高畑さんが亡くなり、「お別れの会」を終えたいまも、気持ちが収まる気配がありません。徳間康快や氏家齊一郎さん、あるいは親父やお袋が死んだときも、葬儀を終えてしばらくしたら、心の整理はついたんです。ところが、今回はなかなか落ち着かない。気がつくと、すぐそこに高畑さんがいるんですよ。こんなことは生まれて初めてです。それだけ強烈な人だったということなんでしょうけど、正直なところ困っています。

 お別れの会でも話しましたが、高畑さんと僕は最後の最後まで監督とプロデューサーでした。ある種の緊張関係がずっとあったんです。

鈴木敏夫(スタジオジブリ 代表取締役プロデューサー)

最初にじっくり話をしたのは、高畑さんが『じゃりン子チエ』を作っているときでした。当時の僕は『アニメージュ』の編集者。制作会社テレコムがあった高円寺の喫茶店でインタビューすることになりました。席に着くやいなや、高畑さんは先制パンチを放ってきました。「僕が原作のどこに感動して映画を作ろうと思ったか、そういうくだらない話を聞きたいんでしょう」。以前に電話で話して、難しい人だということは分かっていました。僕はそのパンチをかわし、入念に準備した質問をぶつけていきました。それに答える高畑さんの話は止まらず、気がついたら3時間が経っていました。席を立つ間際、高畑さんは言いました。「取材にならなかったでしょう。記事にはならないですね」。僕はその挑発を受けて立ち、記事を書きました。

 その日から映画の完成まで毎日、高円寺に通い、高畑さんと話し続けることになるんです。そして、完成披露パーティの席上、高畑さんから「あなたのおかげで自分の考えを整理できた」と言われました。僕が映画を作るおもしろさ、プロデューサーの醍醐味を知ったのは、そのときが最初だったかもしれません。

■高畑さんと作品を作ることは甘いものじゃなかった

 僕がジブリで高畑さんといっしょに作ったのは、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ となりの山田くん』『かぐや姫の物語』の5本です。一本の作品を作る上で、監督とプロデューサーは共同事業者。仲よくやっているだけじゃ、いい作品は作れません。毎回、議論の連続だったし、日々が戦いだったといっても過言じゃありません。よく「いい距離感を保つ」なんて言いますけど、そんなに甘いものじゃなかった。相手の中へ土足で入っていくこともしばしばでした。

 立場上、僕はどうしても高畑さんにいやなことを言わなければならない。『火垂るの墓』ではスケジュールが遅れに遅れ、公開に間に合わせるために厳しい交渉をせざるを得ませんでした。107分あった絵コンテを僕は新潮社の担当だった村瀬拓男と相談し、88分まで縮めました。それでも間に合わず、塗り残しがあるまま上映することになったのは、いま思い出してもつらい記憶です。『ぽんぽこ』のときは、スケジュールが遅れることを見越して、「夏公開」を「春公開」に書き換えた偽のポスターを作って、高畑さんの席の横に貼っておくなんてことまでやりました。ぜんぜん効果はなかったですけどね(苦笑)。このときも結局、一部をカットせざるを得なくなって、そのことで延々責められることになります。

 そういうことを繰り返しながら、『山田くん』まで作ってきて、僕としては高畑作品はもう終わりにするつもりだったんです。それでも『かぐや姫の物語』を作ることになったのは、日本テレビの会長・氏家齊一郎さんの一言があったからです。

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