リアルサウンド2021.05.23 10:00
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変わらない日常の中で、ほんの少し頑張って手に入れた家具や家電、あるいは乗り物によって生活が変化する。そんな瞬間は誰にでもあるのではないだろうか。最初は劇的な変化に喜び、気がつけばそれが日常となり、当たり前の存在に。だけれど、それを手に入れる前と後では人生そのものが変わっている。そんな瞬間を丁寧に描いたのが、テレビアニメ『スーパーカブ』だ。

『スーパーカブ』は2016年より小説投稿サイトにて連載されたトネ・コーケン原作の小説を原作とし、書籍・漫画化を経て、2021年4月よりテレビアニメで放送が開始されている。両親も友人もお金も趣味も将来の目標もない、1人で静かに孤独に暮らす主人公・小熊が、スーパーカブと出会うことで生活を一変させていく姿を描いていく。

一般的にアニメの魅力としてよく挙がるのは、やはり派手なアクション・バトルの作画や演出ではないだろうか。ぐりぐりとカメラごと動き回り、時には目で追うことも難しい激しいアクションやエフェクトに魅了されていく。実写では技術・予算的に難しいカットや派手なアクションが堪能できることが、アニメの魅力と語る人も多いだろう。

もちろんそれも正解なのだが、一方で多くのベテランアニメーターが描くのが難しい作画として挙げるのが日常芝居だ。歩く、走る、何かを持ち上げるなどのごく普通の芝居こそが、日常的であるが故に小さな違和感が目につきやすく、誤魔化すことができない。中には「歩き・走りの日常芝居ができて一人前」と語るアニメーターもいるほどだ。

その日常芝居に正面から取り組んでいるのが、本作である。近年“神回”と呼ばれるような緻密で派手なアクション描写は、ほとんど描かれることなく、淡々とした日常を中心としている作品だ。時には音楽も少なく、ほぼ生活音以外は鳴らない中で物語が進行していくことも多い。深夜アニメということもあり、疲れてリアルタイムで観ると眠気を催す視聴者もいるかもしれない。そう語ると地味な作品のように感じられる方もいるだろうが、むしろその逆だ。丁寧に作られた日常的な芝居と、静かな音楽の中に潜む、計算された演出によって本作に魅了されてしまう。

例えば第1話を例に挙げたい。冒頭では舞台となる山梨県北杜市の風景が描かれ、徐々に小熊の暮らす部屋の中へとカメラが向けられていく。そこで朝に目覚めた小熊がシャワーを浴び、パンにパターを塗って食べ、お弁当箱にご飯を詰め、レトルトのパックを持っていく。ただそれだけを、ナレーションもなく3分以上にわたり淡々と描写を重ねていく。特に何も干されずに外に置かれたピンチハンガーからは、日常の空虚感と孤独感が強く伝わってきた。

テレビアニメの第1話というのは、作品の導入としてとても重要で、登場キャラクターの紹介や世界観の説明、作品の最大の魅力やテーマを視聴者に説明したい回だ。そのために派手な演出やバトル描写、特殊エンディングや、多くのナレーション、説明セリフを用いることが多い。

本作に関しては舞台は現代の山梨県ということで説明の必要が少ないものの、それでも最低限の要素に絞って説明をしている。つまり、小熊の日常と、スーパーカブとの出会い、その変化だ。

それを象徴するのが初めてスーパーカブに乗ったシーンだろう。普段は少し色あせた色彩が、その瞬間に鮮やかに変化する。それまでBGMがほぼなかったのにも関わらず、運転を始めるとBGMがかかる。こういった演出は、ほんの僅かな変化のようではあるが、視聴者に小熊の日常の変化の予感を印象づけるのには最適な演出だ。

そして第1話から第3話では、スーパーカブを手に入れたことによって、行動範囲が増える様子を。そして第4話から第6話までは、とても身近でバイクや車に比べると、ともすればバカにされがちなスーパーカブの持つ可能性を描いている。この“走行距離が増える物理的な変化=人生における行動範囲が広がる精神的な変化”という描き方もまた、観ていて心地いいものだ。

本作からは徹底的に親などの保護者の存在が排除されているが、それもスーパーカブという1人乗りの乗り物にピックアップすることで、1人の人間の人生と成長を描くようにも感じられる。時にはメンテナンスを教えてもらい、友人や同好の仲間を見つけながらも、最後には1人で長い道のりや悪路を進む。まるで人生訓の詰まった純文学を読み進めているような気分にも近しいものを感じる。

ともすれば、こういった日常的な芝居の積み重ねはアニメではなく、より自然な演技もできるであろう実写で行った方がいいと考える方もいるかもしれない。
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