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因みに独歩氏の場合、その教義、戒壇本尊に対する絶対信がカルトMCだったとすると、その葛藤や動揺、衝撃が下記記事で垣間見える

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
「そんなばかな…!」、正直なわたしの気持ちでした。生まれながらの日蓮正宗創価学会、二世であるわたしにとって、「本門戒壇の大御本尊」が究竟の唯一の本尊であるという思いは、太陽が東から昇ることほど、内心において‘真実’であったからです。

このページをいまご覧になっているあなたは、この題目の七文字が重なった見えますか。それとも違うものであると思いますか。
わたしは重ねたこの画像をプリント・アウトし、ただ部屋の中を歩き回っていました。過去半世紀の自分の信仰、母が「功徳を積むために、おまえを小学校に入るまでに100回、お山に連れ行ったんだよ」、そう言った言葉が、渦巻きのように大きく巡り続けています。

「嘘であって欲しい」、既に創価学会から離れて15年、大石寺からも離れて10年近いの歳月が経過しているわたしでも、心のどこかで「本門戒壇の大御本尊様が偽物のわけがない」、そんな最後の、そう、一縷の思いがあったのかも知れません。
わたしは、この写真を手に握ったまま、この画像を見据えていました。

「この本尊を信じて、人生を擲ってきた人はどれだけいたのだろうか」、あの熱狂的な正本堂供養前夜が思い起こされました。
「一生に一度の御供養」という指導を信じ、家財産を売り払った人もいました。
わたしはまだ小学生でした。
「御供養があるから」という親の言葉で、食べたいものも、欲しいものもすべてを我慢していました