日蓮ってver.60
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前スレ日蓮ってver.59
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「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 >>61 多分、聖天様でしょうね。
寺院繁栄を祈る住職が個人的に供養する事も有ります。
知人が浄土系の寺の本堂の隅に厨子を見、住職にその旨を確認して居ます。
この様になると、秘仏として拝むべきは一人のみになります。
今は如何か知りませんが、作法、口伝の儀軌解説書のあさば抄を見ると
双身ではない、珍しい単身の聖天様の解説図、文章が記載されてます。
日々のお祀りが極めて厳重になるそうです。
所定の供養式次第が流派に伝わっている可能性はこの辺が限度かも。
もう一つの可能性、双頭愛染明王ですがこの実作が、今もありますかねぇ。
日本の密教諸派では、性信仰の立川流は駆逐された様子で山伏系でわずかに残存している可能性が在る程度でしょう。
いわば絶滅したらしき、ニホンオオカミみたいな状況と思われます。
日蓮スレですから書きますが、彼の残した文字曼陀羅の梵字の種字は明らかに
真言立川流の影響が伺えます、其れこそ当時大流行の新宗教でした。 性の宗教というと、代表的に2つの説が推されていますね
・親鸞の六角堂の夢説
・性的快感性の宗教というと、代表的に2つの説が推されていますね
・親鸞の六角堂の夢説
・性的快感で悟りに導こう説
オウム信者の末端信者を、ほとんど洗脳解除した苫米地英人氏(国家公安委員会からの要請)
彼によると、オウム真理教の「修行」と言うのはクンダリーニを応用した物で
信者に性的快楽を与えて依存させる戦略だったそうです。(教団内ではセックス禁止だったので効果的だと)
当時の映像を覚えていますか?男性信者は坐禅でマントラを唱えていきなりピョンピョン飛ぶ映像。
それに反して女性信者は座ったまま脚を広げて前屈している映像がありましたよね?
あれって男性は前立腺を、女性はクリトリスに意識を持って行かせる為だそうです。
しかもマントラを唱え続けるので脳内動脈血中酸素飽和度が低下しハッピー脳になる。
首絞めオナニーと同じで、ドアノブで首をタオルで締めながらオナニーすると気持ち良いという
男がいて(日本では柔道部員がお風呂で亡くなった例や、有名人ではデヴィッド・キャラダインがそれで亡くなったと)
この快感を悟りに近づく行為だと洗脳されてたそうです
あのピョンピョン坐禅のまま飛んでいく信者は射精のリズムだそうです、そうとう強い快感だったと元信者が告白(苫米地英人の本によると)
オウムの話は、ここで一旦離れて、宗教には普遍的に何らかの変性意識・臨場空間を作り出すテクニックを持っています。去年VICE TVにてで悟りに導こう説
(続く) >>60
>私は坊さん身分じゃないですが、宗の方では無関係で終わりじゃないかな。
面白い話がありましてね。そのお寺さんに迷惑はかけたく無いので詳細は省きますが
地方のお寺さんに秘仏と半秘仏が祀られていて半秘仏は紹介状があれば拝観できるとの事で
行ってみたのですが、大日如来像が幾つかありその中にはガネーシャも大日如来として
二体の仏像が祀られていました。
さて、セックス秘仏なのですが大きな部屋があってクローズド。茶室の様なにじり口が付いています。
これは完全な秘仏で見る事は出来ません。
代々、住職になるまで拝す事は出来ない決まりだそうです。
その住職も、あまりにも恐れ多いので足だけしか見た事がない。と語っていました。
もう、この話自体が「牛の首」です。
そのお寺さんにおいてケツ持ち団体の様な
超常的な力を持つ形而上学的存在が何のメタファーなのか?レトリックなのか?
才人は、誰も射る事の無い的を射る。
天才は、誰にも見えない的を射る。 >>58
真言宗ではセックスしている大日如来の秘仏を、どう解釈しているんですか?
これが昔から気になっていました。
秘仏だから直接見た事はありませんけど、美術書で大乗・密教・ヒンドゥー美術として
写真としては見ています。更に女の子に人気のインド雑貨屋さんに行くと
かなり際どいミニチュア像が売ってますよね?(あれ、良いのかな?秘仏なのに)
一般的には大日如来(男性役)は対面座位で観自在菩薩(女性役)とセックスしています。
また他にも後背位や大日さんが観音様の片足を持ち上げた立ちバック対位とか
ガジュラホでは何と大日如来さんが4Pまでしてます。
仏像とはアイコニックな存在ですが、何のメタファーか?何の為のキャラクタリゼーションなのか?
調べてみると、出るわ出るわ、様々な多種多様な解釈が。
・セックスを終えた後の(いわゆる賢者タイム)静寂が仏法に入る入り口説
・セックスで生み出す天地創造説
・見てはいけない仏像を見たのだから功徳がある説(超越性無し)
・見てはいけない仏像を見たのだから祈念を辞めると人生破綻させる説(超越性無し)
・仏のセックスを見て対立二元論的な分別知を粉砕しろ!説(超越性有り)などなど、、、
この「超越性」というのはベンヤミンが言う所の「気散じ」からの私の主観。
それぞれの説に展延性は無いが「既成概念と獲得概念」や「マルチモーダル」を私は感じてしまう。
ブチギレた旦那が息子の首をはね、嫁に怒られて息子の首を探しに行くが見つけられず
代わりに像の顔を持ってきて「この顔で勘弁してくれよぉ」と嫁に謝る所からガネーシャは誕生したと言うが
それが大乗の仏になったり隠れキリシタンのデウス様(大日さま)になったり
衆生の需要予測に答えてくれる優しい汎用型仏なのかも知れない。大日様は。 何かNGワードか、どこぞの団体にとって都合の悪い話なのか?
わかりませんけど
「続き」を書き込み事が出来なくなりました。
ですので
「続き」はまた次の機会にでも。 今あらためて見てみると
私が書き込んだ>>63もセンテンスが削除されたり、同じ文章が2回繰り返されたり。
>>64 >>65においては私が以前書き込んだものを同じIDで書き込まれてるじゃ無いですか!
怖いですねえw このスレの創価信者は日蓮の話題を避けるために無意味な連投を繰り返している。 >>68
>このスレの創価信者は日蓮の話題を避けるために無意味な連投を繰り返している。
その「日蓮の話題」自体が下に脱するから、視野を広める為に、皆が色々と書き込んでるんだよ。
御書の解釈が違ってる!とか、こっちの方が正しい!となんのかんのやる人が出てくるだろ?
そう人達は「通過性の原理」と「権威の後ろ盾」によって、誰かから教えて貰った事を
「対立二元論的相対主義主張」と信じ込んでしまう。それで大乗仏教の平等思想・平和思想と真逆の行動を取ってしまう。
たとえば宗教団体なら団体で、指導的立場の人や末端のベテラン達の「私はコレだけ頑張ってます〜!」という頑張ってますアピールを行う事によって
その団体の理念と真逆なゲシュタルト崩壊を他の信者達に与えてしまい、本来の団体の
平和思想・平等思想が「喧嘩こそ正義だ!」という新左翼の暴力革命と捻じ曲げてしまう。
行動・思想・感情・情報のコントロールに毒されている仏教学習者がいれば
「生半可な」姿勢で「日蓮」語るよりも
仏教 ・ 大乗仏教 の原初からの生成過程の『現在においての』集合知を表す事が先立つ。
これは子供の家庭内での教育問題に含まれてるのと同じ。
・知性的な親は、様々な視座を子供に教えられる
・知性的で無いと自覚出来た親は、自分が知性的だと思う友人知人と話をして横で子供に聞かせるという教育を行う。
・無知性であるがソノ事にも気づかない親は、「世の中ってねコレが常識なんだよ!」と言うしか出来ない。そして子どもは社会に出る時、自分の親の知性の低さに失望する。
他の宗教団体の信者さん達と、御書の解釈の違いについて喧嘩をしたい人には
今のスレの流れは不満だとは思う。
でも、ここで一旦、仏教はどのように始まりどのように伝わったのか?の集合知が
現在、どの様な知見として普遍性を持っているのか、を学んで欲しい。
で、なければ
いつまでも修羅界の如く、「他者を言い負かす事」だけが唯一の楽しみとする
地獄の住民として生きていかなければならない。
反発や怒り感情を持ったまま生きていっても、どんどん仏教哲学から離れるし
それよりも、何よりも
自分の心が穏やかじゃ無いよね? それって幸せじゃ無いよね? >>70 南北朝の御所が二分した時代にも、宮中には真言院が付属している
殊更に言う事でもない。 修羅界の如くて創価や消臭の人なんじゃないの?
このスレで必死な人てあんまり見かけないよね 日蓮さんという人は、生い立ちが貧しくしばしば「センダラが子」と自称する。
センダラは印度の階級で下層階級カーストの意味とご存じだろう。
其れを咎めるべきでないにしても、日蓮氏にとり、不幸の元凶が実家の貧困にある。
彼が小僧になり、寺住まいをし乍ら、修学の機会を得られなかったのは貧の為だ。
同年齢の朋輩が、密乗の加行を習得し、阿闍梨灌頂迄、受けるのを見聞きし彼は寺を
出奔し私度僧になっているのだ。
加行から始まり阿闍梨の灌頂を受ける迄の諸費用は、現代なら米国ハーバード大学留学
に相当すると思えば間違いがない。
その社会的地位は、宮中に参内が叶う公家に匹敵する。
袈裟の下に着こむ衣装は、公家装束と言えば御分かりだろうか。
日蓮は己よりも才能、頭脳の劣る同輩の出世を身を切る思いで見たに違いあるまい。
次も在ります 智の見解では華厳経は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。
「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」と「入法界品」の章とされている。 >>74
だから
それが
メタファーやレトリックだったら、どうするの?
様々な仏典を熟読すれば
そちらの方の可能性が高いと分かるはずだが?
文字の上部の字面だけ信じるの?
誰かが教えてくれた事だけを信じるの?
もし、そういう性格なら宗教団体に入信した方が良いですよ。
それで、心が救われる人もいるんですから。
私は、そのような自己偽満までも批判はいたしません。 何故、メタファーやレトリックで仏法を伝える必要があるのか?
天台宗の僧侶が脳科学的に面白い話をしてくれた。
重要なものを選び取る関数が自我。
自我が消えればスコトーマも消える。
すべてのスコトーマが消えている状態が悟りである。 >>74さんには
スコトーマ(心理学的・脳科学的・盲点)がある。
それは>>74さんに限らない。
これへの気づきを持たなければ、仏法は学べない。 私は古い映画を観るのが趣味。
ピアシネマブックや別冊映画秘宝、そしてアートシアター系で知り合ったおじ様から話を聞く。
皆「エマニエル夫人」シリーズを高く評価し、勧めてくれた。
全シリーズを見てみた。
クンダリーニから密教から大乗仏教に関する、素晴らしい宗教的テーマの映画だった。
さて
お正月に親族が集まって「エマニエル夫人」の素晴らしさを語った。
親族は全員こまった表情だった。
特に仲の良い叔母が言った
「エマニエル夫人ってエッチな映画でしょ?」
観れない人は観れない。
読めない人は読めない。
こう言う人の方が世間に多いのだと確信した。
仏典も同じく。 >>74 華厳経も法華経と同じく自画自賛、ホントに素晴らしいお経デス
宣伝臭たっぷり煮込みます〜との意見が有ります。
「一切衆生の救済」という目的について大乗の論理は破綻してしまった。この点を整理しておこう。
紛争やコロナで苦しみ、死ぬ民衆がいるにも関わらず、神仏は実質的には放置したままである。
大乗の言い訳@
コロナのワクチンができたのは大乗あるいはその思想のお蔭。
←ワクチンを開発したのは欧米の製薬会社。他者へのいたわりはキリスト教にもあるし、宗教に関係なく道徳的美徳とされている。
慈悲自体、大乗がキリスト教からパクった疑いも強い。
大乗の言い訳A
来世で救済される。
←実証不能なオカルト。論理的回答ではない。
大乗の言い訳B
信者以外は救わない。
←一部の人間しか救わないのでは、「一切衆生」の救済のお題目に反する。慈悲が浅い。
大乗の言い訳C
救いとは病気や死から回避させることではなく、正しい教えを知らせることである。
←これ自体は正しいが、それは伝統仏教の教え。「一切衆生の救済」だの、「大乗」だの、偉そうに言ってたのは何?
以上のように、「慈悲」「一切衆生の救済」をキリスト教からパクって大乗の教義にしたものの、破綻している。
神仏には慈悲の心があるとしたため、神仏には人間を救う義務が生じ、神仏を人間の下僕に貶めることになった。 しかし、神仏は人間のために奉仕してはくれず、現実にはコロナや紛争で多くの民衆が死んでも、神仏は何もしてくれない。
なお、釈迦の教えでは、紛争や病気で死ぬのはこの世の理。
もちろん、戦争なんてする自分勝手な心は批判するし戦争反対。医療の向上だって支持するだろう。
しかし、根本的なところで、人がいずれ死ぬ。
したがって、釈迦の教えでは何の問題も生じない。 大乗仏教について
詳しく学びたい人は
東京国立博物館へ行って
マトゥーラやガンダーラ、バーミヤンについて
様々な展示物を見て
東京国立博物館のキュレーター(学芸員さん)に尋ねれば
大変、丁寧に解説してくれる。
大変、丁寧に質問に受け答えしていただけます。
学芸員さんは、学術的専門教育をうけて
現在の
集合知
を示してくれます。
「わたしは、なんとな〜く、、そう思いま〜す♪」なんて無責任な事は言いません。
後学のためにもオススメします。 仏教を学ぶ上で
東京国立博物館の巡り方には順番があります。
東京国立博物館の東洋館(アジアン・ギャラリー)の
2階・3号室から始めて
次に1回の1号室を見ると
今、日本に伝わっている仏教の構造が見えやすいです。
ちょいと、アドバイスを。 もう1つ
アフガニスタンやパキスタンの仏教が日本に伝わる背景
(高校の世界史で習いましたよね?)
その流れと、思想史の流れを見てみれば
現在、日本に存在する仏法の全てがレーゼ・ドラマである事が分かる。
独り言・問わず語りでも、誰かに聞かれる事を目論んだレーゼは
レトリックがふんだんに盛り込まれるものだ。
「自分に近い、親しい人が『こう言った』と言ってたもん!」
それに権威を与えてしまう人間は、知性的では無い。
ただ、知性的では無い人間の存在自体は罪でも無いし、だれも批難してはいけない。
お互い、社会の中で尊重すべきだ。
「自分でそう思いいてるだけだよ!」という事は誰にでもある。それ自体は許される。
ただ他者に対して主張し(これさえも許される)
他者の心を何らかの形で乱す事は、許されざる行為である。unforgiving である.。
それは、仏法でする無い。
ただし
独善的仏法を個人または、特定の集団内で楽しむ自由は保証されている。 また、誤字、書き換え
文脈を分裂させ、センテンスを入れ替えがされている。
このスレで書き込みを操作する主体は一体誰なんだ?
宗教団体の金で活動する外郭団体か? >>53
そこでいう「大乗」は「日蓮教」に当てはまる。が、日蓮教はそもそも仏教ではないので無意味な命題になる。
>>55
仏教、とりわけ大乗化した仏教は本質的に、非和解的にカースト制とは相いれないからである。
しかし現在、インドでカースト制がビルトインされたヒンズー教から仏教に改宗する動きが強まっていることは知っておくべきだろう。 このスレで日蓮について新たに知ることは色々あった。
特に、以前週末によく書き込みをしていた人は日蓮遺文と日蓮教に詳しく、学ぶことが多かった。
史実のように言われる話、例えば、日蓮による立正安国論の提出や元寇の予言なども極めて疑わしいことが分かった。
他の書き込みでも、忍性との祈雨対決、由比ガ浜で斬首されそうなところを火の玉の出現で沙汰闇になった等々も同様。
さらには経典や論書の引用における捏造などなど。日蓮と日蓮教の実像に迫る指摘は説得力があり、興味深いものが多かった。
このスレでは日蓮と日蓮教について詳しい人にこそ日蓮を語ってもらいたい。 南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳・大慈大悲・宗祖日蓮大聖人、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に 南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・獨一本門戒壇の大御本尊、御威光倍搆范傴u廣大御報恩感謝徳の御為に 埼玉県戸田市に伝わる伝説
日蓮大聖人様が佐渡流罪の道中、現在の戸田のあたりにさしかかった時、芋を作っている農家の前を通りかかりました。
芋をふかしているにおいがしたので、日蓮大聖人様は「どうか一つ芋をください」と農家の人に頼みました。
しかし農家の人は「おらの家の芋はみんな石芋だから食えねえよ」と言って芋を差し上げる事はしませんでした。
日蓮大聖人様が立ち去るのをみて、「へん、あんな落ちぶれた坊さんに、こんなうまい芋をやるもんか」と、
ふかしたての芋を口の中に入れた所、ガチガチと音がしました。
なんと、ほんとうに石の芋になっていたのです。
急いで畑の芋を掘ってみますと、ぜんぶ石芋になっていました。
それからは、畑でつくる芋はすべて石芋しかできませんでした。
同じ伝説が弘法大師にもありますが、こちらは後に弘法大師を祀った所、
石芋から芽が出て畑の作物がよく取れるようになったとの事です。
※日蓮大聖人は佐渡流罪の時、鎌倉街道を通ったと思われるので、戸田のあたりは通っていないのではないか? >>85
>インドでカースト制がビルトインされたヒンズー教から仏教に改宗する動きが強まっていることは知っておくべきだろう。
アウト・カーストね。
今はシェードラ以下の絶対付き合ってもいけない、話してもいけないアウトカーストの
人達がIT系からブレイクスルー状態が続いていて
カリフォルニア州に映画会社やピクサーとCG製作会社の幹部はほとんどインド人で
そのインド人が全員仏教徒に改宗してるんだよな。
これは先祖代々、差別されたカースト制から脱藩するのに1番救われるのが仏教だからだ。
スティーブ・ジョブズが禅宗に入信したのもアップル・ピクサー・ディズニー関係と
深く関わってた。と言うのが本当の話だそうだ。(MITとイェール大学にて) >>88
ぜーんぶ幼稚な言葉遊び
1億劫繰り返しても何の意味もない >>89
>※日蓮大聖人は佐渡流罪の時、鎌倉街道を通ったと思われるので、戸田のあたりは通っていないのでは
宗教の逸話は盛られたり、創作イマジネーションが生み出したものが多いんだよw
ナザレのイエスも、4福音書だけでも矛盾しているのに
福音書外伝(例えばマグダラのマリアによる福音書とかさ)
一体誰が調子ブッこいて感動ポルノ・涙のファシズムを書いたのかわからないw
それぐらい「神話というものは後世の人々によって命を吹き込まれる」(アルベール・カミュ)
宗教の話は、おおかたこの様な物なんだよ。
方便を仏法だと見間違えると、仏教哲学が見えにくくなるよw 義経は丹波街道から鵯越まで、各地に伝説が残る。その伝説が多過ぎる。
筒井康隆氏は短編小説「こちら一ノ谷」で
たった2日間で、全ての伝説の地を駆け抜ける義経一行の小説を書いた。
全てを回っていては予定日に鵯越にたどり着けない。
義経一行はトライアスロンの様に走りまくるw
最後に万策尽き果て、終了時間前に六甲山ロープウェイに馬と一緒にのり
目的を達するが、六甲山の義経看板に引っかかり義経は大激怒!
伝説というのは、こういう物だが、それでもソレを信じる人がいる。
神聖なる緑の大地、アメリカをでかい斧で街を作ったポール・バニアン(巨人のフォークロア)を
信じているアメリカ人って、今でもいるんだよw >>81
はい放下著
集合知なるものを神聖不可侵の御神体として保持するエセインテリの考えと仏教は両立しない 集合知というが、そんな如才の無い俗物と天才は相いれないものだろうな。 集合知って変化するものだよ。
集合知を批判するという行為そのものが、集合知を理解する知性がない事と同じだ。
例えば、1番分かりやすい例だと
昭和の人は鎌倉幕府の成立の年号の語呂合わせは
「いい国作ろう鎌倉幕府1192年」だった。
しかし、私たち平成育ちは
「いい箱作ろう鎌倉幕府 1185年」と公教育で習った。
この様な流れ・リレーションシップはそのまま「今・此処・主体」を表している。
集合知と言うのは、内容(議論・コンセンサス・エビデンス・ヒポシーシス等)
にはフレキシビリティが『確実に』存在する。
それが無ければ『集合知』ではない。
様々な意味での信仰は認めるが、学究たちが学術的に仮説を立てては潰され、また誰かの仮説の破綻を示したり
この様にして出来たのが『集合知』なのです。いいですか?
1番大切なのは『どこかの誰か、権威を持つ人が勝手に決めた事では無いという事』なんです。
普遍性を要する『性格の』議論から雑談に至るまでこの『集合知』を踏まずに自分の意見・感想は言えないのです。
この『集合知』までは自由は無くても、『集合知』を把握した段階から次の段階からは、自分の意見や感想を言える自由はあるのです。
誰か権威者と呼ばれる人への共依存が強い人ほど、これは見失いがちです。大学のシラバスの最初の方にそういう講義・単位ってありませんでした?理系の人は知らんけど 集合知の論題の非共有
「桐島、部活やめるってよ!」を見た人達
「桐島ってなんで何時も帽子被ってるの?」
「桐島って本当は金持ちだったんだぁ、実家は、、」
「桐島って何でアレだけ女にモテるの?」
占い師・あなたは美しい奥様と2人の可愛い子供と一緒に郊外で生活していますね?
おとこ・いや、、、私の子供は3人ですけど?
占い師・それは、あなたが、そう、思 っ て い る だ け で す ! 謎!! 私は宗教団体は批判はしない。けれども理解出来ないテーゼを目の当たりにした過去の客観的事実は持っている。これに関しては対立二元論が出る話では無い事を示す。
小学校の同窓生から電話があった。大抵こういう場合はマルチ商法や宗教の勧誘だと構えて会いに行った。
案の定、宗教の勧誘で大きな会館へ一緒に行こうと勧める。
元々おもしろい体験に飢え、ブログで体験を記述するのが好きな私だ。当然よろこんで付いて行った。
会館に着くと何十人もの信者さんが集まっていて、そこで彼らの行動を観察していると
高校生もいれば、幼児を連れてきた若いご婦人やら、圧倒的に多いのは高齢者だった。
私は観察を続けた、不思議な事を発見した会館内はもとより駐車場に置いても
彼らは挨拶や会釈を互いにしあってはいるが、ほとんど会話はしていないのである!!!
私はソノ事を彼に聞いた。恐らく「この信者さん達、風通し悪くねぇ?」みたいな事を言ったんだと思う。他にも色々言ったけど。
また組織の相関から、今ここにいる信者さんたち対する(会館の教学的)ステイトメントの責任編集者は誰なのか?とか何処の部署なのか?という質問もした。
すると小学校の同窓生(ほとんど友達でも無く顔と名前だけ覚えてる、友達では無くただの知り合い)
彼のスマホがバイブで震えている。彼は何かLINEでもチェックしていたのだろう?
おもむろに
「今日はもう、帰りましょう、、、」と退出を促した。
私はますます面白くなって来て、彼を家へ車で送って行く間中、様々な質問を車内で2人っきりの状態で
マシンガンのように質問を浴びせた。
ここで最大の驚き !!!!
彼は、何1つ返答は出来なかった。「何故?」と聞くと「それは組織の中で禁止されてるからだよ。内容は聞かないでくれ」
そういうと少し悲しそうな顔をした。彼にはアンパンマン好きの3歳の娘がいる。アンパンマンミュージアムのノベルティを「娘さんにあげてよ!喜んでくれるかな?」と私は彼に渡して別れた。
それ以降、彼は私に連絡を取らない。もともと、親しくも無いし、友人関係でも無い奴だった。
もしも彼が、私のかつての親友であったなら。私は彼と何時間でも何十時間でも話し合いをする覚悟だった。 >>96>>97
お前さんのくだらない能書きは要らない。勝手に自分のブログででもやれ。 >>99
>お前さんのくだらない能書きは要らない。勝手に自分のブログででもやれ
私の書き込みのコンセプションを、もう一度説明しましょう。
日蓮ー御書ー法華経ー大乗仏教
というリレーションシップから外れないようにかきこんでいます。
換言すれば、臭いの問題と同じです。
なぜ嗅覚が鋭い人と、鈍い人がいるのか?
ここで表層批判的に「その人、個人」について語るよりも
臭いを知覚する感覚器である、鼻と感覚受容器
その感覚受容器に存在する嗅覚上皮
その嗅覚上皮に存在する嗅覚細胞
その嗅覚細胞から情報を伝達するディスティネーションとしての嗅覚中枢
これらは全て「匂いの問題」に包括される事象なのです。
人間には、感覚的な「なんとな〜く」という好き嫌いの感覚があります。
それは否定しません。
でも、一旦システマチックに分析しようと思えば
ソレを避けて通る事は出来ません。
ただ、他者の意見が理解出来ない・好みでは無い
という自由は誰にでも持って良い自由の権利でもあります。
「自分の意思決定が、世界の意思決定である」という『自己欺瞞が無ければ』
ソレらは個人の感想としては、認めましょう。 日蓮て現在に置き換えると集団ストーカーの被害者だよな
ターゲットにされその苦難の荒波に揉まれながら闘っていたという像が妥当だろう
ま、孤高の戦士といったところか 日本で大乗仏教、鎌倉新仏教について語ると、中国の訳者や伝来の話になりがちだが
大乗仏教が生まれたアフガニスタン・パキスタンを学ぶと
日本で議論される大乗仏教とは全く別のヘレニズムが中心になっているのが分かる。
長阿含経第13と増一阿含経第22においてヤクシャとグヒャカの表現に矛盾がある。
たくさんのキャラクタリゼーションにおいて無数の存在が出現し
最終的には(ガンダーラやマトゥーラという大乗仏教の中心地においてだけ見れば)
執金剛神として集約された。
クシャーナ朝以前から
ローマ・ギリシャ・ヘレニズム(プトレマイオス朝が絶滅するまでの文化)の影響が既にあった文化圏で
大乗仏教は生まれた。という事は仏法を理解する上で、とても大切な事なんだよ。 >>101
>日蓮て現在に置き換えると集団ストーカーの被害者だよな
君は桐島君に会った事があるのか?
司馬遼太郎、山岡荘八、吉川英治を読んで
「私は織田信長も宮本武蔵も諸葛孔明の事なら何でもしっているんだよ!えっへっへー♪」
「だってわたしは司馬遼太郎、山岡荘八、吉川英治の本は全部読んだも〜ん♪」
と言えるのかな? >>103
それを言い出したら何も言えなくなるぞ
君こそ何を知っているんだい?
究極的には日蓮の書き残したものすべては日蓮の主観なんだよ 念の為ここでもう一度確認しておきます。
大日如来の名前にある「大日」という言葉は、「大いなる日輪」という意味です。
日輪とは太陽を指す言葉なので大日如来は太陽よりも偉大な存在であり、
宇宙そのものだと捉えられているのです。
釈迦如来、阿弥陀如来などの諸仏はもちろん、世界のすべてのものが、
大日如来から生まれたと考えられているのです。 >>104
>究極的には日蓮の書き残したものすべては日蓮の主観なんだよ
その日蓮が主観で書き残した遺文自体が
日蓮の主観で在る事は認めてるの。
ただ、その日蓮大聖人の主観を
1・表層的テクスト論として読んで、字面をそのまま信じてしまうか?
2・日蓮大聖人が使用したアナロジーを分析して、何を言おうとしていたのか?分析するのか?
この点において、人々は全く違う認識・認知心理を持ってしまう。
という、事を言いたいだけ。
別にモーゼが海を真っ二つに割ったり
ナザレのイエスが3日後に復活したと、信じたい人は信じて良いんだよ。 心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり >>107
>心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり
六波羅蜜に関する最も古く言及されてるのってバーミヤンの埋蔵経だよね
パラマウント映画のパラマウントは般若心経の波羅蜜多からとった社名だそうだけど
一方でラテン語説もあったりする。
クシャーナ朝のアフガニスタン・パキスタンから大乗仏教は始まってるから
バーミヤンやガンダーラでミングルされた造語かもしれない、との説もある。
色々な人の思いで現在の大乗仏教は成り立ってるって事だけは分かる。 変革者、刷新主張などは本部や本山からは出現せず、遠方の周辺地から
発せられるという原則が在り、108氏の記事はまさしくその様な資料にあたる。
その革新情報も、その数百年後はナーランダの佛教大学に吸収,消化された。
是も印度仏教史の動きである。 ナーランダーとバイシャーリーにおいて既に付け足し、書き足しが行われてる説もありますね。
色々読んでるうちに思ったのですが
これはストゥーパ信仰や法輪信仰の元の行動原理は何だったのか?
という所が、何か匂うんですよね。
とにかく仏教と言うのは釈尊が作ったのでは無く
皆んなで仏法を作ったのでしょう。 釈尊をアイコニックな偶像として拝んでしまうと仏教哲学的には間違い
なのは、分かるのですが
アフガニスタン・パキスタンは宗教のルツボで、多神教も一神教も仲良くやってたようですが
一神教の偶像崇拝禁止宗教にもカニシカの時代から寛容に受け入れた結果なのか?
それとも何らかの変遷があったのでしょうか?こういう不思議が面白いんですよね仏法って。
一般的に多くの人が尋ねてくるのが「お釈迦さんってアーリア系インド人なのに何故、仏教はアフガニスタンから生まれたの?」
高校の世界史・教科書では「バーミヤンは当時の西と東をつなぐ国際貿易都市だった」
というしか無いのかな?
親日の外国人が日本食で好きな物で必ずあげます
「カレーとラーメンとトンカツ!」
カリーと、ラウメンと、カットレットがそれらの起源なのか?わかりませんよね?
トリビアやクイズ番組などバラエティでは「真偽よりも作品が先!」となりますけどね。
何十人もの方々から、様々な宗教団体の勧誘を受けました。私はホイホイついて行きます。
社会学的視座と哲学的視座から、「何が飛び出してくるのだろう?」と観察するのが好きだからです。
ある某・宗教団体の複数の信者さんに囲まれて話をしました
彼らは言いました。簡潔な言葉に訳します。
「この信心の論拠や論証よりも、この信仰の理念が先なんです!」 釈迦の言葉を伝承したのは初期経典の中でも古いもの。残念ながら、その後の数世紀の間に、釈迦の言葉以外も追加されてしまった。
最古層の原始仏典として、『阿含経』※1の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典※2が注目されています。そこには、
『スッタニパータ』
『ダンマパダ』 (『法句経』)
『テーラガータ』
『テーリーガータ』
などがあり、また、
『サンユッタ・ニカーヤ』 (『阿含経』相応部)
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』 (南伝 『大般涅槃経』)
も特に古い経典であるそうです。
https://www.kosaiji.org/Buddhism/early.htm 口伝承から文字起こしまでかなり時間が経っていて
西暦一世紀以上を遡る事は出来ない。とは中村元先生、大森老師、鈴木大拙さんも
強調していましたね。
大乗非仏説でもあり原始仏教非仏説でもありますね。
お釈迦さんが何を言ったのか?は正確には分からないと言うのが集合知ですが
多くの人達によって仏教という文化が継承された事自体を見つめたいですね。
人間は何をしたか?よりも
何の為にしたのか?の方が大切な事だと思います。 >>112 此処に挙げられる資料の殆どが岩波文庫に収録され、手軽に購入可能。
長老の告白テーラガータ、長老尼の告白テーリガータは、素朴に修行体験と
其の得たる果を語る記録。
一応、日本では中村元先生(東方学院)の岩波文庫版がリファンレンスになってますね。
法華経に関して現在50歳以上の高齢者の方々には岩本版で育ったという方々も多いでしょう。
若い世代だと法華経・石原慎太郎版を読まれた方も多いでしょう。
仏典を読む時には「伏せてる開く」というような
グノーシス主義的なハイパー・テクスト・エディター(お経を編纂した人達)
を意識して読むべきなのかも? テーリガーターに関しては岩波の中村元先生版よりも
角川の植木雅俊版の方が
『文脈を捉えやすい、補足、が付いている』ので
こちらの方が読みやすいという人もいるでしょう。
とにかく最初の一歩で何でも読み始めれば良いんですけどね。
それから私は、日蓮大聖人から法華経を広布する事を仰せつかっております。
皆さま、法華経も完読・熟読してくださいますよう、お願いします。 東京の街って都会もあれば明治時代みたいな住宅地もあって
散歩をするのが好きなんだけど
東京(23区)によく歌舞伎の目のシールがあちこちに貼られているいるでしょ(防犯用だと思うけど)
また歌舞伎隈取りシールかよ?と思ってみると、時々
スワヤンブナートのシールが貼られている所があってビックリする
お寺さんみたいな建物で無く、それこそ町の調剤薬局見たいなお店がスワヤンブナートの
寺院になってるんだけど、あれは何なんだろう?
興味があるから入っては見るんだけど金色の仏像が鎮座していて、カッマンズー(ネパール人)の
僧侶らしき人はいるんだけど、何を尋ねても教えてくれない。パンフレットを下さいと言っても
無視される。「出てけ!」とは言われないけど、日本語が喋れるのに何も語らない。
あれは一体何?カレー屋さんでは無いのは確か。
杉並区・中野区・新宿区・港区あたりに有るんだよな。 以前、テーラワーダのスマナサーラ長老の話を聞いたけど
彼は徹頭徹尾
「仏教は宗教や信仰では無い。ましてや信心でも無い!」
と、言い切ってました。
更に
「日本の仏教では禅宗が1番哲学に近いけれでも、それでも禅宗は、まだまだ語り過ぎなのです」と。
釈尊が難行苦行を行なっても全然悟れない。遂に「修行なんて意味ねえじゃん」と
釈尊の敗北宣言後に忽然として悟ったという話は、よく出来ている。
おそらく作り話なんだろうけどさ。いや、方便ですね。 俺は作り話じゃないと思うよ。
要約すれば、「努力している自分がいる限り、いくら頑張ったって悟れない」ということ。
何故ならば、自分なんてものはいないんだから。
自分なんてものは、肉体を自分と思い込むために生じる、肉体への同化が引き起こす自我という幻想。
悟りへの努力ってのは、言い換えれば頑張っている自我を維持するための努力となんらかわりない。
修行をやめるでも諦めるでもなんでもいいけど、それっていうのはサレンダー、あけ渡し、自己放棄。
自己放棄してあけわたしちゃえば、努力している自分は消え去る。
そうすればどこを探しても、自分はどこにもいない。
自分がいなければ、全てが自分。
このパラドックスに気づくことが悟り。
自分がいなくなれば、見るものと見られるものが同化する。
見る感じるなどの認知の本体は気づき。
それゆえに、自己が消え去った後に生じる気づきのみの状態に気づくようになる。
気づきに気づくとは、認知の最後方に下がること。
それは、気づかれるものと気づきの境界が消え去り、気づきのみになることを意味する。
この気づきそのものとなると、それは主体と客体の完全消滅に至り、対象を失うゆえに気づきも消え去る。
そして、あらゆる主客や気づきを生み出す無限性、つまり対象を持たない空、言い換えれば西田幾多郎が説くところの絶対無へと溶け込む。 >>119
>俺は作り話じゃないと思うよ。
そう。レトリックとしては作り話では無いよね。
でもそれを字面で信じたらダメだよw
♪僕は海。 君は月。
君は僕を引き寄せたり、突き放したり、、、(state of heart)
僕が本当に液体なのか?
君が本当にクレーターのある月なのか?
それから西田幾多郎の実在論とマルクスガブリエルの実在論の違いが
そのまま仏教の様な気がする。
Wheels are turning ! >>119
>そして、あらゆる主客や気づきを生み出す無限性
そこが人間には難しいんだよね。
仏法を学ぶ前に、哲学を概論だけでも学ぶ方が、仏法の本質的な理解が出来るのかもね。
ほら、教師は一旦社会に出て、社会人経験して大人にならないと子供を教育できない。と
批判する人がいるみたいにね。
数年前、ジル・ドゥルーズ生誕100年だったかな?
書店にドゥルーズ本がたくさん並んだ。
差異と反復やリゾームなどの解説本もあり、誤読指摘本も並んだ。
その中で異様な、異なる雰囲気の本があった。浅田彰のドゥルーズ本だ。
彼は過去のポストモダニズムを恣意的に(意図的と反対の意味の方)分断し
独特な論というか、もはや宗教と言わざるを得ない言葉の羅列を行なっていた。
彼には何かが欠けていると直感した。
それは公教育の教師に必要なソレと同じ物なのかもしれない。
仏教・仏法への理解を阻害するのは
実は宗教団体の存在なのかも知れない。
ただ「自己が無ければ、全てが自己!」
「天地ひた一枚になって三昧境で遊べ」
「鉄鈷。三台を舞う!」
伝わる人には伝わる。私にも伝わる。
でも、言葉にした途端に酸化が始まる。いっその事、維摩の様に黙るか?黙るより多くを語るか?多くを語って、何も語らない状態を目指すか?
「宇宙に存在する物は、物質以外も全てが生じた時から酸化していく」(カート・ボネガット) 仏教に近しい所から、仏教を学ぶ事は、実は出来ないのでは?
映画好きの人で、「シン・レッド・ライン」(カンヌ・パルムドール受賞)
を観るつもりの人にアドバイス。
あの映画はテレンス・マリック監督が(本職はMITの哲学科教授)
大般涅槃経をガダルカナル壊滅作戦で表した作品。
最初に出てくるワニと、最後に出て来る土は、重要な意味がある。
あの映画は全てが大般涅槃経になっている。
こういう所から入っていった方が、仏法の理解は容易なのかも知れない。 エドワード・コンツェが指摘した
「仏教は反知性主義を本質とする」
この言葉は、少し危険だ。
2つの解釈が出来てしまうからだ。
読者によって、意味が真逆になってしまう。
そして、仏教全般において、内在する「分からない奴は置いてくぞ〜!」
という自主独立性を促す仏教哲学を誤解させる
トラップにもなり得る。 アフガニスタン・パキスタン起源の話は別にして
ハイパー・テキスト・エディター(お経を書いた人達)の点から見てみると
中村元先生と中村恵学先生が言うように
人間には様々環境や人との出会い、事件との出会いというリレーションがあって
そこから生じる変調(何も無いところから何かが生まれてくる)関係性、リレーションシップ・縁起
が生じてしまう道理を理解して、楽に生きていける事を釈尊は語ったいたようだ。
仏教という特殊な信仰を作ったのは、釈尊では無く
後世のお経製作者だ!(ハイパー・テクスト・エディターだ!)
仏教宗教団体でも新左翼ブントでも、組織理念やイデオロギー自体を私は否定はしないが
上に書いたような核の理解がまず必要なのではないんじゃないか?
(中村元『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─』春秋社、1988 年版)
(前田恵学『原始佛教聖典の成立史研究』山喜房佛書林、1975 年版) 人間革命してキチガイになりました
現証でしょうか? >>126
こらこら、他人の信心をバカにするなよ。
創価学会も日蓮宗も日蓮正宗も立正佼成会も顕正会も
信者さん達は、それぞれ価値があると思うからこそ、それぞれの信心を持っているんだから。
だいたい、宗教団体を批判する姿勢自体が、既に仏教じゃない。 家族馬鹿にされてるので徹底的に馬鹿にします
仏教徒じゃないんで >>128
>仏教徒じゃないんで
宗教は関係無いのか?
他人の家庭の事だから、詳細も文脈も知らないとことわった上で。
民事で提訴までは自分で出来るだろ?
誰かが助けてくれるのを待っているのはダメ人間。
幸せを求めて頑張っているいる人間は、自分で行動するんだよ。
ただ、宗教団体に関してはスレ違いだ。
ここは大乗仏教から認識して、日蓮を理解するスレだ。
老婆心ながら市役所の市議会局へ行って、誰も良いから好みの市議会議員さんに相談できる
議員さんに名刺を切って貰ってから
市民相談室・法務省法務局人権対策の弁護士さんや
警察の生活安全課または警務課の市民相談室へ相談へ行く。
まず、記録を取ってもらう事。そしてコチラも録音と出来るところまで動画をとっておく事。
弁護士がもしも反訳書を作成する時の法的根拠として地裁は認めてくれる。
ここまで考えて、普通の社会人は行動するんだよ。
泣き寝入りしてブツブツ言ってる奴は、社会的視座と知性が無い事を自分で証明してるのと同じ。
もう二度と、このスレで愚痴を書き込むな。
誰かが、構ってくれるのを期待しているのか? >>131
もしも暴走する創価学会員に出会ったら(2020年代にも若干残っているらしい)
法律扶助制度の弁護士さん署名の上
信濃町・創価学会・第1庶務局へ内容証明郵便を送り
文末に「責任ある回答を望む」と書いとけば(あなたと弁護士連盟で)
その地区のお偉いさんが、該当学会員を指導してくれます。
よく録音テープや動画を週刊ダイヤモンドや東洋経済・週刊金曜日の編集部に送る人がいますが
いかに反創価学会系雑誌だとしても、ゲラ自体は創価学会にチェックされますし
逆に提訴されたりしてややこしいのでオススメしません。
金銭的損失や暴力などなら刑事事件として訴訟を起こせます。 仏法にはレトリックやメタフィクションが含まれるのは当然だが
龍樹が13歳の少女をレイプしては殺しまくってた
ロリコン連続殺人者だったという記述は一体何を示そうとしているのだろう?
やはり
ブレヒト的な「伏せてる閉じる」というドラマツルギーだろうか? 行動がおかしいしありゃ廃人だろもう治らんて無駄
なんのため生きてん? 信心家というあまり使われなくなった用語、
あの人は信心家だから云々とそっと評判したものだ。
信心と云う熟語は曖昧過ぎ、坊さんまでがお宅は信心が有るの足りないのと
言い出す始末で捉え処がない。お盆時期に仏壇に、佛華、お線香を用意してると
信心深いですねと大安売りするのが世間一般の風潮である。
信心なるこの熟語は、白浄信心という密教の見解が最も的中すると私は思う。
自身の胸底には、お釈迦様と何一つ変わらない白く浄い心が具わると信ずるを云う。
この説明が最も善いと思うが如何か、他人の信心と自分の信心を(ガタピシ)我他比此
するような見苦しさは一片の欠片も在りはしない。 真言宗の空海は東寺を与えられ大日如来が祀られているが(仏像)
降三世明王像が、大日如来の両親を踏み潰しているのは、どういう理由なのだ?
あの明王と言うのはゾロアスター教からの影響だと言われるけど
アフガニスタン・ギリシャ・ヘレニズムにおいて
あの様な表現方法が既に存在していたのかな?
美術書では一度も見た事無いけど、、、
東大寺のお水取りはゾロアスター教の神事の真似なんだけど
あのシバやウマーが踏みつぶされてるのが「パラドクスじゃね?」って、、w >>135
>信心と云う熟語は曖昧過ぎ、坊さんまでがお宅は信心が有るの足りないのと
宗教団体活動に生きがいを見出してる人達は批判はしないけど
認知心理学的また行動心理学的に
「信心!」 「信心を持ってます!」 という言質・文言と自分自身への宣言は
『全てでは無いけれども』
人間の「もう、これ以上努力しなくていいんだ!社会の中で戦わなくても良いんだ!」
という
『自分が努力しなくても良い、という自分にとって都合の良い理由』にしてしまう人もいると思うんだ。
これは、難しい。「幽霊と話が出来るし、他人には見えない幽霊が見えるんだ!」
と、語る覚醒剤中毒者や統合失調症患者に対しては、何を言っても無駄だし
逆に、何かを言う事自体が間違えなのかもしれない。
菊池寛の「屋上の狂人」のように周りに迷惑をかけないまま、屋根の上で観音様が飛んでいるのを
眺めている兄を許す弟・主人公の様に、そっとしておいてあげよう。 >>137 神仏への信心を強調する宗教の意見は、早晩消えるべきでしょう。
但し信という心構えは成功するためには大事です。
かの大谷選手が、此処はストライクを取る!と信じて一球に心を込めて投球する
彼は己の投じる条件を満たし、信じるからこそ出来るのです。
お金だってそうですね、通用すると信じるから無造作に会計時に支払う。
受け取り側も信じて受け取る。
似た様な場面があります、己の早起き自慢を含めアドバイスをしたがる人が居ます。
ゴルフなんか多いんじゃないですか?成程と聴いているうちは好いんですが、
質問をすると怒り出す「俺のいう事を嘘と思うか?」そんな人が居ますでしょ?
詰まり、彼の信条を疑ったらしいので怒り出した、誠に子供っぽい場面です。
そんな人に、ストレッチと柔軟体操を教えたら逃げられた経験が有ります。
其処迄も熱心に俺はやらなくても良いのだと理屈を並べたりしますね。
是も集合知の範囲ですか?トーゼン冗談ですけども 法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を 法華経のみを信ずる人は冬にあらず、春にあらず、夏にあらず、秋にあらず
法華経のみを信ずる人は仏教の春夏秋冬を終に知らず
いまだきかず法華経のみを信ずる人の如来・菩薩となる事を >>138
私が言っている「信」は
believeじゃ無くて
trustでも無くて
faith の事だよ。
日本語って難しいなw >>138 貴方の意味する信は、英語を翻訳したところ信仰ですね。
其れでは、信仰って何かの条件を満たすとその様に言えるか?と成ります。
日蓮信仰、稲荷信仰、阿弥陀信仰、キリスト侵攻、不動信仰、大日信仰、アッラーアクバル!
弘法大師信仰、観音信仰、現金信仰、日銀信仰、創価学会信仰は良いが寺はダメ!
勝手な信仰しやがってこの野郎!ロリコン信仰、白米信仰、天狗信仰、土俗信仰、先祖信仰とか何とか色々あり必ず信者が付いてます。
改めて言うと、「神仏に人が祈願をする、交流する其れを信仰と云う」となります。 143の投稿者ですがアンカーミス >>141に訂正 創価学会仏ってなんですのん?
ソーシャルこそ仏的な? >>142
>実際お前日本語苦手そうだよな
そう、日本語に慣れてる気でいるけど実は苦手
頭は英語で考えて、それを日本語に翻訳する作業を大人になってもしている。
帰国子女でも頭の良い人は日本語で考えられるんだけどね。
もしも、ここに合衆国生まれ、合衆国育ちの日本人がいたら教えて欲しんだけど
Floppy(発音・フローピー)に対応する日本語ってある?
これ帰国子女同士で話すと皆んな「この言葉の意味を適切に表す日本語って無いよね?」
という話題に必ずなる。
日本人はフロッピーディスクのフロッピーのイメージを持ってるんだけど
合衆国では、全然違う意味なんだよな。
ここに合衆国育ちの帰国子女はいないと思うけど、同じ感覚の人がいたら共感出来て嬉しいんだけどな。 >>143
>其れでは、信仰って何かの条件を満たすとその様に言えるか?と成ります。
FAITHって言うのは、理由も無く論証も無く、反知性主義的に信じる意味になるんだよ。
ただ、これもオックスフォードやウェブスターの辞書的な解釈だけどな。
一切の条件を無視して信じるという意味が近いかな?
デカルトもウィトゲンシュタインも
二元論の限界を示しながら、また言語という記号はゲームでしか無く思惟を構成する要素では無い!
と言ってた哲学者も、哲学の仕事とは別に
あれだけキリスト教福音派を否定してたのに
プライベートでは熱心な福音派教会の信者だった。という話と同じ。 >>143
>改めて言うと、「神仏に人が祈願をする、交流する其れを信仰と云う」となります。
あのキルケゴールでさえ
形而上学的な概念の存在論的・認識論的証明が不可な理由として
最後に言いました。
Take a Leap Of Faith
と。
そしてキルケゴールはキリスト教福音派の信者として死ぬまで行きました。
西洋哲学でも仏教哲学でも、問題点とソリューションは1つです。
コミットメント自体を、どう判断するのか?
そして、それは他者の言葉や信仰の押し付けを跳ね除けた
自我・es・超自我だけが答えを持っている。
という事です。 私の身近な1つの例です。
私は、この様なBBSやSNSや動画配信サイトで書き込んだり、動画配信をしています。
その私の言質・文言に対して、こう言う人が多いのです。
「こんな平日の昼間に書き込んでる奴だから、どうせ仕事してないんだろ?無職やニート・ヒキコモリだろwww」
こんな事を書き込む人が実に多いのですが
これを分析すると、このような発言をしている人は
「仕事」という概念は「労働所得を得る事」だけだと思っている訳です。
彼らの頭の中には「資産所得を得る仕事」という概念が無いのです。
これは、ある意味「知ってるか?知らないか?というタダの問題じゃないの?」
と、言う人もいますが、それ以上の重要な意味を持ています。
その「知らない!」という人の
出自・生育環境、教育環境、労働環境・社会人としての人間関係の貧弱さ
国内の経済や国際金融に関する情報のパブリックアクセス権の放棄をする性格
などを表している、(本人が気づかずに)意味を受け取れる(観察出来る)のです。 「日蓮仏教における祈りの構造と展開」
(国立国会図書館書誌ID・026094529/請求番号・HM183-L23)
の中のディーパンカラシュリージャニーナに関する部分は
(私は仏教哲学の学究では無いので、論評する資格は無いが)
日蓮においての、「あまり語られる事がない」シークエンスが含まれている。
もし日蓮に多大なる興味のある方は、一読を勧める。 カローシュティーから、なんちゃってサンスクリット、ブラフミーへと
記述言語の変遷が存在したのは確か。
でも、その流れの中に「失われた物」と「つけ加えられたら物」との存在証明は不可。
文IIIの仏教概論を指導してくれた恩師は
「欠損性、脆弱性、フラジャイル性、差別、スティグマ、喪失、境界をまたぐ第三者の介入
それこそが、仏や神を疑い続けてきた人間が、最後にたどり着いた行動原理として
それらは、個人個人によって、ひとりひとりのコミットメントとしての
思想様相を形作られた。その様なもう1つの世界(表に現れない裏の世界)となった事が
宗教が減衰しない理由だ」
と、語られていた。
多数の人間の共同幻想は、たまたま偶然に
「個人の独善的審美的価値観と同値である!」
という話だ。
低次元の話に例えると、宗教団体に属する熱心な信者は
それぞれが帰属社会規範・規約・団体会則とは別な視座を
無意識に持ち続け、他の信者との乖離を感じても
それに関しての論拠を求めないようにしている。という事だ。理由を考えてみよう。2つ。
1・自身の信条と、それへのコミットメントという構造が変性される危機を避けたい。
2・宗教団体という帰属意識の中で「余計な事・誤解される事」を言ってパージされる事を避ける為。 >>145
>創価学会仏ってなんですのん? ソーシャルこそ仏的な?
まあ、それに近い認識を持っても良いのだけれど、現在の創価学会は宗教だけの団体では無く
調べる限り創共協定の時代から岸さんとの勧告を、どう受けるか?
あの問題以降、創価学会は政治と経済に軸足をずらし始めた。
詳細は図書館で調べて欲しいけど、極端に言うと戦後の戦災孤児や戦争未亡人、集団就職と人身売買
労働問題、特に高度経済成長時代に日本最大の格差社会が出来て、そこで苦しむ人達の
1つの救済として創価学会は宗教団体として支持を集めた。のだけれども
時代は変わり日本国は稀に見る社会福祉国家になった。
次に創価学会が社会的包摂を行おうとすれば政治と経済のタクティクスにシフトせざるを得ない。
ここでだ
50年代60年代からの学会員さんの中には「創価学会はダメになった!池田先生の思想と違う!」
と不満を持つ人達が増えた。
先ほどの私の書き込みに対して「キルケゴールって英語喋れるんだ 知らなかったー」というレスの書き手の様に
話が出来る相手では無い人も信者さんの中にいる。特に池田氏のカリスマ性にインセプションされた
昭和学会員は「立ち止まる事」を望む。
創価学会が進化すること自体を望まない人達だ。その人達に人間の実存を如何に教えたら良いのか?
その戦術は難しい。相手が相手だけに「語るに堕ちる」という状況も幹部は危惧する。
今の所、まだ安全圏内の実存の教育は
「創価学会員ひとりひとりが仏なんです。その仏が集まった創価学会が創価学会仏なのです」と言うしか無かった。
これは仏教の「悉有仏性」に反していないパブリック・リレーションだ。
いずれ創価学会は
「仏と言うのは学会というマスでは無く、学会員ひとりひとりの実存を哲学する自主独立性なのです」
と言うようになるのでは無いだろうか?
現在は、書籍やネットでの言論人や学究のオピニオンに容易に仏教アクセシビリティが当たり前になっている。
言い方は悪いが、創価学会は(あくまで思想的な意味で。お金や時間の事は私には興味は無い)
昭和学会原理主義の高齢者の扱いに困っているのでは無いか? >>154
若悩乱者頭破七分って
それも仏典作劇上のメタファーとレトリックだけどね。
バラモン教では脅しの言葉。
仏教では無明が避けて悟れるという励ましの言葉。(祝福の言葉)
(中村元著・ブッダの言葉・岩波文庫1984年版)
梅原猛氏の「地獄の思想」にて、日本人は小さい時からバチが当たるとか、功徳があるとか
大人達の道徳を受けて育ってしまう。それが全てを二元論的に観る認知の不協和を
引き起こすと言ってたね。NHK放送ライブラリーでは
「何故、日本において仏教がオカルトになってしまったか?は、ここに原因があるんじゃないですか?」
と語っていたな。
法華経を読んだからと言って功徳とかご褒美とかオカルト取り引き契約も無いけど
法華経を読まなくても、軽んじても、罰が当たるという恐怖政治的全体主義も無い。
「じゃあ法華経は読む価値は無いの?」と問われても
「法華経を宗教的指導者以外の人について貰って読んで、そして興味が沸けば読めばいいだけ」
としか、答えようがないよね。
文学・哲学・映画・演劇に親しんでいた人が「法華経の構成力とアナロジーは凄ぇ!」
と、言っても、それはその人の教養や知識や知性に依存している個人的価値観。
ただね
メロンを初めて食べて「うわー!メロンってメロンソーダみたいな味がして美味しい!」
とか
BBQを初めて食べて「うわー!BBQってサッポロ・ポテトBBQ味みたいに美味しいねえ!」
という人達を見て
私は、彼らに本物のメロンとメロンソーダ。BBQとサッポロ・ポテトBBQ味を同時に食べさせてあげたい。
私はね。 「だって!フツーはそうでしょ?」というパートのババア。
ヴィッテンべルクの教会に
「95ヶ条の論題」
(正確には『贖宥の効力を明らかにするための討論』4年にて集合知が変わった)
を張り出し
カトリック教会の持つオカルト信仰を非難した。
カトリック教会のオカルト宗教を非難したルター自身の論題(旧名)自体が
オカルト的な文面が並ぶw
そして、更に、このルターの公開質問状自体がルターが書いたのか?
いつ、どこで張り出されたのか?決定的証拠は1つもない。
と、これもまたオカルト。宗教改革のオーパーツw
「集合的な知では無いが多くの学者は否定的で書簡説が有力」だとの事(深井智朗氏)
それでもパートのババアは
「だって!フツーはそうでしょ?」と言い続ける。
私達は、そういう方々を敵視してはいけない。近寄ってもいけない。
私達は、彼らを山の麓に残すべきなのだ。 最重要な所を間違えた訂正しとくよ
(正確には『贖宥の効力を明らかにするための討論』4年前の 2 0 1 7 年 にて集合知が変わった) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(中略)ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候 >>159 日蓮師自身が人に説く信心とは?
題目有れば大丈夫!と炊き付けて居ませんか?と思うような信心を薦める。
信心という熟語の持つ曖昧さ、曰く君の思う信心と日蓮さんの指示する信心は違う。
そのように寸法が好き勝手に伸び縮みする、得手勝手さを此の言葉から感じます。
悟りと信心、二つの言葉は曖昧さが満載され便利遣の結果、死語じゃないでしょうか。 >>160
森本達夫氏は鎌倉新仏教の根底にあるのは
バァガヴァト・ギーターの影響が見られると述べている。
特に法然・親鸞、日蓮においては。
仏や経に他力で頼って、自己自らが悟りを自力で獲得する事を放棄していると。
その理由は、知識や行為という煩瑣な手続きが、一般に浸透し難い事を
前にして、仏法を広める唯一の解決策だと。
これは大衆信仰の台頭という時代の流れに沿った方法論だと語っている。
しかし、これらはメタ的な視線が無ければ見えないし
メタ的視線を持たない人々に対する易行道だと言う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています