日蓮正宗がわいたら糖質がこのスレに戻ってきた。
こいつらゼロか1かの思考しかできない。
本尊は偽か本物か、創価は衰退するかいなか。
この永遠の二項対立が、創価であるか否かにかかわらず日蓮脳、創価脳と同じ。
敵か味方、正義か悪、浅い深い、発展か滅亡。
日蓮脳、創価脳の最小単位は常に二項。
創価脳は、あらゆる物事を最終的に二項に分類する。
日蓮さんがやった五重の相対がこの典型。
世の中を二項に分けるのは分類としては便利。それは問題ない。
しかし、この二項に高低浅深や真贋などの価値観を与えると意味が違ってくる。
高低浅深や真贋は人間の主観。

仏教の説くことは、あらゆるものは無意味だということ。
ゼロか1かという2進数脳の持ち主は、この無意味性が理解できない。
仏教的には世の中ゼロしかない。
1や2は、ゼロ上に現れる幻想としての複数性。全てがゼロに含まれる。
高低浅深や真贋という二項分類を突き詰めていく行為は、言い換えれば還元。
二項を浅深に分けていけば、最終的には分割できない究極の元に辿り着くという思考。
これは分類という人間の脳の持つ思考特徴に極めて支配されている。
そもそも、分割出来るようなものはない。
あらゆる物事は空でありゼロなのだから。
ゼロは分割できない。ゼロに真も偽も還元できる元もない。
脳の分類性質の支配から離れて、これに気づいたのがお釈迦さん。

分割できるように見える物事とは、縁起という関係性。
しかし、その縁起という関係性は一時的な繋がりにすぎず、あらゆる連関は一瞬一瞬変化し続ける。
分割できる確実な対象など元々存在しない。
日蓮脳や創価脳は、この不確実性が理解できない。
それゆえに、確実なる二項を作り上げてそれにすがろうとする。
まずは二項という相対化を行い、そのうち一つを正義、別の一つを悪とする。
そして、正義にすがって悪を攻撃するというスタイルをとる。
この脳の分類性質が、不確実性に正義や悪という絶対性を幻出させる。