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【世界文化遺産】 ライト建築、世界遺産決定 - 追加候補に芦屋・旧山邑家住宅
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0001朝一から閉店までφ ★
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2019/07/08(月) 06:45:57.36ID:CAP_USER
 【バクー共同】アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は7日、日本とゆかりが深い米建築家フランク・ロイド・ライト(1867〜1959年)が手掛けた米国内の8作品について、諮問機関の勧告通り世界文化遺産に登録することを決めた。  
8作品は、ライトの代表作であるグッゲンハイム美術館や落水荘など。米政府は推薦書で、将来の追加登録を目指す作品の一つとして兵庫県芦屋市の旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)を挙げた。追加を目指す具体的な時期は明記していない。  
旧山邑家住宅は1918年にライトが設計し、24年に完成した。
(共同通信)
https://www.nara-np.co.jp/global/2019070701001941.html
0002七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 06:58:28.89ID:VJCelMBM
おめ
0003七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 06:59:58.43ID:BHUAMFOX
\(^o^)/ハジマタ!
0004七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 07:03:18.93ID:51ru0VNB
屋根に100人登って記念撮影会
0005七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 07:06:54.15ID:shlW9AFi
旧帝国ホテルのような残し方では登録無理なの?(´・ω・`)
0006七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 07:25:16.53ID:pvQY4ba6
これもこんな山奥じゃなく、さっさと明治村に移築した方が良いんじゃね?
0007七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 08:11:01.20ID:Vxe7gAUa
コロンビアトップライトが↓
0011七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 11:12:23.81ID:lwR0Qpue
落水荘のLEGO欲しかったんだが......
もっとシリーズ化されないかな帝国ホテルとか
0012七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 11:14:09.97ID:z3bg6jf5
もともと鉄筋コンクリート造の屋上だから100人乗っても大丈夫だぞ。
つか、○○先生設計w○○先生設計wwwつーても実際の設計と施工は別人なんだから
そっちの人たちの方がおまえらよくつくったなと思うんだけどな。

個人の別荘なのか。
RC造のわりに階段とかこじんまりしてて、
個人の住宅の割にはデカいけど不特定多数の他人が入る割には小さい。
まぁ別荘だったつうことは普段は住んでなくて客人を呼ぶんだろうから妥当だろう。
0013七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 11:16:18.19ID:z3bg6jf5
てか
>>1 将来の追加登録を目指す
かよ。
0014七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 12:14:14.30ID:Whtnv8yn
おれ、この手の世界遺産登録が30年後くらいに
負の遺産となってのしかかってくるとおもう。
0015七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 12:15:14.00ID:qnwLYQE9
当館について – ヨドコウ迎賓館
https://www.yodoko-geihinkan.jp/about/
ヨドコウ迎賓館は、山邑家別邸として1918年(大正7年)にアメリカが生んだ
近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)によって
設計されました。
ライトがアメリカに帰国後は、彼の弟子である遠藤 新と南 信が引き継ぎ、
1924年(大正13年)に竣工。1947年(昭和22年)に株式会社淀川製鋼所が社長邸
として建物を購入し、1989年(平成元年)より「ヨドコウ迎賓館」として一般公開
しています。
0016七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 12:29:09.78ID:eqGZKUPi
何このブサイクな建物
0017七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 14:10:43.50ID:wISz06UE
ヨドコウはつぶす予定やったんよね確か。
だから文化財指定して現状維持してる。
0018七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 15:07:16.96ID:7NjDuwup
おいおい、まだ決まってないで?
「将来の追加登録を目指す作品の一つとして兵庫県芦屋市の旧山邑家住宅を挙げた」や。
時期は未定や。
0019七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 17:28:51.79ID:PPgubqd0
移築だから、さすがに明治村の帝国ホテルはダメか
0020七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 17:33:42.19ID:nEfthGFl
灘中・高の設立者の一人の元のお家か
0021七つの海の名無しさん
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2019/07/08(月) 17:54:54.86ID:lCYtH6Z4
夜神君が独り言↓
0022七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 01:43:34.05ID:fpkGe0Oy
>>11
持ってるよ。作った。
あと、ペンシルバニアまで行って、ベランダでランチも食べた。
0023七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 01:45:37.95ID:fpkGe0Oy
>>11
グッゲンハイム美術館もレゴであったような。
0024七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:08:32.30ID:BHOSgYQw
FujiyamaNet HomePage - 小西酒造 http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/shirayuki_MTS/MTS07.html
 大正期における伊丹の酒造家数は、廃業や復活があるものの、ほぼ一定して14,5軒であるが、酒造蔵数は、明治末年から大正にかけて20蔵を超えるようになっている。これはほとんどが小西家による集中・拡大によるものである。
いままでの伊丹では、酒造家1軒につき1蔵という形で酒造業が行われてきたが、ここへ来て小西家による酒造蔵の集中という形で拡大発展していく。その足取りを追ってみよう。

 小西家の大正期の発展は目を見はるばかりである。着々と布石が打たれていたことが分かる。

明治43年 灘五郷の東郷 (魚崎)に進出し、末広蔵と名づけて酒造を開始する。
大正2年 西宮郷に酒造蔵を建設し、酒造を開始する。
大正4年 「東自慢」の醸造元・鳴尾の辰馬半右衛門の酒造経営が行き詰まったのを機に、商標をはじめ酒造蔵、土地、建物などいっさいを買収。
新たに、西宮市今津に本辰酒造株式会社を設立する (資本金30万円)。
大正9年 理化学研究所が開発した合成酒の製造法に着目して神奈川県藤沢市に、大日本醸造株式会社を設立。合成酒の製造に着手する。
大正10年 合成酒の試験醸造のために、大和醸造試験所を大日本醸造株式会社の敷地内に設立する (資本金10万円)。
大正12年 合成酒企業化の目途がつき、大日本醸造株式会社と大和醸造試験所を合併して、大和醸造株式会社を設立する(資本金100万円)。
大正14年 樽詰め全盛からビン詰め商品へ移行しはじめたのを機に、新聞や月刊誌に広告を開始する。
キャッチフレーズは「天下之銘酒白雪」
 この年譜を見ても分かるように、
小西家は、灘五郷への進出、西宮郷への進出、今津の酒造会社の買収を終えて、飛躍的に造石高を増大させた。
ここにおいて本格的な酒造経営が始まったと見ていいだろう。
大正3年に大戦が始まったときには、先行き不安から酒造を手控えている感もあるが、以後、好景気にもあおられて、毎年、酒造量が上昇。
そして全国的に最高の造石高を示す大正8年には、伊丹の分に灘五郷 (西宮郷・東郷)の分と、本辰酒造の分を加えると、合計は、いっきょに35,135石を記録するにいたる。

 大正11年、この年、灘五郷で造石高が3万石を超える酒造家は次の4軒しかない (注2)。

小西家「白雪」 下記合計37,665石  
  伊丹町内 9,913石 ・9蔵
  灘五郷 (西宮郷・東郷) 8,921石 ・8蔵
  本辰酒造 18,831石 ・11蔵
山邑酒造株式会社・魚崎郷「桜正宗」 36,071石  
辰馬吉左衛門・西宮郷「白鹿」 32,691石  
本嘉納商店・御影郷「菊正宗」 31,492石  
0025七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:10:23.84ID:BHOSgYQw
 小西家が大正4年に辰馬半右衛門の「東自慢」を引き受けたのには理由がある。小西では近世の江戸店以来、自醸酒だけでなく他醸酒も取り扱っている。
「東自慢」の東京における販売を一手に引き受けていたのが、小西の東京における清酒問屋富士西商店であったからである。
 この鳴尾の辰馬家は、幕末維新期にかけては灘五郷の中でもトップクラスの酒造家で、明治20年代、造石高は約15,000石、最高の明治39年には24,348石の実績を上げ、
今津と西宮両郷に8蔵ずつ、計16蔵が稼動していた。それが大正期に入って、米相場の失敗が原因で行き詰まったといわれている。
小西家がこれを再建してからは、造石高は常に10,000石を超えており、大正末年には、18,000石まで回復させた。

 先の年譜で、いまひとつ注目すべきことは、やはり合成酒への進出ということであろう。
酒造家の小西がまたどうして合成酒なのかという疑問をだれしも抱くところであるが、もともと近世においても、米価の高騰を防ぐためにしばしば酒造制限が行われていたことを考えれば、決してよそごとではないことが分かる。
写25 創立時の大和醸造株式会社(藤沢市 三楽オーシャン株式会社提供)
伊丹市史 第3巻より
 大蔵省醸造研究所では、明治40年 (1907)ころから、米の使用を節約する意味から代用原料で清酒を作る実験をしていた。
大正7年の米騒動が大きな刺激となり、理化学研究所の鈴木梅太郎博士 (ビタミンの発見者で世界的に名を知られている)が合成酒の製造法を発明したことが分かると、小西新右衛門はだれよりも早くこれに注目している。
その将来性を見抜いて、すぐ大日本醸造株式会社を発足させたのである。この時の合成酒は、清酒を土台とした混成酒ではあるが、同年に出荷した数百石は好評を博したという。商品名は「新日本の酒」であった。

 これをさらに発展させるために、翌10年には、鈴木梅太郎が開発した合成酒 (通称「理研酒」、酒銘を「利久」といった)の企業化に取り組んでいく。
大日本醸造株式会社の敷地内に、大和醸造試験所と称する工場が建設された。
資本金を10万円とし、理研の大河内正敏、小西新右衛門ほか、三共株式会社の塩原又策など数人から出資を得た。
この試験醸造は成功裡に終わり、大正12年 (1923)には新会社設立へと話が進んでいった。
先の大日本醸造株式会社と大和醸造試験所を合併し、大和醸造株式会社が誕生した。資本金100万円、取締役社長には小西新右衛門が就任した。
 不況の折から、販売が軌道に乗るまでには時間がかかったが、合成酒の先駆けとして大きな意義を持つものである。
しかし、この世界に類例のない独創的な商品が花を咲かせるのは、第二次大戦の食糧難時代を経験し、その後の生化学の発展を待たなければならなかった。

 なお、この会社は、のち昭和35年 (1960)に三楽オーシャン株式会社に経営権が譲渡されている。
0027七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:18:09.03ID:BHOSgYQw
櫻正宗http://www.sakuramasamune.co.jp
正宗命名の謂われ

 江戸時代は灘酒は「猿若」、「助六」等多くは俳優に関する名前を酒銘としていました。
櫻正宗もまた創業の頃は俳優の名を取って「薪水(しんすい)」と言う酒銘にしていましたが、 家祖は常に灘の酒銘が女性的で酒客の嗜好に投じないので、 醸造法の改良に苦心するとともに時代に応じた命名を考えていました。

 ある日家祖がかねてより親交のあった山城国深草の「元政庵」住職を訪ねた時、 机の上に置かれていた経典に書かれた「臨済正宗」の文字を見て、「正宗(セイシュウ*)」が「清酒(セイシュ)」に語音が通じる事から、
「正宗」を樽印としたのが始まりです。 (* ただし仏教読みでは「セイシュウ」ではなく「ショウシュウ」となります)

 最初は「セイシュウ」と読ませるつもりでつけたのでしたが、 人々は「セイシュウ」と呼ばずに「マサムネ」と唱え、
「マサムネ」が一般の呼び名となりました。 天保11年(1840)のことでした。

 明治17年(1884)に商標条例施行の折、当蔵元は「正宗」と登録しましたが、 政府は「正宗」を使用した酒銘が多い事を理由に「正宗」を普通名詞としました。
そこで「正宗」に国花である櫻花一輪を配し「櫻正宗」と名付けました。
0028七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:21:14.52ID:BHOSgYQw
宮水発見の経緯

 櫻正宗の六代目当主・山邑太左衛門は、江戸時代の天保10年頃、西宮郷と魚崎郷とで酒を造っていました。
ところが、常に西宮郷の酒が優れていることに疑問を持ち、酒造米を同一にしたり、蔵人を入れ替えてみたりしましたが変化はありませんでした。
最後に考えられたのが「仕込み水」でした。

宮水採水
 そこで西宮郷の梅の木蔵の井戸水を魚崎郷で使用してみたところ、
西宮の酒と同様の良酒が醸出されました。
このことから断然意を決して天保11年(1840)より西宮郷の梅の木蔵の井戸水を魚崎に輸送し仕込みに用いるようになりました。
世の中の人は太左衛門を嘲笑し狂人扱いしましたが、
お酒が「大評判」となるまでに時間はかかりませんでした。

宮水運搬の様子

 江戸の市場でもこの酒が大好評であったため、

灘はもとより他地方の酒造家も競って西宮の井戸水を使用するようになりました。
このため梅の木井戸が宮水発祥の井戸で、山邑太左衛門が宮水の発見者とされます。
宮水発祥の地 記念碑 宮水発祥の地(西宮市)
 宮水の特色は、酒の害になる鉄分を含まず、酒造りに必要な塩分と硬度を持ち、
リンやカリウムを多量に含有していることで、 酒造原料としては世界に比類のない水です。
0029七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:29:06.89ID:BHOSgYQw
造石高 順位 代表銘柄(酒造家名)
1923年度 造石高
1 桜正宗(山邑酒造株式会社) 36,646
2 菊正宗(合名会社本嘉納商店) 35,028
3 白鹿(辰馬吉左衛門) 31,335
4 月桂冠(大倉恒吉) 31,319
5 日本盛(西宮酒造株式会社) 30,118
6 白鶴(嘉納合名会社) 25,727
7 沢ノ鶴(石崎合資会社) 21,938
8 東自慢(本辰酒造株式会社) 17,920
9 忠勇(若林合名会社) 17,920
10 富久娘(花木甚右衛門) 14,922
11 戎面(日本摂酒株式会社) 12,122
12 泉正宗(泉仙介) 11,297
13 大関(長部文治郎) 10,949
― 大黒正宗 10,919
― 白鷹(辰馬悦蔵) 9,307
― 金露(大塚合名会社)※注 7,436
― 都菊(合名会社肥塚商店)※注 3,072
甲東会合計 155,688
灘五郷合計酒造石高 572,249
灘五郷蔵数 481
0031七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 10:44:39.86ID:BHOSgYQw
協会一号酵母(櫻正宗酵母)

 明治37年、政府は官立醸造試験所を設立し、 安全醸造・酒質向上を目的とし全国より優良な酵母を集めました。
 明治39年、当時醸造試験所の技師であった高橋偵造氏によって櫻正宗の酒母より分離されました櫻正宗酵母は、
その中で最も優れた酵母として選別され、日本醸造協会より“協会一号酵母”として全国に頒布されました。

酵母の顕微鏡写真

 大正5年に試用されて以降全国に広まり、昭和10年まで頒布されていました。
 しかしその後は、醸造技術の変遷や戦争の混乱を経て、協会一号酵母は各地の蔵から姿を消し、
既にこの世には現存しない“まぼろしの酵母”であると思われていました。
 ところが近年、協会一号酵母が同協会に保存されていたことがわかり、 協会一号酵母は約60年ぶりに誕生の地・櫻正宗の蔵に“復活”しました。

 形態は大きな短楕円形の細胞が多く、まれに変形的な長い細胞もあります。
デキストリン・マンノース・ガラクトース及び乳糖をも発酵します。 醸造的特徴としては、性質強健、香気は平凡ですが高温に適し発酵経過は順調です。
0032七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 11:07:57.57ID:BHOSgYQw
「日本一の長者村」 財界人たちが邸宅を構えた住吉村 ー 2015年11月号 ...
http://kobe-kobecco.com/archives/30700
さらに明治40年(1907)頃に阿部元太郎が住吉川沿いの観音林、反高林の土地を開発、住宅地の譲渡をおこない、東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。

その後も住友本邸、
東洋紡社長の小寺源吾邸、
鐘紡社長の武藤山治邸、
日本生命社長の弘世助三郎邸、
野村財閥の野村徳七邸、
大林組社長の大林義雄邸、
乾汽船社長の乾豊彦邸、
武田薬品社長の武田長兵衛邸、
伊藤忠の創業者の伊藤忠兵衛邸、
岩井商店主の岩井勝次郎邸、
東京海上社長の平生釟三郎邸などが建ち、

住吉村は「日本一の長者村」の名をほしいままにした。

久原邸オーキッドコート住吉http://www5c.biglobe.ne.jp/~akimitsu/sub5-orchid%20court-.html
住吉川を中心に建築物の屋根の色が「環境色彩」を採り入れたかのように感じられる。
元は、白鶴美術館の屋根に見られる青銅色が、
いち早く住吉川左岸のマンション「オーキッド コート」が採り入れ落ち着いた色彩で六甲山の山並みに溶け込んでいる。
その後、東灘区役所、区役所に隣接する高層マンション、最近完成した公団住宅の屋根等はオーキッド コートの色彩に合わせており、
今後建設される構造物等には地域の個性を創り出し、きめ細かな色彩の関係性の調整を是非共やって欲しいと思う。
一方では、景観(色彩)を無視した巨大マンションの出現により地域景観環境が壊されていくようにも感じられる。
0033七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 11:08:24.73ID:BHOSgYQw
http://plaza.rakuten.co.jp/akane0815/diary/200901280000/
久原邸 現在の西岡本2丁目(オーキッドコートを含む全地域)には、久原房之助(1869〜1965)と云う日本鉱山の創業者が、
明治41年に大豪邸を建て昭和3年頃迄住んでいました。
その後、東京へ移り逓信大臣から政友会の総裁まで勤めた人物です。当時の敷地内には果樹園、
病院、発電所等が建てられ、特に子供の為に小さな本物の機関車を走らせていたそうです。
又、住吉川上流から鉱山の技術を生かし邸内まで隧道を掘り、冷房用の冷風を引き込んでいました。
0034七つの海の名無しさん
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2019/07/09(火) 13:38:36.42ID:BHOSgYQw
会館概要 | 芦屋仏教会館https://ashiyabk.org/hall-overview/
芦屋仏教会館menu Home会館概要
会館概要 施設・文化財
建築情報
設計者 片岡 安 施工 大阪?橋組 構造 RC造3階建
建築面積 200? 竣工 1927年
会館の建物は、当時奈良ホテル、大阪中之島公会堂など多くの名建築を手がけた片岡安(かたおかやすし)氏の設計になるものです。

昭和2年に既に免震工法で設計建設され、丁度お堀の形をした船に建物が乗っている構造で、非常に珍しい事例といわれています。

この建物は、戦火を免れ、阪神大震災にも耐えてきた明治・大正時代の洋風建築と東洋風建築の特徴を折衷した建物で、原型のまま残していて、その美しい姿は、伝統の継承の意義を物語っています。
また、終戦直後には、約6ヶ月間のみでしたが甲南高等女学校の仮校舎としても利用され、
昭和24年から同29年までの約5ヵ年間は芦屋市立図書館として市民に親しまれました。
芦屋仏教会館について〜 会館の生い立ちと理念 〜
伊藤長兵衛翁
芦屋仏教会館は昭和2年誰もが気兼ねなく集える、開かれた聞法の道場とするべく、
伊藤長兵衛翁〔丸紅商店社長(現(株)丸紅〕が、私財を投じ、
大阪の財界人、宗教家等の人々の賛同を得て創設しました。
なお、芦屋仏教会館は特定の宗教団体には属さず、従って特定の宗派を押し付けたり、祈祷を行ったり、寄付などを強要することは一切ありません。
また講座等の継続的参加を強要することも致しておりませんので、お気楽にご来館いただきますようお待ち申し上げます。
0035七つの海の名無しさん
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2019/07/10(水) 10:57:41.97ID:CYGtkrnO
別の国にあるものを推薦できるの?
0036七つの海の名無しさん
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2019/07/10(水) 13:26:01.93ID:s4ZxUbkf
樽廻船の停泊港が近い、灘に地の利あり。

江戸の人々のもとに「下り酒」を運ぶためには、安定した輸送手段が必要です。
いまでこそ網の目のように輸送網が張り巡らされていますが、昔は東海道を往来する陸路が中心。馬の背に荷物をくくりつけ、江戸に向けて運んでいました。
これでは輸送量も少なく、何より時間がかかります。
やがて、海路を使った輸送がスタート。
堺商人が紀州の廻船を雇い入れ、江戸へ回航させたのが「菱垣廻船(ひがきかいせん)」です。

ときは1620年(元和)頃、徳川秀忠・家光の時代。
酒や木綿、油、醤油、砂糖などさまざまな生活物資を大量に運ぶ海の大動脈となりました。
ところが、この輸送方法が定着するとともに、海難事故や荷物の抜き取りなどの不正も横行。
それを阻むために、1694年(元禄7年)に塗物店組・釘店組・内店組・通町組・綿店組・表店組・川岸組・紙店組・薬種店組・酒店組の10組からなる「江戸十組問屋」を結成。大坂でも同じような組織が結成され、事業は問屋によって掌握されることになります。
1730年(享保15年)には酒問屋が独立して、清酒だけを運ぶ「樽廻船(たるかいせん)」が登場。
菱垣廻船はさまざまな積み荷を混載するため、早く輸送したい酒荷のみの専用海路を設けた方が効率的などの理由による樽廻船のスタートです。
時代によって多少の変動はあるものの、下り酒の7〜9割は、伊丹や灘の周辺地域で産した「摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)」と呼ばれるお酒で、その歴史の流れは灘五郷にたどり着きます。



水戸光圀公が
“助さんも、格さんも、一杯お飲りなさい。
あっあっあっ”
と差し出すお酒、

暴れん坊将軍で有名な八代将軍・徳川吉宗が貧乏旗本の徳田新之助として、
北町奉行・遠山金四郎が遊び人の金さんとして、街道沿いの酒場で酌み交わす酒など、どれもこれも「下り酒」、とりわけ灘の酒なのかもしれません。
時代に寄り添った“くだらない”お話は、大きく想像をかき立ててくれます。
0037七つの海の名無しさん
垢版 |
2019/07/10(水) 13:27:38.35ID:s4ZxUbkf
>>36ためになる“くだらない”お話。 – ブログ|菊正宗ネットショップ - 菊正宗酒造
コンテンツへスキップ
ブログ|菊正宗ネットショップ
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投稿日:2018-07-25 投稿者: KIKUMASAMUNE
ためになる“くだらない”お話。


上方から江戸に送られた“下り酒”が語源という説。

普段、私たちは、
“とるに足らない”とか
“ばかばかしい”という感情を表す際に、
“くだらない”という単語を使います。
しかし、その語源となると、あまりご存じないのではないでしょうか。
“通じる”という意味を持つ「下る」という動詞に、
打ち消しの助動詞「ぬ」や「ない」がついて、「意味がない」「筋が通らない」などの意味となり、
それが転じて“とるに足らない”場合に使われるようになったという説があります。
ただ、これではあまりに夢がありません。
これとは別に、有力な説とされているのが、お酒にまつわる由来です。

江戸時代のこと。
大坂や京都などの“上方”と“江戸”との間で、特産品などが行き来していました。
当時、上方から江戸に送られてくるものを「下りもの(くだりもの)」と呼び、逆に江戸から上方に送られるものは「登せもの(のぼせもの)」と呼んでいました。
これは朝廷のある京都が千年の都であるのに対して、幕府がある江戸はまだまだ発展途上の新興の地方都市とされていたため、
上方方面に向かうことを“上る”、江戸方面に向かうことを“下る”としたことに由来します。
とはいえ、江戸は人が多い一大消費地。
上方の洗練された品々はその品質で、江戸の庶民を魅了し、その需要に応えるかのように、上方から数多くの品々が江戸に送られました。
なかでも、灘を筆頭に伊丹や伏見の清酒は「下り酒」と呼ばれ、たいそう重宝されたといいます。

江戸側の“江戸のお酒は、下り酒に対して、くだらない”という自重気味の皮肉、
または上方側の“下り酒の名を落とすような、くだらないものは送れない”という心意気から派生したのが“とるに足らない物の代名詞”となる「くだらない」という言葉といわれています。
0038七つの海の名無しさん
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2019/07/11(木) 08:13:52.92ID:Hxq85KKy
perspectives光雲荘の移築について |日建設計 - Nikken Sekkeihttp://www.nikken.co.jp/ja/archives/00206.html
光雲荘(こううんそう)は、1937(昭和12)年から3年の年月をかけ、
若き実業家・松下幸之助氏(当時42 歳)によって兵庫県西宮市に建設された私邸です。
その後、松下電器産業に移管、管理されてきましたが、2008年、社名を「松下電器産業」から「パナソニック」に変更するにあたり、氏の「ものづくりの心」を学ぶ場として大阪府枚方市にあるパナソニック人材開発カンパニー内に移築されました(設計・監理:日建設計)。
0039七つの海の名無しさん
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2019/07/12(金) 09:17:09.14ID:lSE6jTnP
酒米の王者・兵庫県産山田錦 - JA・MYひょうごhttp://ja-myhyogo.com/yamada.html

日本酒は日本が誇る世界最高の醸造技術(技)、万物の源(水)、そして日本酒造りの核となる原料(米)によって造られます。
良質な日本酒の原料となるお米は「酒米」と言われ、一般的に食用とされているお米とは異なります。
酒米は大粒で米の中心に心白があるのが特徴です。また、たんぱく質が少ないので、酒の雑味を抑えることができます。

日本酒は原料となる酒米の精米歩合や、添加するアルコールの有無によって、香味が異なるため、大きく5種類(大吟醸酒・吟醸酒・本醸造酒・純米酒・普通酒)に分類されます。
それらの中で最高峰と位置づけられているのが、「大吟醸酒」です。 大吟醸酒は日本で製造される日本酒のうちの3%しかありません。
各酒造会社は、大吟醸酒を自社の持つ洗練された技術と、上質の原料(米)で製造しているため、自社を代表するフラグシップとして扱っています。
中でも、大吟醸酒に使われる最高の原料(米)は酒米の王者と称される「山田錦」です。
「山田錦」は至高の日本酒を生み出す最高の原料として、酒造会社から高く評価されています。
1911年から毎年開催されている「全国新酒鑑評会」には、各酒造会社がその年に製造した自社最高の製品を出品し、評価を求めます。
その鑑評会で最も高い評価である金賞を獲得する製品の大半は「山田錦」を原料とした製品です。

日本の中で、山田錦の産地として、生産量の約8割ものシェアを誇るのは、兵庫県です。さらに兵庫県は山田錦の生産に相応しい、気候や地形などの条件が揃っているので、良質な山田錦を育てることができます。
山田錦は70余年前、日本で初めて、兵庫県の酒米試験地で産声を上げて以来、日本全国の酒造会社に広がり、大吟醸酒・吟醸酒を造るには、これしかないと言われるほどの評価を受けながら、使用され続けています。
現在、山田錦は日本酒を世界へ広める原動力として、世界中の人々を魅了しています。

山田錦の主な産地JA:JA兵庫六甲・JAみのり・JA兵庫みらい
0040七つの海の名無しさん
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2019/07/12(金) 09:19:46.84ID:lSE6jTnP
菊姫 山田錦物語 吉川町の村米制度
http://www.kikuhime.co.jp/story/yamada04.html

吉川町の村米制度

吉川町の村米制度  吉川町は天恵の地、六甲裏第三紀層の粘質土壌は平野を遠ざかった低山性の山間丘陵地形の地帯であり、
耕地はこれらの山谷又は山麓に棚田として現出し、常に良質米を産出し、農家もまた種子の選択改良を図ると共に先人たちの指導誘掖の功と相まって日本一の名声を博するにいたる。


吉川には古来より酒造家もあり、渡瀬地区の石田五郎邸などは往時を今に残す立派な酒倉式数寄屋(すきや)造りの代表的建物で貴重な存在である。
そのような条件は、明治維新後の民政の安定によって清酒の需要が高まり、農民の酒米生産への意欲を鼓舞激励して、酒造家好みの品種品質の改良に全力を傾注した。


兵庫県郡役所事績録に、「明治26年12月、奥吉川村市野瀬において山田篤治郎氏等が発起人となり、 百難を排し苦心の結果、元鳥居米に凝し改良米50石を作り、
これを標本として摂津西宮醸造家辰馬悦蔵氏に交渉し、取引を開始したるに、すこぶる好結果を得たり。ここに改良米共同販売の萌芽を発するにいたれり。」と記され、
泉正宗・菊正宗が現社町に上久米地区と明治24・25年頃取引したのが村米制度のはじまりで、
41年米穀検査法の施行により生産地区の品質改善に一層の努力をし、永続的取引を重んじて酒造家とのつながりを一層深めていっている。 


大正12年兵庫県明石農事試験場において、"山渡50-7"の系統名で新品種開発、昭和3年酒米試験場が加東郡福田村に設置され、生産者が意欲を燃やしていく中で、
生産地の各地区と酒造家の間において会社名」または酒銘を冠した会組織が誕生し、永続的取引きの要因を作った。 (筆者 故 奥川隆司 吉川町田谷)
0041七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:02:01.58ID:RxqMxL4P
第8章/新たな時代の要請に応えて
大正後期、業精が新しい組織と新しい経営方法による銀行経営に乗り出した。
 このような恐慌に突入する直前の大正8年 (1919)10月、
まだ好況のときに株式会社日本信託銀行 (現・大和證券)の設立が発起されている。この銀行に、小西新右衛門・業精が関与しているのである。

 公債民衆化を進める政府の応援もあって、首相みずから大阪府知事の林市蔵を頭取に勧誘したともいわれている。この会社は当時、大阪株式取引所理事長の島徳蔵が取引所関係者に働きかけ、取引所の機関銀行として設立を計画したもの。
資本金5,000万円、当時としては最大規模の大銀行であった。発行株数100万株のうち80万株は発起人および賛成人が引き受け、20万株を公募したが、応募数は348倍の6,960万株に達したという。
大正9年4月3日に創立総会。同、4月4日営業開始。銀行業ならびに担保付社債信託業としてスタートした。

 重役陣の顔ぶれは、すでに3月10日の総会で次のように決定されている (注3)。

 頭取 林市蔵
 専務取締役 横山昌次郎
 取締役 島徳蔵
 取締役 小川為次郎
 監査役 宮崎敬介
 監査役 小西新右衛門
 監査役 夏秋十郎
 この銀行、設立の趣旨からいっても、取引所員への融資に大きな役割を果たしたが、預金への依存度は比較的少なかった。
その預金もほとんど取引所員の預金であったという。業績はきわめて順調な滑り出しを見せたにもかかわらず、大戦後の恐慌を避けては通れなかった。
開業わずか4年後の大正13年10月には、全額払込済1,750万円に減資せざるをえない状態に追い込まれている (注4)。大戦後の恐慌に際して、有名な石井定七事件にからんで巨額の損失をこうむったのである。

 蛇足だが、石井は戦後成金で、大正9年ころにその資産は8,000万円ともいわれていた。
それが戦後の投機思惑で、大阪堂島米穀取引所で米100万石、大阪株式取引所で鐘紡株約32万株を買い占めて、約1,000万円以上の損失を出した。債権者には、当時における東西の有力銀行がほとんど名を連ねている。

 なお、この株式会社日本信託銀行は、昭和18年12月に藤本證券株式会社と合併し、今日の大和證券株式会社となった。
0042七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:07:14.48ID:RxqMxL4P
第3章/時代を先駆ける旗手として
産業資本家として、伊丹を中心に鉄道事業に情熱を傾けた業茂の明治20年代。
◎山陽鉄道創立前夜の舞台裏

 『明治鉄道史資料』の中に、「山陽鉄道創立史 (注2)」という毛筆書きの資料が収録されている。
通常の歴史の記述では消えてしまった創立前夜の経過を拾い書きして見よう。少し長くなるが、舞台裏が分かっておもしろいのではないだろうか。

 神戸〜姫路間に鉄道を敷設しようという計画は、明治15年 (1882)ころからあった。県議会でも18年11月に審議にかけられたが、賛成者少数で起案には至らなかった。

 明治19年12月9日、兵庫県知事・内海忠勝 (のち内務大臣)は意を決して、
神戸・姫路間の鉄道敷設の内話をしたいと、次の県下の有力者12人を自宅に招く私信を発している。

 小西新右衛門 (伊丹) 伊藤長次郎 (今市)
 鷲尾久太郎 (今津) 米澤長衛 (明石)
 辰馬吉左衛門 (西宮) 山邑太左衛門 (魚崎)
 光村弥兵衛 (神戸) 石田貫之助 (美嚢)
 岡崎真鶴 (姫路) 近藤常三郎 (加東)
 嘉納治郎右衛門 (御影) 大江清兵衛 (御影)
 いずれも県内の豪商、大地主、名望家ばかりである。

 文面の趣旨は、「いまや金融も緩慢となり諸物価も落ち着いてきた、政府では民設の九州鉄道を許可しようとする動きもある。
そこで我々も神姫間の鉄道を創立したいと思うので、よくよく考えて参集していただきたい」というものであった。

 内海忠勝は、この年の春にも鉄道民設の内示を得るべく東上していた。
夏には、県書記に牧野伸顕 (のち文部大臣、大久保利道の子)が就任し、予備段階で主唱者として次のことを確認しておく必要があると考えるに至った。

 この鉄道敷設の発起人は、予め次の決意をすること。
0043七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:08:51.65ID:RxqMxL4P
本業は、容易ならざる事業だから、一般の事業家にして官民の信用もあり、かつ鉄道に経験ある人物3氏を発起人に入れたいこと。
 3氏とは、大阪の資本家・藤田伝三郎、三菱の大番頭・荘田平五郎、但馬出身の横浜正金銀行頭取・原六郎である。
藤田伝三郎は、当時すでに政商として知られており、先年、阪堺鉄道 (大阪・堺)の創立にも大きく貢献していた。

 さて、12月22日、内海邸に全員が出席。予算諸表質疑をして一同了解した後、大いに利益があることを発見して、内海知事勧告の旨により直ちに請願しようということになった。
この席では、県下の華族へも知事から鉄道起業の発起人になるよう照会請求すること。三宅純一 (姫路)、高瀬藤次郎 (加東)の両氏を発起人に追加すること。
石田貫之助、辰馬吉左衛門、藤田伝三郎の3氏を請願手続き担当とすること。
荘田平五郎、原六郎の両氏へ照会のこと。発起人は1万円以上の株金を負担することなどが申し合わされた。

 3氏からはすぐ計画への参加承諾があり、計画も整ったので、2月27日に請願書をまとめる。翌20年1月14日、請願委員の3氏は、牧野伸頭書記官とともに東京に上った。

 返事があったのは、1月28日である。

 請願書は、「神戸から姫路にいたる線路を敷設して、姫路以西は漸次延長する…」という内容だったが、井上鉄道局長は真っ向から反対した。
その理由は、請願書にある幹線は山陽の要路であって、下関まで通じる国の幹線に当たっている。単なる一地方的なものではない。
だから、建設工事が簡単で営業上もっとも利益の上がる有利な区間だけを許すわけにはいかない。しかし政府としては、全国の鉄道を官営で、しかも短期間で敷設することは難しいから、条件付きで許すというのである。

 その条件とは、神戸以西にも官設鉄道の必要性を感じているので計画を下関まで延長するように変更することというものであった。
もちろん、先の予備段階で確認されていたところの、将来における政府の原価買い上げや他社との合併要求を拒絶できないという条件も付いての許可である。

 明治20年2月14日、再び発起人会を開いてこのことの確認をしている。やむを得ない。しかし、下関までとなれば資本金は1,300万円も必要になるが、発起人はどれだけ負担するかについても話し合われた。
必要に応じて募集するとしても、発起人は最低300万円を負担しなければならない。全員の思惑をたずねると、合計額が350万円になった。これなら十分だということで、再び協議して400万円に増加させることになる。
そして、250万円を発起人で負担し、150万円を公募することにしたのである。このときから藤田伝三郎が創立事務委員となった。

 創立約定書にみる株金引受発起人の出資額上位者は次の通り。

 兵庫県民では、

 小西新右衛門 (27.5万円)  伊藤長次郎 (25万円)
 米澤長衛 (24万円)  鷲尾久太郎 (12万円)
 山邑太左衛門 (10.5万円)
 他府県民では、

 原六郎 (39.5万円)  藤田伝三郎 (31.5万円)
 荘田平五郎 (31.5万円)
0044七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:10:02.91ID:RxqMxL4P
のちに社長となる中上川彦次郎は25万円を出資している。

 4月6日の発起人会では、資本金を550万円に増資することを決め、増加分の150万円は、沿道の両山、広島、山口へ配当するとした。

 その後、明治20年9血6日に定款を定め、翌21年1月、中上川彦次郎 (福沢諭吉の甥)を社長に迎えて山陽鉄道株式会社が設立された。
本社は、兵庫の西柳原町に置かれた。

 敷設は順調に進み、21年11月には明石まで、12月には姫路まで、24年2月には尾道まで開通。その後建設のスピードは落ちて全通したのは明治34年であった。
この間、明治22年7月に神戸〜東京間の東海道線が全通している。 (大阪〜神戸間は明治7年の開通)

 ちなみに、神戸〜東京間の直通列車 (夜間便だけ)は所要時間20時間50分、平均時速20キロ、運賃は東京〜大阪の上等が11円28銭、中等が7円52銭、下等が3円76銭であった (注3)。

 山陽鉄道は、日本で最も意欲的な鉄道として発展していった。日本で初めて実現されたものが多い。
たとえば、長距離急行列車 (27年)、車内灯の電化 (31年)、ボーイの添乗 (31年)、食堂車の連結 (33年)、一等寝台車の投入 (33年)、その他、乗り心地のよい3軸ボギー車の投入、真空制動機 (ブレーキ)の採用、ステーションホテル (下関)など。
また、全線が開通した34年には「最急行」を走らせて、ダイヤ上の速度 (表定速度)41.8キロを記録している。

 それまでの日本の鉄道は、表定速度30キロの半ばを越えることがなかったのである。「鉄道唱歌」が楽譜出版されて、またたく間に全国に広がっていったのもこの時期、明治33年のことである (注4)。
このころ、鉄道は時代の牽引車のようにいちばん輝いていた時代であったといってもいい。
0045七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:11:38.52ID:RxqMxL4P
◎業茂、阪神電気鉄道の発起人となる

 川辺馬車鉄道を皮切りに摂津鉄道、阪鶴鉄道と1連の流れの中で事業を強化・拡大していった小西新右衛門・業茂であるが、先に触れたように、いままた足下の重要路線、阪神間に目を注ぐことになる。
それが阪神電気鉄道の前身、神阪電気鉄道であった。

 同社の社史『輸送奉仕の50年』は、その設立前後の状況を次のように描いている (注6)。

 まだ日本に「電車」というものがなかった明治26年に、
小西新右衛門、小曽根喜一郎、谷新太郎ら神戸、西宮、伊丹あたりの有力者30名が相はかり、軌道条例によって阪神間の道路上にレールを敷いて、両市を結ぼうともくろんだのがそもそもの発端であった。
資本金は30万円、社名を「神阪電気鉄道株式会社」と名づけて、師走の27日に出願したが、まもなく「摂津電気鉄道株式会社」と改めた。
路線も一時に阪神問を欲ばっては特許がむつかしかろうと、ひとまず兵庫県内、すなわち神戸市加納町の通称滝道 (後に三宮に変更)から、尼崎町摂津鉄道の連絡点までの15マイル間に遠慮して、翌27年5月31日に出願した。
あたかも朝鮮の東学党の乱に端を発して日清戦争が勃発したため財界は一時気勢をそがれ、当社の創立事務もにぶったが、戦雲がおさまるや28年5月31日、さらに尼崎から大阪の福島 (後に出入橋に変更)までの延長を出願した。

 たまたま大阪方面でも外山脩造、藤田伝三郎、住友吉左衛門ら財界の名士10名が「坂神電気鉄道株式会社」を発起したので競り合いとなったが、
翌年7月に合併して大阪側の願書を取下げ、資本金も150万円に飛躍させ、ひたすら特許の日を待ったのである。

図6 明治27年頃の鉄道路線
「阪神電鉄80年史」より
 当初、この会社の創業を推進したのは、主として神戸の政財界人と郡部在住の先見性のある地方実業家であった。
一方、この神戸側の計画より約1年半遅れて、28年5月、大阪の有力財界人を中心に発起されたのが坂神電気鉄道株式会社 (資本金120万円)である。
藤田伝三郎、松本重太郎をはじめ、住友吉左衛門、住友の大番頭広瀬宰平、大阪商船の田中市兵衛など、そうそうたる顔ぶれが発起人に名を連ねている。
藤田を除けば、あとの4人は阪鶴鉄道の関係者でもある。ほかに、外山脩造、原六郎、今西林三郎、岡橋治助などもいた。

 大阪側の計画は神戸側のそれと比較して、スケールが大きく斬新な内容を持っていた。資本金も神戸側の4倍という規模である。
 結局、両社は合併し、資本金150万円のうち、摂津側が90万円、坂神側が60万円を分担することになった (注7)。
形式的には神戸側が主導権を握ったかに見えるが、のち大阪側に主導権が移っていくのである。

写13 阪神電気鉄道の設立と軌道敷設の願書
最初の神戸・大阪間を神戸・尼崎間に訂正し取り替えたもの。発起人に小西新右衛門の名が見える。
0046七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 13:33:22.21ID:RxqMxL4P
http://www.sakuramasamune.co.jp
商品詳細

江戸一 (えどいち)
江戸一
酒 質 純米
使 用 米 兵庫県産山田錦
精 米 歩 合 70%
アルコール度数 15度以上16度未満
価 格
(消費税抜) 1.8L  2,344円
720mL  1,176円
300mL  444円
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 “江戸一”は、江戸時代に江戸で一番と好評を得た当社の小印です。
酒造りに適した「山田錦」をふんだんに用い、淡麗でやや辛口の米のうまみを最高に引き出した本格純米酒です。
0047七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 22:32:14.41ID:RxqMxL4P
一枚の絵取材風景美術館情報音楽情報
建築シリーズ 遠藤新「旧甲子園ホテル」

4週連続でお送りする、日本の建築スペシャル第2弾。今回は、遠藤新の『旧甲子園ホテル』を紹介します。
世界的建築家であり、帝国ホテルの設計者であるフランク・ロイド・ライト。そのライトの愛弟子、遠藤が設計した、日本に残る希少なライト式建築の傑作が、旧甲子園ホテルです。
東京帝国大学の建築学科の学生だった遠藤は、雑誌でライトの存在を知り、大きな感動を覚えます。
そのライトが帝国ホテルの設計のため来日すると知ると、遠藤は帝国ホテル支配人に頼み、ライトのアシスタントとなりました。そして、ライトと共に渡米し天才の仕事ぶりを肌で学びました。
しかし、ライトの妥協を許さぬ仕事ぶりにより、工期は遅れ、建設費は膨らみます。
結局ライトは解任され、遠藤が代わりに帝国ホテルを完成させることになりました。
その実績を買われ、遠藤は旧甲子園ホテルの設計者に選ばれました。
日本初の高級リゾートホテルとして作られたこのホテルは、ゆっくり家族で過ごせるというコンセプトも元に設計されました。中庭には、船遊びが出来るほどの大きな池があり、リゾートを満喫しようとする宿泊客が集います。
そのため、建物の外観は、正面よりも、中庭側の外壁を重視して彫刻や装飾を施しました。一方で、内観には、和室や市松格子の光天井を設置するなど、日本的な趣向を凝らしています。
そして、ホテルのあらゆるところに用いられた打出の小槌のモチーフ。遠藤はそれに、縁起物である以上にある思いを込めました。はたしてその思いとは?
1930年に開業した旧甲子園ホテルはたちまち評判となり、帝国ホテルと並び称されるようになります。
しかし、太平洋戦争が始まると、ホテルは海軍病院に、終戦後は進駐軍の将校クラブとなります。ホテルは、わずか14年でその歴史に幕を閉じたのです。
遠藤は、旧甲子園ホテルの後、満州で活躍します。日米が戦争に突入すると、遠藤の元にライトから手紙が届きます。
アメリカ移住の誘いでした。しかし、遠藤は日本にあったライト式建築を根付かせたいという思いからこの申し出を断ります。
ところが、その後満州で病魔に倒れ帰国。戦後、1951年に志し半ばでその生涯を終えました。
旧甲子園ホテルは、現在は、武庫川女子大学建築学科のキャンパスとして使われています。 ライトから遠藤へ受け継がれた建築の精神は、新しい世代へと受け継がれているのです。
0049七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 22:44:16.12ID:igIXPr+d
>>1
コルビュジェの東京に続き、ライトの芦屋か。
やっぱり建築は当代随一の建築家を使うのが大事。
こうやって将来の文化遺産になるのだからね。
0050七つの海の名無しさん
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2019/07/13(土) 22:50:59.50ID:MSa5trLE
ライト「検知界の神になる」
0051七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 10:13:50.26ID:xiIwYnFg
第5次指定
1947年9月26日指定。いわゆる地方財閥・小規模財閥を対象とした。16社。

大原合資会社(倉敷紡績の持株会社)
株式会社林兼商店(大洋漁業の持株会社)→ 商社部門等は大東通商へ引き継がれた。なお、グループ傘下にあった北日本石油は現在、コスモ石油系列の石油商社となる。
石原合名会社(石原産業の持株会社)
豊田産業株式会社(豊田自動織機・トヨタ自動車の持株会社)
寺田合名会社(寺田財閥)
合資会社辰馬本家商店(日本酒「白鹿」の製造元・辰馬財閥)
山下株式会社(山下財閥)
大和殖産合資会社(武田薬品工業の持株会社)
関東興業株式会社(日本石油創業者一族の持株会社)
株式会社岡崎本店(岡崎財閥)
株式会社定徳会(東京川崎財閥、後の川崎定徳株式会社)
鈴木三栄株式会社(味の素・三楽酒造の持株会社)
服部合資会社(服部時計店の持株会社)→ 後に第二精工舎やセイコー電子工業を分社化。
若狭興業株式会社(昭和電工の持株会社)
共同興業株式会社(浅野系)
合名会社牛倉組
0052七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 10:15:03.16ID:xiIwYnFg
十五大財閥
編集
四大財閥に、GHQによる財閥解体指令を受けた11財閥を加えたものを、特に十五大財閥と呼ぶ。その多くは解散し、6大銀行グループに取り込まれていった。

三菱財閥(創業者: 岩崎弥太郎)
住友財閥(創業者: 住友政友)
三井財閥(創業者: 三井高利)
鮎川財閥(創業者: 鮎川義介)
浅野財閥(創業者: 浅野総一郎)
古河財閥(創業者: 古河市兵衛)
安田財閥(創業者: 安田善次郎)
大倉財閥(創業者: 大倉喜八郎)
中島財閥(創業者: 中島知久平)
野村財閥(創業者: 野村徳七)
GHQは以上を10大財閥と指定した。

渋沢財閥(創業者: 渋沢栄一)
神戸川崎財閥(創業者: 川崎正蔵)
理研コンツェルン(創業者: 大河内正敏)
日窒コンツェルン(創業者: 野口遵)
日曹コンツェルン(創業者: 中野友禮)
GHQは以上を15大財閥と指定した。
0053七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 10:15:39.30ID:xiIwYnFg
統合参加7行の概要
編集
株式会社三十八銀行
1877年(明治10年)8月に資本金23万円をもって姫路の平岩氏によって創立された第三十八国立銀行の後身。本店姫路市。兵庫県本金庫、神戸市金庫等の事務も取扱う。合併時頭取は伊藤長次郎(伊藤財閥)
株式会社神戸岡崎銀行
1917年(大正6年)5月に資本金1千万円をもって岡崎藤吉が創立。本店神戸市。同行を中枢とする岡崎財閥は岡崎汽船や神戸海上運送保険(同和火災海上保険を経て現・あいおいニッセイ同和損害保険)等全国的な事業展開をしていた。合併時頭取は岡崎忠雄(岡崎財閥)
株式会社五十六銀行
1878年(明治11年)3月に資本金5万円をもって創立された第五十六国立銀行の後身。本店明石市。合併時頭取は米沢吉次郎(二代)
株式会社西宮銀行
1891年(明治24年)5月に資本金3万円をもって創立された私立西宮銀行の後身。本店西宮市。合併時頭取は八馬兼介(八馬財閥)
株式会社灘商業銀行
1895年(明治28年)11月に資本金20万円をもって創立。御影に在住していた明治の元老松方正義の勧めにより地元酒造産業に対する金融の円滑化を図るために生まれる。本店は御影町(現東灘区)。合併時頭取は嘉納治兵衞(嘉納財閥)
株式会社姫路銀行
1896年(明治29年)4月に資本金25万円をもって創立された株式会社姫路商業銀行の後身。本店姫路市。合併時頭取は牛尾健治(牛尾財閥)
株式会社高砂銀行
1896年(明治29年)11月に資本金3万円をもって創立された株式会社高砂貯蓄銀行の後身。本店高砂市。合併時頭取は松本亀太郎
0056七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 12:05:23.73ID:xiIwYnFg
お家さん|読売テレビ
http://www.ytv.co.jp/oiesan/sp/index.html


幻の大商社・鈴木商店についてhttp://mentai.2ch.net/history/kako/1019/10198/1019824349.html
1 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/04/26 21:32
大番頭、金子直吉が発展させた鈴木商店について。
当時としては異例の独自の通信網を持ってたりとか、
三井、三菱との天下三分の計など、色々逸話は聞くんだけど、
実際のところはどうよ?

10 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/04/27 01:40
一応、商社としての鈴木商店は日本最大になったよ。

三井財閥 資本金3億。    系列関係会社100社以上。
鈴木商店 資本金5億6千万。 系列関係会社65社。
三菱財閥 資本金2億4千万。 系列関係会社78社。
住友財閥 資本金?      系列会社24社。

全盛期を比較(三井は、1928年)
間違えていたら訂正を。

>>8
第六十五銀行があります。後に、他行と合併して神戸銀行になり。
太陽神戸→太陽神戸三井→さくら銀行(現、三井住友銀行)。

血脈ですかね。
23 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/04/28 11:00
鈴木商店系が消えた後、のし上がったのが。
日産財閥。
住友を凌駕して、三井、三菱、日産、住友の順になった。
でも、日産は「満州」主体の国策的財閥だった。
0057七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 12:09:06.67ID:xiIwYnFg
金子直吉が築いた、売上日本一の総合商社
鈴木商店は、明治7(1874)年に鈴木岩治郎が洋糖引取商として創業。
洋糖そして石油を核にして神戸八大貿易商の一つとして数えられるが、明治27(1894)年に岩治郎が急死。夫人の鈴木よねが大番頭の柳田富士松と金子直吉に経営を託し、事業継続した。
金子直吉は、台湾総督府の後藤新平との知遇を得て台湾産樟脳油の販売権を取得。
神戸で樟脳工場を設立し、その後、次々と製造事業を設立し、金子直吉は“煙突男”と称されるようになる。北九州大里地区においては、大里製糖所を設立し、製糖事業にも進出。
その後、同地区では麦酒、アルコール、小麦、金属等の事業を展開、対岸の彦島地区においても化学、金属、鉄道事業に進出し、関門海峡を挟んで鈴木商店の一大工業団地を建設する。
鈴木商店は第一次世界大戦前後に重化学工業に積極展開し、明治38(1905)年には神戸製鋼所を、
大正5(1916)年には播磨造船所(現・IHI)を、大正7(1918)年には国産技術により初めての人造絹糸の量産化に成功し、帝国人造絹糸(現・帝人)を設立する。
第一次世界大戦が勃発すると、金子直吉は大戦の長期化と物不足を予測し、「Buy any steel, any quantity at any price」と一斉に買いの指令を出し、大投機を仕掛け巨額の富を得る。
またロンドン支店長の高畑誠一は「英国政府といえども一介の客に過ぎぬ」と連合国に対して強気のビジネスを展開し、食料、鉄、船舶等を大量に供給した。
英国のチャーチル海軍大臣(後の首相)も、「皇帝(カイゼル)を商人にしたような男だ」と恐れたという。またスエズ運河に通る船の1割は鈴木の船といわれ、様々な伝説的なエピソードが残っている。
そして大正6(1917)年、鈴木商店は当時のGNPの1割に相当する売上を記録し、日本一の総合商社となった。
金子直吉の事業意欲は衰えず、鈴木商店は約80もの事業会社を設立した。
その中には現在の神戸製鋼所、帝人、太陽鉱工、
IHI、サッポロビール、日本製粉、ダイセル、J-オイルミルズ、
日油、昭和シェル石油、三井化学、商船三井、鈴木薄荷、日本精化、日塩、ニチリン、東邦金属、三菱レイヨン等、現在のリーディングカンパニーにつながる企業も含まれている。
鈴木商店は第一次世界大戦後の反動不況や関東大震災など事業環境の悪化もあり、メインバンクであった台湾銀行からの借り入れが膨張していた。そして昭和金融恐慌を機に、昭和2(1927)年に鈴木商店は破綻してしまう。
金子直吉胸像大里製糖(北九州門司)神戸製鋼所、創業当時の正門
0058七つの海の名無しさん
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2019/07/15(月) 12:11:27.03ID:xiIwYnFg
日商 | 双日歴史館https://www.sojitz.com/history/jp/company/nissho/
昭和2(1927)年の鈴木商店の破綻後、旧鈴木商店の若手幹部であった高畑誠一と永井幸太郎は、鈴木商店の残党組らを伴って僅か39名で「日商」を設立。資本金は鈴木商店時代の80分の1という規模であった。
日商創業時の出資者の中には、“損保業界の父”とよばれ財界の大御所であった各務謙吉も含まれ、「日本の貿易は三井と鈴木の二本柱で発展してきた。日本の繁栄のためには貿易が必要。貿易の知識を持っている人たちが散らばるのは残念だし、日本の損失だ」と出資を快諾した。
一方の金子直吉、鈴木家は、「日商」に加わることは銀行団からは許されず、太陽曹達(現・太陽鉱工)を軸にお家再興を図ることになる。
日商は、インド・タタ財閥の銑鉄、アメリカの石油輸入ビジネスを主軸として主にリスクの低い物流ビジネスから出発、初年度から黒字を確保した。
日商が軌道に乗り始めると太陽曹達及び鈴木家が一時筆頭株主となり、日商は神戸製鋼所や帝人など旧鈴木商店系企業との関係を深めていく。
そして再び鈴木商店のように生産事業にも進出。その代表例が日本発条の設立であり、同社は後に世界一のばね専門メーカーに成長する。
戦後、社長の永井幸太郎は持論のエネルギー政策が吉田茂の共感を呼び、貿易庁長官に招聘され、政府の立場から戦後復興に貢献していく。
日商は、戦後民間企業として初めて米国・ニューヨークに事務所を開設、昭和26(1951)年に民間貿易再開後初となる船舶輸出を行い、以後日商は船舶と舶用機器の輸出では常にトップシェアを誇るようになる。
昭和29(1954)年に、トルコ向けに戦後最大のプラント輸出となる綿紡機を成約、昭和31(1956)年にはアルゼンチン向けに日本初の鉄道輸出を成約し、輸出による外貨獲得により日本の復興を貢献していく。
昭和31(1956)年には、米・ボーイング社の対日代理権を取得し、またマクダネル・ダグラス社とも提携し、以後、航空機ビジネスを積極展開していく。
エネルギー分野においては、旧鈴木商店ゆかりの企業等によびかけFAPIG(第一原子力産業グループ)を結成、
FAPIG各社は日本で初めて建設した茨城県東海村の原子力発電所を受注する。
また石炭斜陽化の流れを受けて、LPG取引に進出し全国に物流網を構築した。
鉄鋼分野ではインド・タタ財閥の銑鉄の輸入をいち早く再開。また神戸製鋼所の線材輸出を手掛け、国内では鉄鋼加工センター網を整備した。
非鉄分野では戦後初めてニューカレドニアからのニッケル鉱石の輸入を行うなど、金属部門の取扱高は岩井産業との合併前には42%のシェアを占めていた。
そして昭和43(1968)年に、同じく金属部門に強みのある岩井産業と合併することになる。
0059七つの海の名無しさん
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2019/07/19(金) 21:47:50.34ID:MqeURf4O
神戸/阪神圏の栄華を今に伝える建築物だね。
豊かになったらやっぱり時代を超える傑作建築にお金を使わないとね。
0060七つの海の名無しさん
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2019/07/27(土) 15:46:16.23ID:CGguj3IF
清酒 多聞って子会社が太陽神戸銀行。
0061七つの海の名無しさん
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2019/08/02(金) 12:24:04.60ID:i63vCNL3
摂州灘五郷、日本一の酒処。
灘の生一本。樽廻船、大消費地大江戸への下りもの。
0062七つの海の名無しさん
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2019/08/05(月) 14:28:34.37ID:uTsL3j7v
いだてん 嘉納治五郎 IOC
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