朝日新聞とCIA [無断転載禁止]©2ch.net
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緒方竹虎(主筆)および、笠信太郎(論説主幹)など、
米国情報機関と朝日新聞との歴史的な関係 新潮45 2014年9月号(2014/08/19発売)
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20140819/
【昭和秘史発掘】
「スイス終戦工作」空白期間の謎/有馬哲夫
2 ダレスは何をしていたか
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ベルリンから一時的に姿を消したダレスは、「天皇制存置」のため動いていた。
そして「和平工作」の人脈はCIAと戦後日本の関係として生き続けていく。 藤村義朗海軍中佐がスイスの首都ベルンから本国外務省に暗号電報を打って早期和平を呼びかけたとき、相手方のアレン・ダレス
(のちのCIA長官)はすでにOSS(戦略情報局、大統領直属の諜報機関)も辞め、スイスのベルンを去っていた。藤村はダレスがいない
「ダレス機関」と交渉していたのだ。そのことが露見することを恐れた藤村は、実際よりも一か月ほど前倒しして、ダレスがまだベルン
にいた5月に本国に和平の呼びかけを始めたとする「ストーリー」を作り上げ、それが雑誌記事やテレビドキュメンタリーを通して
戦後広まることになった。だが、様々な歴史資料により、今日この藤村終戦工作「ストーリー」は歴史的事実とはかなり違っていることが
明らかになっている。ここまでが、前回に述べたことだ。
そうすると、当然ながら次のような問いが浮かんでくる。藤村と和平交渉を始めたばかりだというのに、なぜダレスはベルンを
去ったのだろうか。…
7月21日にスイス公使加瀬俊一が本国の東郷茂徳外務大臣宛に打った電報のオリジナル(これも傍受されて同日付
マジック文書になっている)にも次の部分がでてくる。
「グルーの声明文は約1カ月前<ダ>(ダレス)が華府[ワシントン]へ帰ったとき<グ>(グルー)が練りに練って草案を作っていたもので
<ダ>も相談に与った由此も声明書中に些少も日本の皇室並に国体に触れ居らざる点を見逃さないでほしいと<ヤ>(ヤコブソン)はいう」
引用文中の「ヤ」すなわちベール・ヤコブソンは、国際決済銀行幹部で、終戦交渉において、国際決済銀行理事の北村孝治郎
(横浜正金銀行から出向)、その部下吉村侃、スイス公使館駐在武官の岡本清福陸軍中将とダレスの仲介をしていた人物だ。…
… …
実は木戸幸一内大臣が6月9日に天皇に提出した「時局収拾ノ対策試案」の第一項目「敵側の所謂平和攻勢的の諸発表諸論文
により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以て其の主要目的となすは略[ほぼ]確実なり」という判断は、ザカライアスのとくに
第3回目から5回目(5月19日〜6月2日)にかけてのプロパガンダ放送から得られたものだった。これらの放送で、ザカライアスは、
軍閥の犯した過ちとその責任にのみ言及し、天皇および天皇制には一言も触れなかった。
ザカライアスは二十年から5年間日本にいたことがあり、帰国後も皇族や政治家やジャーナリストと親交を続けていた。このため、
彼のプロパガンダ放送は、彼と知り合いの日本人の重要人物に直接話しかけるという、珍しい形をとっていた。
彼もまた、海軍やOSSから得ていた情報から、日本は天皇制さえ残せば降伏するという感触を持っていた。だから彼はプロパガンダ放送
で天皇および天皇制にまったく触れなかった。触れれば、日本人はアメリカ側が天皇制を問題視していて、廃止するつもりだと判断し、
「一億玉砕」の決意をいっそう固くするからだ。
彼は海軍省トップに無条件降伏を修正するように迫り、海軍レヴェルではこれに成功していた。同じく知日家の彼は、5月以降グルー
と共同で日本に対するプロパガンダを行っていた。
さらに注目すべきは、ザカライアスが三人委員会の3日前の6月9日に行ったプロパガンダ放送で、彼が朝日新聞チューリヒ支局
駐在員(もともとはスイス公使館員)田口二郎の東郷外務大臣宛の書簡に言及しながら、ドイツの二の舞にならないよう早期に降伏する
よう呼びかけていることだ。田口は東郷宛の書簡のなかで、「一人一人がすべてのものを失った」と述べていた。
いうまでもなく、田口の東郷宛の書簡の内容をザカライアスが知っているのは、OSSスイス支局の関係者が情報を与えたからだ。
この関係者は誰かといえば、このような情報を持ち、かつ、他機関である海軍に与える権限を持っているのだから、ダレスその人だろう。
ここからダレスが6月9日以前にザカライアスと情報交換していたと推定できる。
このように、国務、陸軍、海軍省は、グルーやマクロイやザカライアスの働きかけによって条件降伏案の支持に回り始めていた。…
… …
原爆実験成功で消えた降伏案
7月初旬、スイスで北村、吉村たちが、和平の動きを起こしていた。OSS文書を読むと、実は彼らは早くも3月にこのような動きを
起こしていたことがわかる。その後、東郷外務大臣の訓電を受けて五月初めに加瀬がOSSに接触して和平の条件を探っている。
藤村の和平を求める動きは、実は三番手だったのだ。
この時の北村たちの動きが前と違っていたのは、陸軍中将の岡本も加わっていて、彼らをスイス公使の加瀬がバックアップする
というオールジャパン的なところだった。だからダレスももう一度やってみる価値があると考えたのだろう。…
北村、吉村、岡本が7月初旬になって和平の動きを起こしたのは、ポツダム宣言へ向けての日米の動きが彼らに伝わっていたからだ。
7月7日、トルーマンらアメリカ代表団が巡洋艦オーガスタに乗ってポツダムに向けて出航していた。同じ7月7日、
日本のソ連相手の終戦交渉のほうも予想以上の急展開を見せていた。
マジックによれば、七月七日に東京の東郷外務大臣は、モスクワの佐藤尚武駐ソ大使に三者会談(ポツダム会議)が始まる前に
あらゆる手段を講じてソ連を和平交渉に引き入れよと指令している。
7月11日には東郷は佐藤に緊急電報を打って「状況の切迫により我々は密かに戦争終結を考慮している」と告げている。
7月12日には、やはり緊急電報で「天皇の戦争終結の意思をロシア側に伝えて、三者会談の前に交渉を進展させよ」と指令している。 スイスの日本人たちは、ポツダム会議へ向けての切迫した動きが伝わってくるにつれて、もはやいてもたってもいられなくなっていた。
注目すべきは、それまでは藤村の黒子役に徹していた朝日新聞特派員の笠信太郎も、7月9日に公使館の暗号機を借りて外務大臣
東郷宛てで、当時内閣顧問となっていた緒方竹虎に送付するよう依頼する電報を打ったことだ。これは7月14日付マジック文書
となっている。
内容は、ソ連が参戦することを予想し、この上本土上陸が行われるならば、戦争末期のドイツと同じ惨状が繰り広げられることに
なると警告し、最低限の権利を守ったうえで和平を結ぶべきだと勧告していた。アメリカ側は笠が緒方のほかに近衛などに通じている
ということで、この電報に注目した。
しかし、この電報は外務省には届いたが緒方のもとには届けられなかった。日本の外交史料館に残る同電報の余白には
「配布せず」と鉛筆書きしてある。
すでにソ連を介しての米英との和平交渉を開始していたのだから、ソ連の参戦に言及したこの電報が無視されたのは仕方なかった。…
… …
…
実は、東郷を動かしたのは、駐ソ連大使佐藤が7月30日付で打った電報だった。この電報は次のように同日加瀬が東郷に打った
電報に言及しつつ、東郷にポツダム宣言の即時受諾を促している。…
…加瀬の30日の東郷宛の電報は、吉村の、ヤコブソン経由のダレスの、情報に基づいていたのだ。そして、それが佐藤と東郷を動かし、
8月10日の最高戦争指導会議での条件付ポツダム宣言の受諾へと導いた。
天皇の確信
さらに重要なのは岡本が天皇に与えたインテリジェンスだった。8月12日、日本側が8月10日に送った条件付きポツダム宣言受諾に
対する回答が返ってきた。それは以下のようになっていた。…
…だが、ポツダム宣言よりは妥協的だと読める。だが、それでも天皇制存置を保証しているのかどうかは明確だとはいえない。
そこへ8月12日の夕方、スイス公使館付武官から「天皇ノ御位置ニ関する反響」という電報が陸軍省に届いた。
これは次のことを報告していた。…
この電報のコピーは鈴木首相と木戸内大臣に送られたと外務次官松本俊一は証言している。天皇が読んだことは確実だと
松本は断言している。阿南惟幾陸軍大臣は天皇制存置の保証が明確に示されてないと反対したが、天皇は「阿南よ、余には確信がある」
といってこれを退けたという。天皇の確信がスイス公使館付武官からの「天皇ノ御位置ニ関スル反響」から得られたものであること
は論を俟たない。そして、この電報が岡本かその部下が打ったものであり、その情報源の少なくとも一つがOSSスイス支局である
ことは明らかだ。
8月14日の最高戦争指導会議で、アメリカからの回答を了とする決定が下され、ようやく戦争が終わることになった。
ダレスとスイスの日本人の終戦工作は、原爆投下とソ連参戦前に日本を降伏させることはできなかったが、戦争を8月15日で
終わらせる上では大きく貢献したといえる。
この日に終わらなければ、この戦争はいつ終わっていたかわからない。長引くことによって、どれほどの命が失われたかわからない。
この意味で、ダレスとスイスの日本人の終戦工作は、彼が北イタリアの約100万人のドイツ軍を無血降伏させた「サンライズ作戦」
に勝るとも劣らないものだったといえる。 「クラウン・ジュエル作戦」
ところで、これまでみてきたように、終戦工作で中断されることになったが、そもそも、ダレスはウィースバーデンで何をして
いたのだろうか。
最近のドイツでの研究からわかってきたことは、彼が「占領地高等弁務官」として行っていたのは、ナチスの戦争犯罪者を
ニュルンベルク裁判にかけるための調査や証拠集めだったということだ。
OSSの活動を通じて、ナチスの上層部の戦争犯罪をよく知っているのでダレスは適任だと思われていた。だが、ドイツの研究者は、
ダレスが証拠を集めるというよりは、隠蔽し、隠滅していたと非難している。
たとえば、北イタリア駐留ドイツ軍親衛大将カール・ヴォルフは、反ナチスレジスタンスの捕虜虐待や虐殺に手を染めていたが、
ダレスと交渉して無血降伏したからには、彼の戦争犯罪を免責しなければならない。これはかなり大がかりな「工作」だった。
これと関連してダレスが行っていたのは、「クラウン・ジュエル作戦」だった。これは非ナチスのドイツ人有力者のリストを
作ってアメリカのドイツ占領に協力させるというものだ。
ダレスの妹エレノア(・ランシング・ダレス)は、彼女の回顧録『一生に一度のチャンス』のなかで、彼女が兄がウィースバーデン
に赴任したころに宿舎を訪ねたとき、「ウッドとフランスのレジスタンス運動の指導者サーモン将軍が一緒にいた」と述べている。
「ウッド」も「サーモン」も暗号名だ。サーモンの本名は不明だが、エレノアの紹介通り、フランスのレジスタンス運動の指導者
だろう。ダレスはよく忙しい時間を割いてフランスに入り込み、現地のレジスタンスを物心両面において支援していた。
ウッドのほうは、本名フリッツ・コルビーといい、ドイツ外務省の文書係だった。ヨアヒム・フォン・リッベントロップが
ヒットラーの寵を得て外務省に乗り込んだときから、彼は反ヒットラー派になり、ドイツの敗色が濃厚になると、外務省の機密文書
をフィルムにとって、スイスに旅行に行くと見せかけてダレスに渡していた。その中には、ソ連の対日参戦やV2ロケット基地に
関するものなどがあった。 妹の記述から、ダレスがコルビーをドイツ語の、サーモンをフランス語の通訳兼交渉係として、戦争裁判の証拠集め、証拠隠滅、
「クラウン・ジュエル作戦」の遂行にあたっていたことがわかる。
これもドイツ側からの研究でわかったことだが、ダレスはこの作戦の対象を非ナチスのドイツ人に限定しようとしたが、
その影響力の大きさや地位の重要性から、ナチス党員や協力者もリストに入れるケースがあった。
このようなケースにラインハルト・ゲーレンも含まれていた。
ゲーレンは対ソ連インテリジェンスを行ったドイツ陸軍参謀本部東方外国軍課の課長だった。彼はドイツ崩壊後、南ドイツの山に
潜伏していたところを、アメリカ軍のCIC(防諜隊)に捕らえられていた。だが、CICはゲーレンが何者かわからず普通の
ドイツ兵捕虜としてミュンヘンに近いフィッシュハウゼンの監獄に入れていた。
コルビーの情報から、彼が終戦に備えて何万枚にもなる対ソ連情報資料を保管していることを知ったアメリカ軍のG2部長
(ヨーロッパ戦線)のエドウィン・シバートは、彼を他の戦争犯罪容疑者から引き離して、ダレスがいたウィースバーデンに移送し、
別扱いすることにした。
このあとゲーレンは戦争犯罪を免責され、ほかの課員とともにアメリカに送られることになった。アメリカは戦争終結まで
本格的対ソ連インテリジェンス機関を設けなかったので、このゲーレン機関は、少なくとも冷戦初期の段階では、
アメリカの対ソ連インテリジェンスの中核を担うことになった。
しかも、あろうことか、このゲーレンは55年に西ドイツに戻り、同国の諜報機関であるドイツ連邦情報局の初代局長になった。
これがCIAの対ヨーロッパ、対ソ連戦略にどれほど有利に働いたかわからない。そのレールを敷いたのは、ダレスだった。
つまりダレスはウィースバーデンで将来CIAのトップになるための布石を着々と打っていたことになる。 では、スイスの日本人に対しては日本版「クラウン・ジュエル作戦」は行われたのだろうか。8月19日付のマジック文書は
北村と藤村が次のようにOSSスイス支局に申し出ていたことを明らかにしている。
「北村も藤村もヤコブソンとダレスを通じて築いたワシントンとのチャンネルを維持したいといっている。彼らはスイスにいる
米国人の誰かが任命されて、自分達と非公式に連絡を取れるよう望んでいる。こうすれば東京も外国からの視点を得られるし、
米国人にとっても役立つだろうということだ」
OSS文書、国務省文書(アメリカ国立第二公文書館所蔵)、アレン・ダレス文書(プリンストン大学シーリー・マッド稀覯文書図書館
所蔵)は、ダレスのOSSスイス支局時代の部下ポール・ブルームが47年春まで駐スイス公使館に勤務したあと、同年7月に日本に
やってきて表向きGHQの外交局に勤務していたことを明らかにしている。
ブルームの著書『ブルームさん!』によれば、彼は自分が日本に来ていることをまず笠に教えている。そして、笠が帰国後しばしば
会っていた藤村に、ブルームが日本に来ていることを伝えている。これ以降、ブルームと藤村は頻繁に接触することになる。
驚くべきことに、ダレス文書から出てくる書簡によれば、翌年の48年4月からは彼の住所は藤村と同じ、港区南青山3丁目
17-3になっている。同月13日、ブルームは藤村に貿易会社ジュピター・コーポレーションを設立させている。
二人はジュピターの社屋の二階と三階に住むようになったのだ。この会社はCIA日本支局のカバーだったとみられる。 朝日新聞とCIA
同じく48年ころからブルームは、蝋山政道、前田多門、東畑精一、松本重治、松方三郎、浦松佐美太郎、佐島敬愛など
日本の指導的知識人を集めて英語で座談させる火曜会を主催し始めた。49年の秋からは、それまで帝国ホテルで開かれていた
この会合を、藤村に見つけさせた渋谷区神山町の旧鍋島藩邸に移して行うようになった。この会合のもう一人の主催者は、
かつてベルンにいた笠だった。彼は、ブルームが東京にやってきた少しあとの48年朝日新聞に復帰し、
翌年論説主幹に大出世している。
藤村が『GHQ歴史課陳述録』で語ったところによれば、そもそもベルリンの海軍武官室にいた小島秀雄海軍少将にスイスに来て
終戦工作を行うよう促したのは、ハックと笠だった。小島がスイスに入国を拒否され、藤村が代わりに行くことになったときも、
藤村はハックと笠を便りにベルリンからスイスへ脱出している。
実は笠がスイスに来る以前に、朝日新聞チューリッヒ支局の駐在員となっていた田口二郎と笹本駿二がOSSの接触を受けていた。
45年4月12日付のOSS報告書には、「田口二郎と笹本駿二がいる朝日新聞チューリヒ支局の新しいわれわれのエージェントは
新しい内閣の顔ぶれに失望している」と出てくる。田口と笹本以外の朝日新聞記者で、かつ内閣の顔ぶれについてコメントできる
となれば、このOSSの新しいエージェントに該当するのは笠しかいない。笠も含め朝日新聞の記者たちは、日本の敗戦が濃厚になり、
終戦工作を考えるようになったとき、OSSのエージェントになっていったのだ。
ブルームの火曜会の日本側の主催者が笠であることからも、この関係が戦後も続いていたことがわかる。ブルームが火曜会で
集めたインテリジェンスは、ダレスにわたり、彼の兄がサンフランシスコ平和条約をまとめるときに活かされたとみられる。 CIA文書野村吉三郎ファイル(アメリカ国立第二公文書館所蔵)は、54年に野村が参議院補欠選挙に出身地の和歌山県から
出馬したとき、CIAが関与したことを明らかにしている。そのとき野村選挙事務所の金庫番を務めたのはなんと藤村だった。
そして、彼の同居人のブルームが、野村に当選を祝う手紙を書いている。野村とブルームを結び付けたのは藤村だったとしか思えない。
野村はこのあとアメリカ側の援助を得て、彼の悲願の日本海軍再興、つまり海上自衛隊の創設を成し遂げる。
さらには、CIA文書緒方竹虎ファイルも、緒方が戦後CIAからポカポンという暗号名を与えられていたことを示している。
緒方は52年の総選挙で当選し、内閣官房長官になったあと、内閣官房調査室を拡大して日本版CIAにするためにダレスに接近し、
秘密資金を得ていた。だから暗号名がついているのだ。その反対給付は、日本で傍受された共産圏の無線放送の内容、
日本人引揚者から得た共産圏についての情報、日本の政治情勢についての情報の提供だった。
緒方は中国通で、終戦期に繆斌工作(同名の中国人を使った終戦工作)を行い、戦後も国民党と密に接触していたが、
アメリカとのコネクションは弱かった。その緒方とCIAを結び付けたのは、誰だったのだろうか。 笠は、藤村や津山重美や北村などに、つねづね自分がスイスで終戦工作に関わったことを口止めしていた。
「ダレス第一電」が評判になって以来、終戦工作を行ったことは、賞賛されこそすれ、非難されることはなかった。
なのになぜ、笠はそのことを隠そうとしたのだろうか。
同じことはダレスの側にもいえる。ダレスは「サンライズ作戦」については、細大もらさず明らかにして一冊の本まで出しているのに、
スイスの終戦工作については、不自然なほど寡黙だった。
笠がスイスの終戦工作について、なにも語らず、人にも語らせないのは、ダレスと関係があったことを知られたくなかったからからだろう。
また、ダレスがスイスの終戦工作について語りたがらないのは、スイスにいた日本人との関係が、戦後になっても続いていて、
しかもそれが重要だったからだろう。ダレスはブルームを通じて「クラウン・ジュエル作戦」を日本でも実施していて、
彼がCIA長官になった53年以降、その成果を享受していたのだ。
1960年安保で岸信介が窮地に陥ったとき、在京七社に呼びかけて6月17日の朝刊の第一面に
「暴力を排し 議会主義を守れ」と題した共同宣言を載せたが、これを仕掛けたのは主幹の笠だった。ダレスがピッグス湾侵攻作戦
(キューバのカストロ政権転覆のための秘密作戦)に失敗してCIA長官の座を追われるのはこの翌年61年の11月のことだ。
笠もまたその翌年の62年12月に論説主幹を辞めている。笠が新聞人として栄華を極めた時期は、
ブルームとダレスが対日工作を行っていた時期と不思議にも一致している。
<<完>> ----------------------------------------------------------------------------------------
※P,266〜277 緒方と笠の画像とそのキャプション
・暗号名「ポカポン」だった緒方竹虎
・論説主幹として「朝日の顔」になった笠信太郎 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています