マグミクス2021.05.19
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「ザオラル」があると「メガンテ」が立たない…『ドラクエ』マンガのジレンマ

「ドラクエマンガ」を読むたび、「死」の扱い方に感動を覚えます。ここでいう「ドラクエマンガ」とは、ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの世界を舞台にしているマンガのことです。

マンガにおける登場人物の「死」は読者に深い悲しみを与え、物語のクライマックスにもなり得るものです。ところが「ドラクエ」では死が相当軽んじられています。全滅すれば「死んでしまうとはなにごとだ」 と叱られる始末。ほとんど「寝落ち」くらいの感覚です。その背景には教会での蘇生、「ザオラル」「ザオリク」といった蘇生呪文の存在があるのですが、ストーリーマンガではこれがどうにもネックとなります。「ドラクエマンガ」はその世界観を踏襲しつつも、原作では当たり前のように行われている「蘇生」と絶妙な距離を取り続けなくてはなりません。具体的にみていきましょう。

●『ダイの大冒険』は「死体にさえならならなければ大丈夫」

もっとも有名な「ドラクエマンガ」といえば、リメイク版アニメが絶賛放映中の『ダイの大冒険』(監修:堀井雄二、原作:三条陸、作画:稲田浩司)でしょう。

『ダイの大冒険』の世界では序盤、蘇生の概念はありません。クロコダインの言葉を借りれば「“死体”にさえならなければ回復呪文で体力は回復できる」。これが『ダイの大冒険』のなかでの生死の原則です。

劇中における「死」の重さは自己犠牲呪文「メガンテ」のシーンが最も分かりやすく描かれます。「メガンテ」は自らの命と引き換えに相手に大ダメージを与える呪文。ゲームではなかなか使う機会もない呪文ですが、「ドラクエマンガ」においてはドラマの引き金としてこの上ない機能を果たします。

『ダイの大冒険』ではこの「メガンテ」は2回唱えられます。2巻でメガンテが放たれた時点では蘇生の概念はまだなく物語としての表面張力は維持されます。話は進み12巻。2回目の「メガンテ」が唱えられると、ここでようやく蘇生呪文「ザオラル」の存在が明かされるのです。ただしこのザオラルは熟練した僧侶でも成功率は50%以下という設定となっており、残念ながら成功には至りません。「蘇生」に対し熟練した力量(レベル)を求める点はキャラクターの成長を描く『ダイの大冒険』らしい「死」との距離感といえるでしょう。

●『ロトの紋章』は…死者は冥界へと向かう
同じく「ドラクエマンガ」の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』(原作・設定:川又千秋、脚本:小柳順治、作画:藤原カムイ)も傑作です。舞台設定はゲーム版「ドラゴンクエスト」のロトシリーズをおおむね踏襲しているのですが、『ダイの大冒険』と比べると生々しい描写も多くリアリティ志向の「ドラクエマンガ」といえるでしょう。

本作において死者はモブであろうと主要人物であろうと平等に冥界へと向かい明確に「死」が強調されます。当然のごとく蘇生呪文は登場しません。そして本作でもまた「メガンテ」シーンは登場するのです。「死」の重みが強調されていたためか、その悲しみは慟哭ものです。(なお物語の終盤、この世界における生死がどのように形成されたのかについても言及がありますが今回は割愛します)

●コミカライズ版ではどうなのか?
ここまではあくまで『ドラクエ』の世界観を踏襲にしている作品を紹介してきましたが実際の「ドラゴンクエスト」シリーズのコミカライズ版はどうでしょうか。前2作と違い、原作に蘇生呪文がある限り、恣意的に排除することは不自然な気もします。

ということで『ドラゴンクエストVI』のコミカライズ版『ドラゴンクエスト 幻の大地』(著:神崎まさおみ)の「死」の扱い方を紹介して記事を終えたいと思います。やはりこちらの作品も「蘇生」の概念はありません。これは排除しているのではなく、そもそも原作で主要キャラの死別イベントがないので描く必要がないからといえるでしょう。

さて物語も大詰めの最終巻。ここで原作では普通に覚えられる呪文である蘇生呪文「ザオリク」が“伝説の究極魔法”という位置付けで登場します。本作の呪文は「バギマ」といった中級魔法でも城のドームを大破できるほどの威力があり全体的に呪文威力の底上げがなされています。だからこそ「蘇生=究極魔法」という整合性をしっかり保っています。構成が本当に見事です。

以上、「ドラクエマンガ」における「死」の扱い方について考察してきました。果たして「ドラクエマンガ」において“死んでしまう”とはなにごとなのか……難しいです。