画像:ヤン・ズヴァルテンディクが1940年に自筆署名した査証
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画像:杉原千畝
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第二次大戦中、リトアニアで外交官の立場を利用し通過ビザを発給して
多くのユダヤ難民を救った杉原千畝は有名だ。

しかしその陰に、このドラマティックな救出劇を可能にしたオランダ人がいた。
オランダ人記者が日本でそのことを知り、深掘りして、ユダヤ系メディアに寄稿した。

岐阜県にある八百津という田舎まではるばるやってきたのは、杉原千畝の行動について理解を深めるためだった。

杉原は、ホロコーストからユダヤ人を救った人々のなかで最も突出した人物のひとりだ。
外交官だった杉原は、リトアニアのカウナスで足止めを喰らっていたユダヤ難民のために
2000通以上の通過ビザを発給した。

しかし最終的に私は、杉原本人よりも、彼の物語のなかで、
非常に劇的でありながら見過ごされてきたパートに焦点を当てることになった。
皮肉なことに、その物語はわが母国オランダに私を連れ戻すものだった。

多くの人が杉原の故郷と見なす地に建てられたこの記念館は、1986年に没した杉原を英雄として称えている。
それは、彼がカウナスに赴任中の1940年、日本政府の命令を無視してまで、ユダヤ人がナチスから逃れ、
ロシアから中国、日本を通って他国へ亡命する手助けをしたからだ。

当時の大日本帝国は、史上最悪級の戦争犯罪をおこなっていたナチス・ドイツを支持していた。
そのようななかで、博愛を体現した稀有な人物が杉原だ。

一方で杉原は、ホロコーストからユダヤ人を救うために自らの命までは賭けなかったが、
イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰された非常に珍しい一例でもある。

杉原は何十年ものあいだ、それほど有名でなく、その評価も分かれていた。
命令に従わなかったことがタテ社会の日本では不評を買っていたのかもしれない。
だが近年では、彼が演じた救出劇は、同様の話のなかでもとくに有名なひとつに挙げられる。

2000年、岐阜県八百津町に建設された杉原千畝記念館は、一見なんの変哲もない施設だが、
毎年1万人以上の見学者や記者が訪れる(八百津町のもう一つの自慢は、逸品の日本酒だ)。
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■杉原千畝の陰に隠れた英雄

展示順路のまさに最後、1枚のポスターに目が留まった。ユダヤ人の命を救った、
杉原以外の外交官について書かれたものだ。そこには、オランダの事業家で、
外交官も務めたヤン・ズヴァルテンディクのことがきっかり50語で書かれていた。

ズヴァルテンディクがカウナスでオランダ領事代理を務めたのは、
杉原が大日本帝国領事として赴任していたのとちょうど同じ時期だった。

杉原の名声の陰に隠れているものの、ズヴァルテンディクこそ、杉原のユダヤ人救出を最初に手がけ、
推し進めた重要人物なのだ。

それだけではない。ズヴァルテンディクは杉原と違い、妻と3人の幼い子供、そして自らの命を賭けた。

ポスターに書かれた謎めいた説明によると、ズヴァルテンディクは「ユダヤ難民に多くの準ビザを発給し」、
その準ビザと杉原のビザのおかげで難民が脱出できたという。

勉強になったというより混乱した私は、エフライム・ズロフに電話をかけた。
「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のホロコースト史研究者で、杉原についての博士論文を書いた人物だ。
ズロフはブルックリン訛りで話してくれた。

「よく聞いてくれ。もしヤン・ズヴァルテンディクがいなきゃ、ユダヤ難民はひとりも日本に行けなかったろう。
すべてを始めたのはズヴァルテンディクなんだ。ズヴァルテンディクなしには、
杉原もビザを発給できなかった。そこをもっとちゃんと評価しなくっちゃね。

ズヴァルテンディクの果たした役割はとっても大切だった。あの有名な杉原と比べてみても、
ちっとも劣るもんじゃないんだ」

続きはソースで

https://courrier.jp/news/archives/120260/