創価学会をやめて最も気づいたのは、創価学会員や創価学会出身者は、自己観察や自己反省といった習慣が極めて少ないところ。
これは過去自分もそうだった自戒を込めて。

創価学会員は、何か物事が起こると功徳だ罰だと外側に根拠を探す。
決して自分の思考や行動の結果だとは思わない。
また、何が正義で何が間違いかも根拠を外側に求める。
公明党の政策学習会など、ただ創価から配られた資料を丸暗記するだけで、自分の頭で政策の良い悪いを判断しない。

この自己内省の欠如は、物事が上手くいかないときに外側に原因を求めてしまう。
上手くいかないのは信心が足りなかったせい、魔が邪魔したせい、仏敵のせい。
しかし、自分が関わる物事の結果の原因は、本当は自分自身の思考や振る舞いの延長であることが殆ど。
信心や魔や功徳や罰や正義や悪など殆ど関係ない。

創価学会に不満がある創価出身者は、過去創価学会で活動したり寄付した過去を「創価の詐欺に騙されたせい」と叫ぶ。
これって、物事の原因を外にしか求めていない。
詐欺は詐欺でいいですけど、じゃあ、その詐欺をなぜ正しいと思ったのですか?
その詐欺を、なぜ功徳と感じたのですか?

普通の自己観察できる人なら、詐欺に引っ掛かってしまった自分の傾向にも耳を傾ける。
そうすると、ご利益ばかりを求めていた自分の卑しさに気づくなど、自分自身の心に隠れている様々な原因に気づくことができる。

正邪や賞罰を求めて依存すると、あらゆる出来事への判断が正邪思考や賞罰思考などの外部判断に傾く。
自分の思考で物事を判断したり、物事の原因を探さなくなる。

創価学会出身者は、自分が創価学会員でいたことを被害や犠牲と位置付ける。
創価学会出身者は、なぜ自分が一時でも創価を正義と感じたり、創価学会で功徳や幸福を感じたり、喜んで創価に尽くしたのかを深く追及しない。

自分自身で物事の原因を深く追及する努力を怠ると、原因を何でも外部に見出だそうとする。
人間が外部への攻撃を行うのは、都合が悪いことが生じた場合、物事の原因を自分自身の中に求めず、全て外部のせいにしようとしたときに生じやすい。