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アンチブログを気軽に読むスレ 別館
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/08(金) 16:19:53.13ID:iR6Ae8Lf
18禁及び教義を語りたい人、サイコパスはお断り
右左関わらず政治語りもお断り
ルールを守らない、連投などの迷惑行為は厳禁
煽らず感情的にならず気楽にをモットーにお願いします
0003名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/08(金) 17:57:40.53ID:LqfjArgk
>>2
ID:8EtpOCiO

字が読めないのか?
なんで君がここにいるんだ?
0004名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/08(金) 18:13:29.37ID:iR6Ae8Lf
お願いだから、刺激しないでくれ。笑
言い合いならあっちのスレでしてくれよ。
また連投したらスレ捨てて逃げるだけだがな。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/08(金) 18:20:45.09ID:LqfjArgk
>>4
了解した。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/08(金) 18:26:42.06ID:iR6Ae8Lf
>>5
すまんの。
痛み入る。
0007長文
垢版 |
2019/03/09(土) 19:45:58.82ID:LmqFIZxj
本スレにいたZ3pi/A9Tです。
気楽さを主眼にしています。
ここにご案内いただいたようでありがとうございます。

私の文章は長文になってしまうので、長文が嫌いな人はNGNAME欄に長文と入力してください。
今回の内容は気楽にはなりそうもありません。
根本的に、創価に対しても創価アンチに対しても挑発する内容になってしまうかもしれません。
創価に関する価値観の顛倒を試みるからです。
相当長くなると思います。

私は、創価学会やカルトや創価アンチににある共通性を感じています。
だからといって、これらの方々を否定するものではありません。
そして、この共通性こそが、ある傾向性に人間を迷い込ませる根本原因と見なしています。
この根本原因や傾向性を明示することが、今回の文章の命題としたい点です。

何言ってるか分かりずらいですね。
創価の価値観を根本的に顛倒するには、創価のものの見方を疑うというか、創価のものの見方、つまり創価の物事の認識や表現方法を明らかにしなければなりません。
このことに徹底的に向き合うことから始めたいと思います。

私は表現の難化を避けるために教学や学術用語は使用しませんが、今回は例外的に使うことになってしまいます。
ものの見方とは存在論であり、そこに関わらざるを得ないからです。
そこを明らかにすることによって、いつまでも善悪二元論の範疇から抜け出せない創価の根底を見出だしたいと思います。
0008長文
垢版 |
2019/03/09(土) 20:07:44.78ID:LmqFIZxj
仏教的な話から始めたいと思います。

いきなり専門用語を出しますが、仏教に「虚妄分別」という言葉があります。
別名、妄想分別と呼ばれたりします。
どういう意味かというと、人間は言語や概念を使ってこの世の事象を誤って認識するという意味です。

なんか物凄く分かりずらい。
大雑把に言うと、人間はこの世を正確に見ていない。
人間はこの世の事象に山を見るとします。
山という言葉が何を指し示すかというと、十人人間がいれば、十人山に対するイメージは微妙に異なる。
山は怖い、山は美しい、山は寒い、山は険しい、山は眺めが良い、山は疲れる。
このように、山に関するイメージは必ずしも共通しません。
各自、自分の山に関するそれぞれ異なるイメージを、山という言葉に重ね合わせています。

山という言葉は各自異なる人間のイメージが重ねられたもの。
なので、完璧な山や客観的な山や、また山という事実は無い。
山らしきものに、山という言葉が当てはめられると、そこに人間が山に抱いているイメージが投影されているだけです。

なので、山はない。
山は、人間のイメージが作り出した心理的表象、あるいは境界です。
これは、仏教的には現象界を幻想として扱う空の概念です。
この説明でも分かりづらいと思います。
これ以上説明を試みると先に進まないので、ここら辺の詳しい内容である、空海の言語観や唯識を参考にしていただけるとありがたいです。
0009長文
垢版 |
2019/03/09(土) 20:29:10.22ID:LmqFIZxj
お釈迦さんは、この世の虚妄性を明らかにしました。
お釈迦さんが言ったことは、「現象界を実体と見誤るな」ということです。
あらゆるものは空であり、諸行無常であるからです。

なので、諸行無常である現実、つまり現実という幻想を事実と思い込んで、幻想に執着してはならないということです。
言葉や概念によって作り上げられた、主観的なイメージの投影にしか過ぎない幻想世界に取り込まれないようにしなさい、とも言い換えられます。

仏教やヒンズー教は、輪廻からの解脱の思想を説きます。
この輪廻が生じる原因は、この世への執着と言われています。
つまり、幻想世界をリアルと思い込んで幻想世界に禍根を残すから、その禍根を埋め合わせる為に繰り返し生まれ変わって輪廻してしまうというわけです。

そして、この絶え間ない輪廻という執着の苦しみから逃れる手段が輪廻からの解脱です。
なので、仏教やヒンズー教に共通して言われるのが、つきなみになりますが、煩悩という執着心を解き放つことです。
執着が無くなれば、輪廻を生み出す根本駆動力である煩悩が無くなって、輪廻が止まるからです。
0010長文
垢版 |
2019/03/09(土) 20:47:41.53ID:LmqFIZxj
仏教知識のある方には、当たり前で何の変哲もない内容です。
また、創価学会の方にとっては、二乗的とか小乗的といった自己満足的な内容に映ると思います。

ただ、それがどうあっても、この世は幻想であるという点は変わりありません。
また、言語という概念発生装置が、まるで映写機のように、言語(シニフィアン)に付随する意味(シニフィエ)というイメージをあらゆる物事に投影して、世界という空想映画を上映している点は変わりません。

ここら辺はもっと詳しく説明書が必要なのですが、そうすると話が進まないので詳しく知りたい方はソシュール言語学、構造主義、ポスト構造主義を参考にしてください。

こういった事前説明が必要なのは、じゃあ、この世をどう生きたらいいかという点に答えなければいけないためです。

理屈なんか述べられても役にたたない。
そんな理屈を並べている暇があったら南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を唱えて功徳をもらった方がましだ、と思われるのが普通かもしれない。

ここからは具体的に、じゃあ世界という幻想にどう向き合うのが妥当か私なりの見解を述べていきます。
0011長文
垢版 |
2019/03/09(土) 21:20:05.65ID:LmqFIZxj
この世は幻想です。
この世とは、宇宙というスクリーンに人間の心理イメージが投影された、人間心理の数だけ存在する様々な心理態度が複数重なりあってホログラム化された、バーチャル映画のようなものです。

人間は、この心理イメージの宇宙で大いに楽しむことが可能です。
もし世界が餓えに困り果てていたら、そんななかで人に食べ物をわけ与える自分、あるいは自分だけが生き残る為に他人の食べ物を強奪する自分、あるいは絶望して飢え死にする自分。

人間は自分が好きなように自分の生き方の脚本を考えて、それを世界というステージじ持ち込んで演じることが出来る。
現実的に言い換えれば、人間は夢を抱いて、夢を叶える為に最善な生き方を実践出来るとも表現できます。

重要なポイントは、この人間の脚本や夢が、解脱に導かれる内容か否かという点にあります。
いくら楽しくても、脚本や夢が解脱に導かれる内容でなければ輪廻し続けて苦しむはめになる。

このような状況を創価学会お得意の宿命転換理論で言い換えてみましょう。
人間は、輪廻し続ける理由である宿命を出しきってそれを乗り越えることにより、解脱という成仏が成し遂げられるというわけです。

一応、輪廻の法則に則るならば理に叶った内容です。
0012長文
垢版 |
2019/03/09(土) 21:43:49.25ID:LmqFIZxj
この世は幻想であるという観点から、再度人生の取り組みかたを詳しく見たいと思います。

この世は幻想ならば、幻想と見なして接するべきです。
これは至極当然のことです。
この世は幻想であるという点をしつこく眺めて見たいと思います。
この世は、人間が言語や概念を使って物事に自分の固定観念イメージを投影しています。
山を見れば、山は高いと見たり、怖い獣が住んでいると見たり。

なんで、物事には元々意味はありません。
物事の意味は、人間が勝手に作り上げています。
ですので、物事の意味は極めて流動的です。
物事は、人間の見方が変われば、変わったように意味や形を変えます。
言い換えれば、物事とは、人間の鏡というか、人間の見たい姿がそのまま物事に現れる。物事は人間の思うがままです。

もし人間がある物事を怖いと感じたら、その物事自体が怖いのではなく、人間がその物事を怖く感じたから、その物事は人間にとって怖いものとしてイメージが付加されました。
もし人間が、同じものに対し、今度は優しく感じたら、人間がその物事を優しく感じたから、その物事は人間にとって怖いものから優しいものとして180度変化してイメージが付加されました。

つまり、世の中に客観的なものなど無い。あらゆる物事は人間の主観的イメージの表象です。
人間は世界に、自分のイメージを見ています。
0013長文
垢版 |
2019/03/09(土) 22:06:07.23ID:LmqFIZxj
世界というのは在るがまま。
何も意味を持たず、縁起により、あらゆるものが縁をして、連関となり、連関性に人間が特定の意味を与えると、それが事物として起こり、現実と見なされる。

この連関は絶えず流動を続け、どのように変化するかは形を持たないため予測ができず、ただ人間はその連関の一部として、ただ身をまかせることしかできない。
人間はこの絶え間ない連関の流れのいずれかにイメージを与えると、その連関の一部は物事として立ち現れる。
そして、実際は、その物事は形を変え、常に同じ物事ではない。

だから、天変地異も飢饉も他国侵逼も、その中で起こる。
それらは、様々な連関の中で起こるべくして起こっている。
その中に人間はまきこまれるかもしれない、死ぬかもしれない、生き残るかもしれない。
それらは必然的に生じる。
何の意味も無い。人間が生じる連関に自分のイメージを投影しさえしなければ。

お釈迦さんの意図したことは、物事に執着しなさんな、いろんな悲惨やラッキーなことはいつかは無常で消え去る、それらに自分の好き勝手なイメージを投影してしがみつくから苦しみが発生する、といったことです。
0014長文
垢版 |
2019/03/09(土) 22:33:08.28ID:LmqFIZxj
でも人間は怖がりですね。
天変地異や飢饉や他国侵逼に巻き込まれたくない。
仏教は、肉体が失われることがあっても人間の本質である魂は永遠で滅びないと教える。
輪廻転生とは、魂の継続が大前提。
しかし人間は、この肉体が恋しい、無常の法則に抗いたい。

じゃあ人間は、無常に抵抗するにはどうしたらよいか?
それは分別することです。
天変地異も飢饉も他国侵逼も、人間が自分の肉体の喪失を怖がるからそれらを恐怖の対象として具現化する。
天変地異は悪いこと、飢饉は悪いこと、他国侵逼は悪いこと、これらは虚妄分別の部類に属します。
人間が無常に逆らって、避けたい事象に悪という分別を行い、悪を葬り去ることが出来ると信じます。

ここに、釈迦の教えの否定が生じます。
釈迦は、あらゆる物事の実体化を否定します。
なぜなら、あらゆる物事は空であり、実体など無いからです。
悪や葬り去ることが出来る物事など元々存在しない。

ここで人間は、命の喪失の恐怖から逃れるために、釈迦の教えの曲解を試みます。
肉体の喪失から逃れるため、肉体維持の敵を実体化します。
人間の命を脅かすものは悪というわけです。
逆に、人間の命を保証するものを正義とします。
0015長文
垢版 |
2019/03/09(土) 23:00:44.23ID:LmqFIZxj
日蓮は、素直に自分の肉体をリアル化した人です。
そうでなければ、天変地異や飢饉や他国侵逼を徹底的に悪とは見なさない。

釈迦の教えの無常の理解が出来れば、あらゆる物事は諸行無常で、その中に、天変地異も飢饉も他国侵逼もあらゆる物事が含まれます。
それらをできうる限り避けようとするのは、肉体を大切にしたい人間の人情であり、自然な振る舞いではあります。

ただ釈迦であれば、同じ状況で避けきれないことは有るがままの出来事として受容する。
釈迦は最後の旅で、あえて腹を壊す施し物の食事をそれを知って嫌がらずに受け入れた。
そして、肉体の死を自ら受け入れた。

日蓮は、無常の避けられない出来事に絶対正義や絶対悪という定義付けを行なって、徹底抗戦しようとした人。
日蓮は、天変地異にも飢饉にも他国侵逼にも、諸行無常を見ずに特定の原因を当てはめようとした。
その特定の原因が、日蓮にとっては邪宗であり、絶対悪です。
つまり、特定の原因である絶対悪を滅ぼせば、あるいは特定の正義を信じれば、無常や肉体の死を避けることを可能にすると見なしました。

ここが、釈迦と日蓮の、物事の認識や受け取り方の徹底的な違いです。
0016名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/09(土) 23:04:43.44ID:rLcQQ6v3
1:   こ の 板 は 誰 も い な い ね  (447)

2: ■ ひきこもりがコピペでageてるだけの板だね ■ (335)

3: ■■ 日蓮正宗って何で落ちぶれたんですか? ■■ [無断転載禁止]©2ch.net (514)

4:   ゴ ミ 無 職 ア ン チ (失笑)  (94)

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6:  日 蓮 正 宗 が 終 わ っ た 理 由  (891)
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/09(土) 23:08:03.67ID:rLcQQ6v3
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6:  日 蓮 正 宗 が 終 わ っ た 理 由  (891)
0018長文
垢版 |
2019/03/09(土) 23:35:43.72ID:LmqFIZxj
釈迦は、この世は無常で実体が無いとみなした。
実体とは、人間によるイメージにすぎないと見なした。
だから、人間はイメージの投影をやめれば実体化という分別を無くせて、人生を幻想と見破って煩悩は消えて解脱に導かれるとした。

日蓮は、天変地異や飢饉や他国侵逼など様々な事象を実体と見なした。
実体とは、人間のイメージではなく、悪や正義や優劣に分別される絶対事象と見なした。
だから、人間は優劣をしっかり分別しなさいとし、優である正義を信じて劣である悪を滅ぼせば解脱出来るとした。

釈迦は人間の無常へのイメージ傾向を戒め、日蓮は人間の無常へのイメージ傾向を推奨する。

これは言い換えれば、釈迦は人生という映画を幻想と見なして、自分のイメージを変えることによって脚本を書き換えたり、イメージの投影をやめれば映像は消えて輪廻という映画を終了することが出来るとする。
日蓮は、人生という映画を現実と見なして、その中で映画のストーリーに正義や悪という分別を行い、正義を信じて悪を滅ぼせば輪廻という映画を終了することが出来るとする。

この日蓮の、人生という幻想映画に関する姿勢は適切であろうか?
結論から言うと、日蓮は幻想映画の上映を終了することが出来ない。
なぜなら、映画を現実と思い込んでいるから。
日蓮は、映画のスクリーンの中に入り込み、自ら主人公になりきっている。
そして自分が正義として、映画の中の自分の敵を悪と分別して滅ぼそうとする。
もし、映画内の悪のキャラクターを全部滅ぼしたとしよう。
そこで映画は終わるだろうか?
終わらない。
正義と悪という、人間による分別というイメージの投影は決して終わらないから。
0019長文
垢版 |
2019/03/10(日) 00:05:59.35ID:UpJ9CZKs
もの凄く前置きが長くなってしまった。

創価学会は日蓮の思考方法を受け継いでいる団体です。
ですから、当然世の中の出来事を無常や空として認識するより、現実として受けとる。
そして、自分が世界に投影しているイメージを、実際は自分のイメージの産物であり幻想であるとは気づきません。
一念三千という教義はあるのはありますが、形ばかりで一念のなんたるかを唯識の観点から理解しているかは極めて疑わしい。
なぜなら、もし唯識を理解できていたならば、正義や悪という特定定義を実体化する誤りは起こし得ないからです。

なので、創価学会というか、創価的思考方法の持ち主は、事物の幻想性から入ることは決してなく、事物はリアルであるというスタンスで世界と対峙します。
そして、世界に正義か悪か優か劣かという二極性を、己のイメージ内の分別を元に施していきます。

創価学会的思考方法の持ち主は、本来はあらゆる物事は無意味であったり無常なカオスの世界に、正邪に基づいた独自のコスモスを形成していきます。
この創価正邪コスモスが、世界人類共通なら問題ありません。
しかし、世界の人々、民族、宗教は、それぞれ異なる体型のコスモスを形作ります。
当然というか、類似したコスモスは仲良くなり、噛み合わないコスモスは弾き合う。
もし、弾き合えば弾き合ったコスモスは争いを起こす。

世の中の根底はカオスです。
コスモスはカオスから生じる。
カオスとは無常です。
カオスには正邪など存在しません。
0020長文
垢版 |
2019/03/10(日) 00:47:27.63ID:UpJ9CZKs
ブログや気楽とは全く関係ない方向に流れていきつつある。
軌道修正になるかどうか。

ブログや5chにしても何にしても、創価や正宗に関するものは、とにかく書き込む方の思考方法は賛同や批判いずれにしても基本的に同じように思います。

正義か悪か、偽か本物か、詐欺か善意か、加害か被害か、罰か功徳か。
それでもいいですけど、創価学会は仏教団体でありながら、なぜ「世の中は実体と呼べる確実なものは何もない」という基本原則に基づく意見が無いのだろう?と感じます。

自分は元学会員だから創価では仏教の基本のようなことは決して教えてもらえないことは知っています。
また、あまりにも自分達を世直し団体と見なして会員を活動に無理に駆り立てようとするから、正義や功徳という目に見えて分かりやすいものばかり会員に信じ込ませることも分かります。
ただ、そうであっても自主的に創価以外の様々な思想の勉強はできるはずです。

私は、創価学会とは、創価に洗脳されておかしくなるというより、創価学会的な考え方をする人が創価学会に引き寄せられていると思っています。
この世を絶対なものとして、善悪などの二極の単純な観点から、自分のコスモスを形成したい人々です。

これらの方々は、この世のカオスの存在に気づかなかったり、あるいはカオスを受け入れたくない人。
元々世の中はカオスです。
赤ん坊はカオス。
自然はカオス。
宇宙はカオス。
元々秩序は存在しない。

人間が外部に人間の狭い視点から見出だす秩序なら在ります。
地球の自転公転。鳥の渡り。海流。天変地異のサイクルなどなど。
しかし、これらは全部人間が自分勝手なイメージ投影しているだけです。
人間がいなければ、これらは存在しません。
「森で木が倒れた時、人がいなければ倒れた音はするか?」
0021長文
垢版 |
2019/03/10(日) 01:13:28.52ID:UpJ9CZKs
あらゆる物事は関係性で成り立っています。
森に人がいなければ、森で木が倒れても音はしない。
音波を音として受けとる対象が無いからです。
音は、倒れる木と音を感じる対象である人間との関係性で生じる。

正義も関係、悪も関係、罰も関係、功徳も関係。
何らかの対象との関係に意味が与えらると、関係した人のみの間に実体が現れます。
最初から、絶対的なものが存在しているわけではない。
人間は安心を求めて関係性を実体化して、コスモスという意味の陣地を張り巡らせようとする。

これが、元々無意味なカオスの中に意味や秩序を与えて、現実として体系化しようとする人間の傾向性です。
社会という混沌は怖いですね。
宗教という混沌は怖いですね。
過去世という混沌は怖いですね。

しかし、そこに何らかの秩序を与えると人間は安心する。
規律という秩序、優劣という秩序、宿命や転換という秩序。
秩序のあるところ、理性的な気楽は有る。
しかし、非理性的、つまり人間の分別を放棄する解脱という本当の気楽はない。

人間の源はカオスです。
それは、無常というあらゆる物事を生み出す豊穣の海。
あらゆる秩序を放棄する勇気を持ったとき、人間は死ななくても肉体を持ったままコスモスの呪縛から解放される。
それは、分別の解体。カオスへの回帰。
あらゆるものを生む出すものとの再結合。

人間が正義や悪などの定義により自分のコスモスを作りたがる理由は、自分の肉体を守りたがる恐怖心。
それらを手放すのが、永遠の本当の気楽さ。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 07:04:17.56ID:ElXIsVbR
>>人間が正義や悪などの定義により自分のコスモスを作りたがる理由は、自分の肉体を守りたがる恐怖心。

それも「人間らしさ」の一つだと思うが
仏教って、不感症になれって思想みたいだね
0023長文
垢版 |
2019/03/10(日) 07:58:34.91ID:UpJ9CZKs
確かに肉体を絶対と見なせば、不感症の思想ですね。
でも、肉体って鎧みたいなもんなんです。
肉体は極めて制限された範疇のみしか知覚できない最低限の感覚器官しかついておらず、及びせいぜい80年くらいしか構造を維持できない。
また、あちらこちらが病気になる欠陥品。
肉体を脱げば、その悦楽は肉体の快楽など遠く及ばない。
それは自由であり無碍自在。
人間の本来のの姿。

この肉体は、人間が自らを自分を個人として外界から分ける為のスーツみたいなもんかな。
命は本来一つだから。
命を分割するには、命に境界を施す必要がある。
肉体とは、仏の性質を無限に細分化する為のもの。

その細分化を個人として楽しむなら楽しめばいい。
しかし、その楽しみは永遠ではない。
肉体は永遠ではないから。
永遠でない肉体に執着すれば苦しむことになる。

仏教や宗教は、肉体というスーツを脱ぎたい人の為のもの。
よって、自分のスーツを維持して楽しみたいのなら解脱型の宗教は邪魔になる。
自分のスーツを維持して大切にしたいなら、現世利益型の宗教が肉体生活の堪能の享受の役に立つ。

自分がここで用いているのは、現世利益宗教ではなく、解脱宗教。
肉体というスーツを脱ぎたくなった人の為のもの。
ただ、何度も輪廻を繰り返して板について締まったらスーツを脱ぐのって大変なんですよ。
スーツが名残惜しかったり、肉体の感覚が絶対的な感覚だと思い込んでいるから肉体の感覚を手放したがらない。

この手放しを手助けするのが解脱型宗教。
感覚の放棄を促すには、それとは対局な不感的な態度がショック療法的に必要だったりする。
0024名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 10:01:25.86ID:ElXIsVbR
肉体がやめば心にも作用するが、鎧として切り離すのは無理がないすかね?
脳細胞に感情も支配される
肉体でもある脳細胞をなくせば(鎧を脱ぐ)、人間の本来の姿?
ちがうでしょ。
どこに人間らしさがある?

>解脱宗教。肉体というスーツを脱ぎたくなった人の為のもの。

肉体でもって認識をする命なのに、それ無くしたら「無」ですな
0025名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 10:01:27.05ID:WTFkS9+6
>>22
長文さんほど全然仏教知らんけど
解脱して成仏するってそういうことでしょ。
人間らしさ(煩悩)が苦悩を生む、すべての苦悩から逃れ解放された存在が仏。
幸福を感じるから不幸も感じる。
快感を感じるから痛みも感じる。
ならば、精神的感覚を手放すことが苦悩から逃れられる唯一の方法なんじゃないかと説いたのが仏教だからね。
座禅や滝行なんかそうなるための修行でしょ。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 11:08:15.38ID:ElXIsVbR
私も仏教は知らんが
解脱や成仏ってのがこの説明だとしたら、何にも感じず引きこもって寝てるといいような気がするな

人間なんだから、人間らしくありのままを生きるほうが、ずっと自然で好きだが
仏教は真理を語ってるようで、人間には理解できそうもない言葉で遊びをしてるような感じだ
自分の好みではない
0027名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 14:03:18.37ID:lsqJGAEV
度合だろうね。
学会員ってよくいえば人間らしい人が多かったけど、その分欲深くて執着が強くて下世話な人が多かった。
善悪とか敵味方にも操られやすい。
長文さんのいう解脱型とは対極の人がハマったというのはわかる気がする。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 14:58:24.39ID:PwQ+Pzff
肉体というスーツを脱がなくても気楽だし充分に自由だよ。
しかし秩序は必要だよ、誰もが自分に生きたいのならね。

輪廻なんて信じてないね。
苦しむ事も不幸だと思えることも楽しい事も幸福な思いも、全部大事な経験なんだよ。
そんな精神的感覚を手放したくないよ。勿体ない。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/10(日) 17:30:53.18ID:WTFkS9+6
自分も度合いだと思う。
人間ほっといたら自分の欲望のまま生きるわけで。
欲望が多ければ多いほど苦悩も多いし、周囲との軋轢も生まれる。
長文さんが言う仏教のように、その真反対の自我や感覚を手放す教えがあるからバランスを取れる人もいると思う。
人生をバランス良くより良く生きるために、何かしらの指針は必要。
それは仏教じゃなくても、親や学校の先生から教えられる躾や社会的倫理感でもいい。
それで十分な人もたくさんいるしね。
でも欲望の強さや苦悩を感じる度合いは人それぞれ。
頓服のみで健康でいられる人もいるが、強い薬でやっと人並みに生きられる人もいる。
そういう人をジャンキーだと蔑むことは自分には出来ないな。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/11(月) 20:58:09.54ID:PtwpIlYz
今や創価って何のためにあるかっていうと、アンチの鬱憤晴らしのためにあるみたい
0031名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/15(金) 20:51:04.06ID:0yaK85l3
>>30
そう思う。
基本、他を見下した選民意識をもつと人は醜くなる。
気をつけよう。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/19(金) 09:30:51.29ID:pJYImd8F
創価って 楽しそうなひと
しあわせそうなひとを
蛇のような目付き顔つきで
見るよな 妬み僻みが酷い。
仏教?笑わせんなよ 外部からみると たんなる 政治カルトだろ あんなキチガイ新聞読んでりゃ メンタルやられるわな
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