毎日通い文句を言い続け、印がいっぱいになった者に、本当に金品と食料が渡されたのを見て、印をもらうためだけに役所に赴くものたちが現れたのである。
もらえる金品と食料は、真面目に働き木を売って得た金とは比べ物にならないほどわずかなものであったが、
働きもせず、門の前で印を記入されるのを待つだけの者が現れた。彼らは門者(もんじゃ)と呼ばれて蔑まれた。
やがて門者たちは働かずとも飯を食わせてくれる役所を守るため、真っ当な文句を言いに来るものを追い返すようになり、
数ヶ月もすると『御府八向』(おんふはっこう・役所に月に八度は向かうべきである)を合言葉に役所に集まって賑やかに騒ぎ出す始末であった。

この体たらくに誰よりも怒ったのは栄正である。
いつか村が前のように活気づくであろうと信じてせっせと商売に励んでいた彼だが、ある時取引先の村人の一言で堪忍袋の緒が切れた。

「境の後門は下木衆」(さかいの こうもんは げきしゅう)

すなわち「関所の門の内側にいる=夕焼村の人々はろくでもない木しか出さない下衆な連中だ」の意である。
「木村といえば夕焼村」と呼ばれるほどだった村がだらけ切り、周囲の人々からこのように“不村”(村にあらず)とまで
蔑まれるようになってしまった原因である伊馬中の行いに栄正は激しく怒り、また止められなかった自分の無力さを嘆いた。
栄正は止めようとする門者たちを“侍”のような勇ましさでなぎ倒し、役所に飛び込むと八寸(25cm)ほどの木の棒を片手に振り回し、
「伊馬中ぁぁぁ!!!!どこだあああああ!!!!!」と大音声、役所の壁にぱん!ぱん!と八寸棒を打ち付け始めた。
「やめよ!木村の者!」
「おれには栄正って名前があるんだよ!伊馬中、手前と門者どもが如何ほどこの村を腐らせたか教えてやる!」
吠える栄正に恐れをなし、門者に場を任せて役所の後門より逃げ出そうとした伊馬忠だったが、その行く手を栄正が素早く遮った。
ずんっ!!!!
「あいいっ!?」
なんと栄正の八寸棒が後門に深々と打ち付けられているではないか。
腰を抜かしてその場にへたりこんだ伊馬中と門者たちは死を覚悟したが、
栄正はその棒を振るうことなく、その場に居たものたちに早口で木村に受け継がれてきた心構えを語り始めた。

湖底を汲む努力(水底のよどんだ水ですら汲み上げ糧とする気持ち)、
無猟で貞経(猟で獲物が取れずとも、経を唱えつつましく暮らす気持ち)
客短歌が大事(村の人口が減ろうとも、客が幸せになり、歌を詠んでくれた方が嬉しいという気持ち)

など、先祖代々受け継がれてきた精神がどれだけ大切なことかを九十四刻半にわたって説いたのである。
酒井は目先の問題から目をそらすだけであった己の行いを大いに悔い、門者たちもまた己を恥じた。
この件で、労苦印制度は廃止され、夕焼村では役人だけで行っていた木材の品質調査の仕事を、村の者たちが協力して行えるように制度を見直した。
役所に座って縛られることなく自由に動き回れることから、彼らは遊座(ゆうざ)と呼ばれた。
遊座の二重調査により木材の品質は安定し、夕焼村は前のように木村としての地位を確固たるものにし栄えた。
やがて明治になり“木村”の姓を名乗るようになった栄正の子孫は、木村の精神は末代まで受け継がれることであろうと語ったという。