなのだ。
★
あなたがたの能力以上のことを望むな。
能力以上のことを望む者たちには、邪悪な欺瞞がやどる。
★
自己を愛し、それゆえに自己を軽蔑しているのだ。
かれは愛することの大きい者であり、
したがって軽蔑することの大きい者である。
★
このヨーロッパというところは、どこの中年の奥さんよりも疑いぶかい。
★
神をもっとも多く愛し、もっとも多く所有していた者が、
いまは神をもっとも多く失ってしまったのだ。
ニーチェ ★
あなたがたは、わたしから見れば、まだ悩み足りない。
それはあなたがたが、あなたがた自身を悩んではいるが、
人間を悩んだことはないからだ。
★
おまえたちは、かつて、快楽にたいして然り!と言ったことがあるか。
そう言ったことがあるなら、おまえはいっさいの
苦痛にたいしても然り!を言ったことになる。
すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によって繋ぎあわされているのだ。
★
きみが高みに登れば登るほど、妬みの目は、遠ざかる君を小さく見る。
飛び抜けて高く駆け上がる者は、もっとも憎まれる者なのだ。
★
なにからの自由なのかは些細なことだ。
重要なのは、なにを目指すための自由なのかということだ。
★
君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても、やり過ぎということはない。
なぜなら、君は友にとって、高すぎる目標を目指すための
憧れの熱意であるべきだからだ。
★
君たちが私の死に接して、そのために大地への愛をいよいよ深めていくように、
そういうふうにわたし自身は死にたいと思う。
そしてわたしは再び大地の一部となって、
わたしを生んだこの母の中で安静を得たいと思う。
★
死ぬときにも、そこにはなお君たちの精神と君たちの徳とが
燃え輝いていなければならぬ。大地を包む夕映えのように。
そうでなければ君たちの死は失敗ということになる。
★
女にとっては男はひとつの手段であり、目的はつねに子供である。
男にとって女はなんであろう?真の男は二つのことを欲する。
危険と遊戯を。それゆえ男は女を欲するのだ。
★
わたしの真なる友よ。
きみはきみのくだらない隣人にとって、良心の呵責なのだ。
かれらはきみの隣人としての値打ちがないと自覚しているから、
きみを憎み、血を吸いたがるのだ。
★
眠りに敬意と羞恥心を持て。
(中略)よく眠るためには、あらゆる徳を持たねばならぬ。
ニーチェ ★
安らかに眠っているがいい。いまわたしはおまえと別れる。
時がめぐったのだ。黎明と黎明のあいだにひとつの新しい真実がわたしを訪れたのだ。
★
両者はほんのわずかばかり事情が違っていれば、
あい寄って愛撫を交わしたかもしれないのだ。
犬と孤独者とは。なぜなら、お互いに孤独だからだ。
★
大きい魂たちには、いまなお自由な生活が開かれている。
まことに、所有する事の少ない者は、他から所有される事も少ない。
少ない所有に安んじている貧しさを讃えよう。
★
わたしはおのれの最高の希望を失った高貴な人たちを知っている。
そのとき、彼らはあらゆる高い希望への誹謗者となった。
★
きみはこう言うべきなのだ。
「わたしの魂の痛みと楽しみをなすもの、さらにわたしの内臓の飢えでもあるもの、
それは言い表し難く、名付け難いものである」と。
馴れ馴れしく説明されるには、きみの徳は高すぎるものであって欲しい。
★
大きい愛は、愛されることを求めない。愛されること以上のことを求める。
★
値段のつけられたものは、すべて価値に乏しいものである。
★
君たちに名誉を与えるのは、
君たちがどこから来たのかではなくて、どこへゆくかで決まらねばならぬ。
君たち自身を超えてかなたをめざす意志と足とが、君たちの新たな名誉であれ。
★
世界は尻を持っていて、人間に似ている。
世界も多くの汚物を生み出す、そこまでは正しいが、
だからと言って世界そのものは、決して巨大な汚物ではない。
★
いつも待っている他に能のないものをも、わたしは哀れなものと呼ぶ。
ニーチェ ★
飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、
まず、立つこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。
最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。
★
高貴な魂はどんなものをも無償で得ようとは思わない。ことに生を。
賎民は無償で生きようとする。
★
世界における多くのものが悪臭を放っている。
この事実のうちに、知恵が潜んでいる。
吐き気が翼を創り出し、泉を求める力を生む。
★
勝利という薄明かりの酔い心地のなかで目のくらまなかった者がいるだろうか。
★
おまえは偉大に向かうおまえの道を行かねばならぬ。
おまえの背後にもう道がないということが、
いま、おまえに最善の勇気を与えねばならぬ。
★
人間の社会はひとつの試みである。そうわたしは教える。
長期にわたるひとつの求め。そして人間の社会は命令する者を求めているのだ。
★
自分を抑制して通り過ぎるほうが、
より多くの勇気の例証であることが、しばしばである。
いっそうおのれに値する敵と戦うために、おのれを蓄えておくのである。
★
君たちは、憎むべき敵だけを持つべきで、軽蔑すべき敵を持つべきではない。
君たちは君たちの敵を誇ることができなければならない。
★
君たちの道を行け。他の大勢には、勝手に彼らの道を行かせるがいい。
★
かれらがほんとうに、いちばん望んでいることは、ただ一つだ、
だれからもいじめられたくないということ。
それでかれらは先取りして、だれにも親切にする。
だが、それは臆病ということなのだ。たとえ徳と言われていても。
ニーチェ ★
かれらにとって、徳とは、謙遜ならしめ、温順ならしめるものである。
そういう徳によってかれらは狼を犬にし、人間そのものを人間の最善の家畜にした。
しかし、それがすなわち凡庸というものだ、たとえそれが中庸と言われていても。
★
おまえたちの意欲するままに行え。しかしまず、意欲できる人間になれ。
おまえたちの隣人をおまえたち自身のように愛するがいい。
しかしまず、自分自身を愛するものになれ。
★
うしろへの道、それは永劫に続いている。
それから前をさして延びている道、それは別の永劫に通じている。
★
この瞬間をみよ、と私は言葉をつづけた。
この瞬間という門から、ひとつの長い永劫の道がうしろに向かって走っている。
すなわち、われわれのうしろにはひとつの永劫があるのだ。
★
人が根底から愛するのは、ただ自分の子供と事業だけなのだ。
★
おまえ自身の血管のなかに、腐って泡を立てている沼の血が
流れているのではないか。だからおまえは醜くカエルの鳴き声をあげ、
誹謗ばかりしているのだ。
★
肉欲。自由な心情にとっては、無垢で純粋なもの、
地上における花園の幸福、すべての未来がいまに寄せるあふれるばかりの感謝。
★
善良な人間と自称するものたちが、もっとも有毒な蝿だった。
かれらは何の責任感もなく刺し、何の責任感もなく嘘をつく。
★
人はおのれみずからを愛することを学ばねばならない、すこやかな愛で。
おのれがおのれ自身であることに耐え、よそをさまよい歩くことがないためにである。
★
おまえ、ひとりきりの人間よ、おまえは多くの人間のあいだにはいって、
そこでいっそう見捨てられた者になった。
ニーチェ ★
わたしの最大の危険は常に、いたわること、あわれむことにあった。
しかも人間というものは常に、いたわられ、あわれまれることを欲しているのだ。
★
人間たちのあいだにまじって生きていると、人間というものを見失う。
すべての人間には、あまりに多くの背景がある。
★
支配には二種類がある。一つは、支配欲につき動かされた支配だ。
もう一つは、誰からも支配されたくないために行う支配だ。
★
思い込んでしまうと、ささいな変化が大きな苦しみとなる。
多くの悩みは、程度の差に気づかない人々の不平不満なのである。
★
希望があったとしても、自分の中に光や灼熱を体験していないならば、
それが希望だとはわからない。希望の何をも見ることも聞くこともできない。
★
精神が高く、健康に育っていくほど、
その人はあまり突飛的な笑いや下品な高笑いをしなくなるものだ。
★
日に十回自分の周囲の人々に冷たい言葉を浴びせているならば、
今日からは日に十回は周囲の人々を喜ばせるようにしようではないか。
★
内面は外面に通じ、外面は内面に通じ、いっさいがつながっている。
どこにも基本的な形など存在しない。
★
道徳的な行為そのものが道徳的だと決めつけることなどできないのだ。
道徳は、その行為だけでは本物かどうかはなかなか判断できない。
ニーチェ ★
何事も明日からの毎日に活用し、
自分を常に切り開いていく姿勢を持つことが、
この人生を最高に旅することになるのだ。
★
「いずれにしても、くじけず、たくましく、
果敢に挑戦を続けていけば、自分の一芸がわかってくるはずだ」
★
都市の雑踏の中にいても、静寂の中であろうとも、
力強くありながらも穏やかでいれば、ずっと安心でいられるというものだ。
★
ことさらに極端な行為、おおげさな態度をする人には虚栄心がある。
細かい事柄にとらわれる人は、内実は恐怖心を抱いている。
★
みずからの手でなしたこと、自分がすでに克服し終えた事柄に
ついてだけ、淡々と語るべきである。
★
物事はいかようにも解釈できる。
良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。
いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。
★
会食の際の料理は、なぜいつも多量であり、多様な種類が並べられるのだろうか。
それは、力の印象であり、名誉、威厳、優位性、勢力の印象だ。
★
死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。
いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。
★
人々の気持ちの動きにまどわされて、
何が重要であるかをまちがって判断しないようにしよう。
★
「そんなことも、食事をして休んでからたっぷりと眠るのが一番だ。
しかも、いつもずっと多くだ。
目覚めたとき、新しい力が漲る別の自分になっているだろう」
ニーチェ ★
多くの人は、その案や意見が述べられたときの調子とか言い方、
言った人の性格や雰囲気に対して反発の気分があるから、反対するのだ。
★
「その自分の「なぜ」さえはっきりつかめていれば、あとはもう簡単だ。
どのようにやるのかなんてすぐにわかってくる。
わざわざ他人の真似をして時間をつぶすこともない」
★
好奇心は、自分の能力を発火させるためにはたいせつだが、
世界のすべてを見聞できるほど人生は長くは続かない。
★
「自分のどんな行為も、他の行為や考え、決断などの誘因になっている、
もしくは、大きな影響を与えている。
その行為がまったく何にも影響を及ぼしていないことはない」
★
彼はその高い感性をみずからの努力でずっと維持し続けてきて今に至っているのだ。
★
その賞賛は、他の人々がすでにつくりあげたリングの中で
きみが立派な成績を出したことに対する拍手だ。
★
今のこの人生を、もう一度そっくりそのまま
くり返してもかまわないという生き方をしてみよ。
★
喜びをわたしたちは、本当に喜ぶべきことを喜んでいるだろうか。
他人の不幸や災厄を喜んではいないだろうか。
復讐心や軽蔑心や差別の心を満足させる喜びになってはいないだろうか。
★
自分だけは特別に注目されたいという欲望。
だが、注目されるという目的は果たされない。
なぜなら、他の人みんなが自分の観客だとそれぞれに思っているからだ。
★
成熟とは、子供のとき遊戯の際に示したあの真剣味を再び見出したことである。
★
死後に生まれる人もいる。
★
すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。
★
静かに横たわって、のんびりして、待っていること、辛抱すること。
★
脱皮できない蛇は滅びる。
その意見を取り替えていくことを妨げられた精神たちも同様だ。
それは精神ではなくなる。
ニーチェ ★
女はどういう男を最も憎むのか。鉄が磁石に言ったことがある。
「私がお前をもっとも憎むのは、お前が私を引きながらも、
ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。
★
およそこの世の中で、怒りという激情ほど、
男性の精カをあれっと思うほど急速に消耗させるものはない。
★
真の男のなかにはひとりの子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。
★
神は死んだ。
★
悪意というものは、他人の苦痛自体を目的とするものにあらずして、われわれ自身の享楽を目的とする。
★
所有欲は、休みさえ与えてはくれない。
内面の豊かさ、精神の幸福、気高い理想、といった人間として
たいせつなものは無視されるようになる。
★
内面は外面に通じ、外面は内面に通じ、いっさいがつながっている。
どこにも基本的な形など存在しない。
★
仕事によって心と人格が鍛錬され、
彼は世間を遥かに超えた者になっているからだ。
★
本当に自由な人がスマートですっきりした印象を与えるのは、
実際に彼の精神と心のあり方が、スマートになっているからなのだ。
★
時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。
嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ。
★
「自分についてごまかしたり、自分に?をついたりしてやりすごすべきではない。
自分に対してはいつも誠実であり、よく知っておくべきだ」
ニーチェ ★
本当の世界は想像よりも遥かに小さい。
★
繊細な魂は、誰かが自分に感謝する義務があると知ると塞ぎ込む。
★
真の友は、両方の手でつかまえておけ。
★
真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての“真実”の疑いから始まる。
★
習慣となった清潔観念は潔癖さを呼び、
生きていくうえで幸福になる要素や契機を自然にわが身に引きつけるようになるのだ。
★
純粋に能動的な愛から行われるときには、
「〜のために」という言葉も考えも出てくることはない。
★
共に苦しむのではない。共に喜ぶのだ。そうすれば、友人がつくれる。
しかし嫉妬とうぬぼれは、友人をなくしてしまうからご注意を。
★
その事について何も知らないから。
それが世にありふれているように見えるから。
すでにその事実が起こってしまっているから。
★
正義は支払い能力のない者を大目に見のがすことをもって終わる。
…正義のこの自己止揚、それがどんな美名で呼ばれているかを
知っているか…いわく恩恵。それはいうまでもなく、最も強大な特権である。
ニーチェ ★
武装平和とは、自国と隣国を信用せず、
半ば憎悪、半ば恐怖から武器を放棄しかねる意向上の平和である。
★
ただ、愛だけが導く。
愛だけが、曲がったものを直し、修復し、調整し、立ち上がらせる。
★
相手を、自分も敬重している。
相手を愛しているのは当然だが、
しかしその度合いは自分を愛するほどではない。
★
豊かな物を探すことではなく、自分を豊かにすること。
これこそが自分の能力を高める最高の方法であり、
人生を豊かに生きていくことなのだ。
★
「自己表現とは自分の力を表すことでもある。
その方法を大きく分けると、次の三つになる。
贈る。あざける。破壊する」
★
これまで自分が真実に愛したものは何であったか?
自分の魂を高みに上げたものが何であったか?何が自分の心を満たし喜ばせたか?
★
仕事にたずさわることは、わたしたちを悪から遠ざける。
くだらない妄想を抱くことを忘れさせる。
そして、こころよい疲れと報酬まで与えてくれる。
★
二人以上で、一緒にいて、同じ体験をし、共に感動し、
泣き笑いしながら同じ時間を共に生きていくのは、とても素晴らしいことだ。
★
自分を正当化するために攻撃するときもある。
これは、個人においても、また国家においてもそうだ。
ニーチェ ★
哲学者とは何か?
つねに尋常でない事物を経験し、見聞し、
猜疑(さいぎ)し、希望し、夢見る人間だ。
★
本をめくることばかりしている学者は、
ついにはものを考える能力をまったく喪失する。本をめくらないときには考えない。
★
ある巨匠の作品を演奏するピアニストが、その巨匠を忘れさせて、
まるで自分の生涯の物語を語っているとか、
まさに何か体験しているふうに見えたとき、最もうまく弾いたことになろう。
★
宗教は間接的にも直接的にも、教義としても比喩としても、
いまだかつて一つの真理も含んだことはない。
というのは、どんな宗教も不安と欲求から生まれたものであるからだ。
★
日常生活で、人々がおおむね正直なことを言うのはなぜか。
神様が嘘をつくことを禁じたからではない。
それは第一に、嘘をつかない方が気楽だからである。
★
よい格言は、時の歯がたつには堅すぎる。
そして、いかなる時代にも栄養のたしになるが、幾千年の歳月にも食いつくされはしない。
★
私はお前たちに超人を教える。人間は超克さるべき何物かである。
お前たちは人間を超克すべく何ごとをなしたか?超人は大地の意義である。
★
善とはなにか…人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。
悪とはなにか…弱さから生ずるすべてのものである。
★
正義とは、ほぼ同等の力の状態を前提とする報償との交換だ。
ニーチェ ★
犠牲行為によって計画される道徳は、半野蛮的階級の道徳である。
★
論争に応ずる場合には、
双方にとっていちばん不愉快なやり口は、立腹して黙っていることである。
というのは、攻撃者側は、一般的に沈黙を軽蔑のしるしと考えるからである。
★
心が恐れを抱き、おじけづいたときに、
自分から自然と破滅や敗北の道を選ぶようになってしまうのだ。
★
誰かを喜ばせることは、自分をも喜びでいっぱいにする。
どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、
わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。
★
できるだけ幸福に生きよう。そのためにも、とりあえず今は楽しもう。
素直に笑い、この瞬間を全身で楽しんでおこう。
★
美しく生活できるように工夫をこらす。
雑多でめちゃくちゃな空間の中で暮らさなければならなくなるからだ。
生活の諸々の事柄や人間関係を自分の好きなようにデザインしてよいのだ。
★
今のこの一日に、自分が何をどのように行うかがこの日々の歴史の一頁分になるのだ。
★
自分を本当に愛するためには、
まず自分の力だけを使って何かに取り組まなければならない。
自分の足で高みを目指して歩かなければならない。
★
ふつうの生活に必ずしも必要でないもの、過剰なものに
どうしても魅了されてしまうのは、実は贅沢こそ人間の魂が
最も好んで泳ぐ水そのものだからだ。
★
自分を批判していくこと、人の批判を聞いていくことは、
自分の脱皮をうながすことにもなるのだ。
さらなる新しい自分になるために。
ニーチェ ★
この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいというのか。
だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群衆と一緒につるんで、
ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。
★
重いしがらみを捨てて身軽にならなければ、高くへと飛翔できないからだ。
★
勝利した者はもれなく、偶然などというものを信じていない。
たとえ彼が、謙遜の気持ちから偶然性を口にするにしてもだ。
★
本当に相手を滅ぼしてしまっていいのか。
そのことによって、敵がおまえの中で
永遠のものになってしまわないかどうかよく考えてみたのか。
★
平等という概念語を好んで使う人は、二つの欲望のどちらかを隠し持っている。
他の人々を自分のレベルまで引き下げようという欲望。
自分と他の人々を高いレベルまで引き上げようという欲望。
★
変身をとげ続けなければ、そのつど高度になっていかなければ、充分には生きていけない。
★
人から信じてもらいたければ、行動で示すしかない。
しかも、のっぴきならない状況での真摯な行動のみが、人の信に訴えるのだ。
★
自分を少しもないがしろにすることなく、しっかりと愛さなければ。
とにかく自分をだいじにしなければ。
★
では、どうすればいいのか。実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。
こうすれば、楽しみながら計画を実現していける。
★
長所に見えるものであろうとも、その根源がどこから来ているのか、よく見る必要がある。
ニーチェ ★
もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。
喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力だって上がる。
恥ずかしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。
★
友人とたくさん話そう。いろんなことを話そう。それはたんなるお喋りではない。
友人と話すことで、自分が何をどう考えているかがはっきりと見えてくる。
★
いつも機嫌よく生きていくコツは、人の助けになるか、誰かの役に立つことだ。
★
きみの理想を超え、それ以上の憧れの地もさらに遠くへ達する力をきみは秘めている。
★
親しくなれば相手の私事に立ち入ってもかまわないと
考えているような種類の人間とは、決してつきあわないことだ。
★
物に対しても人に対しても同じだ。
今までのものとはちがうと言って端から撥ねつけていては愛せない。
★
批判は風だ。?には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ役割がある。
だから批判は、どんどん聞いたほうがいい。
★
すべて、初めは危険だ。しかし、とにかく始めなければ始まらない。
★
風景の中にあるしっかりと安定した線が、人間の内面に落ち着きや充足、
安堵や深い信頼というものを与えてくれるからだ。
ニーチェ ★
善を責むるは朋友の道なり
(善を行うように強くすすめるのは友としての道である)
★
顧みて他を言う
(返答に窮して,本題とは別の事に話題をそらしてごまかす)
★
地を易うれば皆然り
(人の言動に違いがあるのは立場に違いがあるからで、立場を変えれば同じになる)
★
敵国外患無き者は国恒に亡ぶ
(敵国もなく外国との関係にも心配事のない国は、国民全体に緊張感がなくなり必ず滅亡する)
★
如し予をして富まんと欲せしむれば、十万を辞して万を受けんこと、是れ富まんと欲すると為さんや
(もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。
私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。
これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです)
★
飢えたる者は食を為し易し
(空腹の者はなんでもおいしく食べられるように,悪政に苦しめられていた人は
ささやかな仁政でもとても喜ぶこと。飢えては食を択ばず)
★
夫婦別あり
(夫婦間にも、礼儀や遠慮が必要である)
★
大人に説くには、則ち之を軽んぜよ
(偉い人を説得するにはまず相手を呑んでかかれ)
★
恒産なきものは恒心なし
(一定の財産や定まった職業がなければ、定まった正しい心を持つことができない。
物質面(生活)での安定がないと、精神面(心)が不安定になる)
★
人恒の言あり。みな曰く、天下国家と。天下の本は国にあり。国の本は家にあり。家の本は身にあり
(人々は口を開けば、「天下国家」と言う。だが、天下の根本は国にあり、
国の根本は家にあり、家の根本は自分自身にある、
天下国家を真に思うなら、もっと身近なわが身を修めよ)
孟子 ★
親に親しむは仁なり、長を敬するは義なり、他は無し、之を天下に逹するなり
(親に親しむのは仁の精神である(他者への愛)。
兄を敬うのは義の精神である(他者との秩序感覚)。
なんということはない。小さい頃にあった心を広げて天下に及ぼせばよいのだ)
★
富を欲するか。恥を忍べ、傾絶せよ。故旧を絶ちて、義と背け
(恥に耐え、命の限りに全力を尽くせ。旧友との交際を絶ち、義理に背け。もし富を得たいのならば)
★
人の患いは好んで人の師となるにあり
(人の患いは、偉くもないのに自分から好んで人の師となろうとしたがることである)
★
居は気を移す
(人は地位で気性が変わる)
★
人必ず自ら侮りて然る後に人これを侮る
(自分で自分を尊重せず、軽々しい言動をしたり、
修養を怠ったりしていると、必ず人からも侮られるようになる)
★
自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん
(自ら省みて良心に恥じなければ、(敵が)千万人いようとも恐れることなく向かっていく)
★
天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず
(天の与える好機は地理的な有利さに及ばず、地理的有利さも人心の一致には及ばない)
★
天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり
(天が人に大任を授けようとするときは、必ずまずその人の身心を苦しめ、窮乏の境遇におき、何を行ってもすべて失敗をさせて、わざわざその人を鍛えるものなのである。つまり、不運は天の試練として受け止めるべきものなのである)
孟子 ★
真実は君の顔に書いてあるし、声にもあらわれる。
恋人同士が目を見るだけで、あらゆることが分かり合えるのと同じく、
やがて分かることなのだ。
★
人間にふさわしい態度は、死に対して無関心であるのでもなく、
烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、
自然の働きの一つとしてこれを待つことである。
★
己を律するためには、次のように考えるといい。
お前は老人だ。これ以上、理性を奴隷の境遇におくな。
身勝手な衝動に操られるままにしておくな。
また、現在与えられているものに不満を抱いたり、未来に不安を抱くことを許すな。
★
そんな目に逢うのも当然のことだろう。
君は今日善い人間になるよりも、明日なろうっていうのだから。
★
幸福は、その人が真の仕事をするところに存在する。
★
人は、ちっぽけな夢などでは満たされない、大いなる存在である。
★
幸福な人生──それは内なる魂の力のおかげである。
★
人生は闘争にして、また過客の仮の宿なり。
★
我々の人生は、我々の思考によってつくられる。
★
太陽が雨の役目を果たそうとするだろうか。
彼らはそれぞれ異なっていながら、同一の目的に向かって協力してはいないだろうか。
マルクス・アウレリウス ★
「私は君に対して率直に振る舞うことにした」
こんなことを言う人間は、なんと腐った卑しい人間であることか。
いったい何がしたいのか。口に出して言うべきことではない。
★
せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。
恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。
自分を大事にする時など、もうないのだ。人の一生は短い。
★
苦しみは、苦しむ者がその限界を知っていて、その恐怖に想像を加えなければ、
堪えられないこともなく、また永続するものでもない。
★
人間的なことがいかにはかなく、くだらなく、
かつ昨日の小敵が今日のミイラあるいは灰になることを思え。
★
名声の後には忘却あるのみ。
★
君について、誠実でないとか、善い人間でないとか、
そういったことを嘘を伴わずに言える権利を誰にも与えてはならない。
★
なによりもまず、いらいらするな。
なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。
★
最も完全なる復仇は、侵略者の真似をせざることなり。
★
この世においては汝の肉体が力尽きぬのに、
魂が先に力尽きるのは恥ずべきことではないか。
マルクス・アウレリウス ★
怖れるべきは死ではない。真に生きていないことをこそ怖れよ。
★
エピクテートスがいったように
「君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない」
★
つねに、そしてできることならあらゆる場合において、
自分の思念に物理学、倫理学、論理学の原理を適用してみること。
★
死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、
心の迷いや肉への奉仕などの中止である。
★
大きな夢をみよう。大きな夢だけが人の心を動かす。
★
もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、
単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。
そして名前なんていうものは単なる響き、こだまにすぎない。
人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るに足らない。
★
ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。
それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、
君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。
★
今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、
つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。
曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である」
★
君の全生涯を心に思い浮べて気持をかき乱すな。
どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。
それよりも一つ一つ現在起ってくる事柄に際して自己に問うてみよ。
「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。
マルクス・アウレリウス ★
たとえばカルミッソス、それからまたアウグストゥス、
ハードリアーヌスとアントーニーヌス。
すべてすみやかに色あせて伝説化し、たちまちまったき忘却に埋没されてしまう。
しかも私はこのことを、この世で驚くばかりに光輝を放った人びとについていっているのだ。
★
我々の人生は、思考が形づくる通りのものである。
★
人生とは自らの想いを実現することである。
★
賽が投げられた自分の運命に自分自身を適応させよ。
運命の女神が、共に生きるように定めた仲間を愛せよ。
★
自分の扱っていないものを求めて悩むのは止めて
同じくらい熱心な気持ちで、自分のすでに扱っているものを楽しもうではないか。
自分の最上の所有物を取り上げて、もしそれがなかったら、
どんなに懸命に探し求めていたことか、考えてみることだ。
★
不可能事を追い求めるのは狂気の沙汰である。
ところが悪人がこのようなことをしないのは不可能なのである。
★
君の覚えた小さな技術をいつくしみ、その中にやすらえ。
★
何よりも次の二つの真理を記憶せよ──まず第一に、
外界は君の魂に触れることはできず、常に揺るぎなく外部に立つものであるから、
君の内面の平和は君の想像からのみ生じるということ、
そして第二に、君が今、目の前に見ているものは、
たちまち変化して、もはや存在しなくなるということだ。
★
世界とは永遠の変移であり、人生とは迷妄である。
★
何かが起こって落ち込んだら、痛みの原因はその起こった事ではなく、
それにかけていた期待である。そしてこの期待は、いつでも自分で取り消せる。
マルクス・アウレリウス ★
過去も未来も自分を押しつぶすことはできない。
自分を押しつぶせるのは現在だけだ。
その現在ですら、もし適当に分割すれば、取るに足らぬものとなる。
★
君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在である。
★
自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、
この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。
★
他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。
★
幸運をもたらす富や順境は素直に受け入れよ。
ただし、それを手放すときは渋るべからず。
★
隣人の語ること、行うこと、考えることに気をかけない者は、
どれだけ多くの利益を受けることだろうか。
★
ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったとき、
人生は束の間であり、いつかは誰でも葬り去られることを思え。
★
善事をなして悪く言われるのは、王者らしいことだ。
★
何かをするとき、いやいやながらするな、無思慮にするな、心に逆らってするな。
マルクス・アウレリウス ★
怒りの結果は、怒りの原因よりはるかに重大である。
★
人間はお互い同士のために創られた。
ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。
★
君が怒って破裂したところで、
彼らは少しも遠慮せずに同じことをやりつづけるであろう。
★
未来を思い煩うな。
必要あらば、現在役立ちうる知性の剣にて、十分に未来に立ち向かわん。
★
人の一生は短い。
君の人生はもうほとんど終わりに近づいているのに、
君は自分に尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中に置くことをしているのだ。
★
いかなる自然も芸術に劣らず。芸術の仕事は全て自然の物事を真似ることなり。
★
もっともよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ。
★
遠からず君はあらゆるものを忘れ、
遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
★
君の精神は、君の平生の思いと同じようになるであろう。
なぜならば、魂は思想の色に染められるからである。
★
競技場では、競技相手の攻撃を好意をもって避ける。
人生という競技場でも、共に競技をしている人たちを
大目に見てあげようではないか。
人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから。
マルクス・アウレリウス ★
各々の物はそれが創られた目的に向かって惹かれる。
惹かれるものの中に、各々の目的がある。目的のある所に各々の利益と善がある。
★
幸福な生活をするのに必要なものはほとんどない。
それはあなた自身の中、心の持ちようにある。
★
今の瞬間だけに生きよ!
★
空中に投げられた石にとって、
落ちるのが悪いことではないし、昇るのが良いことでもない。
★
自分に欠けているものよりも、
自分がすでに持っているものについて思いをめぐらせ。
★
他人の過ちが気に障る時は、即座に自らを反省し、
自分も同じような過ちを犯していないか考えてみるといい。
★
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。
不可避のものが君の上にかかっている。
生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
★
存在するものは、変化のためのみに存在することを忘れるな。
★
人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。
君が自己の自然にしたがって行動したということだけで充分ではないか。
★
君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。
実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる
平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。
マルクス・アウレリウス ★
ここで生きていくのなら、もう慣れている。
よそに行って生きるのも、君の望み通りにできる。
死ぬとすれば、使命を終えただけのことだ。
他には何もない。だから勇気を出せ。
★
ある事をなした為に不正である場合のみならず、
ある事をなさぬ為に不正である場合も少なくない。
★
大きな夢を見よう。大きな夢だけが人の心を動かす。
★
おまえの心を明るく楽しくしようと思うならば、共に暮らす人びとの長所を思え。
★
もし君にできるのならば、(悪いことをした人間を)改心させよ。
もしできないならば、かかる場合のためにこそ
寛大というものが君に与えられているのだ、ということを思い起こせ。
★
物言わぬ先から、人の言おうとすることを、
顔つきから読み取れなければならない。
★
みせかけの微笑を見せたり、心に仮面をかぶったりしない、真心のこもった、
裸のままの親切には、人は決して抵抗できないものだ。
もしこちらがあくまで親切を続ければ、
たとえ良心のひとかけらもない人間でも、必ず受け入れてくれるだろう。
★
なにか、悲しくなりそうなことに出会ったときは、つねに自分にこう言いきかせよ。
これは不幸ではない、これに高貴に耐えることが幸福なのだと。
★
他人の厚顔無恥に腹が立つとき、ただちに自らに問うてみよ。
「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえようか」
…「ありえない」と答えるだろう。それならば、ありえぬことを求めるな。
★
あなたを支配するのは、出来事ではない。
その出来事に対するあなたの見方が支配するのだ。
マルクス・アウレリウス ★
人生を建設するには一つ一つの行動からやっていかなくてはならない。
★
人間の生の営みはすべて、今にある。
過去はすでに為されたものであり、未来は不確かなものだから。
★
人生のあらゆることを、それが最後だと思って行いなさい。
★
人間の真の価値は、何を目指すかによって判断される。
★
不死の神々と我々に喜ばしきことを与え給え!
★
もし君が同時に継母と実母とを持っているとしたら、
君は前者に仕えるはずであろうが、しかし君が絶えずもどって行くのは
実母のもとであろう。宮廷と哲学は君にとってちょうどこのような関係にある。
★
君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、
君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
★
善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて
善い人間になったらどうだ。
★
あらゆる行動に際して一歩ごとに立止まり、自ら問うてみよ。
「死ねばこれができなくなるという理由で死が恐るべきものとなるだろうか」と。
マルクス・アウレリウス ★
哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。
神々を畏れ、人々を助けよ。人生は短い。
地上生活の唯一の収穫は、敬虔な態度と社会を益する行動である。
★
死は誕生と同様に自然の神秘である。
同じ元素の結合、その元素への〔分解〕であって、恥ずべきものでは全然ない。
★
君が宮廷生活の不平をこぼすのをこれ以上誰も聞かされることのないように、
また君自身も君のこぼすのを聞かされることのないようにせよ。
★
今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとく
あらゆることをおこない、話し、考えること。
★
山の鼠と家の鼠。前者の恐怖と狼狽。
★
君の全生涯を心に思い浮べて気持をかき乱すな。
どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。
それよりも一つ一つ現在起ってくる事柄に際して自己に問うてみよ。
「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。
★
祖父ウェールスからは、清廉と温和(を教えられた)。
★
もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、
単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。
そして名前なんていうものは単なる響き、こだまにすぎない。
人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るに足らない。
マルクス・アウレリウス ★
元老院において、またあらゆる人びとにたいして、
整然と、判然と話すこと。健全な言葉づかいをすること。
★
たとえば睡気、暑気、食欲不振。
以上のいずれかのために不機嫌になった場合には、
自分にこういいきかせるがよい。私は苦痛に降参しているのだ、と。
★
事物はそれ自体いかなるものであるか、
その素材、原因、目的に分析してみるべきである。
★
君は理性を持っているのか?「持っている」それならなぜそれを使わないのか。
もしそれがその分を果しているならば、そのうえ何を望むのか。
★
他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うてみる習慣を持て。
「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。
ただし、まず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。
★
悪をなす者はみずからにも悪をなす。
★
我々が死によって失うものは、時間のわずかな一部、現在の一瞬のみ。
★
巣箱の利益にならざることは、蜜蜂の利益にもなり得ず。
マルクス・アウレリウス ★
幸福はどこにあるのか?名誉を愛する人は、他人の行為の中にあると考える。
快楽を愛する人は、自分の感情の中にあると考える。
悟った人は、自分の行動の中にあると考える。
★
そんなことより、疫病と人間の避けられぬ運命である死について、考えるべきではないか?
★
死は感覚の休息、衝動の糸の切断、心の満足、
または非常招集中の休止、肉への奉仕の解放にすぎない。
★
幸福は、その人が真の仕事をするところに存す。
★
忍耐は正義の一種である。
★
良い人間のあり方を論じるのはもう終わりにして、
そろそろ良い人間になったらどうだ。
★
罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。
不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。
★
かつて私はどこにおきざりにされようとも幸運な人間であった。
「幸運な」とは自分自身にいい分け前を与えてやった人間のこと、
いい分け前とはよい魂の傾向、よい衝動、よい行為のことである。
★
ソクラテスはこういうのをつねとしていた。
「どんな理性的動物(をあなたがたはお望みか)?健全な?それともよこしまな?」
「健全な」
「ではなぜそれを追い求めないのかね」
「私たちはもうそれを持っていますから」
「ではなぜ戦ったりいい争ったりするのだろう」。
★
宇宙の自然の善しとすることの遂行と完成とを、
あたかも自己の健康を見るような眼で見よ。
したがってたとえいささか不快に思われることでも、
起こってくることはなんでも歓迎せよ。
マルクス・アウレリウス ★
つねに、そしてできることならあらゆる場合において、
自分の思念に物理学、倫理学、論理学の原理を適用してみること。
★
無花果の樹が無花果の実をつけるのを驚いたら恥ずかしいことであるように、
宇宙がその本来結ぶべき実を結ぶのを驚くのも恥ずかしいことである。
同様に医者や舵取りが患者に熱のあるのや逆風の吹くのを驚くのも恥ずかしいことである。
★
「物事に対して腹を立てるのは無益なことだ。
なぜなら物事のほうではそんなことにおかまいなしなのだから」
★
何かをするときいやいやながらするな、利己的な気持からするな、
無思慮にするな、心にさからってするな。
君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。
★
君は理性を持っているのか?「持っている」それならなぜそれを使わないのか。
もしそれがその分を果しているならば、そのうえ何を望むのか。
★
君が宮廷生活の不平をこぼすのをこれ以上誰も聞かされることのないように、
また君自身も君のこぼすのを聞かされることのないようにせよ。
★
今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとく
あらゆることをおこない、話し、考えること。
★
事物はそれ自体いかなるものであるか、
その素材、原因、目的に分析してみるべきである。
★
肉体もまたがっしりかまえているべきであって、
動作においても姿勢においても歪められていてはならない。
★
一緒になって大きな声で嘆かぬこと、騒がぬこと。
マルクス・アウレリウス ★
ルスティクスからは、けちなお説教をしたり、
道に精進する人間、善行に精進する人間として
人の眼をみはらせるようなポーズをとらぬこと(を教えられた)。
★
つまり理性と公共精神という善きものにたいして、
大衆の賞讃とか権力とか富とか快楽への耽溺のごとく本質の異なるものを
いっさい対抗させてはならないのである。
すべてこのようなものは、とつぜん我々を打ち負かし、
道ならぬところへ我々をつれ去ってしまうものなのだ。
★
顔に怒りの色のあらわれているのは、ひどく自然に反することで、
それがしばしば見られるときには、美は死んで行き、
ついには全く再燃も不可能なほどに消滅してしまう。
★
「一緒になって大きな声で嘆かぬこと、騒がぬこと」
★
死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、
心の迷いや肉への奉仕などの中止である。
★
マクシムスからは、(...)克己の精神と確固たる目的を持つこと。
いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、
きげん良くしていること(を教えられた)。
★
あたかも砂丘がつぎからつぎへと上にかぶさってきて
前のものを覆い隠してしまうように、人生においても初めのものは
あとからくるものに間もなく覆い隠されてしまうことを考えよ。
★
エメラルドは、人に褒められなくても、その価値を失わない。
★
マクシムスからは、克己の精神と確固たる目的を持つこと。
いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、
きげん良くしていること(を教えられた)
★
賢者は言った、『静かな一生を送りたいのなら、仕事を減らせ』と。
★
苦痛は耐ええぬものでも、永遠に続くものでもない。
もし、その限界を忘れず、おまえのほうから、それに余分な想念を付け加えないかぎり。
マルクス・アウレリウス ★
自分一人の判断には自信がない分、世間の判断に頼りきろうとするのは通常である。
だがこの場合の世間とは、自分が普段接している人たち、
つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。
★
尊厳の感覚。それは幸福の根幹をなしており、
これと対立するものは、一時的な場合を別にすれば、
彼らにとっては欲求の対象とはなりえないほどである。
★
彼(ベンサム)が見落としているのは、厳密な意味での人間本性の道徳的部分だけではない。
彼は他のあらゆる理想的目的をそれ自体として追求することを
人間本性に関する事実としてほとんど認識していない。
★
高貴な人物がその高貴さによってつねに幸福であるかは疑問の余地があるかもしれないが、
その高貴さが他の人々をより幸福にし、
それによって世界は全体としてはかりしれない利益を得ているのである。
★
社会に監視される人は、いつも自分の本性に
従わないようにしているので、やがて従うべき本性をもたなくなる。
人間としての能力は萎縮し、衰えていく。
強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自分のものだといえる意見や感情をもたなくなる。
これが人間性の望ましい状態だろうか。
★
社会の初期の頃は、人の活力が強すぎて、人々を訓練し管理する社会の能力を超えていた部分があった。
しかし今では、社会は個性をほぼ押さえつけられるようになっている。
そして人間性を脅かすものは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。
★
数学の真理には特異な性格があり、論拠は全て一方の側だけにある。
反対意見はなく、反対意見への論駁もない。
★
人間の能力は知覚、判断力、違いを見分ける感覚、思考力のいずれも、
道徳感情すらも、選択を行うことによって鍛えられる。
それが慣習だからといって行動する人は選択を行わない。
最善のものを見分ける力も、最善のものを望む力もつかない。
★
ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、
その人が人間性の素材を豊富にもっているということである。
衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。
ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者) ★
人は疑わしくなくなった点については考えなくなるものだが、
これは人間の誤りのうち半分の原因になるほど致命的な欠陥である。
"決着がついた問題は深い眠りにつく"とある論者が語っており、まさに至言である。
★
物事について自分の側しか知らない人は、そのことについてほとんど知らない。
★
慣習であるからといって、これをなすという人は、何らの選択をも行わない人である。
★
自分の胸に「いま、幸せか?」とたずねたら、途端に幸福ではなくなってしまう。
★
改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。
なぜならば、改革の精神は、改革を欲しない民衆に対して
それを強制しようとするかも知れないからである。
★
人間性は樹木のようなものだ。
指定された仕事を機械的に正確にやらされるわけではなく、
あらゆる方向に伸び拡がらなければならない。
★
人間というものは、幼いときから労せずして得た栄誉を持っていると、
成長するにつれて必ずそれを自慢したくなるものである。
★
死後に残す人々の運命を、自分自身の運命と感じ得る能力が欠如している者ほど、
また利己的にのみ生きてきた利他の喜びを実感した経験のない者ほど、
老年に至って自分自身の快楽がゼロに近づくに及んで
いよいよ利己的な形における生命の存続を妄執するものである。
★
真理はつねに迫害に打ち勝つという格言は、実際、あのほほえましい虚偽にすぎない。
つまり、人から人へと口真似されて、ついには決まり文句になるが、
あらゆる経験によって反駁されるあの虚偽である。
歴史は、真理が迫害によって踏みにじられた実例に満ちている。
★
国家の価値は、結局国家を組織する人民の価値である。
ジョン・スチュアート・ミル ★
人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である。
★
人生の色々な楽しみは、通りすがりに味わえば、人生を楽しくしてくれるが、
一旦それを人生の目的とすると、とたんに物足りなくなる。
★
人生の楽しみではなく、喜びを求めていこう。
★
真実の中には、個人的な経験を経て初めて本当の意味が理解できるものも多い。
★
人間の運命の大きな改善は、彼らの考え方の根本的な構成に
大きな変化が生じない限り、絶対に不可能である。
★
道を示す自由、これが天才の要求できるすべてである。
★
主流の意見は、自分でものごとを判断する能力が
それほど優れているわけではない人に対して、圧倒的な影響力をもっている。
★
個人の幸福に最大の関心を持っているのは本人である。
社会が一人の個人にもつ関心はごくわずかでしかないし、まったく間接的なものでしかない。
そして自分の感情や状況を理解するという点では、
普通の人であれば誰でも、他人とは比較にならないほど豊富な手段をもっている。
★
人は誰でも社会の保護を受けている以上、ある原則を守る義務を負うことが不可欠になる。
第一に、互いに他人の利益を損なわないこと。
第二に、社会かそれを構成する個人を危害と干渉から守るために、
公平性の原則のもとで各人が決められた労働と犠牲を負担することである。
★
習慣であるが故にこれをなすという人は、何らの選択をも行なわない。
★
悪人が自分の目的を遂げるのに、善人が袖手傍観していてくれるほど好都合なことはないのです。
★
力によって他人にその道を強要することは、
他の人たちすべての発展および自由と合致しないばかりでなく、優れた当の本人を堕落させる。
ジョン・スチュアート・ミル ★
どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、
人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教条]として抱いているにすぎない。
★
思想の自由は、ただ単に、あるいは主として、偉大な思想家を生み出すために必要なだけではない。
普通の人間を可能なかぎり精神的に成長させる、そのためにも必要である。
いや、むしろ、そのためにこそ必要なのである。
★
古代の偉大な雄弁家キケロが残した記録によれば、
彼はつねに論敵の主張を、自分の主張以上にとはいえないまでも、
それと同じくらい熱心に研究したのだそうだ。
★
意見の違いがありうる問題の場合、
真理は、対立し衝突し合う二つの意見をあれこれ考え合わせることによってもたらされる。
自然科学の分野でさえ、同一の事実について、
つねにまた違った説明を加えることが可能なのである。
★
自分の頭で考えず、世間にあわせているだけの人の正しい意見よりも、
ちゃんと研究し準備をして、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見のほうが、
真理への貢献度は大きい。
★
真理に備わる本当の強みは、つぎの点にある。
すなわち、ある意見が真理であるならば、それは一度、二度、あるいは何度も
消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、
それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。
★
真理は、ただ真理というだけで、間違った意見にはない固有の力が備わり、
地下牢や処刑台に打ち勝つ、などというのは根拠のない感傷にすぎない。
ひとびとは真理よりも間違った意見を熱狂的に支持することもある。
★
再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれて、迫害をまぬがれ、大きな勢力となる。
そして、そうなった後は、いかなる抑圧の企てにも耐えられる。
★
深刻な論争が、あの問題でもこの問題でも、つぎつぎに終結していくのは、
意見がひとつにまとまっていく流れの必然的な現象なのだ。
ジョン・スチュアート・ミル ★
涵養された精神は、自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、
人類の過去から現在に至るまでの足跡や未来の展望など、
周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出す。
★
利己心に次いで、人生を満足のいかないものにする重要な要因は、精神的涵養が不足していることである。
★
簡単にわかるようなものでない問題については、
一般に流布している意見がしばしば正しいけれども、
それが真理の全体であることはめったに、というか、絶対にない。
あくまでも真理の一部分にすぎない。
★
数学と物理以外の領域で、およそ知識の名に値するものは、
人が反対論者と論争をするときに働かせるのと同じような思考のプロセスを経ていなければならない。
それは人から強制されたものでもよいし、自分で見つけたものでもよい。
★
簡素な生活のすばらしさ。
人工的な社会の束縛と偽善が、人間を無気力にし、堕落させること。
この思想は、ルソーが主張して以後、教養のあるひとびとの心からけっして消し去ることのできないものとなった。
★
真理を見よと迫って、われわれの目を開かせようとする人は、
逆に、われわれに見えている真理が見えていなかったりする。
人間のことを冷静に判断する人なら、そんなことについても、憤慨すべきものとは思わないだろう。
★
たとえば夕日に照らされた雲の美しさに感動したとしよう。
その感動は、雲が水蒸気でできていることと、
大気中の水蒸気のあらゆる法則に支配されることを理解する妨げにはならないはずだ。
ジョン・スチュアート・ミル ★
ことさら言うまでもないが、秩序とか安定をうたう政党と、進歩とか革新をうたう政党は、
どちらも健全な政治のために必要な要素である。
★
功利性の理論が無神論として激しく非難されることを聞くのは珍しいことではない。
★
スウェーデンの有名な化学者ベリマンについて、
彼は多くの発見をしたが、彼の最大の発見はシェーレを発見したことであった。
同様にジェイムズ・ミルについても、人間の進歩についての彼の最大の貢献は、
彼が研究仲間と後継者として教育した彼の息子であったと言うことができるであろう。
★
こんなやり方は行きすぎだと思われるかも知れない。
そう言えなくもないが、それは、子供の間違いに腹を立てたことだけだと思う。
生徒というものは、できないことを要求されて初めて力の限りを尽くすのだから。
★
「理論」の正しい意味も知らず、しかもそれを現実と対立するもののように扱うとは、
おそるべき無知をさらけ出したのだと私は思い知らされたのである。
ジョン・スチュアート・ミル ★
人は30歳にして、自分を馬鹿者ではないかと思う。
40歳にして自覚し、計画を練り直す。
50歳にして不名誉な遅延に怒り、さらなる決意を新たにする。
★
富は向こうからやってくることがあるが、知恵はこちらから近づかねばならぬ。
★
家柄自慢をする者は負債ばかりをこしらえる。
★
時間を失って初めて時間に気がつく。
★
浪費された時間は単なる生存にすぎない。使用された時間のみが生活である。
★
無神論者も夜になると、神に対して半信半疑になる。
★
あらゆる人間は、自分以外の人はすべて死ぬと思っている。
★
自然は回転するが、人間は前進する。
エドワード・ヤング(アメリカの旧約聖書学者) ★
地位が低いからといって卑下する必要はない。
卑下すべきは、地位が低くて能力のないことである。
★
貧しいからといって、恥じる必要はない。
恥ずべきは、貧しくて志がないことである。
★
死を迎えるからといって悲しむ必要はない。
悲しむべきは、死んだあとに、この世に役立つものを残さないことである。
★
年老いたからといって嘆く必要はない。
嘆くべきは、年老いて目的もなく生きていることである。
呂坤(中国・明代の儒者・哲学者) ★
本当の絆とは何なのか。
それは、生きていくために、食べていくために力を合わせて働くこと。
★
右肩上がりの時代は、もうとっくに終わりました。
これからは生活を悪戯に膨張させるのではなく、
生活の質を高めていくこと。それが成熟した社会のあるべき姿です。
★
より強いとされる者がより弱いとされる者に、
かぎりなく弱いとおもわれざるをえない者に、
深くケアされるということが、ケアの場面ではつねに起こるのである。
★
現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。
私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、
じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。
★
1つ1つはだれもがもっているものであるにしても、
それらの組み合わせにひとりひとり独自のものがあるのだ。
★
(若者たちは)バブルが崩壊して以降、一度も右肩上がりの社会というのを体験したことがない。
「明日は今日よりきっと良くなる」という幻想も共有していない。
鷲田清一(哲学者) ★
わが子が熱を出してもすぐに帰ることができる。
停電になっても徒歩で帰ることができる距離に暮らすことが普通ではないか。
若い人たちに新しいサイズ感が生まれつつあることに希望を抱く。
★
グローバル経済。ずっぽりと組み込まれて、いわゆる国民経済が成り立たなくなっている。
経済というのは「経世済民」を略した言葉で、世を治めて民の苦しみを救うという意味だ。
ところが、企業は株主利益を最優先にしたグローバルな市場で
熾烈な競争を強いられ、最大の関心は自社防衛、生き残りになった。
★
僕はこれまで「限界哲学」をやってきたところがあり、
こういう場面で(「折々のことば」で)哲学をやりたいという気持ちがある。
ぴかぴかっとしたものを探し回っています。
★
昔から、すごい言葉は手で写す癖があるんです。
★
ファッションは行動のスタイルである。だからそのプロセス自体が問題になる。
★
一つのアイディアを制度として定着させようとするとき、
一つの発見を医療の現場で活かそうとするとき、
さらには一人の画家の仕事をまとめ展覧会を開こうとするとき、
法律や経理、調達や広報といった別のプロフェッショナルたちと
しっかり組まなくてはなりません。
鷲田清一(哲学者) ★
別のプロの、自分とは異なった視線、異なった関心をそれとして理解しようとせず、
自分の専門領域の、内輪の符丁で相手を抑え込もうとする人は、
そもそも専門家として失格なのです。
★
上空を旋回する報道のヘリコプターの轟音に、
救出を求める人の声が聞こえないと憤る人もいれば、
「だれかが見守ってくれている」と感じる人もいるでしょう。
人の思いというものはこのように、立っている場所でずいぶん異なります。
★
哲学者というのは、言葉で世界に拮抗したいという人間の強い意思というか、
あるいは最後の牙城かもしれないけれど、そういう危うさを一番よく知ってるし、
それが嘘か誠かもわからないものと知りながら、
そこの立脚点で現実と戦おうという、その確信だけはある。
★
リーダーシップとおなじくらい、
優れたフォロワーシップというものが重要になってきます。
自分たちが選んだリーダーの指示に従うが、みずからもつねに全体を見やりながら、
リーダーが見逃していること、見落としていることがないかというふうに
リーダーをケアしつつ付き従ってゆく、そういうフォロワーシップです。
★
(真に強い集団とは)日々それぞれの持ち場でおのれの務めを果たしながら、
公共的な課題が持ち上がれば、だれもがときにリーダーに推され、
ときにメンバーの一員、そうワン・オブ・ゼムになって行動する、
そういう主役交代のすぐにできる、しなりのある集団です。
★
成熟というのは、未熟さを守ること。
★
教養とは「何が大事で何が大事でないか」という価値判断、
「絶対いる」「あったらいい」「端的になくていい」「絶対あってはならない」
というのを即断せずに持続させるのに必要な「知性の体力」である。
★
プロとしての自分たちの思いとはうんと隔たったところで
ものを感じている患者さんやその家族の思いに、
十分な想像力をはたらかせられない医療スタッフは、プロとして失格なのです。
鷲田清一(哲学者) 中島 義道は、日本の哲学者、作家。元電気通信大学教授。
マスコミ曰く「戦う哲学者」。
専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。イマヌエル・カントが専門。
著書:『明るいニヒリズム』『<対話>のない社会』『生きてるだけでなぜ悪い?』
『哲学者とは何か』『後悔と自責の哲学』
★
あなたは駄目人間なんです。それはもう一生変わらないんです。
突如、明日からもてはじめることもないでしょうし、
明日から頭がクルクル動くようにもならないでしょう。
永遠にもてないまま、無能なまま、そしてそのまま死んでいくことでしょう。
中島義道『ぐれる!』
★
「いま」という時間は、物理学には登場してきません。
なぜなら、いつもいつも「いま」だからです。
同じように、「私」も「永遠」も「無」も、物理学が立ち入ることの
できない領域に位置する現象、すなわち自然現象ではないことがわかります。
中島義道『「死」を哲学する』
★
いじめられ続けている生徒、仲間から軽蔑され続けている男、
世間から嘲笑され続けている女も絶対的に不幸ではない。
こうした人々は、冷たい仕打ちを受け続けることにより、
人間の醜さ・愚かさ・ずるさを徹底的に肌で学ぶことができる。
中島義道『哲学の教科書』
★
AとBという選択肢を前にして私がAを自由に選択したという記号化は、
けっしてその時の自由な行為の再現を意味するものではない。
それは、むしろAを選択したことに関して私に責任が課されるということから
さかのぼって意味づけられることなのだ。
中島義道『時間論』
★
道徳的センスとは、常に善いことをしようと身構えているセンスではない。
自己批判に余念がなく、たえず自分の行為を点検し後悔するセンスでもない。
そうではないのだ。それは、善とは何か、悪とは何かという問いを
割り切ろうとしないセンスである。
中島義道『悪について』
★
過酷なことは承知のうえだが、
現に差別で苦しんでいる人もまた差別する感情から完全に解放されてはいない。
そして差別と全力で戦っている人、差別という残酷な現象に
怒りをぶつける人や涙を流す人のうちに、
生々しいほど「高みから見下ろす」傾向が潜んでいるのだ。
中島義道『差別感情の哲学』
★
他人に注意する者は、それが正しい要求であると信じていればいるほど、
覚悟しなければならない。自分はいまたいそう傲慢な行為に出ているのだから、
無傷で相手を動かすことができるというおめでたい期待などしてはならないこと、を。
中島義道『カイン』 ★
世の中の誰ともうまくやって行けない人は、むしろ「才能」なのだから、
それを伸ばすべきではないか。普遍的に人間が嫌いなら、
懸命に一人で生活できるように努力すればいい。
それだけのことである。こうした生き方が別段劣っているわけではない。
中島義道『人生に生きる価値はない』
★
私自身のそしてさまざまなタイプの人間嫌いを観察してきた結果、
組織の中で人間嫌いが(比較的)許されるのは、次の場合である。
(1)仕事ができること。(2)勤勉であること。(3)誠実であること。
中島義道『「人間嫌い」のルール』
★
長く充実した人生を送るには、定型的な摩擦のないラクな生き方を破壊する必要がある。
夜寝床の中で「ああ今日も何ごともなく過ぎた」というだけの人生はつまらないものである。
その積み重ねは記憶を減退させ、過去を消失させ、人生をあっという間に終わらせることであろう。
中島義道『生きにくい…』
★
われわれは「言われる」ことにもっと馴れなければならない。
「言われた」こと自体にではなく「言われた」内容に向けて反論することを学ばねばならない。
しかし、このことこそ、教育現場では小学校以来まったく教えられていないことなのである。
中島義道『うるさい日本の私』
★
カントはゆったりとなんの疑いも迷いもなく独りなのだ。
独りで本当に満足しているのである。全然寂しくないのである。
人間は独りで生きることができるものである。
それを疑う人は、まだ本当の不幸が何たるかを知らない人である。
中島義道『カントの人間学』
★
他人を好きになることは他人を嫌いになることと表裏一体の関係にあるのです。
ひとを好きになれ、しかしけっしてひとを嫌うなというのは、
食べてもいいがけっして排泄してはならないというように、土台無理な話。
中島義道『ひとを<嫌う>ということ』
★
幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、
傲慢であることによって成立している。それが私の基本的考えである。
中島義道『不幸論』
★
表現者を批判する場合の九割が、じつはただ「不快だ」と言いたいのである。
そして、そのうちのさらに九割が、
さまざまなかたちの(誤解を含めた)羨望や嫉妬に基づいている。
有名人には、私ごとき人間に対する羨望も嫉妬もまったくないから、
私は彼らに会うとくつろげるのだ。
中島義道『エゴイスト入門』
★
最近の若者は(男子も女子も)すらっとした体形で、清潔で、
ファッショナブルな服装をしていて、素直で、礼儀正しい。
このすべては私の趣味に適っているのだが、人間としてほぼ絶望的に面白みがない。
中島義道『観念的生活』 ★
カミュに「優しい無関心」という言葉があるが、
これを言い換えると他人になるべく期待しないこと。
そして、他人からもなるべく期待されないようにすること。
そうすると、人間関係で「悩む」ことは激減する。
中島義道『生きてるだけでなぜ悪い?』
★
私は他人によって励まされることがほとんどない。
励まそうという意志はわかるのですが、それは
「いまから嘘八百を並べるけれど、それもあなたを思ってのこと、
私と一緒にひとまず幻想に陥りなさい」という作戦の表明にほかならない。
中島義道『私の嫌いな10の人びと』
★
過去はまったくの無である。宇宙の果てまでも過去はまったく存在しない。
これが実相である。だが、人間はこのような世界像を抱くことが耐え難いのだ。
だから、実在としては「ない」ものを観念として「ある」と
巧みに言いかえて切り抜けようと企んだのである。
中島義道『明るいニヒリズム』
★
人が喜んでいると、なんとなく心は沈んで暗くなり、
人が悲しんでいると不思議に心は明るく晴れ晴れとしてくるのだ。
まさに人間のクズであるが、この通りなのだから仕方ない。
私はこれがすばらしいと言いたいわけではなく、多数派に勧めたいわけでもない。
中島義道『狂人三歩手前』
★
「自分は弱いから」という理由をもってくることは、哲学の死だ。
あなたは強いからアレもコレも許されないが、
自分は弱いから何でも許される、というずるく汚い態度につながる。
いったんこの論理を振り回しはじめたら、もう思考は堕落の坂をころがってゆくだけだ。
中島義道『「哲学実技」のすすめ』
★
人間嫌いな人とはじつは自分が嫌いな人なのである。
他人との関係にある自分が嫌いなのだ。
中島義道『孤独について』
★
考えない人間は、どの時代にもどの地域にもいる。
彼らは、「考えない」という唯一の武器をもって、恐ろしいほど逞しく生きているのである。
中島義道『観念的生活』
★
天才たちの成功話や不遇話はもういいじゃないか。
それらは、平凡なきみが、仕事を始めるうえでなんの役にも立たない。
平凡なきみが、きみに与えられた仕事を続けてゆくうえでなんの役にも立たない。
中島義道『働くことがイヤな人のための本』
★
大原則として、他人の人生に過度の期待をかけてはならないと思う。
勝手に相手に期待して、その期待がかなわないとき、
「こんなはずではなかった」と相手を責めるのが卑劣な弱者というものである。
中島義道『「人間嫌い」のルール』 ★
あえて「驚く」訓練をすること。
子供のように、いや別の天体からはじめて地球に
やって来た宇宙人のような目で周囲を眺めること。
あるいは、明日処刑される死刑囚のような気持ちで周囲世界を眺めること。
世界は突如光を放ち、汲み尽くせないほどの豊かさに輝くことであろう。
中島義道『生きにくい…』
★
なんで世界はこんなに矛盾と理不尽と悪に満ちているのだろうと思うと、心は癒されるのだ。
どんなに懸命に生きても、みな死んでしまい、
人類はやがて滅びてしまう、と実感すると心は平静になるのだ。
中島義道『人生、しょせん気晴らし』
★
結局は、アイツもコイツも馬鹿ばかり、そしてそう言う自分がいちばんの馬鹿と結論は決まっている。
これはあまりにも真実なので、ヒドク傷ついてしまう。
こうして、真に人間好きな人は、パーティーに行っても人間嫌いが増すだけなのです。
中島義道『人生を<半分>降りる』
★
本当の鍵は他者の重みをしっかりとらえることなのだ。
他者は自分の拡大形態ではないこと、それは自分と異質な存在者であること。
よって、他者を理解すること、他者によって理解されることは、
本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。
中島義道『<対話>のない社会』
★
ニーチェは偶然と運命とのあいだの揺れを止めようとする。
つまり、われわれの眼には偶然に見えるさまざまな事象の背後に
「何か意志的なもの」があって、それがすべてを動かしていることを認めるのではなく、
すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。
中島義道『後悔と自責の哲学』
★
匿名のまま、自分は安全なところにいて、
ありとあらゆる有名人を、犯罪被疑者を、定式通り裁くことは、
最も頭の悪い人間にもたやすくできることである。
しかも、彼らのほとんどは、それを「軽い気持ちで」実践している。
中島義道『善人ほど悪い奴はいない』
★
意志とは「思う」こととは別のことなのです。
嘘だと思うなら、いま「立ち上がろう」と思ってください。思ったでしょう。
でもあなたはただ「思った」だけで立ち上がっておりませんね。
では、今度は立ち上がってください。立ち上がりましたね。
中島義道『哲学の教科書』
★
膨大な数の若者が十五歳で、二〇歳で、三〇歳ですでに人生に敗れているのです。
成功者は「そんなこと乗り切らなくちゃ!若いんだから、人生長いんだから」とのたまう。
しかし、あなたが成功したのもかなりの部分運だったんじゃありませんか?
中島義道『私の嫌いな10の言葉』 ★
愛する者は愛される者が自分を支配するような王宮をみずから造りあげた。
そして、その中に主人としての相手と奴隷としての自分を配置した。
だから、じつは愛する者こそが主人なのである。
愛される者は主人というかたちをした奴隷なのである。
中島義道『ひとを愛することができない』
★
怒れない人は、まず単純に怒りを表出することから訓練しなければなりません。
その怒りが「正しく」なくてもいいのです。だれの賛同を得られなくてもいいのです。
そうした単純な表出に慣れてきてはじめて、しだいに効果的な怒りの表出の仕方が身につく。
中島義道『怒る技術』
★
哲学が世の中で危険視されることも、哲学者が世の中で嫌われることもよくわかります。
世の中の九九・九九パーセントの人が、何よりも幸福を求めて生きているのに、
哲学者はそのさなかに「それは違う」という爆弾を投ずるからです。
中島義道『後悔と自責の哲学』
★
いじめが起こると「自分がされたらどんなにつらいか考えなさい」
というお説教ばかり聞こえる。そうではないのだ。
自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。
自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。
中島義道『<対話>のない社会』
★
一つだけ自信を持って言えることがある。「とにかく死んではならない」ということだ。
正確な理由はわからない。しかし、とにかく死んではならないんだ。
きみは生きる理由が見いだせないと言った。でも、死んではならない。
きみは生きているのが辛いと言った。でも、死んではならない。
中島義道『カイン』
★
男神話(男根主義)は、男の体内深くに根を下ろしている。
そして興味ぶかいことに、弱い男ほど最後の砦として「男」を手放したくないのです。
あらゆる点で女に負ける男でも、いやそういう男であるからこそ、
「男」という点にしがみつき、「おれは男だ」という幻想に耽っていたい。
中島義道『ぐれる!』
★
「滑稽」は「深刻」と対立する概念ではなく、「苦しみ」とも対立する概念ではない。
この三概念は同じベクトルをもっている。
つまり、あらゆる深刻な苦しみは、
――多少正確にものごとを見る能力さえあれば、ただちにわかることであるが――
いくぶん滑稽である。
中島義道『日本人を<半分>降りる』
★
私はいないかもしれない!過去は存在しないかもしれない!
この世はすべて夢かもしれない!
デカルトはこうした懐疑の嵐に吹き飛ばされそうになり、「我思う」にしがみついた。
ヒュームは「私」さえ存在しないと覚った。
ニーチェは嵐にまともに向き合い狂気に陥った。
中島義道『哲学者とは何か』 ★
すべてが起こるべくして起こったこと、それには何の意図もないこと、
そして、すべての人は死んでしまい、すべてのものは滅んでしまうこと、
このことにも何の意味もないこと、
このことを四六時中考えていると、暗黒を突き抜けて不思議に明るい気持ちになってくる。
中島義道『観念的生活』
★
ある人を殺したいほど憎いのだったら、
ただちに殺人を実行するのではなく、自分の憎しみと正確に向き合うこと。
その憎しみがどういう構造をしており、どういう原因によって成立し、
殺すことによってどんな効果を及ぼすことになるか、時間をかけて冷静に観察すること。
中島義道『怒る技術』
★
私がイヤなのは、わかる努力をしようともしない人のところへ、
なぜわかっている人が降りていかなくてはいけないのかということです。
無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだ
――こうした要求を出す人が当然のようにのさばっている状況がある。
中島義道『人生、しょせん気晴らし』
★
「何でも質問しなさい」という言葉がじつは大ウソであることを
子どもたちは次第に全身で見抜いてゆく。そして、子どもたちは知らず知らずのうちに、
むしろ「語らないほうが得」であることを学んでゆくのである。
中島義道『うるさい日本の私』
★
おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、
好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながら
その社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。
社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。
中島義道『働くことがイヤな人のための本』
★
私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということであり、
とすると「ひとに迷惑をかけるな」と命ずることは
「生きるな、死ね!」と命令するようなもの。
中島義道『私の嫌いな10の人びと』
★
本当に『嘔吐』は何度読んでも泣きたくなるほどすばらしい作品です。
「現在だけしか存在しない」こと、
過去は「自分の思想(<こころ>)の中にさえも存在しない」こと、
この驚くべき発見を日常的な場面でえぐるように描写することにかけて、
サルトルの右に出る者はいない。
中島義道『哲学の教科書』
★
私は確信するが、孤独とはたいそう贅沢な境遇である。
孤独な時間、われわれは存分に自分を鍛えることができる。
孤独を「紛らす」のではなく、孤独によってずっしりと与えられた時間を
額面どおり受けとめて、豪勢に使うことができる。
中島義道『孤独について』 ★
みんな、真実を正確に表現することが、いかに平和を乱すかを知っている。
だから、みんなで共謀して真実を見ないようにしているのである。
見ても語らないようにしているのである。
特殊日本的幸福論者は、こうした共同幻想に陥るところにこそ、幸福があると確信している。
中島義道『不幸論』
★
私は、<いま>死ぬとしても一〇年後に死ぬとしても、
一万年後に死ぬとしても、一億年後に死ぬとしても、たいした違いはない。
なぜなら、そのとき、それまでの世界はすべてあとかたもなく消滅してしまっているのだから。
中島義道『明るいニヒリズム』
★
私はいままで多くの人に傷つけられたが、その誰ひとりからも謝ってもらいたくない。
「心を入れかえて」謝ることが、どんなに難しいことであるか、知っているからである。
中島義道『ひとを愛することができない』
★
真に自分の言葉を獲得するには、絶対的に他人を経由しなければならない。
他人を理解すること・他人から理解されることの絶望的なまでの難しさを通じて、
つまりいかに言葉を尽くしてもわかり合えないという体験を通じて、
ぼくたちははじめて自分の言葉を発見するのだ。
中島義道『「哲学実技」のすすめ』
★
あなたは自分を変えなくてもいい。それでいいではないか。
だが、そういうあなたは社会的には排除される。
だから、あなたも社会から離れようではないか。
そのうえで、あなたなりに豊かに生きる道を探そうではないか。
中島義道『孤独について』
★
かつて辛口の論調で有名であった福田恆存は、ある本の中でグサリと
「人生相談のさい、とくに女性の場合、写真がないとやりにくい。
美人がそうでないかで全然回答が異なるからだ」
というようなことを書いています。福田さんは、本当のことをはっきり言っています。
中島義道『女の好きな10の言葉』
★
たとえ頭では男がスカートを穿いて悪いことはないと思っていても、
(つまり自分の信念には反していなくとも)不快だと感じてしまうこともある。
それゆえ、美学的不快は倫理的不快に吸収されないのである。
これは差別問題の要を形成する。
中島義道『観念的生活』
★
「他人の痛みのわかる人になろう」というスローガンに異存はない。
だがこの国では、この標語が「自己の痛みの拡大形態として他人の痛みをわかる」
という図式になりやすいのだ。これは危険な思想である。
中島義道『<対話>のない社会』
★
われわれは完全に箱の<ウチ>に入っているのではなく、
箱の<ソト>から箱を観察しているのでもない。
箱の<ウチ>に「住みついて」おり、箱を「生きて」おりながら、
たえず直接箱の<ソト>を観察し続けているような独特なねじれた存在者なのです。
中島義道『時間を哲学する』 ★
きみが自分を「才能のない人間」と決めることはそういう自分を選ぶことであり、
自分を「もてない男(女)」と決めることはそういう自分を選ぶことである。
中島義道
★
自分も相手も傷つかない何らかの解決を見いだす、そんなきれいごとはなかなかないのです。
相手も自分も傷ついて、どうにか難局から這い出すほかはない。
中島義道『怒る技術』
★
モラリストとは自分が人間の愚かさ醜さから一歩も抜け出てはいないと自覚した者である。
モラリストの笑いはすべて「苦笑」である。
人間の愚かさ醜さを笑うことが直ちに自己の愚かさ醜さを笑うことなのであるから。
中島義道『哲学者とは何か』
★
他人を蹴落としたり、手練手管で自分だけ出世したり、二枚舌を使って騙したり……
この程度の不純や醜さは、まあ大したことはないと思っているよ。
ぼくがいちばんいらだつのは、むしろ自分の中のエゴイズムを直視しようとしない人々だ。
中島義道『「哲学実技」のすすめ』
★
「優しさ」や「思いやり」のみ強調する差別論は空想的であり欺瞞的である。
人間の偉大さは、悪に塗れていても善を希求するところにあり、
他人を騙し、傷つけ、利用し、破滅させても、
「優しさ」や「思いやり」から決定的に逃れられないところにある。
中島義道『差別感情の哲学』
★
全世界がまるごと見えることはない。
そのつど特定の区切られた光景が、私には見えるのであり、
いま眼前の世界が見えるためには、この視野の背後に全世界が控えており、
その残りの全世界が背後に後退し見えないことによって、
この視野が見えるものとして現われているのです。
中島義道『「私」の秘密』
★
自殺すべき理由がないように、自殺しないで生きるべき理由もないんだよ。
「いかに生きるべきか」に関して、
いやさらに「はたして生きるべきか」に関してさえ、いかなる理由も挙げることはできない。
中島義道『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』
★
小学校や中学校では、給食もみんな一緒、掃除もみんな一緒、
運動会もみんな一緒、遠足もみんな一緒、学芸会もみんな一緒、
そしてもちろん勉強もみんな一緒。みんな一緒をこれほどまでに
強要されなかったなら、私はどんなに救われたことであろう。
中島義道『人生に生きる価値はない』 ★
われわれは、過去との関係で現在を捉えるという図式にどっぷり漬かっている。
過去世界の相貌と現在世界との相貌とはまるで違うのに、
それが同一の世界であるかのようにみなしている。
この強引な同一視こそあらゆる「認識」の基本である。
中島義道『時間と自由』
★
書くことは他人を巻き込んで自分に向かって語ること、
他人の目を通して自分に対して語りかけること、他人に納得させようとするかのような
外見を保ちながら、つまり普遍的問題であるかのようなトリックを駆使しながら、
じつは自分自身だけに語りかけることである。
中島義道『カイン』
★
それにしても、わが国ではどうしてみんな
これほど「明るい」人や「明るい」雰囲気が好きなのでしょう。
「暗い」人は、それだけでもう人間失格のような扱いを受ける。
それこそ、自然ではないと思います。
中島義道『人生を<半分>降りる』
★
けっして生きている「だけ」ですばらしいことはない。
このことは、生命がこの世で最も尊いものだという思想(私はそう思わないのですが)を
たとえ承認したとしても、承服しがたい。なぜなら、「最も大切」というのと
「それだけでいい」というのとは意味が違うからです。
中島義道『私の嫌いな10の言葉』
★
「優しい」人の行為は無償ではない。
優しさを向ける相手に「見返り=自分に対する優しさ」を期待する。
そして、見返りのないとき、その人を憎むのである。
中島義道『うるさい日本の私』
★
私はカウンセラーでもなく、精神科の医者でもなく、神父でもないのだ。
私はだれも救えないのである。私は「生きる意味」が皆目わからない人間である。
自分が途方に暮れているのに、ひとを教え諭すことなどできるわけがない。
中島義道『狂人三歩手前』
★
「私は」という叫び声を大事にしなくちゃいけないわけです。
みんなと同じ考えや感受性は、哲学をつぶしていくわけですよね。
百人のうち九十九人がBGMを望んでいても、「私は聴きたくありません」と言うことが大切なんです。
中島義道『人生を<半分>降りる』
★
いかに心の内で叫ぼうとも、意志とは行為を引き起こす現実の力と
みなされているのですから、それが具体的な行為を結果として産み出さないかぎり、
意志とはみなされないのです。言い換えますと、
意志とは内的な心理作用よりもずっと観察可能な行為の外形に結びついている。
中島義道『哲学の教科書』
★
われわれはとくに重要な決断をするとき、
状況にまったく左右されない自由意志があったと想定したくなりますが、
それは「あとから」のこしらえものであって、
事実そのときそのような自由意志が作動していたかどうかはけっしてわからない。
中島義道『後悔と自責の哲学』 ★
私が数を背景にした集団行動を嫌う理由は、
集団行動は原理的に醜いから、原理的に不正だから、原理的に悪だからである。
それは一時的な戦術であるにせよ、自分たちは完全に正しいという姿勢をとる。
相手は完全にまちがっているという単純な二元論を演技する。
中島義道『日本人を<半分>降りる』
★
私の敬愛する森茉莉さんは
「相手の気持ちを考えないって、なんと楽しいのだろうか」と吐露している。
こうした発言はまことに健全です。
中島義道『私の嫌いな10の言葉』
★
人生は恐ろしく不平等であり、恐ろしくアンフェアだ。
そのうえ、いわゆる「偶然」がいたるところで
われわれを待ち構えていて、われわれの計画をぶち壊す。
それでもわれわれは生きている限り、選択しなければならず、
しかもその結果に責任を負わねばならないんだ。
中島義道『真理のための闘争』
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大森が哲学者として偉かったのは――変な言い方だが――本当に驚いていたからだ。
眼球も視神経も大脳も物質にすぎない。なのに「見える」とは驚くべきことではないか?
大脳の中に「意志」など発見できない。
だが、私が腕を上げることができるとは何とグロテスクなことか?
中島義道『哲学者とは何か』
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わかったようなことを言う大人(私が一番嫌いな人種)は、
よく「自分をよく見つめなさい」とのたまいますが、
「はい」と答えながらも、私はよくよく考えてみると全然(内的に)
自分を「見つめて」いないことがわかる。
私はただいろいろ思いをめぐらせているだけです。
中島義道『「私」の秘密』
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「なぜこうしたのか?なぜああしなかったのか?」と頭が痺れるほど考えに考える。
そして、結局はわからないのだけれど、「わからない」ことをあらためて
確認することによって気持ちは落ち着き、生きていく気力が湧くのだ。
中島義道『人生に生きる価値はない』
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考えない者の強さ、考えることができない者の強さ、
しかもそれでヨシとしている者の強さ、
「俺、バカだから」と居直る者の強さは、筋金入りの強さである。
まさにニーチェの語るごとく
「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」。
中島義道『エゴイスト入門』 ★
幸福を求め賢明に能率的に苦労なしに生きると、時間は短く貧しくなる。
だが、死を見つめ不幸にまみれ苦しさを背負って生きると、
時間は長く豊かになるのである。これこそ人生の妙味ではなかろうか。
中島義道『生きにくい…』
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生きているかぎりわれわれは常に現在という時間にいるように、
生きているかぎりわれわれは常に自由なのである。
自由とは生きている実感そのものである。
生きているとは、まだ決着がつかない状況のうちにいるということであり、
取り返しがつく状況のうちにいるということである。
中島義道『時間と自由』
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突如怒鳴り出せ、だれかれ構わず罵倒しろと言いたいのではない。
まずは、不当な処遇を受けたときは、その怒りを正確に言葉で伝える訓練をすることだ。
そして、自分に対するいかなる非難や批判をも聞く態度を身につけることだ。
中島義道『「哲学実技」のすすめ』
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「いい子」などという鎧を脱ぎ捨ててしまおう。
それは、その非常な重量できみを苦しませ、
きみから生きていく活力を奪う張本人であることを認めよう。
シャツ一枚になって、思いきり深呼吸してみよう。
どうだ。気持ちがいいのではないかなあ。それが、きみなんだ。
中島義道『カイン』
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それにしても私が驚愕するのは、
多くの人が自分を痛めつけた人に向かって謝ってほしいと要求することである。
心から出た謝意でなければ虚しいはずなのに、
そして要求された謝意は憎悪にくるまれたものであることは承知しているはずなのに。
中島義道『ひとを愛することができない』
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多くの大人が最近の若者は「自分のことだけしか考えない」と非難するけれど、そうではない。
彼らは他者の目を無性に恐れており、他者の承認を求めている。
互いにジコチューをきびしく監視し合っている。
他人のジコチューを告発する分だけ自分のジコチューも抑えつけている。
中島義道『不幸論』
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私に向かって「おまえのためを思って言ってるんだぞ」と言う人よ!
「おまえが気に入らない」と言ってほしい。
「ただただ、おまえが気に入らないんだ」と言えばいいものを、
毒素を幾重にもオブラートで包み、あくまでも善人を貫き通そうとする。
中島義道『私の嫌いな10の言葉』
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否定というのは、言葉を知っているからこそできる行為です。
否定できるからこそ、人間は見えないものも認識できるのです。
しかし犬や猫は起こっている出来事にしか反応できません。
色を判断するとき、犬は「これは黄色だ」と認識できても「赤ではない」とはしない。
中島義道『生きにくい…』